荒深小五郎として明智光秀は生きた!?山県市に残る【桔梗塚】

岐阜県山県市にある明智光秀のお墓とされる「桔梗塚」、光秀の産湯の井戸、行徳岩を見てきました。

山県市には、光秀は羽柴秀吉との対決である山崎の戦いでは、亡くならず荒深小五郎と改名し、山県市で生きたとする伝承があります。

また、山県市は光秀の誕生説があり産湯の井戸、光秀のお墓もあります。

山県市に伝わる光秀の伝承とはなんでしょうか、山県市を訪ねてみました。

目次

明智光秀が荒深小五郎となったとする説

明智光秀のお墓は複数ありますが、その内の一つは、「岐阜県山県市中洞」にあります。

光秀は山崎の戦い後、落ち武者狩りに遭い討たれたとするのが通説ですが、生存説もあります。

光秀の生存説は「天海」になったとする説が有名ですが、山県市には「荒深小五郎」になり生存したとする説があります。

落ち武者狩りに遭い亡くなったのは影武者の「荒木山城守行信」(あらきやましろのかみゆきのぶ)という人物で、光秀は生き延びて、西洞寺の林間に隠れ住んだという伝承が残っているのです。

『荒深家文書』によると、荒木山城守行信が光秀に、未だ最期の時でないので逃れて再起をはかってくださいと言い残し、敵に「われこそは明智光秀なり」と言い打って出たそうです。

