明智光秀の菩提寺であり、光秀や光秀の妻など明智一族のお墓がある寺院としても知られる、大津市坂本にある西教寺に行ってきました。
西教寺には、光秀の坂本城城門を移築した総門、坂本城の陣屋を寄進し再建した大本坊、光秀の辞世の句の石碑など、明智光秀の足跡を感じることができます。
今回は西教寺と明智光秀について記載します。
西教寺と明智光秀
西教寺(さいきょうじ)は、天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山であり、全国に450以上の末寺を持つ寺院です。
寺院の伝承によると聖徳太子が創建したと伝わりますが、定かではないようです。
その後、室町時代に比叡山の僧侶であった真盛上人が入寺し、西教寺を再興したため「中興の祖」となり、西教寺には真盛上人の御廟や銅像があります。
後の戦国時代には、織田信長の比叡山(ひえいざん)の焼き討ちにより、西教寺も焼失してしまいます。
焼失から3年後に本堂は復興しますが、西教寺の復興に尽力したのは明智光秀であると云われています。
比叡山焼き討ちの後に、功労者であった光秀は、織田信長により近江国滋賀郡(西教寺などがあった当時の住所)を与えられ、西教寺の近くに居城である坂本城を築きました。
地理的にも近かった西教寺との縁は深く、現在でも境内には明智光秀や妻を始めとする一族のお墓や、明智光秀、妻の実家の供養塔、辞世句碑などもあります。
そして、毎年6月14日には明智光秀の追善供養が行われ、今でも光秀は大切にされているようです。
では、明智光秀のゆかりの地を求めて西教寺に行き、総門という入り口の横に駐車場がありましたので、使わせていただきました。
その駐車場に西教寺の境内図がありましたので掲載します。
行ったみて思ったより、広くて建物も多くて見どころが沢山あります。
全部見たら1時間半位かかるのではないかと思い位のボリュームですが、今回は明智光秀についてをメインに紹介させていただきます。
平日に行きましたので、駐車場は止められましたが、休日は厳しいかもしれません。
大河ドラマの影響などで混みそうですし、旅行会社の方と思わしき方達もいらっしゃたり、光秀ゆかりの寺として注目されそうに思います。
坂本城の城門を移築した総門
駐車場から総門が見えます。
この総門は、光秀の坂本城城門が移築されています。
総門には明智光秀の菩提寺である旨と、光秀の水色の桔梗紋が描かれたのぼりが付いています。
光秀は土岐氏の一族で桔梗紋を使用していたと云われていますが、光秀が使っていたのは「水色桔梗」と呼ばれる家紋です。
坂本城は光秀の死後、戦国時代に廃城となりますので、その際に移築されたのかと思っていたのですが、調べてみると光秀存命の時に移築されていたそうです。
信長の命令で比叡山を焼き払った光秀ですが、罪悪感に駆られ、比叡山の焼き討ちの翌日にやってきて西教寺の再建に取り掛かったそうです。
西教寺を復興させるために、明智光秀によって坂本城から城門が移築されています。
大変貴重な物に思えましたが、重要文化財ではないようですね。
昭和59年に老朽化のため修理が行われ、復元されたそうですが、それででしょうか?
西教寺の勅使門
総門から参道をまっすぐ進んだ正面に勅使門(ちょくしもん)があります。
天皇の使者が通ったとされる門ですが、現在は柵があって通ることはできません。
西教寺の本堂
勅使門の左の道から本堂や客殿のある方へ向かいます。
本堂は流石、総本山という壮大な大きさです。
元亀2年(1571年)、本堂は信長の比叡山の焼き討ちにより焼失し、天正2年(1574年)の光秀が治めた時代に再建されます。
ですが、現在見れる本堂は、江戸時代に再度再建されたものになるそうです。
江戸時代の1739年(元文4年)に、紀州徳川家の寄進により再建され現在に至り、昭和61年に重要文化財に指定されています。
西教寺の客殿
本堂の左手には客殿があり、1902年(明治35年)に重要文化財指定されています。
豊臣秀吉の居城であった京都・伏見城の旧殿を、大谷吉継(おおたに よしつぐ)の母らの寄進により、1598(慶長3)に移築されたとも云われています。
当時の桃山様式をよく表した建物とのことで、狩野派の襖(ふすま)絵や秘仏薬師如来座像などが残っているそうです。
大本坊(明智光秀の坂本城の陣屋)
大本坊は本堂の北側にあり、西教寺の庫裏(くり)とのことです。
庫裏とは、僧侶が集まり修行する場所であり、全国の末寺を統括する寺務所もあるそうです。
大本坊の説明板に書かれていましたが、大本坊も焼き討ちにより焼失し、復興に心を砕いた明智光秀が、自身の坂本城の陣屋を寄進して再建したそうです。
ですが、現在の大本坊は昭和33年に改築された物のようです。
西教寺の総門が坂本城から移築されたことは、知られた話だと思いますが大本坊もだったとは、今回西教寺を訪ねて初めて知りました。
そして、大本坊は明智光秀と妻・煕子の木像が安置されているそうで、光秀に対する感謝の想いがあったのではないかと思います。
明智光秀と一族の墓
