本能寺の変で織田信長に反旗を翻したことで有名な明智光秀、本能寺の変の後に起きた豊臣秀吉との戦いである山崎の合戦で亡くなったとする説が通説ですが、異説があります。

山崎の合戦で光秀は亡くならず、天海(てんかい)(南光坊天海) という僧侶となり、徳川家康の側近として天寿を全うしたというのです。

何故、このような話が囁かれるのでしょうか、また天海とはどのような人なのか記します。

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天海(南光坊天海)の略歴

生年:天文5年(1536年)説が有力視されるものの不明

没年:寛永20年10月2日(1643年11月13日)

出自:蘆名氏(あしなし)とする説があるものの不明

南光坊天海の肖像画

天海(南光坊天海)

天海は、近江国(おうみのくに)の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)や園城寺(おんじょうじ)などで学び天台宗の僧侶になった方です。

天海が比叡山延暦寺にいた頃、信長の比叡山の焼き打ちにより延暦寺が焼却してしまい居場所が亡くなりますが、武田信玄の招きにより甲斐へ移住したと伝わります。

その後、1588年に武蔵国(むさしのくに)(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の無量寿寺北院(現在の川越市にある喜多院)に移り天海と名乗ったとされており、天海の足跡がハッキリわかるようになったのは、この頃からとされています。

天海は後に徳川家康の参謀となりますが、1590年に起きた豊臣氏と北条氏との戦いである小田原征伐(おだわらせいばつ)の時には、既に家康の陣幕にいたとされています。

そして、秀吉の死後に起きた天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いに家康は勝利し、幕府を開くにあたり江戸の地を選んだのは天海の助言があったためと言われており、一介の僧侶が徳川政権に影響力を及ぼしていたことが窺い知れます。

それ程までに家康に信頼され、高名な僧侶であるのにかかわらず謎が多いことからも、実は天海は明智光秀であると異説が伝わる要因であったと考えられます。

一方で、本当に天海が光秀だとすると享年は116歳になるため現実的に不可能と唱える人もいます。

※光秀の生年は諸説あり定かではありませんが、一番有力視されている生年だとするとの年齢になります。

室町幕府第12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)、第3代古河公方(こがくぼう)・足利高基(あしかが たかもと)の落胤(らくいん)(父親に認知されない庶子)であるとする異説もあります。

それでは、何故、光秀が天海であると言われるようになったのか、その理由を見てみましょう。

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明智光秀生存説の根拠

光秀が天海だという根拠にはなりませんが、そもそも光秀が生存していなければ、この仮説は成り立ちませんので光秀生存の根拠とされる説をあげていきます。

 

・京都宇治の神明神社(しんめいじんじゃ)に、山崎の戦い後に光秀が隠れたと伝わる井戸が残っています。

 

・京都宇治の専修院に、山崎の戦い後に光秀を匿ったという伝承があるそうです。

 

・京都の妙心寺(みょうしんじ)に山崎の戦い後に光秀が姿をあらわしたと伝わっているそうです。

 

・山崎の合戦で落命したのは影武者とする説があります。

影武者の名は「荒木山城守行信」と言い、光秀の身代わりとなって討たれ、光秀は忠義に感謝して自身を「荒深小五郎」と変名し、岐阜県山県市中洞に隠れ住み生き延びたと伝わります。

その後、関ヶ原の戦いで徳川方に見方しようと出陣しましたが、根尾村の藪川で流され亡くなったそうです。

光秀が隠れ住んだ山県市中洞には「桔梗塚」があり、「光秀の墓」と「五輪塔」が残されています。

 

・滋賀県大津市坂本(比叡山延暦寺があった付近)にある比叡山関係の専門図書館に「光秀」と名乗る僧侶の記録があります。

 

・大坂府にある本徳寺(ほんとくじ)に光秀生存説が残されていて、光秀は生き延びて本徳寺で仏門に入った旨の伝承があります。

詳しくはこちらの記事に記載しています。

明智光秀の肖像画~本徳寺の肖像画は明智光慶が描かせた!?~

 

 

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光秀と天海が同一人物とされる根拠

 

・日光で一番眺めが良い場所に「明智平<あけちだいら>」と呼ばれる所があり、名づけたのは明智の名前を残したいと願った天海であるとする伝承があります。

根拠としては弱いですが、根拠の筆頭にあげられる話になります。

 

・江戸時代初期に大奥を取り仕切ることで有名な春日局(かすがのつぼね)、当時は特別な身分でなかったのに、家康の孫で三代将軍になる徳川家光の乳母に抜擢されます。

春日局の父は光秀の腹臣である斎藤利三(としみつ)でした。

その春日局ですが、天海に初めて会った時に「お久しぶりです」と挨拶をしたとの説もあり、天海は光秀説の裏付けとして引用されることがあります。

また家光の子である4代将軍・家綱の乳母には、光秀の重臣・溝尾茂朝(みぞお しげとも)の孫・三沢局(みさわのつぼね)が選ばれ、後に大奥の実力者になります。

※三沢局を乳母に推挙したのは春日局であるといいます。

春日局

春日局

 

