明智光忠(あけち みつただ)は、一説には明智光秀の従兄弟であると云われています。
そして明智光秀の重臣でもあり、光秀が丹波を平定した際に、明智光忠は八上城を任されています。
明智光忠は光秀の信頼厚い人物であったようで、本能寺の変を起こす前に事前に打ち明けられた人物の一人であると云われています。
この記事では、明智光忠とはどのような人物であったのかを書いています。
明智光忠の出自と光秀の関係
明智光忠が生まれた年は、天文9年(1540年)で、通称は次右衛門、父は明智光久だと云われています。
光忠の名前で知られていますが、実は「光忠」である確かな史料はないそうです。
また、本姓は高山だとする説もあります。
光秀の出身地候補の一つは美濃ですが、美濃の土岐郡には高山という地名があります。
明智光秀は土岐氏の分家とする説が有力視されていますが、美濃の土岐郡は土岐氏発祥の地と云われており、美濃国は土岐氏が200年治めた土地でもあります。
土岐氏の分家に土岐高山氏がいたそうで、もしかしたら、光忠と何か関係あるのかもしれません。
ただ、今のところ、明智光忠と土岐高山氏を関連づける史料はありません。
ですが、明智光秀の一族説のある人物が、高山氏というのは興味深い話だと思います。
出自のハッキリしない明智光忠ですが、美濃出身である可能性は高いのではないかと云われています。
先ほど述べましたが、一番有力視されている光忠の父は、明智光久です。
明智光久について詳しいことは不明ですが、一説には明智光秀の叔父であるとされており、光秀の父であると云われる明智光綱の弟に当たるようです。
これが本当の話であれば、明智光忠は光秀の従兄弟になります。

ただ、明智家の家系図は複数あり、全てが一致しているわけではありません。
光秀の父すら定かではなく、明智光忠と本当に従兄弟かは定かではありませんが、従兄弟とする説を参考に語られることが多いようです。
従兄弟説が合っているとして書きますと、光忠が若い頃の明智家の主君は、美濃のマムシこと斎藤道三でした。
ですが、道三は嫡男の斎藤義龍(高政)と対立して攻め滅ぼされてしまい、道三に見方した明智家も義龍軍の襲撃に遭います。
そして明智家の居城・明智城は攻め落とされることになります。

弘治2年(1556年)、明智城と共に光忠の父・光久は亡くなったそうです。
この時の光忠についての詳細は不明ですが、光秀と秀満(左馬之助)は、明智家再興を託され落ち延びたと云われています。
同じく従兄弟の光忠も、一緒に落ち延びたのかもしれません。
光秀の父・明智光綱(長男)
秀満の父・明智光安(三男?)
光忠の父・明智光久(四男?)
諸説ありますが、光忠は光秀の他に、秀満も従兄弟だと云われています。
また、仮に光秀らと従兄弟でないとしても、明智光忠の正室は、明智光秀の次女であると伝わるため、明智一族衆であるとこは間違えなさそうです。
明智光忠、八上城に入城する
明智光忠は光秀の重臣の一人でもあります。
ですが、光秀を主役に江戸時代描かれた軍記物である『明智軍記』以外に光忠の詳細は伝わっていないようです。
『明智軍記』は創作の多い物で、信頼のできる光忠の史料は少なく、謎の多い人物とされています。
光忠の主君・光秀に従い行動を共にしていたと推測でき、光秀の足跡から辿ってみます。
明智城落城後は越前に身を置き、その後、光秀が足利義昭、織田信長に主従すると、光忠も従ったものと思われます。
1575年に光秀は、信長から丹波平定を命じられます。
その丹波平定の拠点として亀山城が築かれますが、天正5年(1577年)に光秀の命令で、光忠は亀山城に留守番として入城したと云われています。
丹波国平定は、波多野秀治、赤井直正ら、有力国衆がいて苦戦を強いられましたが、天正7年(1579年)に八上城を落とし、やっとの思いで丹波を攻略、明智方は勝利を治めます。
その攻め落とした八上城に、光忠を城代として入城させています。
また、丹波平定後に周山城に入れられたとも云われていて、光忠は周山城主だったのかもしれません。

