明智光秀の生年

明智光秀の生年は、いくつかの説があります。

信頼性の高い史料からは判別できず、今も解明されていません。

現在、一番有力視されている生年は、『明智軍記』を参照した享禄元年(1528年)説です。

また、『当代記』を参照した永正13年(1516年)とする説もあります。

その他、光秀の生年は諸説ありますが、2つの内のどちからである可能性が高いとされてきました。

しかし近年、光秀と交流があった公家の吉田 兼見が記した日記から、天文9年(1540年)以降に生まれたと推定できる説も浮上しており、謎が深まっています。

この記事では、それぞれの説についての詳細を記載します。

目次

光秀の生年は享禄元年(1528年)説

明智光秀の肖像画

明智 光秀

 

明智光秀の生年を享禄元年(1528年)とする説の根拠は、二つあります。

一つは、『明智氏一族宮城家相伝系図書』に明智光秀の干支が記載されており、その干支が享禄元年に生まれたとする説と一致することです。

もう一つある光秀の生年が1528年であるとする根拠は、『明智軍記』に記載された光秀の辞世の句です。

光秀の辞世と伝わる言葉に、当時の光秀の年齢が記載されており、その年齢から逆算すると享禄元年生まれになります。

それでは、どのような辞世かというと「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」です。

「順序正しい道も、逆の道も一本の道しかないのであろう。

人の守るべき正しい道とはなんであろうか。

五十五年の我が人生の夢も覚めてみれば、心の源に到達したような気がする。

他と同じく土へと帰るのみだ。」

という意味とのことです。

辞世に「五十五年夢」とあるので、1582年に亡くなった時は数え年で55歳であったとして、逆算し生年は享禄元年(1528年)とする説があるとのことです。

それならば、享禄元年(1528年)年生まれではないかと思いますが、本当に光秀の辞世の句なのか、疑問視されています。

真偽不明とされながらも、光秀の菩提寺・西教寺には、光秀の辞世の句の碑石が建てられています。

 

画像西教寺にある光秀の辞世の句

西教寺にある光秀の辞世の句の碑石

 

『明智軍記』とは

光秀の生年、享禄元年(1528年)説の根拠の一つとなっている『明智軍記』。

この『明智軍記』がどのようなものかというと、江戸時代中期に成立した軍記物で、先に成立していた『信長公記』、『朝倉軍談』、『江源武鑑』などを参考にしながら記述されたそうです。

『明智軍記』は、創作が含まれる史料で、史料価値は低いとされる二次、三次史料扱いになります。

なので、『明智軍記』の説を参考にして、享禄元年(1528年)とする説に疑問の声もありますし、辞世を創作と見ている専門家もいます。

その一方で、作者は不明ながらも、明智家の末裔の方が編纂に携わっている痕跡を指摘する研究家もいらっしゃいます。

歴史は勝者によってつくられると言われるように、敗者側である光秀の正確な情報を後世に残すのは難しいことは容易に想像できます。

実際に、光秀の信頼できる史料は乏しく、光秀の詳細解明には至っていません。

『明智軍記』を酷評する研究者も多くいらっしゃいますが、光秀を主役とする唯一の軍記物であるため、光秀の生涯を知る上で参考にされつつも、鵜呑みにはできないという位置付けのようです。

光秀の干支

先に述べましたが、光秀の生年を享禄元年(1528年)説とする、根拠の一つは干支です。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』に、「光秀 享禄元年 戊子(つちのえね)八月十七日、生於石津(いしづ)郡多羅云云」という記載があるそうです。

戊子(つちのえね)とは、干支の一つで、西暦年を60で割って28余る年が戊子の年になるそうで、享禄元年も戊子の年に当たります。

この二つの根拠により、光秀の生年を享禄元年とする説があります。

ですが、『明智氏一族宮城家相伝系図書』の成立した年月日は不明とのことで、もし『明智軍記』より後に成立したとすれば、『明智軍記』を参考に執筆された可能性もあるため、享禄元年説を確定する根拠としては弱く、疑問符がつくという結論になるようです。

また、『明智氏一族宮城家相伝系図書』と『明智軍記』に記載された生年は同じですが、日付は違います。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』は、享禄元年8月17日(1528年8月31日)生まれで、『明智系図』は享禄元年3月10日(1528年3月30日)としています。

