辰姫|石田三成の三女で弘前藩主生母になった生涯

辰姫は、石田三成の三女で、秀吉の正室・北政所の養女でもあります。

敗軍の将でありながら、弘前藩2代藩主・津軽信枚に嫁いで、2代藩主・信義の生母となります。

辰姫の存在は死後も、その他の三成の子供や子孫にとって、大事な拠り所となります。

その辰姫の波乱万丈な人生の記事です。

目次

辰姫 北政所の養女となる

天正20年(1592年)、石田三成の三女として、辰姫は生まれました。

母は、正室の皎月院(こうげついん)です。

辰姫は、辰子、大舘御前、荘厳院(しょうごんいん)という名前でも知られています。

辰姫は、豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の養女になっています。

養女になった時期は定かではありませんが、慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉が没した後ではないかと見られています。

辰姫6~7歳の頃です。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起きて、父・三成は敗北します。

石田三成の肖像画
石田三成 出典元:Wikipedia

三成の敗報を聞いた辰姫の兄で、三成の次男・石田重成(杉山源吾と改名)は、津軽信建に助けられて、津軽へ逃れています。

一説には、この時に、辰姫も石田重成(杉山源吾)と共に津軽に逃れたともいわれます。

一方、慶長15年(1610年)頃まで、約12年間、北政所の保護下にあったとの見方もあります。

関ケ原の戦い後、徳川家を憚ってか、辰姫を「お客人」などと呼んでいたと思しき記録がある為です。

『時慶卿記』、『梵舜日記』、『木下家文書』に見られる「お客人」「御隔人」は、辰姫のことであろうと推測でき、関ヶ原の戦い後も北政所の元へいたと見た方が良さそうに思います。

