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明智光秀と「かごめかごめ」の歌と天海

2020 3/02

明智光秀は山崎の戦い後、天海として生きたとする説があります。

また、「かごめかごめ」で知られる歌は、子供が遊ぶ時に歌われたり、童謡としても知られていますが、明智光秀の正体が暗示されているそうです。

今回は明智光秀の不思議な話です。

 

目次

明智光秀と天海

「かごめかごめ」は江戸時代の中期に文献で見られ、歌が広まったのは昭和初期だと云われています。

この「かごめかごめ」という歌は、明智光秀のことを指しているという解釈があるのですが、明智光秀と天海(てんかい)という僧侶が同一人物ではないかとする説に基づいていますので、まず明智光秀と天海について記します。

 

明智光秀は言うまでもないかもしれませんが、織田信長の家臣でありながら、本能寺の変で信長を自害に追い込み、山崎の合戦にて豊臣秀吉に敗れ自害したとされている人物です。

多くの人は聞き覚えのある名前だと思いますが、光秀の前半生は信頼のできる史料は少なく、謎の多い人物です。

織田信長の家臣になった頃から、光秀の足取りがハッキリ分かってくるのですが、亡くなった時のことも定かではありません。

通説では、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗北し、落ち延びる途中で武装農民に竹やりに突かれ、深手を負い自害します。

光秀の首は家臣によって隠されますが、発見され織田信孝によって本能寺に晒されたの後、京都の粟田口でも晒されます。

こうして亡くなったはずの光秀ですが、実は生きていたというのです。

負けた側の戦国武将が、本当は亡くなっていなかった!?という話は、本当によく聞きますね。

光秀も京都で匿われた説、光秀の長男が居たとも云われる本徳寺に潜伏した説、「荒深小五郎」と名を変え生き延びた説などがあります。

先に述べたように光秀の遺体は晒されていますので、光秀の顔が分かる人達が見ているハズですが…、どうして生存説があるのか不思議に思いました。

一説には、腐敗が進んでいて、良く判別できなかったらしいです。

そうすると、晒されたのは別人という可能性がありますね。

それでは、光秀は生きていた可能性も捨てきれないとして天海とは誰でしょうか。

 

天海徳川家康の参謀で、徳川家に代々仕えた僧侶です。

天海は徳川家康からの信頼の厚い人物で、江戸に幕府を開いた時は天海に助言を受けたそうです。

その後の、大坂の陣のキッカケを作った「方広寺鐘銘事件」、難癖をつけて戦に持ち込み豊臣家を滅亡させた出来事ですが、天海が画策したと云われています。

豊臣家は光秀のライバル、滅亡に加担したというわけです。

その後も、徳川家康が亡くなった後の神号を「東照大権現」に決定する時など、重要な出来事に関わった人物です。

天海は高名な僧侶でしたが、前半生はあまり分かっておらず、生年すら定かではなく、本当は明智光秀ではないのかと憶測を呼ぶ一因になったようです。

つまり、光秀の死後に天海が表舞台に現れたように見えるということです。

明智光秀の生年も定かではないですが、有力視されている説だとして、光秀=天海の時は116歳まで生きたことになります。

このように考えると、光秀=天海は現実的ではないように感じます。

なのに、何故、光秀=天海だと囁かれるのでしょうか?

 

明智平

栃木県日光市に明智平と呼ばれる場所があります。

画像明智平

日光にある明智平

天海が明智の名前を残すためにつけた名前だそうです。

明智は美濃国の土地の名前です、わざわざ関東に裏切り者の名前を残したのでしょうか。

 

日光東照宮に明智光秀の家紋がある

東照宮は徳川家康を神格化し東照大権現(とうしょうだいごんげん)として祀った神社ですが、中でも日光東照宮は、総本社のような特別な存在です。

特に、江戸時代の頃、日光東照宮の威光は、凄い物があったのではないでしょうか。

その日光東照宮の陽明門に、何故か明智光秀の家紋「桔梗紋」あるというのです。

画像陽明門

日光東照宮の陽明門

光秀=天海説を唱える際に、良く言われることですが、実は織田家の「木瓜紋」(もっこうもん)ではないかと言われています。

本当に「木瓜紋」であれば、徳川家光も日光東照宮に眠っていますので、家光の母・江(ごう)(織田信長の姪)の家紋として説明はつくかと思います。

 

徳川家光の名前

当時の人の名前は、父、祖父、祖先から一字、時の権力者から一字貰ってつける場合が多かったそうですが、家光の「」は誰から貰ったものでしょうか?

