明智光秀の母・お牧の方の生涯は、謎に満ちていて殆どのことは分かっていません。

この記事では、現在伝わっているお牧の方の情報と、お牧の方のお墓について記載しています。

明智光秀の出生地候補の一つ、岐阜県恵那市明智町にあるお牧の方のお墓を訪ねました。

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お牧の方とは

明智光秀の母の名前は、「牧<まき>」の名で知られ、お牧とか、お(於)牧の方と呼ばれています。

このお牧の方ですが、『明智系図』によると武田義統(よしむね/よしずみ)の妹であると書かれてあるそうです。

お牧の方は、甲斐源氏(かいげんじ)の流れを汲む若狭(わかさ)武田家の出身で、歴史ある名門の出自ということになります。

お牧の方については逸話が一つありますが、他は「武田義統の妹」ということ以外わかっていません…。

(※逸話については後ほど記載します。)

それどころが、お牧の方は母でなく光秀の最初の正室であるとも、叔母であるとする説もあります。

光秀は父の名前もハッキリしていませんし、そもそも光秀自体、織田信長に出会う前については信頼のできる記録がないのです。

この時代、男性については詳細な記録があるのに、女性は名前のみ伝わっていることも珍しくありません。

有名な光秀やその父ですら、謎だらけなわけですから、母について情報がないのは残念ですが仕方ないことかもしれません…。

そのような情報の少ない中、岐阜県恵那市(えな)にお牧の方のものと伝わるお墓があります。

岐阜県恵那市は、光秀の出生地候補の一つとされている場所です。

光秀は、出生地も生まれた年も諸説あり、本当に謎が多い人物です。

ただ、個人的には恵那市が出生地の可能性は低いかなと思っているので、何故、お牧の方のお墓があるのか不思議だなと思っています。

その謎は解けるでしょうか。

お牧の方のお墓に向かいます。

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お牧の方のお墓

お牧の方の墓所は明知城(白鷹城)祉からそんなに離れていませんので、明知城祉の駐車場に車を止めて徒歩でもお墓まで迎える距離です。

明知城祉の東側の道路から行くと、お墓の案内が見えてきて、いくつか碑石が建つ場所にたどり着きます。

 

お牧の方の墓の碑石

 

一番手前の碑石は明智町観光協会が建てたもので、長い間「甘酒祭」を行い供養を行っていたこと、お墓にある「まきの木」は墓標であることなどが記載されています。

その次の碑石は、「敵は本能寺にあり」という光秀が本能寺の変の際に放った?とドラマなどで使われる言葉が彫られてますね。

「敵は本能寺にあり」は、後世の創作であるとされていますが…。

 

「敵は本能寺にあり」の碑石

 

 

もうひとつ石碑が建っていてそこに説明が書かれています。

光秀の母が磔にされた説明板

ここには、お牧の方の逸話や本能寺の変に至る経緯が書かれています。

この逸話は『総見記(そうけんき)』に書かれているもので、事実である可能性は低いように思えますが…、どのような内容か書かせていただきます。

光秀が信長の命令で丹波平定を成し遂げようとしていた頃の話です。

波多野 秀治(はたの ひではる)という丹波国の大名は、始めは信長に従っていましたが裏切ったため、信長の命令で光秀が八上城に籠城する波多野 秀治ら三兄弟と戦をすることになります。

波多野氏らは頑なに籠城を続け、波多野 秀治が「波多野一族の保証と光秀の母の人質」を光秀に求めてきたと云います。

(※少なくても波多野氏らが籠城を続けたところまでは史実です。)

お牧の方は「平和のために」と受け入れたといい、お牧の方は人質になり波多野氏らは開城し降伏します。

にもかかわらず、波多野氏は信長に自害を命じられてしまいます。

このことを知った八上城(波多野氏側)は、お牧の方をはりつけにしてしまい、光秀は母を亡くしてしまったそうです。

そして、お牧の方の件が本能寺の変の一因になったと書かれており、光秀が本能寺の変を決意した句とも云われる「ときは今あめが下知(したし)る五月哉(さつきかな)」という句を読み上げたと書かれています。

その後「敵は本能寺にあり」と言って本能寺に向かったと締めくくられています。

お牧の方の墓所の説明板を元に記載しましたが、細かな部分は諸説あるようです。

お牧の方が非業の最期を遂げたとする話は、本能寺の変の理由を怨恨説とする時に紹介されることがある逸話ですね。

ただ、このお牧の方の話は、『信長公記(しんちょうこうき)』には記されていないのです。

『信長公記』とは、信長の一次史料で信憑性があるものとされています。

だからと言ってこの逸話が創作とも断言できませんが…。

 

そして、この碑石があるところから、階段をのぼっていくとお牧の方のお墓があります。

光秀の母・お牧の方のお墓

 

墓石に名前は無く、「南無阿弥陀如来」と書かれた右側の石塔がお牧の方のお墓です。

静かで穏やかな雰囲気のする場所です。

横にある木は、高野槙という神木で樹齢400年以上とも云われているそうです。

この槙(まき)の木はお牧の方の名前に因んでいるそうで、墓標とされているそうです。

そして、お墓が建立されたのは1743年、江戸幕府八代将軍・徳川吉宗の時代です。

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信長公記の原作の著者は、信長の家臣だった人です。

当時の信頼できる史料として多くの人の支持を得ており、また現代人に読みやすいようになっています。

 

お牧の方のお墓に行った感想

お牧の方のお墓は、里人の民が建立したそうですが、供養塔のようなお墓なのかもしれないと思います。

お牧の方が亡くなった年は不明ですが、本能寺の変は1582年ですので本能寺の変から数えても161年後に建立したことになります。

そして、お牧の方のお墓があるからといって、光秀の出生地とする根拠ではないようにも思えます。

ただ不思議なのが、こんなに時間が経ってから貴夫人のお墓がつくられるのは珍しいのではないかというところですね。

お牧の方の逸話が載っている『総見記』についてですが、1685年頃完成した『織田軍記』を補足、訂正して『総見記』が書かれたそうです。

『総見記』にてお牧の方の無念の最期を知った民が建立したのでしょうか?

当時から恵那市の民が、光秀の出生地だと思っていたとしたらあり得る話だと思います。

また、当時の世評をはばかって「南無阿弥陀如来」とだけ刻まれたそうで、光秀が謀反人として評判が芳しくなかったということかなと思います。

江戸時代は戦国時代と考えが違ったようですね。

下剋上によって天下を治めた徳川家康ですが、下剋上の理論を否定しないと徳川家の天下が危うくなるかもしれません。

徳川幕府は朱子学(しゅしがく)を広め、下剋上の理論を否定したそうですので、謀反人に対するイメージは悪かったのなと思います。

於牧の方のお墓への基本情報

見学料:無料

所要時間:10分

電話番号:0573-26-2111(恵那市教育委員会)

所在地:〒509-7715 岐阜県恵那市明智町東町1166-1

明智駅から徒歩で20分

※掲載されている情報が最新のものとは限りませんので、ご利用の際はご確認をお願い致します。