辰姫 津軽信枚に輿入れ

慶長15年(1610年)頃、辰姫は、北政所の養女という身分で、弘前藩2代藩主・津軽信枚に嫁いだと云われています。

津軽信枚の肖像画
津軽信枚 出典元:Wikipedia

辰姫は、北政所の側近・孝蔵主に伴われ、江戸に下り縁談を整えたとも伝わります。

孝蔵主は、辰姫の姉(三成次女)の夫・岡重政の義理の叔母です。

関ヶ原の戦い後、三成の居城・佐和山城にいた辰姫の姉(三成長女夫婦)を助けて、長女夫婦の縁者の元へ送り届けています。

石田三成の子供達に手を差し伸べてくれている孝蔵主が、辰姫の縁組を整えるのは、有り得る話に思えます。

いずれにせよ、辰姫は、津軽信枚の正室として輿入れしています。

輿入れ時期、慶長15年(1610年)説が正しければ、辰姫18~19歳の頃となりそうです。

津軽信枚と辰姫の仲は、睦まじかったと伝わります。

満天姫輿入れにより辰姫は側室に

慶長18年(1613年)、満天姫が前夫との子・直秀を連れて、津軽信枚に嫁いできました。

満天姫は、徳川家康の養女で、実父は徳川家康の異父弟・松平康元です。

徳川家を憚ったのか、津軽家は満天姫を正室とし、辰姫は側室に降格にされました。

満天姫の肖像画
満天姫 出典元:Wikipedia

先に述べたように、津軽信建(信枚の亡き兄)は、三成次男(石田重成)を匿っており、その上、津軽信枚は三成三女(辰姫)を娶りました。

親石田の動きを見せる津軽家の態度を試すため、満天姫を輿入れさせたのかもしれません。

また、江戸幕府は、本州最北の津軽を重要視した為ともいわれます。

津軽家は、杉山源吾(石田重成)が献上した豊太閤(豊臣秀吉)座像を開けずの宮に祀っています。

豊太閤(豊臣秀吉)座像
豊太閤(豊臣秀吉)座像

津軽を重要視していたのなら、津軽家に徳川の姫を送り込むという徳川の判断は、正しかったように思えます。

満天姫の輿入れは、津軽信枚が帰依していた天海(徳川家康の側近)の進言があったとも伝わります。

いずれにせよ、満天姫との婚礼は、津軽家地位を固めることに寄与したようです。

こうして、津軽信枚は、関ヶ原の戦いの両雄の娘を娶りました。

徳川家康の娘は養女ですが、石田三成と徳川家康の娘両方を娶ったのは、津軽信枚のみです。

辰姫が信義を出産

時期は不明ですが、辰姫は津軽家の飛び地である上州大館の地へ移されてしまいます。

以降辰姫は、大館御前(おおたちごぜん)とも称されるようになります。

上州大館とは、弘前(青森県)から遠い現在の群馬県大田市尾島町のことで、関ケ原の戦いの恩賞で加増された津軽家の飛び地です。

また、辰姫の兄・杉山源吾(石田重成)が、世話役として近くにいたという説もあります。

しかし、津軽信枚は辰姫のことが忘れられず、参勤交代の際に、必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごしたと伝わります。

元和5年(1619年)1月1日、辰姫は信枚の長男である平蔵(後の信義)を出産します。

大舘の地で、辰姫は平蔵(信義)と共に暮らします。

ところが元和7年(1621年)、満天姫が平蔵(信義)の誕生を耳にし、大舘の地で辰姫と平蔵(信義)は幽閉状態にされてしまいます(『奥州・津軽一族』)。

元和9年(1623年)、辰姫は幽閉状態の中、病死してしまいます。

辰姫のお墓
辰姫のお墓

享年32歳の若さで亡くなったそうです。

平蔵(信義)は、後に弘前の地を踏むことになりますが、寛永元年(1624年)に江戸屋敷に迎え入れるまで幽閉状態が続いたと伝わります。

辰姫の子・信義を藩主に

寛永8年(1631年)、辰姫の子・津軽信義が家督を相続します。

津軽信義の肖像画
津軽信義 出典元:Wikipedia

津軽信枚には、9男4女と伝わります。

長男は辰姫の子・津軽信義ですが、次男は満天姫の子・信英(のぶふさ)です。

※満天姫の子でなく、側室が生母との説もあります。

満天姫の子供がいるのに、辰姫の子(三成の孫)を弘前藩3代藩主にするのは、容易でなかったそうです。

ですが、津軽信枚の強い意志や熱意により、辰姫の子・津軽信義を3代目藩主にします。

津軽信枚が信義を藩主にしたかった理由は、信義が長男だからかもしれませんし、理由は分かりません。

幼い頃に親元を離れ養女となり、輿入れしたと思ったら幽閉され、若くして亡くなった辰姫。

苦難続きの生涯にも思えますが、参勤交代の際に立ち寄ってくれた信枚と、子の信義と兄との時間は、きっと幸せであったはずです。

そして、三成の孫である信義が藩主になることで、三成の子供や子孫は、幕末まで津軽家の保護を受けられ大事な拠り所となっています。

辰姫は大きな功績を残したと思います。

辰姫の子孫

先に述べたように辰姫の子の信義は、弘前藩主の3代目です。

その後、弘前藩主としての信義の直系は、8代まで続きますので辰姫の子孫でもあります。

9代目は分家からの養子ですが、信義の玄孫(曾孫の次)ですので辰姫の子孫です。

しかし、10代目も養子を迎え、そこで弘前藩主としての辰姫の血脈は途絶えます。

弘前藩主を抜粋して簡潔に記します。

弘前城
弘前城

4代・津軽信政は、徳川4代将軍の従妹を正室に迎えています。

5代・津軽信寿(のぶひさ)は、松平忠尚の養女を正室として迎えます。

この家系から三菱財閥の創業家へ繋がります

10代・津軽信順(のぶゆき)は、徳川斉匡(なりまさ)の娘を正室に迎え、将軍の一門衆となります。

辰姫の子孫ということは、三成の子孫でもありますが、徳川家の縁者と何度も結婚しています。

織田信長と明智光秀の子孫も孫同士で結婚してますが、孫の世代くらいから怨恨も薄れるのかなという個人的な所感はあります。

いずれにせよ、徳川の縁者を何度も正室に迎えたことで、津軽家の安泰があったのかもしれません。

参考・引用・出典一覧
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