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石田三成の三女・辰姫と子孫

2020 4/13

石田三成と正室である皎月院(こうげついん)との間に産まれた5番目の子供は、3女で辰姫といいます。

石田三成の3女にして、大名・津軽家に嫁いだ辰姫、徳川家の姫も登場し辛い立場に追い込まれながらも、子供を生み妻としての役目を果たします。

辰姫の存在は死後も、その他の三成の子供や子孫にとって、大事な拠り所となります。

その辰姫の波乱万丈な人生の記事です。

目次

津軽信枚に降嫁した辰姫

辰姫が生まれた年は1591年とする説もありますが、現在は1592年が有力視されているようです。

辰姫は石田三成の三女として誕生し、辰子(たつこ)と名付けられ、後に辰姫と呼ばれるようになります。

また、一般には辰姫として知られていますが、大舘御前、荘厳院とも呼ばれています。

この時代に女性で名前が残されており、「姫」と付けられていることから位の高い人物です。

石田三成の3女でありながら、「姫」と呼ばれる人物がいるのは意外かもしれません。

辰姫は、関ケ原の戦いより前に北政所(きたのまんどころ)の養女となっていました。

北政所とは、ねね、高台院(こうだいいん)とも呼ばれる豊臣秀吉の正室です。

1598年8月18日に秀吉が亡くなった後で、1598年頃に養に養女なったと見られており、辰姫6~7歳の頃です。

その後、1610年頃に嫁ぐまでの12年間は、北政所の保護下にあったものと見られています。

そして関ケ原の戦い後、徳川家を憚ってか、辰姫を「お客人」と呼んでいたと思しき記録があります。

三成の子供とハッキリ書けなかったものと思いますが、記録の「お客人」とは、辰姫のことと推測できます。

ハッキリした記録がないためか、関ケ原の戦い後に兄・重成(源吾)と共に弘前(ひろさき)に逃げ延びたとする説もあります。

この弘前とは、辰姫の縁組の相手の居城・弘前城があるところです。

この縁組は石田家の縁戚で、北政所の側近でもある孝蔵主(こうぞうす)が整えたとも云われています。

孝蔵主は、三成の子供達に手を差し伸べてくれている人物で、三成の長女や次女の記事にも登場する人物です。

いずれにせよ、辰姫は1610年頃に北政所の養女として、弘前藩主・津軽信枚(のぶひら)へ正室として輿入れしました。

辰姫18~19歳の頃と推定されます。

三成の3女でありながら、北政所の養女という身分で大名の正室になりました。

津軽信枚の肖像画

津軽信枚

三成の長女と次女の記事はこちらです。

石田三成の長女(山田隼人正勝重の正室)

 

石田三成次女・小石殿と夫・岡重政

満天姫降嫁により辰姫は側室に

しかしその後、1611年に徳川家康の養女・満天姫(まてひめ)が前夫との間の子である直秀を連れて、津軽信枚に降嫁します。

満天姫の肖像画

満天姫

辰姫が三成の子供であることは、徳川家は全て気が付いている節があります。

そして、今回の満天姫降嫁は、徳川家から津軽家へ踏み絵の様なもので、津軽家をけん制しつつ、津軽家の去就をみているのだろうと思います。

津軽家は、徳川家康の養女・満天姫を正室とし、辰姫は側室に降格にされてしまいました。

辰姫と信枚の仲は睦まじかったそうですし、信枚の気持ちとしては無念であったのかもしれません。

津軽信枚の本心を知る術はありませんが…。

いずれにせよ、津軽信枚は関ヶ原の戦いの両雄の娘を娶りました。

徳川家康の娘は養女ですが、石田三成と徳川家康の娘両方を娶ったのは、津軽信枚のみでした。

 