その後、荒木山城守行信は落ち武者狩りに遭い、竹藪で落命したそうです。

荒木山城守行信は、丹波の八上城主・波多野氏に仕えた人物で、光秀の丹波平定後に光秀の家臣になったものと思われます。

光秀は荒木山城守行信の忠節に感謝し、自身の名を「荒深小五郎」と変名したとされています。

荒木の「荒」と深く感謝しての「深」を取り「荒深」とし、子孫に荒木山城守行信に命を助けてもらったことを口伝したと云われています。

そして荒深小五郎は、西洞寺の林間に乙寿丸と一緒に隠れ住んだという言い伝えが残っているのだそうです。

その後、関ヶ原戦いが起きて、徳川方に加勢をするために向かう途中、洪水に遭遇して、根尾村の藪川で馬と共に流されて溺死してしまったと云われています。

享年は75歳(73歳とも)であったそうです。

荒深小五郎の遺体は、荒木山城守行信の子供である吉兵衛により、山県市に埋葬されたそうです。

このような経緯で、光秀のお墓とされる「桔梗塚」があり、現在も荒深一族が管理しているそうです。

宝永6年(1709年)頃、尾張藩士・天野信景が書いた随筆集『塩尻』にも、光秀が中洞に隠れ住んだことが書かれています。

ただ、光秀が隠れ住んだ時に使った名前は「荒深小五郎」でなく、「荒須又五郎」と書いてあります。

「荒深小五郎」が光秀かどうか、真偽は不明ですが、地元・山県市中洞の人は、光秀が子孫を残して下さったと信じている方も多いそうです。

また、山県市中洞には、荒深姓が多く、現在でも4月と12月に「明智光秀公供養祭」が行われているそうです。

それでは「桔梗塚」を見に行ったレポートをさせていただきます。

山県市のお墓「桔梗塚」と産湯の井戸

車で向かいましたが、高速を降りて下道を十数キロ走りました。

光秀のお墓だという「桔梗塚」があるというところに到着すると、まず目に入ってきたのは、光秀が信仰していたという「白山神社」でした。

とても駐車場がありそうな雰囲気ではないので、白山神社の手前に車を停めます。

この日は、地元の?テレビ局と思われる方がいらっしゃりました。

邪魔になってしまいそうなので神社には入りませんでした。

また、テレビ局の方に「よくここまで来ましたね」と驚かれました…。

私もテレビ局の人がいらっしゃって驚きました。

光秀が主役の大河ドラマが放送されるとはいえ、アクセスしずらそうな場所にある上、なかなかマニアックな場所に思えたからです。

ともあれ、白山神社に隣接した高台にある「桔梗塚」に向かいます。

下の写真のように光秀の旗が沢山建っているので、白山神社まで来たらすぐ分かりました。

山道の中にあるのですが、入り口には、お墓である「桔梗塚」の説明が書いてある看板もあります。

明智光秀の墓と伝承される「桔梗塚」の説明
「桔梗塚」の説明

少し登ったところに「桔梗塚」はありますが、スニーカーでなくても行けそうな道です。

私もサンダル…でした…。

2分位?でお墓につきました。

ここが「桔梗塚」です。

画像明智光秀の墓と伝承される「桔梗塚」
光秀のお墓「桔梗塚」

墓石は何て書いているかハッキリわかりませんでしたが、下の写真の石塔には「惟任日向守光秀公」と彫られています。

静かなところでした。

五輪塔の下には荒深小五郎(光秀)の亡骸、宝篋印塔下には経文が埋められたと伝承があるそうです。

「桔梗塚」の由来は、土岐氏の家紋・桔梗紋です。

土岐氏の分家筋に当たる明智氏の家紋も桔梗紋ですが、山県市の伝承によると、光秀の生家は土岐家で、後に明智家の養子になった!?と云われているそうです。

明智光秀の墓と伝承される「桔梗塚」の碑石
「桔梗塚」の碑石

山道を下りて、先ほどのお墓の説明板の横に光秀の「産湯の井戸跡」があります。

光秀の生誕の地は、候補がいくつもあり定かになっていません。

詳しくは別記事に書いています↓。

明智光秀の出生地|可児市明智荘、恵那市、山県市、多羅城、滋賀県多賀町

山県市中洞にも光秀の生まれた地として伝承が残されており、この井戸が、光秀の産湯に使う水を汲んでいたと云う井戸だそうです。

明智光秀のうぶ湯の井戸跡
明智光秀の「産湯の井戸跡」

大永6年(1526年)8月、光秀は、土岐元頼(とき もとより)の子として、山県市中洞の古屋敷で生まれたそうです。

母は、豪族である中洞源左衛門の娘・お佐多(後に松枝)です。

土岐元頼は、美濃守護土岐成頼の四男ですので、光秀は守護土岐氏の嫡孫となります。

土岐氏は、土岐源氏の流れを汲み、美濃を200年治めた名門です。

その後、光秀が7歳の時に、父・元頼が亡くなります。

生前の元頼の願いにより、祖父・中洞源左衛門は、可児市瀬田長山にあった明智城に光秀を連れ、土岐氏の分家筋である明智光綱に預けました。

明智光秀の伝記を読むと、明智城主・明智光綱が光秀の父ではないかと、有力視する書籍が多いように思います。

ですが、山県市の伝承によると、光秀が11歳になった天文5年(1536年)、明智光綱の養子になったそうです。

ただ、この説は一般には認められていませんし、光秀の生年が大永6年(1526年)説も、現時点では否定的な意見が殆どに思えますが。

山県市、桔梗塚近くの「行徳岩」

白山神社の近くに武儀川(むぎがわ)という川があるのですが、この川にも光秀にまつわる話が残されています。

光秀の母が妊娠中に、「生まれる子が男の子なら、天下を取るような立派な男の子を授けてください」と水垢離をして願ったとされる「行徳岩」(ぎょうとくいわ)があります。

また、「もし女の子であったら、天下一の美女をおさづけ下さい」とお願いしたそうです。

行徳岩(ぎょうとくいわ)
行徳岩

行徳岩への住所:〒501-2258 岐阜県山県市中洞地内 武儀川 美山大橋下流

山県市中洞を訪れて思ったこと

私は、山県市中洞が光秀の出生地であることや、光秀が荒深小五郎となったとする説も信じていません。

史実でなくても史跡が残っていることは珍しくありませんし…。

また、光秀と共に山県市中洞で暮らしたと伝わる乙寿丸の存在は、伝承の域をでないとされています。

漢字は違いますが、於隺丸(おづるまる)の子孫との伝承を持つ人に『本能寺の変 431年目の真実』などの著者である明智憲三郎氏がいます。

京都の山城(やましろ)に匿われ、明田(あけた)姓を名乗ったそうです。

こちらの於隺丸も伝承で、存在は認定されていませんが、伝承のオズマルが二人もいて興味深いなと思いました。

山県市中洞は、光秀の子供など近しい人物が隠れ住んだ場所である可能性がありそうに感じます。

桔梗塚へのアクセス

アクセスは車が良さそうです。

最寄りのバスでさえ15分かかるそうですし、電車の最寄りはないそうです…。

〒501-2258 岐阜県山県市中洞1020番地 中洞白山神社

(※〒501-2258 岐阜県山県市中洞2258 こちらの住所で記載している場合もあるようです。)

その他の光秀の生存説はこちらです。

進士藤延として明智光秀は生きた!?とする説

明智光秀は生きて天海という僧侶になったとする説を検証する

於隺丸(おづるまる)の子孫との伝承を持つ明智憲三郎氏など子孫についての記事はこちらです。

明智光秀の子孫と細川ガラシャの子孫

参考・引用・出典一覧
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