当時「光」の字をもらう人物は、見当たらず、また「光」の字は明智光秀の一族につく字だったことから光秀にもらったのではないかとする説があります。

 

筆跡が酷似している

光秀と天海の直筆書状を見比べると筆跡が酷似しているそうです。

光秀と天海の筆跡鑑定は、テレビで二回実施されたようです。

いずれもプロによる鑑定で、光秀と天海の筆跡はとても似ている文字もあれば、全然違う文字もあるそうです。

一人の鑑定士は同一人物、もう一人の鑑定士は、光秀と一緒に生活しているような近親者と結論を出したそうです。

 

延暦寺松禅寺の石燈籠》(いしどうろう)

比叡山延暦寺に光秀の名前が書かれた石燈籠があるそうです。

光秀が亡くなった年は通説では1582年、石燈籠が寄進されたのは1615年です。

光秀は織田信長の命令で比叡山延暦寺を焼き討ちにし、この世の物とは思えないような状態にした人物です。

なのに、何故、光秀の名前で寄進されているのでしょうか?

 

春日局

春日局の父は、光秀の重臣・斎藤利三、夫は小早川秀秋の重臣で、関ヶ原の戦いで秀秋の寝返りを誘導した人物です。

つまり、父も夫も裏切り者、にもかかわらず、徳川家光の乳母に抜擢された人物です。

このことも光秀=天海だから、抜擢されたのではないかと云われています。

そして、春日局が天海に初めて会ったにも関わらず、「お久しぶりです」と挨拶し、暫く話したとも云われています。

 

本能寺の変黒幕説

本能寺の変の動機は定かでなく、複数の説が囁かれています。

すごく有力な説ではないですが、徳川家康黒幕説もあります。

光秀が徳川家康と通じ、本能寺の変を起こし、後に徳川家康は天下人になりました。

もし、織田信長が生きていたら、徳川家康が天下人になる日は来たでしょうか。

徳川家康は光秀に恩義を感じ、天海を遇したとする説です。

 

次は、「かごめかごめ」の歌は、天海と光秀が同一人物ではないかと暗示しているという解釈がありますので、その紹介をさせていただきます。

「かごめかごめ」の歌に込められた意味

「かごめかごめ」の歌は、地域によって歌詞や解釈が違うのですが、謎めいた歌詞や解釈があり、明智光秀に関するものもあります。

地域により歌詞が違いますが、今回は「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が統べった 後ろの正面だあれ?」という歌詞について記載します。

かごめとは、竹で編まれた籠の目のことであるとされており、イメージでお伝えすると、竹ではないですが下の図のような網目のことです。

 

籠目

籠の目

 

籠の目は竹で編むと6角形をしており、六芒星(ろくぼうせい)を表しているとも云われています。

六芒星(ろくぼうせい)
引用元Wikipedia 六芒星(Mukai様作)

光秀とこの籠の目がどう繋がるかというと、明智光秀ゆかりの地である土岐(岐阜県)、明智神社(福井県)、徳川家康ゆかりの地である日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)(栃木県)、江戸城(東京都)、駿府(すんぷ)(静岡県)、佐渡金山(新潟県)を日本日図で辿ると、上の図のような大きな「かごめ」が地図上にできるという意味です。

(※徳川家だけのゆかりの地を辿っても籠目になり、中心となった場所に徳川埋蔵金が隠してあるとする説もあります。)

今回キーポイントとなる日光東照宮、天海のところでも記載しましたが、徳川家康が東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、祀られた神社です。

では、言葉毎に区切って解釈をお伝えします。

 

籠の中の鳥

「籠の中の鳥」の鳥とは、明智光秀と同族とされる土岐(とき)氏のこととされています。

「鳥」⇒「とり」⇒「とき」と転じ光秀のことという解釈になるようです。

いついつ出やる

「いついつ出やる」とは、いつか光秀が復活することをしるしているそうです。

 

夜明けの晩

「夜明けの晩」とは、夜明けの晩(終わりに)という意味になり、つまり日の出のこと、そして、日の出から転じて、日の光、日光を見るとなり日光東照宮の方向を指しているとされています。

「夜明けの晩」⇒「夜明けの終わり」⇒「日の出」⇒「日の光」⇒「日光東照宮」と転じます。

 

鶴と亀が統べった

「鶴と亀が統<す>べった」の「鶴」と「亀」とは、日光東照宮の徳川家康の墓所である宝塔近くにある、「鶴」と「亀」の像を指しているとされて、「鶴」は飛ぶので「天」をイメージさせ、「亀」は泳ぐので「海」のイメージがあり、」転じて「天海」となるそうです。

画像日光東照宮の鶴と亀

日光東照宮の鶴と亀

「統べった」は「統治する」と解釈され、家康の側近であった天海が、家康の参謀として裏で世を統治するという意味だといいます。

「鶴」と「亀」の像は、福井県の「敦賀<つるが>」と京都にある「岡」を指すとも言われ、「統べった」は「統治する」意味なので、敦賀と亀岡(当時は亀山といい光秀の居城・亀山城があったところ)を統治した光秀のことを指すとされています。

 

また、福井県に光秀の住居跡と伝わる明智神社があるのですが、「鶴」⇒福井県「敦賀<つるが>」⇒福井県の「明智神社」に転じて、「鶴」とは「明智神社」のことであるとする説があります。

つまり、日光東照宮にある「鶴」は「明智神社」のことで、「亀」とは光秀の居城である「亀山城」を指し、亀山は光秀が統治していたので、「統べった」となるという解釈です。

※明治より前の文献では、「鶴と亀が統べった」の文字が確認できないとのことで、近代になって付け足された可能性があります。

 

後ろの正面、だあれ?

