明智光秀といえば、戦国時代の武将で織田信長を本能寺の変で自害に追い込んだ人物として有名です。

本能寺の変はあまりにも有名ですが、光秀がどんな人かというと、詳細は知らないという方も多いのではないでしょうか。

本能寺の変のインパクトから裏切り者として悪いイメージが強い方も多いと思いますが、光秀は妻想いだったことや、光秀が治めていた地域では今も慕われていたり、光秀は一体どんな人だったのかわからなくなります。

今回は光秀はどんな人だったのか略歴などをまとめみました。

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光秀の基本データ

明知光秀の肖像画

明智光秀

・生年月日:1528年3月10日とする説が多いものの不明

・父:明智 光綱(あけち みつつな)とする説が多いものの不明

・氏族:諸説あるものの源姓土岐氏流明智氏

分かりやすくいうと、源氏の流れを汲む土岐(とき)氏の庶流である明智家の嫡男

・出生地:岐阜県可児市広見(かにしひろみ)瀬田(せた)が有力とされていますが諸説あり不明

・没年:天正10年6月13日(1582年7月2日)※異説あり

光秀が織田信長に仕えて少し経ってからは、史料に名前が散見するそうですが、上に記したように不明点が多い武将であります。

(※この光秀の生年、父、氏族、出生地についての詳細は別で記事にしています。

この記事の最期の方から、興味のある箇所の詳細をご覧いただけるようになっています。)

歴史は勝者によってつくられるというように、負けた側の光秀の史料は乏しく実像は謎に包まれており、特に前半生についての通説は史料価値は低いとされる二次、三次史料を参考にしたとされており、どこまで正しいのかわかりませんが、光秀がどんな人か現在の通説を簡単に記します。

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光秀はどんな人生か簡単に記す

光秀の父は美濃(みの)の斎藤道三(さいとう どうさん)に仕えたとされており、光秀もこれに従っていたものと推測されています。

齋藤道三の肖像画

齋藤道三

しかし、道三は息子の齋藤義龍(さいとう よしたつ)と争い敗北します。

道三側についていた光秀は、義龍に明智城を攻められ落城し、一族は離散することになります。

定かではありませんが、父も討死したと伝わります。

 

その後、光秀は浪人し、その際に鉄砲の技術や、和歌といった教養を身に着けたとも云われています。

そして10年間、越前国(えちぜんのくに)(福井県)の朝倉義景(あさくら よしかげ)に仕えたとも云われていますが定かではありません。

ただ、光秀が越前国にいたのは、事実のようで光秀の書状が残っているようです。

後に室町幕府第15代将軍となる足利義昭(あしかが よしあき)は、幕府の再興を願い朝倉義景のもとへ身を寄せ上洛の機会を待つことになり、この時に光秀は義昭との接触もあったと推察されています。

しかし、義景は積極的に上洛をする様子はないため、明智光秀の仲介により義昭は織田信長を頼ることになったとされています。

織田信長らの助けにより義昭は将軍に就任し、その後光秀は当時としても異例だったようですが、義昭と信長の両方の家臣になったそうですが、やがて義昭とは決別し信長だけの家臣になります。

足利義昭の像

足利義昭

光秀は信長の下で数々の戦に従事し手柄をあげます。

以前の主君であった朝倉義景の討伐戦・金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)に参加し、秀吉と共に殿を務めて帰還に成功したり、信長の残虐さが伝わる比叡山焼き討ちでは、中心的な実行者となります。

こうして功績を重ね1575年に、朝廷より惟任(これとう)の姓を賜り、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)となります。

※織田信長が朝廷に働きかけて授かった光秀の肩書名のようなものです。

その後も従軍し、難易度の高い丹波国の平定も成し遂げて、この頃、柴田勝家(しばた かついえ)、羽柴秀吉(はしば ひでよし)らと並ぶ重臣としての地位を確立したとされています。

しかし、秀吉の毛利攻めの援軍に出陣した光秀は、途中で家臣に信長を成敗する意思を伝えて京都へ向かい本能寺の変を起こします。

その後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠( のぶただ)も自害に追い込みますが、わずか11か12日後に、山崎の合戦で秀吉に敗れて敗走中に落ち武者狩りにあい自害したとされます。

(※生き延びていたという異説もあります。)

明智光秀の天下は11日ないし12日間だったとされており、「三日天下<みっかてんか>」と呼ばれるようになります。

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光秀がどんな人だったの垣間見える話

光秀はどんな人生だったか見てみましたが、信長に見いだされて重臣にまで昇進したのに、何故か本能寺の変を起こした最後まで謎だらけの人物という感じではないでしょうか。

また、こうした謀反人のイメージとは違う面も伝わっています。

 

光秀の優しさが伝わる煕子(ひろこ)との話は有名ではないでしょうか。

煕子は光秀と婚約時代に疱瘡(ほうそう)にかかり、顔に痘痕(あばた)が残ってしまったといいます。

結婚を辞退しようとした煕子に、「大切なのは美しい心」だといい結婚し、夫婦睦まじく暮らしたと伝わります。

詳細はこちらの記事に書いています。

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明智光秀の妻・妻木 煕子(ひろこ)

 

また光秀の領民想いな面も伝わっています。

光秀は丹波国(たんばのくに)を治めていましたが、領民を苦しめていた川の氾濫を抑える治水工事をしたり、地子銭(土地税・住宅税に相当)を免除するなど領民想いの善政を敷いたこと伝わります。

丹波の地では現在も慕われ、明智光秀を祀った神社もあります。

光秀と丹波の国についてはこちらにまとめています。

👇

明智光秀が丹波の地で慕われる理由

 

以前の裏切り者光秀から、妻や領民想いな上、教養のある智将でもあるとされ、光秀がどんな人であったのか近年変りつつあります。

 

明智光秀の生年

 

明智光秀の出生地と光秀の母について

 

明智光秀の父~明智家と齋藤道三~

 

明智光秀と土岐氏~「ときは今~」の連歌に込められた想いとは~

 

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参考・引用・出典一覧

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