斎藤龍興|織田信長に抵抗し続け刀根坂の戦いで最期を迎えた生涯

斎藤龍興は、美濃の戦国大名・斎藤道三の孫で、義龍の子供だと云われています。

若くして主となった龍興は、竹中半兵衛など優秀な家臣らを束ねられず、織田信長に美濃と稲葉山城を奪われました。

お家再興を願うものの、刀根坂の戦いで最期を迎えたという説がある一方、生存説もある龍興の生涯について書いています。

目次

斎藤龍興の出自

天文17年(1548年)、斎藤龍興は、美濃の戦国大名・斎藤義龍(高政)の子として生まれました。

美濃の斎藤氏といえば、美濃のマムシとして知られる齋藤道三が有名です。

諸説ありますが、斎藤龍興は齋藤道三の孫に当たります。

斎藤龍興

斎藤龍興

斎藤龍興の生母は、ハッキリしていません。

庶子と云われていましたが、義龍の正室・近江の方という説もあります。

近江の方は、夫・義龍と1歳差の浅井久政(長政の父)の娘とする説がありますが、年齢的に養女ではないかと見なされています。

なので、浅井久政の父の娘とする説が有力ですが、そうだとすると浅井長政の叔母に当たります。

また定かではありませんが、龍興の正室も浅井久政の娘だと云われています。

いずれにせよ、斎藤家は北近江の浅井家の親戚に当たることになります。

龍興は一色姓を使っていた

現代では斎藤龍興の名前で知られていますが、当時は斎藤姓ではなく一色姓を使用していました。

龍興の父・斎藤義龍は晩年、将軍・足利義輝の許しを得て、斎藤氏から一色氏に改名しており、龍興も一色姓を名乗っていたのです。

一色氏は、清和源氏の流れを汲む足利一門です。

足利将軍家より偏諱を受けて名乗った一色義棟などが、龍興の使用した名前として知られています。

龍興は父も有力家臣も失う

永禄4年(1561年)、父・義龍が35歳の若さで急に亡くなると、龍興が家督を継ぎます。

当時の龍興は、数え年14歳という若さで、戦国時代に美濃一国を担うことになったのです。

その上、内戦の絶えなかった美濃では、森可成、明智光秀、斎藤利治(長龍)(道三の末っ子説がある)など有力家臣の流出が道三の代からありました。

 

また、祖父・斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)が織田信長に輿入れしたことで、斎藤家の隣国・尾張の織田家とは良好な関係でした。

しかし、斎藤義龍が齋藤道三(信長の舅)を討ち果たしたことで、両家は対立関係になっていたのです。

義龍が存命の頃は、織田軍の侵攻を防いだ斎藤軍ですが、龍興に代替わりすると抑えるのが困難になっていました。

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いにて今川義元を破った織田信長は、龍興が家督を継いで間もない美濃に進軍しました(森部の戦い)。

斎藤龍興は、森部の戦いに勝利するものの有力家臣を失い、翌年に病没により、また有力家臣を失ったのです。

父だけでなく有力家臣も失った義龍は、苦境に立たされていました。

優秀な国衆を束ねられない龍興

龍興は信長に対抗するため、北近江の浅井長政と同盟を結ぼうとしますが、織田信長が先に同盟を結びました。

婚姻時期については諸説ありますが、信長の妹・お市の方が浅井長政に輿入れしています。

浅井長政からも侵攻を受け、更に厳しい状況になった龍興ですが、美濃には優秀な国衆がいました。

その一人が、竹中半兵衛(はんべえ)(竹中重治)で、知略に優れた軍師です。

竹中半兵衛(竹中重治)

竹中半兵衛(竹中重治)

1563年(永禄6年)、新加納の戦いが起きますが、竹中半兵衛の戦術で織田軍に勝利しました。

しかし斎藤龍興は、評判の悪い斎藤飛騨守を寵愛し、竹中半兵衛や美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)を遠ざけるようになりました。

