石田三成の正室・皎月院(こうげついん)と皎月院の父である宇多(田)頼忠(うだ よりただ)について記しています。

 

三成正室・皎月院(こうげついん)

皎月院は、宇多頼忠の娘であり、三成からは「うた」と呼ばれていました。

 

三成と皎月院の子供

皎月院は、三成との間に3男3女がいると伝わります。

石田三成の肖像画

石田三成

後妻であり2男1女の母との異説があるそうですが、私の持つ数十冊の書籍にはそのような記載はありません。

また、複数の石田家の記録も3男3女となっており、現段階では3男3女が有力です。

 

石田三成の子供については、こちらの記事にまとめていますので、ご興味のある方はご覧ください。

👇
石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

謎に包まれている皎月院

皎月院は、石田三成の正室でありながら、生年不明で逸話などもありません。

戦国時代の女性は、有名な人の正室であっても詳細が不明ということは珍しくありません。

特に石田三成に関するものは、皎月院のこと以外も、現代にあまり伝わっておらず残念に思います。

三成に関するものは、徳川方により破壊されたり、諸大名も徳川家を憚(はばか)り処分しているためと推測しています。

スポンサーリンク






佐和山城落城時に皎月院が死去した説

通説では、佐和山城落城時に皎月院が亡くなったことになっています。

正室を含む石田一族の婦女子は、佐和山城落城時に石田三成の父と兄を介錯した土田成久(土田桃雲斎)により刺殺されたといわれています。

しかし、石田三成研究家である白川亨(とおる)氏は、佐和山城落城時に皎月院が亡くなったとする説を否定しています。

理由の一つは、関ヶ原の戦いの時、東西両軍の妻が大阪城に集められていたのに、三成の正室が佐和山城にいたという例外は不自然ではないかということ。

つまり、三成正室も大阪城にいて、関ケ原の戦いの敗北を知り、逃れられたのではないかということです。

また、重家(三成長男)が、石田家の記録として記した『霊牌日鑑(れいはいにっかん)』に、三成や他の石田一族、1607年に亡くなった三成の兄の正室などの戒名があるのに、三成の正室(重家の母)の戒名が記されていないことを理由にあげています。

三成の正室の他、三成の子供(重家の兄弟)、三成兄の子供である石田 朝成(いしだ ともなり/ともしげ)(右近朝成)の記録が抜けているそうですが、いずれも関ケ原の戦い後も生き残ったとされている人達です。

 

三成の兄や三成の甥である石田 朝成についてはこちらの記事に記載しています。

👇

石田三成の兄・石田正澄

皎月院の位牌

三成と皎月院の長男である重家(しげいえ)は、関ケ原の戦い後に出家し、後に妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)の住職になります。

その寿聖院に三成の正室のものとされる「皎月院殿寂室宗珠大禅定尼(こうげついんでんじゃくしつそうじゅだいぜんじょうに)」と戒名が刻まれた位牌(いはい)があるそうです。

白川亨氏が、皎月院の位牌が、他の位牌に比べて極めて新しいと記しています。

寿聖院の住職・谷口楚石氏に白川氏が聞いたところ、三成正室の位牌が寿聖院に残されていなかったそうで、谷口楚石氏が「皎月院殿寂室宗珠大禅定尼」と諡号(しごう)したものであるそうです。

 

 

長男の重家についてはこちらの記事に記しています。

👇
石田三成の子供~長男 石田重家~

 

三成正室は無量院だった

そして、1615年に亡くなったという「無量院殿一相寿卯大禅定尼(むりょういんでんいつそうじゅうだいぜんじょうに)」が、三成正室の戒名ではないかと記しています。

そのような理由で、白川亨氏の書籍などは、三成正室の名前を「皎月院」でなく「無量院」と記しています。

※当、ブログでは一般に知られている皎月院と記させていただいています。

 

 

三成の岳父・宇多頼忠(うだ よりただ)

 

石田三成の正室・皎月院(こうげついん)の父は宇多頼忠です。

始めは尾藤久右衛門と名乗り豊臣秀吉に仕えています。

スポンサーリンク






娘・皎月院と石田三成が結婚

1577~1579年頃に娘・皎月院と石田三成が結婚したものと推定されています。

石田三成の舅にしては無名に感じるかもしれませんが、当時、三成は歴史上に名前が登場していません。

参考までに、本能寺の変が起きたのは1582年ですので、信長も健在の時期です。

秀吉の弟である羽柴秀長(後の豊臣秀長)の斡旋で結婚したそうです。

 

尾藤性から宇多性に

いつから秀長に仕えたか不明ですが、後に秀吉の弟である豊臣秀長の家老になります。

1587年に兄である尾藤 知宣(びとう とものぶ)が、豊臣秀吉の怒りをかい斬殺されてしまいます。

以降、頼忠は妻の姓である宇多を名乗るようになり、現代では宇多頼忠として知られています。

 

秀吉の直臣になる

1591年に豊臣秀長が亡くなり、秀吉の甥である豊臣秀保(とよとみ ひでやす)に仕えます。

1595年に秀保も亡くなり、秀吉の直臣に戻ります。

領地は河内大和のうち1万3千石であったとされています。

 

宇多頼忠の関ケ原の戦い

関ヶ原の戦いの時は、三成の一族衆と共に佐和山城を守備します。

東軍の猛攻により嫡男の宇多頼重と共に自害し、親族の尾藤善四郎により介錯されます。

次男の為勝は佐和山城を脱出し、比叡山にて僧侶になったと伝わります。

※次男の出典元は、宝島社出版の「悲劇の智将 石田三成」です。

その他、出典元一覧は記事の下のリンクよりご覧ください。

参考・引用・出典一覧

スポンサーリンク






戦国時代ランキング