また大舘の地では、三成の次男であり、辰姫の兄でもある源吾が世話役で近くにいたという話もあります。

その三成の次男の話はこちらです。

杉山源吾と名を変え生きた石田重成と子孫

辰姫が信義を出産

時期は不明ですが、辰姫は津軽家の飛び地である上州大館(じょうしゅうおおだて)の地へ移されてしまいます。

上州大館とは、弘前(青森県)から遠い現在の群馬県大田市尾島町のことで、関ケ原の戦いの恩賞で加増された津軽家の飛び地です。

満天姫降嫁により移されたとも、最初から上州大館の地で暮らしたとも言われています。

以降辰姫は、大館御前(おおだちごぜん)とも称されるようになります。

辰姫は夫・信枚と離れ寂しい思いをしたのではないでしょうか。

しかし信枚は、参勤交代の際に、必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごしたと伝わります。

そして辰姫は、1619年1月1日に信枚の長男である平蔵(後の信義)を出産し、大舘の地で平蔵(信義)は辰姫と共に暮らします。

ところが、1621年に満天姫が信義の誕生を耳にし、大舘の地で辰姫と平蔵(信義)は幽閉状態にされてしまいます。

辰姫親子は満天姫に冷たく扱われ、1623年に辰姫は幽閉状態の中、病死してしまいます。

享年32歳の若さで亡くなったそうです。

辰姫のお墓

辰姫のお墓

平蔵(信義)は、後に弘前の地を踏むことになりますが、1624年に江戸屋敷に迎え入れるまで幽閉状態が続いたと伝わります。

辰姫の子・信義を藩主に

辰姫の子・信義(のぶよし)は、2代目藩主である信枚の嫡男ですが、3代目になるのは容易ではなかったと云います。

津軽信義の肖像画

津軽信義

津軽信枚には、次男である信英(のぶふさ)がいます。

生母については諸説ありますが、徳川の姫である満天姫の子という位置にいました。

満天姫の子供がいるのに、三成の子である辰姫が生んだ子供を藩主にするのは、容易でなかったそうです。

ですが、津軽信枚は自身の命を賭けて辰姫との子である信義を3代目藩主にします。

信枚が信義を藩主にしたかった理由は、信義が長男だからかもしれませんし、理由は分かりません。

信枚はこの時の無理がたたり命を落としてしまいます。

 

津軽信義の詳細はこちらです。

津軽信義とその子孫

 

幼い頃に親元を離れ養女となり、輿入れしたと思ったら幽閉され、若くして亡くなった辰姫。

苦難続きの生涯にも思えますが、参勤交代の際に立ち寄ってくれた信枚と、子の信義と兄との時間は、きっと幸せであったはずです。

そして、三成の孫である信義が藩主になることで、三成の子供や子孫は、幕末まで津軽家の保護を受けられました。

辰姫は大きな功績を残したと思います。

 

辰姫の子孫

先に述べたように辰姫の子の信義は、弘前藩主の3代目です。

その後、弘前藩主としての信義の直系は、8代まで続きますので辰姫の子孫でもあります。

弘前城

弘前城

9代目は分家からの養子ですが、信義の玄孫(曾孫の次)ですので辰姫の子孫です。

しかし、10代目も養子を迎え、そこで弘前藩主としての辰姫の血脈は途絶えます。

弘前藩主を抜粋して簡潔に記します。

4代・津軽信政(のぶまさ)は、徳川4代将軍の従妹を正室に迎えています。

5代・津軽信寿(のぶひさ)は、松平忠尚の養女を正室として迎えます。

この家系から三菱財閥の創業家へ繋がります。

詳しくはこちらの記事に記しています。


石田三成の子孫の現在

また、三成の子孫全体はこちらの記事です。


石田三成の子孫~一覧~

10代・津軽信順(のぶゆき)は、徳川斉匡(なりまさ)の娘を正室に迎え、将軍の一門衆となります。

辰姫の子孫ということは、三成の子孫ですので、徳川家の縁者と何度も結婚し、意外に思うかもしれません。

信長と光秀の子孫も孫同士で結婚してますが、孫の世代くらいから怨恨も薄れるのかなという個人的な所感はあります。

いずれにせよ、徳川の縁者を何度も正室に迎えたことで、津軽家の安泰があったのかもしれません。

 

かおりんのアイコン画像かおりん
『日本100名城公式ガイドブック』には、100名城マップや、歴史、城の見方などが記されており、弘前城も載っています。

 

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