若い龍興に美濃の国衆をまとめることは、難しかったのでしょう。

龍興は色酒に溺れ、政務をないがしろにしたと云われています。

竹中半兵衛らによる稲葉山城の乗っ取り

家臣らは斎藤龍興に諫言しましたが、聞き入れられず、1564年(永禄7年)、竹中半兵衛と半兵衛の舅・安藤守就が挙兵し、齋藤飛騨守らを討ち取ります。

龍興の居城・稲葉山城は攻められ、龍興は稲葉山城を捨て鵜飼山城へ逃げました。

この時、織田信長は竹中半兵衛に稲葉山城を引き渡せば、美濃を半分与えると言ったそうですが、半兵衛は拒否したと云われています。

半年後に龍興に稲葉山城が返還され、龍興は美濃の国主に返り咲きますが、斎藤家の弱体化が顕著になり、龍興の家臣が相次いで離反するキッカケになりました。

 

稲葉山城が返還されたことから、竹中半兵衛らが斎藤龍興を諌め諭す為、あえての行為とも云われることがあります。

しかし、半年間攻防を行っていることから、龍興側の抵抗により返還されたとう味方が有力のようです。

龍興の居城・稲葉山城の落城

東美濃では市橋氏、高木氏、丸毛氏などが織田信長に内通し、加治田城主・佐藤忠能(ただよし)も織田の軍門に降りました。

佐藤忠能ら加治田衆は、美濃の有力な国衆で、斎藤家の弱体化を更に加速させたのです。

斎藤道三時代からの家臣で堂洞城主・岸信周(のぶちか)も織田方に説得されましたが、斎藤家に忠義を重んじ拒否し、佐藤忠能のいる加治田城を攻めました。

織田信長は、岸一族の武勇を認め、織田家家臣に取り立てたいと願っていましたが、諦めたと云われています。

信長も認めた岸信周勢は、多勢に無勢ながら佐藤忠能、織田軍に大損害を与えたのです。

しかし岸信周は、妻や弟と共に勇戦した後亡くなり、堂洞城は落城しています。

斎藤龍興は援軍を出しましたが、一日遅かったそうです。

 

関城主・長井道利は、岸信周に呼応し、裏切り者の佐藤忠能によって織田方に取り込まれた加治田城奪還を試みましたが、信周が没した為、関城に籠城しました。

しかし長井道利は、織田方の斎藤利治(長龍)に敗れ、関城は奪われたのです。

斎藤利治(長龍)は斎藤道三の末っ子説が有力視されている人物で、一方の長井道利も斎藤道三の息子説があります。

本当だとすると兄弟で争ったことになり、二人とも龍興の叔父ということになります。

この後、美濃要所である加治田城は、信長の家臣・斎藤利治(長龍)に与えられました。

斎藤道三と良好な関係を築いていた織田信長は、斎藤利治(長龍)を斎藤家の後継ぎとして取り立てたのかもしれません。

いずれにせよ、斎藤龍興は次々に城を奪われ、有力家臣らを失い、中濃地方も信長の手に落ちたのです。

 

永禄10年(1567年)、斎藤家の重臣・(西)美濃三人衆が、織田信長についに内通しました。

斎藤家の重臣を得た織田信長は、美濃へ侵攻し、焼き討ちによって稲葉山城を裸城にしています。

そして信長が挙兵した半月後に、ついに龍興の居城・稲葉山城は落城しました。

岐阜城(稲葉山城)

稲葉山城(岐阜城)

また斎藤家の知将・竹中半兵衛も斎藤家を去りました。

この時、信長は龍興の命を取りませんでしたし、出家もさせていません。

それは何故なのか不明ですが、当時としては珍しいことではないでしょうか。

 