・徳川家の「」の字は「秀」からもらったものであるという解釈があります。

この当時の名前の付け方は、父祖(ふそ)(代々の祖先)の名前から一字、また偏諱(へんき)といって時の権力者から一字もらう組み合わせでした。

家光の「家」は、当然ですが「家康」からもらったものとされています。

では「光」は、となると将軍家の嫡男につける程の「光」の字を持った権力者は見当たらず、「光秀」からもらったのではないかと推察されるようになりました。

また、光秀は土岐家の出自とする説が有力ですが、土岐家では男子に「光」の字を付けることが多く土岐家を象徴する特別な字でもあるそうです。

そして、4代将軍・徳川家綱の「綱」は光秀の父・明智光綱(みつつな)、7代将軍・徳川家継(いえつぐ)の「継」は光秀の祖父・明智光継( みつつぐ)からもらったものとする説もあります。

 

・本能寺の変の後、最初は光秀に協力したものの、途中で秀吉側に寝返り山崎の合戦で光秀に敵対した筒井家は、後の関ヶ原の戦いで徳川方につくものの後に改易されています。

・山崎の合戦で光秀の見方をした京極家は、関ヶ原の戦いでは最初は三成方につき、後に徳川方に寝返るものの、三成方の猛攻により降伏します。

降伏したにもかかわらず戦後に加増されます。

このように、関ヶ原の戦い後の不可思議な戦後処理は、山崎の合戦にて光秀に見方したかどうかで説明できるとする説があります。

 

・光秀の孫である織田 昌澄(おだ まさずみ)は、大坂の陣で豊臣家の見方になるものの、戦後助命された上、後に江戸幕府の旗本として召し抱えられることになります。

 

・光秀と天海は二人共、地蔵菩薩を信奉(しんぽう)しており、光秀の地蔵菩薩像は京都市上京区にある蘆山寺(ろざんじ)に、天海の地蔵菩薩像は江戸の正徳院に奉納され現存しているといい、共に地蔵菩薩を信奉しており、同一人物の可能性があるとする説の補足として語られることがあります。

 

・光秀の居城があった大津市坂本に、天海の廟所(びょうしょ)である慈眼堂(じげんどう)があります。

光秀のお城があったところに天海のお墓があるので、光秀と天海は同一人物説の根拠の一つとして語られます。

 

・日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に、光秀の家紋である桔梗紋があります。

桔梗紋

桔梗紋

日光東照宮とは、家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀っている特別な神社ですが、そこに、光秀の家紋である桔梗紋があるのは、不思議であり天海と桔梗紋は何か関係があるのではないかとする説があります。

この説も良く囁かれますが、桔梗紋に見える家紋は、織田家の木瓜紋(もっこうもん)と装飾用に使用された唐花紋(からはなもん)だといい桔梗紋ではないそうです。

木瓜紋

木瓜紋

・プロの鑑定士によると光秀と天海の筆跡が似ており、同一人物か近親者である可能性があるとテレビで放送していたらしいです。

 

・光秀の死後に比叡山に光秀の名で寄進された碑石があるそうです。

 

・天海が亡くなった時、西教寺(さいきょうじ)、妙心寺(みょうしんじ)、愛宕威徳院など光秀ゆかりの寺からは香典が届いたのに、天海ゆかりと伝わる寺からは香典が届かなかったそうです。

 

・家康と天海が初めて会った時、人払いをして親しげに談笑したと伝わり、初対面の人に異例な対応だったとされています。

 

このように、光秀と天海が同一人物であるとする根拠が複数ありますが、皆さまはどのように思うでしょうか。

 

また光秀と天海が同一人物説を語る時に、「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?」という童謡を紐解くと、光秀と天海が同一人物であることを示唆しているのではないかと云われることがあります。

その「かごめかごめ」の記事はこちらに記載しています。

明智光秀と「かごめかごめ」の唄

 

 

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筆者の所感

ロマンのないことを申しますが、光秀が天海だとする説は難しいと思っています。

そもそも、山崎の合戦の後、光秀が生きていたと考えるのは難しいのではないでしょうか。

光秀の首は同僚で面識のあった秀吉の元へ送られていますので、影武者の首なら気がつくと思います。

光秀にそっくりな双子の兄弟がいて、秀吉もその双子の存在を知らず、首は双子のものだったとなれば話は別ですが…。

そうでなければ、光秀と秀吉が実は繋がっていたので、秀吉が気が付かないふりをしたという感じでしょうか。

光秀の影武者説より、光秀と秀吉が繋がっていた説のほうがあり得そうですが…。

 

天海が光秀だとすると享年が118歳となり、現実的に不可能とする説は、光秀の生年は諸説あって定かではありませんので、生まれた年として有力視されている時よりも後の生まれとなれば、ギリギリ辻褄が合うかもしれませんね。

それでも、とても長生きされましたが。

 

確かに、光秀ゆかりの人に徳川政権は寛大であるとは思います。

家光の「光」の字はどこからきたのか?個人的にもとても不思議です。

光秀が天海とは思いませんが、徳川家は光秀に何かの恩でもあるのかなとは思います。

 

かおりんかおりん

小和田先生によって歴史史料を丁寧に分析し本能寺の変の動機に迫った本です。