明智光秀が謀反を起こし織田信長を自害に追い込んだ本能寺の変は、とても有名な出来事ですが、光秀が本能寺の変を起こした動機は諸説あり、現代でも明らかになっていません。

諸説ある動機の中に光秀が信長に恨みを持ったためとする「怨恨説」があり、江戸時代から現代に至るまで度々語られ、小説などフィクションにも起用されています。

現在に伝わる光秀が信長に恨みを抱くようになった理由は、殆ど逸話が元になっています。

今回は、どのような話や逸話から、「怨恨説」が語られるようになったのかを記します。

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怨恨説① 朝倉義景の頭蓋骨を酒の肴にした

織田信長と対立した室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかが よしあき)は、信長に対抗する為に信長包囲網(のぶながほういもう)を形成し、その一員に朝倉義景(あさくら よしかげ)もいました。

義景は、信長にとって以前からの宿敵とされる人物です。

1573(天正)元年に、信長と義景の間に一乗谷城(いちじょうだにじょう)の戦いが起きて、朝倉家は滅亡します。

その後の1573(天正)2年の元旦、朝倉家の当主であった朝倉義景の頭蓋骨を漆塗りにして金粉を施し、白木の台に載せ、これを肴(さかな)に家臣達に酒を飲ませ謡って遊んだと伝わっています。

光秀は、信長に仕える前に朝倉義景に仕えていたとする説があり、このことで恨みを持ったとも云われています。

 

この説は、『信長公記<しんちょうこうき>』という信長の第一級史料に記載されている話ですので、信憑性があります。

ですが、これは敵将への敬意の念を表した死に化粧の意味があるとされています。

また、頭蓋骨を盃(さかずき)の代わりにして、酒を飲んだとする酷い説もありますが、頭蓋骨を盃にしたのは後の世の創作と見なされています。

現代人から見れば、自分たちが討ち果たした人の頭蓋骨を前にして、興じるのはゾッとするような理解できない話ですが、死に化粧をして成仏を願ったとする説が本当であれば、怨恨の動機ではないかもしれません。

以前の主君が殺されたことについては、光秀自身も義景との戦に信長方として参加しています。

何より、光秀が本当に朝倉家に仕えていたか自体が史実かどうかわかっておらず、頭蓋骨の件が本能寺の変の動機というのは厳しいかなと思います。

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怨恨説② 光秀の母を殺害されて恨んだ

1579(天正7)年、光秀は信長に任された丹波(たんば)平定の為の戦いで、敵の波多野秀治(はたの ひではる)・秀尚(ひでひさ)兄弟を降伏させる条件として、光秀自らが自分の母親を人質として差し出します。

にもかかわらず、信長は投降してきた波多野兄弟を処刑してしまいます。

激怒した波多野側は、光秀の母を磔にした殺害されてしったそうです。

この信長の判断により、実母が殺害されたともなれば、本能寺の変の動機になりそうですね。

ただ、この話の出典元は『常山紀談<じょうざんきだん>』という逸話集で、一級史料である『信長公記』には光秀の母の記述はないため、後の世の創作と見なされています。

明智光秀の母を殺害する図

明智光秀の母を磔にする図

 

 

怨恨説③ 甲州征伐の後の宴席での出来事

1582(天正10)年、3月から4月にかけて弱体化した武田家を滅亡させるため信長は甲州征伐(こうしゅうせいばつ)を行い、1582年4月3日(天正10年3月11日)、武田勝頼(たけだ かつより)、武田 信勝(たけだ のぶかつ)親子を自害に追い込み、戦国大名としての武田家は滅亡します。

長年の宿敵である武田家を滅亡させた信長は、戦の後に宴会を開き戦勝を祝ったと伝わります。

その宴会で光秀が、「こんなにめでたいことはありません。我々も骨を折ったかいがありました」と発言し、「お前がいつ骨を折ったのか」と信長が激怒し、更に光秀の頭をつかんで欄干(らんかん)(手すり)にたたきつけたとする説があります。

※欄干にたたきつけたのではなく、信長の小姓である森蘭丸に鉄扇(てっせん)で叩かれ恥をかかかされたとする説もあります。

この話は、現代でもフィクションなどで使用されますので、どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、出典元は『明智軍記』という俗書とされる史料であり、信憑性はありません。

これが本当だとしても、本能寺の変の動機になるでしょうか?

