杉山吉成とは、石田三成の次男・石田重成の嫡男です。

石田重成は関ヶ原戦い後、杉山源吾(すぎやま げんご)と名を変えひっそりと生きました。

なので、杉山吉成も杉山性となっています。

今回は関ヶ原戦いの敗軍の将である三成の孫・杉山吉成はどのように生きたのかという記事です。

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石田三成の孫・杉山吉成

杉山吉成の誕生は定かではありませんが、父である杉山源吾が、津軽の領地で隠れるように暮らしていた1610年頃に誕生したとされています。

亡くなったのは1672年、普段の呼び名である通称は八兵衛だと云います。

敗軍の将の孫といっても杉山吉成は恵まれた環境でした。

吉成の主君・津軽信枚(つがるのぶひら)の側室は、三成の三女ですので吉成の叔母です。

津軽信枚の肖像画

三成三女の夫・津軽信枚

そして吉成は、弘前(ひろさき)藩主・津軽信枚の娘・子之姫(子々<ねね>)を娶ります。

藩主の娘を正室に迎えられた理由としては、叔母の縁の他に、津軽家が三成に恩義を感じていたこともあるのではないでしょうか。

津軽信枚の父は、弘前藩初代藩主・津軽為信(ためのぶ)と云い、豊臣秀吉によって滅ぼされる可能性があったところを、三成によって助けられた過去があります。

そのことから津軽為信、 津軽信枚共に、石田三成に恩義を感じていたとされ、三成の子供に良くしてくれたと云われています。

その後、 津軽信義(のぶよし)が3代目藩主になりますが、信義は三成三女の子供ですので、吉成の従姉妹ということになります。

津軽信義の肖像画

三成の孫で吉成の従姉妹・津軽信義

そして吉成は、1644年に1300石を拝領し、その後の杉山家当主は、弘前藩(津軽家)の重臣として幕末まで続くことになります。

 

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杉山吉成と江戸幕府

蝦夷地(えぞち)と呼ばれたの現在の北海道などに当たる地の調査や監視活動は、杉山家の任務であったと伝わります。

平和なイメージのある江戸時代ですが、蝦夷地の一角である松前藩(現北海道)に対して、アイヌ民族の大規模な蜂起(ほうき)が起き、シャクシャインの戦いと呼ばれる戦が起きてしまいました。