※『明智氏一族宮城家相伝系図書』は、別名『宮城系図』とも云われています。

因みに、『明智氏一族宮城家相伝系図書』にある「石津郡多羅」という部分は、光秀誕生の地は美濃にあった多羅城であるという意味です。

光秀が多羅城生まれであったとする説は異説です。

また、光秀の十二支は、子年だと云われています。

享禄元年(1528年)説なら戊子、後に書いている永正13年(1516年)説なら丙子、天文9年(1540年)だとすると庚子で、全て子年です。

子年である点は、江戸時代の川柳「丹波の鼠 京に出て 馬を喰い」につながり、興味深く思います。

織田信長は、天文3年(1534年)生まれですので午年です。

川柳の意味は「丹波国の領主・明智光秀が、京都の本能寺で織田信長を討った」となります。

光秀の生年は永正13年(1516年)説

当代記』という史料によると、光秀が亡くなった年齢について「時に明知(智)歳六十七」と記載してあるそうです。

『当代記』は江戸時代に成立した歴史を記述した書物で、『信長公記』などを元に再編された二次史料です。

※『信長公記』は史料価値の高い一級史料です。

二次史料ながら、比較的史料価値が高いとも云われる『当代記』を参考にするなら、光秀の享年は「67歳」ということで、数え年で逆算して光秀の生年を永正13年(1516年)としています。

『当代記』の編纂者は、家康の孫である松平忠明とも伝わりますが、定かではありません。

光秀の生年の出典元は、何でしょうか、光秀に近しい人がいたのでしょうか。

江戸時代になって、光秀の新たな生年が出現したことが引っ掛かります。

『当代記』の永正13年(1516年)誕生の出典元が不明であり、また、『当代記』が成立した年は1624年〜1644年頃ですので、1582年に光秀が亡くなってから時間も経っているため、どの程度信頼できるのか疑問が残ります。

吉田 兼見の日記から見える光秀の生年

戦国時代から江戸時代にかけての人物で、公家・吉田兼見が記した『兼見卿記』という日記があります。

戦国時代の貴重な史料とされているものです。

その日記から、光秀の生年は、天文9年(1540年)以降と推察できるそうです。

『明智軍記』、『当代記』共に後世に書かれた書物であり、当時の人が書いた日記の方が信頼できるのではないかと思います。

明智光秀と吉田兼見は、交流があったと見られています。

ですが、光秀と関わりのある箇所は、書き直されているそうで、光秀に関してはどこまで信頼できるものか疑問符がつきます。

吉田 兼見は、細川幽斎(藤孝)の従兄弟にあたる人物です。

細川幽斎(藤孝)は、光秀の盟友であり、幽斎の嫡男に光秀の娘(細川ガラシャ)が嫁いだことから、親戚関係でもありました。

本能寺の変を起こした光秀は、細川家に味方になってもらえると期待してたようですが、再三の要請にも関わらず断られています。

その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れた光秀は亡くなり、歴史上の敗者になりました。

細川幽斎と従兄弟だった吉田兼見は、何等かの理由で、光秀と関わった箇所の日記を、変更する必要があったということではないでしょうか。

『兼見卿記』の光秀の記録の真偽は不明ですが、仮に光秀が1540年生まれだとすると、光秀の享年は、数え年で43歳になります。

光秀は信長より年上とする説が有力ですが、この場合は光秀の方が若かったことになります。

もっとも、天文9年(1540年)説は、若すぎて論外だという専門家もいます。

岐阜県山県市に伝わる光秀の生年

また、岐阜県山県市の伝わる伝承によると、光秀の生年は大永6年(1526年)です。

ただ裏付ける史料はなく、現在ではほぼ否定されています。

この岐阜県山県市には、光秀の出生地説の他、光秀生存説が残されています。

明智光秀のうぶ湯の井戸跡

山県市にある光秀の産湯の井戸

詳しくはこの記事に書いています。

荒深小五郎として明智光秀は生きた!?山県市に残る【桔梗塚】

このように、光秀の生年について、どの説も根拠に欠けますが、享禄元年(1528年)3月10日説を推す人が多いようです。

明智光秀の出生地|可児市明智荘、恵那市、山県市、多羅城、滋賀県多賀町

参考・引用・出典一覧

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