「後ろの正面、だあれ?」は、「後ろを向いた時に正面に居る人はだあれ?」との意味になります。

明智光秀の出生地として有力視されている岐阜県可児(かに)市から日光東照宮のある日光の方向を向くと、「後ろの正面」は大阪府岸和田市にある本徳寺(ほんとくじ)になり、本徳寺は光秀生存説の伝承や光秀の肖像画を唯一保有しているお寺でもあるため光秀を連想させるとされています。

そして、その光秀の肖像画には、出家して去っていった旨が書かれており、光秀は生きていたことを暗示していると云われています。

 

「かごめかごめ」の別の解釈

先に述べたように「かごめかごめ」の歌には沢山の解釈があります。

今回、紹介したものと一部違う解釈もあるようです。

「かごめかごめ籠の中の鳥は」は、鶏(ニワトリ)のこと。

「 いついつ出やる」は、鶏の鳴く時は夜明けであることから、日の光を連想し「日光」のこと。

「夜明けの晩に」は、昔の「晩」は夕方位であるという説から、申(さる)(中刻で16時)の刻と酉(とり)(中刻は18時)の刻。

つまり、申と酉の間の方角

画像干支と方位

 

「鶴と亀が」は、(申と酉の間の方角に)敦賀と亀岡がある。

「統べった」は、先に述べた説と同じで(敦賀と亀岡を光秀が)統治する。

「後ろの正面だあれ?」述べた説と同じで、大阪府岸和田市にある本徳寺にある光秀の肖像画に実は生きていたことが書かれているという意味との説があるようです。

 

かおりんのアイコン画像かおりん
明智光秀は天海だとする説を丹念に繋ぎ合わせ謎を解く本とのことです。

「かごめかごめ」について筆者の所感

皆さまはどのように感じたでしょうか。

この話は、歴史にロマンを感じる方もいらっしゃると思います。

筆者もロマンあるわ~と乗るところなのかなと思いましたが、こじ付けた感じが強くてこの説はキツイなと感じています…。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 」まではそうだとしても、「鶴と亀が統べった」の解釈は、無理があるなと感じます。

「鶴」と「亀」とは、光秀が統治した「敦賀」と「亀岡」とのことで、「亀岡」は光秀の統治した地であり、裏切り者の明智光秀を慕い続けた光秀と関連の深い土地です。

ですが、福井県「敦賀」を統治してたのは初耳でしたので、調べてみましたが、統治した記録はないですし、「敦賀」に関しての光秀の記録は見当たりません。

Wikipediaの敦賀ゆかりの人物にも光秀の名前はありません…。

明智光秀は福井県にいた時期もあると云われていますが、光秀は謎の多い人物で、この辺りのことも諸説あり定かではありません。

ですが、福井県(当時は越前)にいた痕跡があり、最近新たな史料も見つかり、福井県にいたことは認められつつあるようです。

その際に光秀は、福井県坂井市丸岡にある称念寺にいたと云われているので、敦賀ではない…ですね。

その際に、「敦賀」を治めていた朝倉氏に仕えていた可能性があるので、敦賀に関してはゆかりの地の可能性があるということではないでしょうか。

 

また、「鶴」が福井県の「敦賀<つるが>」に転じ「明智神社」に繋がる説ですが、明智神社が敦賀市にあるなら意味がわかります。

「明智神社」がある福井市東大味から「敦賀市」まで49 キロあるようですし、「」⇒「敦賀<つるが>」⇒同じ福井県なだけで「明智神社」?に転じることが理解できませんでした…。

筆者が何かおかしいのか、「ロマンあるわ~」と言いたかったのに、そう思えず残念ですが、「かごめかごめ」の歌と光秀は関係ないというのが個人的な見解です。

 

また、私たちが見慣れた光秀の肖像画ですが、そもそも、本当に光秀の肖像画かハッキリしてません…。

おそらく、明智光秀の肖像画であろうという謎めいた肖像画です。

この肖像画の話は長くなるので、別の記事に書いてますので、良ければご覧くださいね。

光秀の生存説や唯一肖像画を所有している本徳寺の記事はこちらです。

明智光秀の肖像画~本徳寺の肖像画は明智光慶が描かせた!?~

 

天海とは別の光秀生存説についてです。

荒深小五郎として明智光秀は生きた!?山県市に残る【桔梗塚】

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