1669年に津軽藩は、松前藩、江戸幕府からの要請を受け、杉山吉成を弘前藩侍大将として蝦夷地に渡海させます。

吉成は総勢700名を率いたとさせ、戦い終息後に幕府から恩賞を受けてます。

この戦いの報告のため杉山吉成は、江戸に上がることになります。

この頃は、津軽信義の嫡男の津軽信政(のぶまさ)(三成の曾孫)が4代目藩主の時代でした。

杉山吉成は、藩主信政の書状を持って幕閣に報告の為、江戸へ行き江戸幕府の大老・酒井忠清(ただきよ)に会うことになります。

三成の孫が大老にお目見えとは意外ですね。

酒井忠清は、4代将軍・家綱(いえつな)の口上書(こうじょうがき)という家綱からのお言葉を吉成に伝えたそうです。

その内容は、シャクシャインの戦いの慰労の言葉と、お膳を用意した旨であったそうで、酒宴が開かれ歓談したそうです。

歓談した相手は徳川の幕閣だったようで、将軍の名前は私の所持する文献にはありません。

流石に将軍はいなかったのでしょうか…不明ですが。

弘前藩は、当時わずか4万7,000石の小さな藩であり、杉山吉成は、小さな藩のわずか1300石の陪臣です。

その陪臣・杉山吉成(三成の孫)と徳川の幕閣が歓談をしたのは、異例の対応だったようです。

1300石の陪臣が幕閣と酒宴ですからね、現代人の感覚でも異例ではないかと思いました。

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杉山吉成と徳川家の関係

どうして異例の対応をしてくれたのでしょうか。

当時の弘前藩と幕府の関係は良好であったそうですが、それだけでしょうか。

他に理由を探してみると、津軽信政(三成曾孫)の正室は、4代将軍家綱の従妹である不卯姫(ふうひめ)であることが思い浮かびます。

この関係から、将軍家綱の時代は津軽家と良好な関係であったようです。

前回の記事で、3代将軍家光は三成の曾孫を初めての側室に迎えたことを記載させていただきました。

それだけでなく、4代将軍家綱は従妹を石田三成の曾孫(津軽信政)に嫁がせています。

徳川側は三成の血脈であることは承知していましたので、当時、逆賊として蔑まれた石田三成の血筋を、徳川将軍家自ら受け入れているということです。

個人的な見解としては、当時は朱子学を通して、下剋上の理論を否定しようとしてましたので、石田三成のことは逆賊でないとどこかで分かっていたと思います。

戦国時代の考えとは違い、主君を大切にする考えがあったと云われ、徳川の敵であっても主君・豊臣家に忠義を尽くそうとしたことが理解できたのだと思います。

話がそれましたが、杉山吉成の次男も徳川家の縁者と結婚しています。

この時の藩主の父は三成の孫・津軽信義の子供ですが、津軽信義の義理の母は家康養女・満天姫(まてひめ)です。

満天姫の肖像画

満天姫

満天姫の曾孫の津千姫(槌女)が、杉山吉成の次男・武助豊臣(ぶすけとよおみ)に嫁いでいるそうです。

満天姫は信枚の正室ですが、信枚の側室の三成の三女と対立していました。

ですが、最終的には津軽家と徳川家の縁組をし、津軽家の安泰をはかっています。

その満天姫の曾孫を娶ったようです。

 

徳川家光の最初の側室は三成の曾孫と云われており、その記事です。

石田三成の子孫~徳川家光の側室・お振りの方~

 

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津軽杉山家と忍者

近年、忍者屋敷に石田三成の子孫が住んでいたことがわかり、ニュースになりましたので紹介させていただきます。

弘前藩には、「早道之者(はやみちのもの)」という忍者集団が実在したのですが、なんと杉山吉成によって結成されたというニュースです。

2017年8月26日付の河北新報に、津軽杉山家と忍者について記載がありました。

2016年の秋に青森県弘前市内で忍者屋敷が見つかったそうです。

そして、その忍者屋敷は調査の結果、2017年8月25日に石田三成の子孫が住んでいたことが分かったそうです。

石田三成の次男である杉山源吾の子孫・白川孫十郎が住んでいたそうです。

そして、弘前藩の忍者集団「早道之者(はやみちのもの)」は、杉山吉成が結成したということも判明したそうです。

屋敷は、忍者を統率した杉山家の拠点である可能性が高いとされ、蝦夷地の調査や監視活動の指揮も杉山家の任務であったそうです。

この忍者屋敷は、「三成や忍者ゆかりの地を巡るツアー」という観光スポットとして町興しの期待もあるそうです。

 

三成の祖母は甲賀の多喜家出身

三成の祖母甲賀の多喜家出身であると云われています。

文献によると多喜資盛(たき すけもり)の娘となっています。

甲賀の多喜家とは、甲賀五十三家(こうかごじゅうさんけ)と呼ばれる地侍の家の一つであり、後の甲賀流忍術の中心となった家です。

更に杉山家の伝承によると、関ヶ原の戦いより前に、秀頼から「杉山の郷」を拝領していたと伝わるそうです。

それは、現在の滋賀県甲賀郡信楽町大字杉山に当たるとのことです。

三成次男が杉山性を称した理由も、「杉山の郷」からきているのかもしれないと推測できるようです。

なぜ、杉山なのか今となっては迷宮入りかもしれませんが、興味深い話ではありますね。

 

この忍者のニュースには驚きましたね。

このような新しい発見は今後とも楽しみですね。

石田三成の真説もでないかなと心待ちにしてしまいます。

 

かおりんかおりん

下にある石田三成の書籍の著者・白川亨氏は、三成の次男・津軽杉山家の子孫だそうです。

三成の子孫なので中立性に疑問の声もあるかもしれませんが、各家の門外不出の書を許可を取って研究し出版した書籍は読みごたえがあります。

どちらも、中古しかないようですが…、お好きな方には興味深い話だと思います。

 

 

石田三成の子供~次男 石田重成~

 

 

石田三成の子供~三女 辰姫~

こちらは、石田三成の子供についてのまとめ記事です。

石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~