明智光忠~明智家重臣として八上城を任され、本能寺の変で戦った~

2020 2/07

明智光忠(あけち みつただ)は、一説には明智光秀の従兄弟であると云われています。

そして明智光秀の重臣でもあり、光秀が丹波を平定した際に、明智光忠は八上城を任されています。

明智光忠は光秀の信頼厚い人物であったようで、本能寺の変を起こす前に事前に打ち明けられた人物の一人であると云われています。

この記事では、明智光忠とはどのような人物であったのかを書いています。

 

目次

明智光忠の出自と光秀の関係

明智光忠が生まれた年は、天文9年(1540年)で、通称は次右衛門、父は明智光久だと云われています。

光忠の名前で知られていますが、実は「光忠」である確かな史料はないそうです。

また、本姓は高山だと伝わります。

光秀の出身地候補の一つは美濃ですが、美濃の土岐郡には高山という地名があります。

明智光秀は土岐氏の分家とする説が有力視されていますが、美濃の土岐郡は土岐氏は土岐氏発祥の地と云われており、美濃国は土岐氏が200年治めた土地でもあります。

土岐氏の分家に土岐高山氏がいたそうで、明智光忠の出身が土岐高山氏とする史料はありませんが、明智光秀の一族説のある人物が高山氏というのは興味深い話だと思います。

また明智光忠の出身は、美濃である可能性は高いのではないかとする説もあります。

 

光忠の父・明智光久について詳しいことは不明ですが、一説には明智光秀の叔父であるとされており、光秀の父であると云われる明智光綱(あけち みつつな)の弟に当たるようです。

なので、明智光忠は光秀の従兄弟になります。

ただ、明智家の家系図は複数あり、全てが一致しているわけではありません。

光秀の父すら定かではなく、明智光忠と本当に従兄弟かは定かではありませんが、従兄弟とする説を参考に語られることがあります。

 

光忠が若い頃の明智家の主君は、美濃のマムシこと斎藤道三でした。

ですが、道三は嫡男の斎藤義龍と対立して攻め滅ぼされてしまい、道三に見方した明智家も義龍軍の襲撃に遭います。

そして明智家の居城・明智城は攻め落とされることになります。

画像明智城本丸跡の碑石

明智城本丸の碑石

弘治2年(1556年)、明智城と共に光忠の父・光久は亡くなったそうです。

この時の光忠についての詳細は不明ですが、光秀、光秀の従兄弟・秀満(左馬之助)は明智家再興を託され落ち延びています。

同じく従兄弟の光忠も、一緒に落ち延びたのかもしれません。

明智光忠、八上城に入城する

明智光忠は光秀の重臣の一人と云われています。

ですが、光秀を主役に江戸時代描かれた軍記物である『明智軍記』以外に光忠の詳細は伝わっていないようです。

信頼のできる光忠の史料は少なく、謎の多い人物とされています。

光忠の主君・光秀に従い行動を共にしていたと推測でき、光秀の足跡から辿ると、1575年に光秀は信長から丹波平定を命じられます。

明智光秀の肖像画

明智光秀

その丹波平定の拠点として亀山城が築かれますが、天正5年(1577年)に光秀の命令で、光忠は亀山城に留守番として入城したと云われています。

その後、天正7年(1579年)に八上城を落とし、やっとの思いで丹波を攻略、明智方は勝利を治めます。

その攻め落とした八上城に光忠を城代として入城させたそうです。

光忠の他に、明智秀満(明智左馬之助)、斎藤 利三(さいとう としみつ)といった光秀の重臣も丹波国にあった城に入城させています。

光忠と同様に光秀の信頼厚い、腹心と云われている重臣です。

一方の光秀は、亀山城を拠点に領土となった丹波経営を行います。

また本能寺の変の際、光秀はこの亀山城から出発したそうです。

明智光忠と本能寺の変

天正10年6月1日(1582年6月20日)、本能寺の変は目前に迫っていました。

その頃の光秀は、徳川家康の接待役をしていましたが役目を解かれ、ライバルである羽柴秀吉の援軍を命じられていました。

そして、懇意にしていた長宗我部氏を制圧する軍勢は、明日、四国を目指し出発するという状況でした。

光秀がいつ謀反を決めたか定かではありませんが、家臣には秀吉の中国征伐の援軍に向かうと伝えたそうです。

しかし実際は、本能寺に向かうことになります。

信長の家臣が書いた『信長公記』という記録によると、光秀軍は出発し少し移動した後、明智光忠(次右衛門)、明智秀満(明智左馬之助)、藤田伝五(行政)、斎藤利三の4名を集め謀反の意向を初めて伝えたそうです。

光忠は事前に相談される位、光秀に信頼されていたようです。

光忠がどう思ったのかは不明ですが、当然、驚いたと思います。

また光忠の本心は違ったかもしれませんが、主君・光秀が決めた以上、決行するしかなかったかもしれません。

5人で作戦会議を行ったようです。

 

また『当代記』によれば、光忠ら4名と溝尾茂朝(みぞお しげとも)を入れた5名に打ち明けたと記されており、起請文を書かせ人質を取ったそうです。

ただ『当代記』という史料は、信憑性は不確かなものだそうです。

人質を取る時間があったのだろうかと疑問にも思いますが。

また重臣以外の家臣は、信長を討つとは知らなかったと云われています。

多くの家臣は、まさか信長を襲うとは、思ってもみなかったのではないでしょうか。

 

明智軍は、京都の老ノ坂峠を越えた辺りで休憩と食事を取ったそうですが、その頃に本能寺の変当日の日付である天正10年6月2日(1582年6月21日)になったそうです。

ついに本能寺の変が起きるのですが、光忠の行動は定かではありません。

『本能寺焼討之図』(楊斎延一作)

本能寺の変を描いた『本能寺焼討之図』

一説では光忠は、第二陣4000を率いたとも云われています。

また『惟任退治記』によると、光忠は本能寺を攻めていたそうです。

惟任(これとう)とは光秀のことで、光秀退治の記録という意味の書物です。

羽柴秀吉側が書いたもので、秀吉の宣伝を兼ねているような記録ですので、どこまで本当かなという感じです。

一方、『野史』には信長の嫡男・織田信忠がいた二条新御所を攻め、重傷を負ったと書かれているそうですが、真偽は不明です。

そして京都にある知恩院で療養し、2週間後に光秀が秀吉に敗れ亡くなったことを知ったそうです。

その後、光秀の居城であった坂本城に行ったそうですが、坂本城は落城し、秀満(左馬之助)ら、明智一族と一緒に自害したそうです。

光忠の享年は43歳であったそうです。

 

このように明智光忠は、明智家の一族で光秀の重臣でありながら、その生涯のほとんどは謎に包まれています。

信頼のできる明智家の史料自体が少ないので仕方がないですが。

今後の研究に期待したいですね。

 

 

明智家の居城・明智城に行った記事です。

可児市の明智城跡

 

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