本堂の向かいに広い墓地があり、その中でも最も本堂に近くて広い場所に、「明智光秀一族の墓」があります。
説明には山崎の戦いで敗れた後、一族と共にここに葬られた旨の記載があります。
明智光秀には沢山お墓があり、他にも光秀が葬られているとするお墓があります。
どこに葬られているのか、ハッキリはしていませんが、明智光秀のお墓で真っ先に上がるのは西教寺ではないでしょうか。
下の写真は、お墓の近くにある光秀の辞世の句が刻まれた碑石です。
光秀の辞世の句は二つ伝わっていますが、そのうちの一つですね。
ただ、光秀の辞世の句はどちらも創作の可能性を指摘されています。
西教寺の説明にも「歴史上の論議はありましょうが…」と、真偽は不明である旨が書かれています。
この辞世の句の意味はこちらの記事に書いていますので、気になる方はご覧になってください。
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光秀の妻・煕子のお墓
明智一族のお墓の左側に、光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓があります。
明智光秀と妻・煕子は仲睦まじかったとされ、一説には光秀は煕子が存命の間は側室を持たなかったとも伝わります。
煕子は本能寺の変の後で、光秀の死後に一族と共に亡くなったとする説もありますが、光秀が亡くなる6年前に病で亡くなったとする説が有力とされています。
西教寺にある古文書には煕子の葬儀に、光秀も参列した記録が残ってるそうです。
妻の葬儀に夫は参列しないという習慣を破っての参列だったと語り継がれています。
また、今でこそ有名な明智光秀ですが、光秀が貧しかった頃、煕子は自身の自慢の黒髪を売り、光秀の出世を助けた内助の功の逸話があります。
この逸話の真偽も不明ですが、黒髪の逸話を想い松尾芭蕉が詠んだ句があります。
上の写真の左端の石碑は、松尾芭蕉の句が彫られています。
「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」
光秀は長年逆族として認識されていましたし、江戸時代という封建社会にある中で詠まれた句です。
そのような中で、光秀夫婦を称賛した句は、松尾芭蕉ならではの句ではないでしょうか。
この句のことや、妻・煕子の話の詳細は別の記事に記載しています。
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光秀の縁者・妻木一族の供養塔
煕子のお墓の近くに、煕子の生家とされる妻木一族の供養塔がありました。
妻木氏も光秀と同じく土岐氏の一族とする説もありますが、定かではありません。
西教寺の説明板によると、妻木城第12代城主の妻木広忠(つまき ひろただ)は、本能寺の変の後に山崎の戦い、坂本城の攻防など光秀方として共に戦ったそうです。
その戦の中で、妻木広忠の3人の息子は亡くなったと記されています。
妻木広忠は煕子の父であるとも、光秀の叔父であるとも云われている人物ですが、史料がなく真実は不明です。
そして光秀の死後に、ついに坂本城が落城した時は、燃え盛る炎の中で沢山の光秀の縁者が亡くなったと伝わります。
妻木広忠は最期まで戦って生き残り、亡くなった一族のお墓を西教寺に作り終えてから、煕子のお墓の前で自害したと云われています。
今回は明智光秀のことを中心に書かせていただきましたが、西教寺の境内は春は桜が、秋は紅葉が見事だそうです。
坂本の都心から少し離れているため、行楽シーズンでも比較的すいていて、落ち着いた雰囲気で散策が楽しめるそうです。
気になるかたは検討してみてくださいね。
光秀の『供養米寄進状』
西教寺には、明智光秀の過去帳が残されているそうです。
光秀が今堅田城(いまかたたじょう)を攻め落とした際に、家臣18名が亡くなりました。
家臣の供養のために、光秀が西教寺に供養米を寄進し、その時の寄進状が寺に伝来しています。
『供養米寄進状』と呼ばれる光秀書状で、戦で亡くなった家臣18人の名前、日付、供えた米の量が書かれています。
米の量は、身分により変わることは無く、皆同じで「一斗二升」が納められました。
光秀の几帳面なところや、身分の高くない家臣のことも考えていたのではないかと思える寄進状でした。
西教寺の基本情報
境内・本堂の拝観料:無料
客殿・客殿庭園の拝観料:小学生200円、中学生300円、大人500円、
拝観時間:9:00~16:30
電話番号:077-578-0013
住所:滋賀県大津市坂本5丁目13-1
駐車場:有
明智光秀の「水色桔梗」についての記事はこちらです。
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織田信長が大好きなのに、光秀を嫌いでないというサユリスト.comさんが書いた光秀の首塚の記事です。
【京都 光秀の首塚】「麒麟がくる」では描かれなかった場所
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