明智光秀は、丹波国(たんばのくに)で慕われ、丹波国天田郡(京都府福知山市)には明智光秀を祀った神社もあります。

明智光秀といえば、本能寺の変を起こした謀反人として、あまり良くないイメージを持っている人もいると思いますが、丹波国の領民から慕われた名君としても知られています。

何故、丹波の領民に今もなお慕われているのか、光秀と丹波国についての記事です。

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丹波国においての光秀の功績・「福知山城」の築城

丹波国とは、現代で言うところの京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部辺りの内陸部にまたがる地域で山陰道(さんいんどう)に属する地域です。

光秀が丹波を治めたのは約二年半であると言われていますが、善政を敷いたことから民に慕われています

光秀の丹波国での功績を紹介させていただきます。

 

1579年頃に光秀は、信長の命令であった丹波国の平定を成功させています。

信長も難しいと認めていた丹波国の平定を成し遂げ、信長から「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候」と称賛され、丹波一国(約29万石)を恩賞として与えられ合計34万石を領する大名となります。

※日向守(ひゅうがのかみ)とは光秀のことです。

大出世をした光秀ですが、丹波国は約4年にわたって続いた戦乱で荒れ果てており、光秀は復興に尽力し領民の信頼を得て慕われることになったようです。

まず光秀は領民の統治を行うため、丹波経営の拠点を亀山城(かめやまじょう)とし、丹波国に支城をつくり重臣を入れて支城領支配を目指します。

当時、丹波国天田郡(京都府福知山市)にあった横山城を改修して「福知山城」と名付けて娘婿と伝わる明智秀満(ひでみつ)を入れ、丹波黒井城(くろいじょう)には斎藤 利三(さいとう としみつ)、八上城(やかみじょう)には明智光忠(みつただ)自らの重臣を置いて丹波国を統治します。

福知山城

福知山城

 

現代の福知山城の縄張りは光秀が作ったものと言われており、光秀は福知山城の城郭(じょうかく)の整備をした功績があると伝わります。

明治時代になった1873年、福知山城は廃城令により石垣と一部の遺構以外は壊されましたが、1986年に再建に向けての会がつくられ、市民の瓦一枚運動などにより天守閣が復元され、初期天守閣の特徴がよく現れたものとして生まれ変わりました。

現在は福知山城公園として整備され観光客で賑わい、光秀直筆の書状などゆかりの品々を観ることができます。

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福知山城(郷土資料館)の休業日・料金・アクセス

開館:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休業:火(祝日の場合は次の平日)、年末、年始
料金:大人320円、子供(小・中学生)100円

住所:京都府 福知山市 字内記5
電話番号:0773-23-9564

JR「福知山駅」から徒歩で15分
JR福知山駅から京都交通バスで5分

 

 

丹波国においての光秀の功績・治水工事と地子銭の免除

光秀が慕われた大きな理由に、治水工事、地子銭の免除、経済発展に貢献するなど民の生活を豊かにしたことがあると思います。

明知光秀の肖像画

明智光秀

まず治水工事についてですが、かつて福知山城近辺を流れている由良川(ゆらがわ)と土師川(はぜがわ)が合流する地点で、度々反乱し領民を苦しめていたそうですが、由良川の流れを変え氾濫を抑える治水工事をしたとされています。

その際堤防を造り、衝撃を和らげるため川岸に竹を植えたそうですが、それが現在も「明智藪(光秀堤)」として残っています。

※治水工事の件は、伝承であるとされていますが、国土交通省のホームページでも光秀が氾濫を抑える治水工事をしたと記載されています。

 

また、領民を思い地子銭(土地税・住宅税に相当)を免除する特権を与えるなど善政を敷いたことで慕われたとも伝わります。

そして光秀の死後、光秀の功績を称えて明智光秀を祀った「御霊神社」が京都府福知山市に建築され、領民には「御霊(ごりょう)さま」として現在も慕われています。

神社の境内には光秀の家紋である桔梗紋が見られ、光秀についての木碑や石碑があり、小さいながらに地元では親しまれている神社とのことです。

 