光忠の他に、明智秀満(明智左馬之助)、斎藤利三といった光秀の重臣も丹波国にあった城に入城しています。
光忠と同様に光秀の信頼厚い、腹心と云われている重臣です。
一方の光秀は、亀山城を拠点に領土となった丹波経営を行います。
また本能寺の変の際、光秀はこの亀山城から出発したと云われています。
明智光忠と本能寺の変
天正10年6月1日(1582年6月20日)、本能寺の変は目前に迫っていました。
その頃の光秀は、徳川家康の接待役をしていましたが役目を解かれ、ライバルである羽柴秀吉(豊臣秀吉)の援軍を命じられていました。
そして、明智家が懇意にしていた長宗我部氏を制圧する軍勢は、明日、四国を目指し出発するという状況でした。
光秀がいつ謀反を決めたか定かではありませんが、家臣には秀吉の中国征伐の援軍に向かうと伝えていたとも云われています。
しかし実際は、本能寺に向かうことになります。
信長の家臣が書いた『信長公記』という記録によると、光秀軍は出発し少し移動した後、明智光忠(次右衛門)、明智秀満(明智左馬之助)、藤田伝五(行政)、斎藤利三の4名を集め謀反の意向を初めて伝えたそうです。
光忠は事前に相談される位、光秀に信頼されていたようです。
光忠がどう思ったのかは不明ですが、当然、驚いたと思います。
また光忠の本心は違ったかもしれませんが、主君・光秀が決めた以上、決行するしかなかったかもしれません。
光秀と重臣達、5人で作戦会議を行ったようです。
また『当代記』によれば、光忠ら4名と溝尾茂朝(みぞお しげとも)を入れた5名に打ち明けたと記されており、起請文を書かせ人質を取ったそうです。
ただ『当代記』という史料は、信憑性は不確かなものだそうです。
人質を取る時間があったのだろうかと疑問にも思いますが。
また重臣以外の家臣は、信長を討つとは知らなかったと云われています。
多くの家臣は、まさか信長を襲うとは、思ってもみなかったのではないでしょうか。
明智軍は、京都の老ノ坂峠を越えた辺りで休憩と食事を取り、その頃に本能寺の変当日の日付である天正10年6月2日(1582年6月21日)になったそうです。
ついに本能寺の変が起きるのですが、光忠の行動は定かではありません。

一説では光忠は、第二陣4000を率いたとも云われています。
また『惟任退治記』によると、光忠は本能寺を攻めていたそうです。
惟任(これとう)とは光秀のことで、光秀退治の記録という意味の書物です。
羽柴秀吉側が書いたもので、秀吉の宣伝を兼ねているような記録ですので、どこまで本当かなという感じですが。
一方、『野史』には信長の嫡男・織田信忠がいた二条新御所を攻め、重傷を負ったと書かれています。
そして京都にある知恩院で療養している為、約2週間後に光秀が秀吉に敗れ亡くなったことを知ったそうです。
明智家の運命のかかった山崎の戦いに光忠は、出陣出来なかったと伝わります。
その後、光忠は光秀の居城であった坂本城に行きます。
明智家の運命を悟り、最期の時を迎えにいったものと思われます。
そして、明智秀満(左馬之助)が守る坂本城は落城し、明智一族と一緒に光忠も自害したそうです。
『兼見卿記』によると、坂本城に火を放ったのは光忠だと伝えます。
光忠の享年は43歳。
光忠は出家していたようで、長閒斎(ちょうけんさい)と号したと云われています。
出家時期は不明ですが、もしかしたら生き延びて出家したのでしょうか。
このように明智光忠は、明智家の一族で光秀の重臣でありながら、その生涯のほとんどは謎に包まれています。
信頼のできる明智家の史料自体が少ないので仕方がないですが。
今後の研究に期待したいですね。
明智光忠のエピソード
明智光秀が福知山にて、父の法要を行った時のことです。
光秀、秀満、光忠の順番で焼香をすることになり、光忠の番になると、離れた屏風に隠れて脇差を外しました。
そして、這いつくばって焼香をしたと云われています。
これは身分が低い者がする行いとのことですが、列席者は光忠を見て笑いました。
光秀の父は、明智光忠を農民から足軽にまで取りてててくれた人。
その後、光忠は功績を重ね、光秀の家老にまで上り詰めた苦労人だそうです。
光秀は初心を忘れず、父を弔った光忠は武士の鑑であると言い、一同を叱ったそうです。
この話の真偽は不明です。
ただ、光忠が農民出身だとしたら、明智家の出自ではないのかなと思いました。
また、細川忠興の側室・小也は、明智光忠の娘との説があります。
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