織田信長の母・土田御前はどんな人

土田御前は、織田信長の母です。

あまり歴史上に登場することのない土田御前ですが、信長と弟の信勝(信行)が争った際に、両者の母である土田御前が仲裁した話は有名です。

土田御前は謎に包まれた人物ですが、どんな人であったか土田御前の生涯を分かる範囲で書いてあります。

目次

土田御前はどんな人

土田御前は、織田信長の母として知られる女性です。

戦国時代の女性は詳細な記録がない場合が多く、それは織田信長の生母とはいえ同様で多くのことは伝わっていません。

どんな人か分かっていることを挙げます。

土田御前の像
土田御前の像
  • 生年は不明で、別名は花屋夫人。
  • 信長の父・織田信秀の2番目の妻、継室であること。
  • 正室の子としての長男・信長と次男・信勝(信行)の生母であること。
  • 信長の妹・お市の方や信長の弟・信包(のぶかね)など、信長の兄弟の生母の可能性があるものの定かではないこと。
  • 美人だったとする説があるそう。
  • 佐々木六角氏の子孫・土田 政久(どた まさひさ)の娘とする説が通説ではあるものの、一次史料では確認できず、出自には諸説あること。また本当に土田 政久の娘であるなら、土田の読み方は「どた」に、尾張清洲の土田氏の場合は「つちだ」という読み方になるそう。
  • 信長を嫌っていて、土田御前の子で信長の弟・信勝(信行)を溺愛していたそう。
  • 本能寺の変により信長亡き後は、土田御前の孫・信雄に、その後は信長の弟・信包に庇護されていたこと。
  • 文禄3年(1594年)に亡くなり、報春院花屋寿永大禅尼(花屋寿永大姉とも)という法名が残っている。

こちらが土田御前について伝わっていることの概要です。

これから先は、土田御前が何故信長を嫌っていたのかや、信長と対立し成敗されそうになった信勝(信行)の助命を願い出た話などを書きます。

土田御前の夫・信秀の葬儀での逸話

土田御前は、弟・信勝(信行)を可愛がり、信長のことは嫌っていたと云われています。

実際に夫・信秀の亡き後は、信勝(信行)と共に末森城(すえもりじょう)に住んでいました。

土田御前が信長を嫌った理由は、信長の「うつけ」と呼ばれる愚かに見える行動が原因だとされています。

織田信長の肖像画
織田信長

信長のうつけぶりを説明する際に用いられる、父・信秀の葬儀での信長の振る舞いを伝えた逸話がありますので、紹介させていただきます。

逸話ですが概ね真実だと見なされているそうです。

天文21年(1552年4月8日)、織田信秀は42歳という若さで亡くなります。

その葬儀の場で、当時「うつけ者」と呼ばれていた信長は、前代未聞の行動を取ったと云われています。

織田家の家臣団や僧侶300人が参列する壮大な葬儀の中、信長は茶筅髷(ちゃせんまげ)という風変わりな髪型に、服装は着流という袴を履かない「うつけファッション」で登場したそうです。

そして、いきなり祭壇に近づき、お香をぶちまけるという暴挙にでたと云います。

当然、家臣団からは非難の声が続出し、ついには信長を見限り織田家を離れる者まで現れます。

しかし、この時の信長の行動は綿密に考えられたものであるとする説もあります。

簡単に自分を裏切ってしまう者をあぶり出す為に、わざとこのような騒ぎを起こしたとも云われています。

因みに、筑紫からきた一人の旅僧は、信長の才能を見抜いたと云われています。

信長がただの「うつけ」ではないことは、現代人ならわかりますが、土田御前はどのような思いだったでしょうか。

一方の信勝(信行)は、信長とは対照的に正装して礼儀正しく振舞っていたそうで、土田御前から見たら信勝(信行)の方が良い息子に思えたかもしれませんね。

そして、父・信秀が亡くなったことで、後継者候補である、正室の長男・信長と次男・信勝(信行)は対立することになります。

土田御前から見た信長

信長には織田秀孝(おだ ひでたか)という弟がいました。

生母は土田御前とも云われていますが、定かではありません。

弘治元年(1555年)6月、秀孝は叔父で家臣でもある織田信次の家臣によって、誤って滅ぼされてしまいます。

信次は信長の報復を恐れ出奔したそうです。

しかし、信長は秀孝にも非があったとして罪に問わなかったと云います。

その一方、信勝(信行)は、叔父・信次の居城であった守山城下を襲撃し焼き払います。

そして信長が兵を出し鎮静化させたそうです。

ここでも信長と信勝(信行)は対照的な態度を取りますが、土田御前はどのように思ったでしょうか。

秀孝の仇を取った信勝(信行)を頼もしく思い、信長を冷たく感じたかもしれませんね。

土田御前の嘆願

織田家の重臣である林秀貞(はやし ひでさだ)や柴田勝家らは、信長ではなく信勝(信行)側につき、信長と信勝(信行)の対立は避けられなくなってきました。

弘治2年(1556年)4月、信長の理解者であった義父・斎藤道三を亡くした年の8月、信勝(信行)は信長に反旗を翻し、信長の直轄領を略奪します。

斎藤道三
斎藤道三

そして出撃した信長軍は、清州城から南東にある尾張国稲生原(現在の名古屋市)で信勝(信行)を撃破し、信勝(信行)は敗走、敗軍の将となります。

この時、信勝(信行)の危機を救ったのは、両者の母である土田御前と云われています。

流石の信長も母の嘆願となれば無視できなかったのか、信勝(信行)を許し、林秀貞、柴田勝家ら重臣も許されます。

そして信勝(信行)の勢力は衰退したものの、信長に対しては敵意を持ち続けたと云います。

そして、前回の争いから2年後、信勝(信行)は再び謀反を企てますが、柴田勝家の密告により未遂に終わります。

その後、病気を装った信長の見舞いに信勝(信行)が訪れた際に、信長の手の者に滅ぼされたと云います。

この信長と信勝(信行)の争いは、ドラマなどでも土田御前が登場し、存在感を示すことのある場面です。

この二回目の謀反で、土田御前に咎めはありませんし、土田御前は知っていたら止めていたかもしれませんね。

また、土田御前の助命嘆願により、信勝(信行)の嫡男・信澄を始め、信勝の子である信糺、信兼は助命されています。

成長した信澄は、織田信長の信任を得て、破格の待遇を得ることになります。

土田御前の晩年

その後は、信長やお市の方と暮らしたそうです。

そして信長の子である信忠、信雄、信孝、お市の方の子である茶々、初、江など孫たちの面倒を見ていたそうです。

織田信雄
織田信雄

信長亡き後は、孫・信雄(のぶかつ)の元へ身を寄せたようで、『織田信雄分限帳』という信雄の家臣団などを記した名簿に「大方殿様」と記された土田御前の名前が記されています。

640貫文を化粧料(領地)として与えられていたそうですが、信雄は後に改易になります。

その後は織田信包(のぶかね)の元へ行き、文禄3年(1594年)に亡くなったそうです。

信包は信長の弟で、一説には土田御前の子であるとも云われている人物です。

晩年の土田御前は、沢山の孫に恵まれ幸せだったでしょうか、信長亡き後の豊臣家の天下に何か思うこともあったかもしれませんね。

参考・引用・出典一覧
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