また、楽市楽座を設けるなど経済発展に力を入れ福知山の発展に貢献したそうです。

福知山市観光協会の福知山城パンフレットによると、光秀は三丹一と呼ばれる商業の町の礎を作った功績があると記載されています。

 

 

御霊神社のアクセスなど

拝観料:無料

住所:京都府福知山市西中ノ町238
電話番号:0773-22-2255

JR「福知山駅」から徒歩10分
駐車場:有 ※無料(6台)

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光秀の軍法「家中軍法」

その他、光秀の政治として伝わっていることを記します。

また御霊神社には、明智光秀が制定したとされる「家中軍法」という光秀の軍法が伝わります。

順守すべき規律や軍役のについての規定を記した全18条からなる軍法であり、光秀の軍法を見習って他の武将も作り始めたと云われています。

この後書きには織田信長に対する感謝と敬意が伝わる文章が残されており、「瓦礫沈淪(がれきちんりん)の輩(やから)を召し出され、あまつさえ莫大(ばくた)の御人数を預け下さる」と記してあるそうです。

石ころのように落ちぶれていたところを(信長様)に召し出され、そのうえ莫大な兵をお預け頂いた」という意味になるそうです。

この軍法を制定したのは「天正九年六月二日」であり、本能寺の変の丁度一年前です。

信長に対してこんなにも感謝しているのに、この一年で何があったのでしょうか…。

また、この軍法の文章は光秀らしくないそうで、本当に光秀が書いたのか疑問視する声もあります。

この「瓦礫沈淪(がれきちんりん)の輩~」の言葉は、光秀が自身の人生を語った言葉として有名ですが、もしかしたら光秀の言葉でない可能性があるようです。

ですが花押(かおう)もあり形も問題ないとのことで、本能寺の変の丁度一年前に書かれた奇妙な点はあるものの、光秀の文書として扱われているそうです。

 

光秀についての史料はあまり残されていません。

きっともっと、領民に慕われる所以となった出来事があったのではないかと思いますが、戦国の世の敗者の記録は少ないことが多く光秀についても謎だらけです。

 

光秀の検地やその他の政策

そのような中、福知山市の威光寺が所蔵する文書の中に、江戸時代に書かれたものですが、光秀の検地についての記録が残っています。

「光秀は、検地を行い、千石を一村として一人の名主を置き、万石に一人の代官を置くようにした」

「年貢以外の雑税を賦課しない」

旨が書かれているそうです。

 

※検地を行うことで、その土地の農業生産高を把握でき、それに基づく課税の整備ができます。

とても丁寧に仕事をこなし、几帳面そうな性格でるあるのかなと思います。

先に述べたように江戸時代に書かれたものなので、信憑性に疑問が残りますが、細川家の記録である『細川家記』、公家の日記である『兼見卿記<かねみきょうき>』に光秀が細川幽斎と協力して検地を行っていた旨の記載があるそうで、丹波国においても検地が行われたのは確かなことであるとされています。

 

また、同じく江戸時代に書かれたもので信憑性に疑問が残りますが、丹波平定前の1575年、織田領となった地域に年貢米未進などを破棄する徳政令(とくせいれい)(債務免除)を出し民心を掴んだとされています。

丹波国の地子銭の話を真似た創作の可能性がありますが、光秀が民想いの領主であった顕(あらわ)れなのかもしれません。

 

光秀と福知山音頭

光秀の善政により人々の記憶に光秀は刻まれ、江戸時代に出来た「福知山音頭」という盆踊りの曲にも「明智光秀丹波を拡(ひろ)め、ひろめ丹波の福知山」という歌詞があり、今も謡われています。

この曲にある「ドッコイセ~、ドッコイセ~」という歌詞は、福知山城の築城の際に石垣を運ぶ時に掛けていた声に由来すると言われているそうです。

このように謡われ、神として祀られ、丹波では光秀のお祭りも毎年行われ、現在も慕われています。

 

謀反人としてのイメージが強い光秀には意外かもしれませんが、愛妻家としても知られています。

妻・熙子(ひろこ)と光秀の記事はこちらです。

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明智光秀の妻・妻木 煕子(ひろこ)

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参考・引用・出典一覧

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