光秀が本能寺の変を起こした動機は、よほどのことがあったのではないかと思っています。

宴席の話が本当であっても、このことだけが動機ではなさそうに思います。

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怨恨説④ 宴席での暴言・暴力

テレビなどで信長を怒らせた光秀が殴られたり、足蹴(あしげ)にされる場面をご覧になったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

お酒の席で暴言、暴力を振るわれた逸話を紹介させていただきます。

光秀を打ち据える信長

・光秀は信長から大きな盃に入った酒を飲むように言われますが、辞退したところ脇差を突きつけられたため、結局、強要され飲んだとする話があります。

・ある宴席で、光秀は目立たないように座ろうとしたそうですが、「このキンカ頭」(ハゲ頭という意味)と大勢の前で怒鳴られ、頭を殴られたとする話も伝わっています。

・1582(天正10)年、信長とその重臣達が集う酒席で、便所に向かった光秀を槍を持った信長が追いかけ、「何故座敷を立ったのか、この槍でお前の首を貫くぞ」と責め立てられたそうです。

「このキンカ頭」も知られた話ではないかと思いますが、どれも逸話で信憑性は乏しい話です…。

普段から信長に厳しく当たられていたから逸話ができたのでしょうか?

それとも、江戸時代から云われていた「本能寺の変の動機は怨恨」ではないかとする推測が生んだ逸話でしょうか?

 

 

怨恨説⑤ 徳川家康の接待役の解任による恨み

1582(天正10)年、信長は安土城(滋賀県近江八幡市)において、武田家を滅ぼした徳川家康を労うため、酒や食事などを出してもてなすことにします。

しかし家康の接待役を任された光秀が、近江の名物で珍味として名高い鮒鮨(ふなずし)を出したところ、信長が「腐った食べ物だ」と激怒したと云います。

光秀はその場で接待役を解任され、秀吉の援軍に行くよう命じられてしまいます。

※家康を討つよう命じられたのに、拒否したため解任されたとする説もあります。

この説も江戸時代に成立した『常山紀談<じょうざんきだん>』という逸話集が出典元で、どこまで信頼できるのか不明ですし、光秀は秀吉よりも信長に優遇されていたという逸話も残っていることから、真相は今なお明らかになっていません。

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怨恨説⑥ 国替えによる恨み

『明智軍記』によると、光秀は晩年、今までの光秀の領地である近江坂本(滋賀郡)と丹波国(たんばのくに)を召し上げられてしまった(領地没収)と云います。

かわりに現在の島根県で、当時は毛利氏の領地であった中国の出雲国(いずものくに)、石見国(いわみのくに)に国替えされたそうです。

当時の毛利氏は信長と敵対していますので、中国は敵の領地です。

まだ討ち取ってもいない敵の領地を与えるとは、家臣に力尽くで領地を獲得してこさせる方法で、信長からは「切り取り次第領地にしてよい」と言われていたとされています。

まだ平定されてない敵の土地を与える、そのようなことがあるのかなと思ってしまいますが、実際に行っていた武将もいたそうです。

本当だとしたら、領国経営に心血を注いだ光秀の領地は没収され、家臣も露頭に迷わせてしまうかもしれない事態になってしまいました。

織田家の重臣まで上り詰めた光秀、晩年にこのように冷遇されたとなれば、精神的な衝撃は大きかったと思いますが…光秀の国替えの真偽は不明です。

 

本能寺の変の動機が「怨恨説」と言われる理由を見てみましたが、どれも腑に落ちませんね…。

この中に真実があって信長に嫌悪感を抱いたとしても、本能寺の変の動機はもっと他にあるのではないかと思います。

また、信長から評価されたり、良好な関係を築いていたとする話もあるそうですが、歴史上から抹殺されているとする説もあり、「怨恨説」と相反します。

歴史上から抹殺された説については、またの機会に記載します。

 

光秀の母についての記事はこちらに記しています。

明智光秀の出生地と光秀の母について

 

 

光秀が治めた丹波国の記事はこちらです。

明智光秀が丹波の地で慕われる理由

 

本能寺にある宝物と三足の伝説のある蛙についての記事です。

本能寺の宝物と三脚の蛙

本能寺の変の跡地に行った記事はこちらです。

本能寺跡

 

ちなみに当記事を読んで織田信長に興味を持った方は、Sayulistさんによる「都民ときどき旅人」の織田信長の記事がオススメです。織田信長の大ファンというSayulistさんが、織田信長のゆかりの地を訪ねて丁寧な記事を書いています。

サユリスト.com

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参考・引用・出典一覧

 

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