織田信長は、美濃攻略の為に小牧山城を築城し拠点としていましたが、稲葉山城を落とすと移転しました。

織田信長(又は信長に命じられた僧侶)によって、城と町の名前が岐阜に改められ、現在では岐阜城と呼ばれています。

その後も信長に抵抗する龍興

斎藤龍興は舟で川を下り、北伊勢の長島に落ち延び、龍興を追った信長は長島を攻撃しています。

1570年(元亀元年)、伊勢長島を中心に本願寺門徒が一斉に蜂起し、長島一向一揆が起きました。

本願寺勢力と織田信長の戦いですが、斎藤龍興と家臣の長井道利も本願寺側に加わりました。

1574年(天正2年)にかけて三度に渡る戦いになりましたが、一回目の第一次長島侵攻にて斎藤龍興の名前が確認できます。

かつての龍興の重臣で、(西)美濃三人衆の内の一人である氏家直元は、第一次長島侵攻に織田方として従軍し亡くなっています。

その後、龍興は第二次長島侵攻の前に脱退した為、一回目のみの参戦になりました。

 

永禄11年(1568年)、織田信長に奉じられた足利義昭は、上洛をはたし将軍に就きました。

足利義昭の仮の御所は本圀寺でしたが、義昭を討とうとする三好三人衆に斎藤龍興が加勢して、本圀寺を襲撃する事件が起きました(本圀寺の変)。

本圀寺の門

本圀寺の門

斎藤龍興らは、なかなか陥落出来ずにいる内に、知らせを聞いた織田勢が駆け付け、敗退したのです。

 

その後も龍興は信長に抵抗を続け、元亀元年(1570年)8月に起きた野田城・福島城の戦いに参戦しています。

野田城・福島城の戦いは、三好三人衆が畿内奪還を目指して起こした信長との戦ですが、龍興は三人衆の籠城を支援しています。

兵数で優勢だった織田軍ですが、石山本願寺の顕如、顕如の要請により比叡山延暦寺の僧兵も反信長勢力に加わり、窮地に陥った織田軍は和睦することになりました。

ルイス・フロイスの評価が高い龍興

畿内に居た頃、龍興はキリスト教に興味を持ち、宣教師・ルイスフ・ロイスに話を聞いたそうです。

結局、キリシタンにはなりませんでしたが、教会に姿を現したり、キリシタンを目指した時期があるようです。

また、ルイス・フロイスは龍興のことを、「非常に有能で思慮深い」と評価しています。

現代では、父・義龍、祖父・道三に比べて、凡庸な武将と評価されることのある龍興ですが、ルイス・フロイスには違って見えたようです。

斎藤龍興の最期

その後、龍興は越前に身を寄せました。

縁戚関係であったことから、朝倉義景の客将になっていたようです。

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡

龍興は越前でも美濃奪還を目指し、織田信長に抵抗しますが、天正元年8月(1573年9月)に朝倉家が滅亡する戦が起きます(一乗谷城の戦い)。

朝倉義景は信長に攻められた同盟相手の救出に向かいましたが、勝ち目がないと考え退却したところを追撃されました(刀根坂の戦い)。

斎藤龍興は、刀根坂の戦いで朝倉家の重臣らと共に亡くなったと云われています。

享年26歳。

龍興のかつての重臣で、氏家直元の嫡男・氏家直昌(うじいえ なおまさ)に討ち取られたという説があります。

斎藤龍興の生存説

斎藤龍興には生存説がある為、刀根坂の戦いで亡くなったという説は、疑問視されています。

永禄12年(1569年)、越中の興国寺(富山市)に、家宝系図を持った斎藤龍興が入寺したという伝説が残されているそうです。

斎藤家(一色家)再興を諦めた龍興は、九右ェ門と名前を変えて、この地に住み着き、野原を開拓したと云われています。

慶長16年(1611年)に子に家督を譲って出家し、寛永9年(1632年)まで生きたそうです。

この龍興生存説を信じるならば享年87歳。

 

他にも生存説があり、戦に敗れ落ち延びた龍興は、信長の宿敵となっていた石山本願寺に逃れたと云います。

お家再興を願った龍興でしたが、病没したそうです。

没した地は岐阜県羽島市であり、龍興のお墓が残され、龍興の父と子の位牌も伝えられています。

参考・引用・出典一覧

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