十兵衛と呼ばれる明智光秀の略歴を簡単に説明します

明智光秀は大河ドラマの中で「十兵衛」と呼ばれています。

この記事では「十兵衛」とは何か、また明智光秀とはどのような人物か簡単に略歴を説明します。

謎の多い光秀、諸説あることが多く、その生涯は分かりずらいですが、出来るだけ簡単に書いています。

目次

十兵衛とは何か!?

まず「十兵衛」(じゅうべえ)とは何か書かせていただきます。

明智光秀の略歴を知りたい場合は、次の見出しに進んでください。

明智光秀の大河ドラマで、光秀は十兵衛(じゅうべえ)と呼ばれています。

十兵衛は、光秀の通称です。

それでは、明智光秀は何かというと、明智は名字、光秀は諱(いみな)(実名)です。

 

明智光秀の肖像画

明智光秀(十兵衛)

 

諱の光秀は現在では馴染みのある名前ですが、諱は死者に贈る名前であるとして、光秀が存命当時、通常は通称の「十兵衛」の名前で呼ばれていました。

(※親や主君であれば諱で呼ぶことはあったそうです。)

戦国武将は、沢山の名前があってややこしいですね。

光秀の場合も同様で、元服するまでは幼名の彦太郎(ひこたろう)でした。

天正3年に朝廷より「惟任」(これとう)と「日向守」(ひゅうがのかみ)という官位を賜ってからは、光秀の正式な名乗りは、惟任日向守光秀になります。

光秀はこの肩書から、「惟任」(これとう)殿とも呼ばれていたようです。

明智光秀を簡単に説明

それでは、明智光秀はどのような人物か簡単に書かせていただきます。

享禄元年(1528年)、明智光秀は、美濃の明智城主・明智光綱(あけちみつつな)の子として生まれます。

しかし、光秀が幼い頃に父が亡くなったため、叔父・明智光安が明智家を支えたそうです。

弘治2年(1556年)、明智家の主君・斎藤道三(さいとう どうさん)と道三の子・斎藤義龍との間で争いが起きます(長良川の戦い)。

この戦により、道三は亡くなり、道三に味方した明智家も攻められ、明智城は落城します。

明智一族は亡くなったり離散したとされています。

美濃を追われた光秀は、諸国を遍歴した後、越前・朝倉義景に仕えたと云われています。

(※朝倉家に身を寄せていただけかもしれませんが、ハッキリしていません。)

また、朝倉義景の元に足利義昭(あしかが よしあき)が身を寄せていた時期でもあるので、光秀とも面識があったようです。

足利義昭は、権威の失墜した室町幕府の再興を目指しており、将軍に就任すべく上洛を願っていました。

明智光秀は、足利義昭と織田信長の会見を仲介し、信長は義昭を擁して上洛を果たします。

織田信長の肖像画

織田信長

足利義昭の上洛には、光秀も加わっており、この時光秀は、義昭と信長、両方の家臣であったそうです。

元亀元年(1570年)、以前の主君・朝倉家との戦である金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)には、信長方として出陣し、比叡山の焼き討ちにも従軍します。

こうした功績により、近江・坂本城主になります。

その後、織田信長と足利義昭は対立しますが、その頃には光秀は両方の家臣ではなく信長だけの家臣になりました。

そして、信長と義昭の間で起きた戦に信長方として参戦し、信長方が勝利し、室町幕府は事実上滅亡します。

天正7年(1579年)、光秀は丹後国平定という偉業を成し遂げたことで、加増されて34万石を所領し、柴田勝家、羽柴秀吉ら信長の家臣の中でも織田家随一の重臣としての地位を確立します。

しかし天正10年(1582年)、本能寺の変にて信長と嫡男・織田信忠を自刃に追い込みます。

本能寺の変動機は定かではありませんが、織田家家中で織田家一族が重用されるようになり、光秀が危機感を抱いたとも、縁の深かった長宗我部元親が征伐されるのを防ぐためとも複数の説があります。

その後、本能寺の変からわずか11日後に山崎の戦いで秀吉に敗れ、敗走中に自刃して果てます。

享年55歳。

明智光秀の略歴を補足

明智光秀を簡単に説明しましたが、特に、織田信長に出会う前の明智光秀の足取りは謎が多いです。

実は、生年、出生地、親が誰かすら諸説ある状態ですが、有力視されている説を記しました。

ですので、簡単に補足させていただき、気になる箇所があれば、詳しく書いた記事がありますので、クリックしてご覧ください。

簡単な略歴だけで良いという方は、ここまでで良いと思います。

 

光秀の父について諸説あり、中には明智家の生まれではないとする説もあります。

一番有力なのは、明智光綱(みつつな)父説がで、母は明智牧(まき)です。

明智光綱の嫡男だとすれば、光秀は名門・土岐氏の庶流・明智家の出自です。

出身地地は、岐阜県(美濃)可児市恵那市山県市中洞滋賀県犬上郡多賀町大字佐目など5か所以上も候補地が挙がっています。

また光秀の生年も不明です。

若い頃、斎藤家の内戦に巻き込まれ、明智城は落城しますが光秀は明智家の再興を目指し逃げ延びます。

一家離散と云われていますが、従兄弟説のある明智左馬之助(明智秀満)は、光秀と行動を共にしていたと伝わります。

その後、朝倉義景の家臣になったとする説は、疑問視されていました。

しかし、最近新たな史料が発見され、越前・朝倉義景の家臣説は真実味帯びてきました。

朝倉義景の肖像画

朝倉義景

また、その新たな史料によると、光秀が越前にいた頃に医者をしていたと考えられる記述があり、美濃を追われ牢人(浪人)時代に牢人医師をしていたのではないかとする説もあります。

生活費の足しにしていたそうですが、越前にいた頃は貧しく、お金に苦労した話は妻・煕子(ひろこ)の逸話からも伝わっています。

越前では朝倉義景の家臣(又は身を寄せていた)だったようですが、後に義景の元を離れます。

一説には、足利義昭を擁して上洛をしない朝倉義景に愛想をつかしたとも云われています。

その後、足利義昭と織田信長両方の家臣になり、後に織田信長だけの家臣になったそうです。

足利義昭とも関わりのあった光秀ですが、本能寺の変の動機は義昭を天下人に据えるためとする説もあります。

足利義昭

足利義昭

信長と出会った頃から光秀の足取りが見えてくる史料がありますので、現在の通説は史実に近いものかもしれません。

しかし、光秀を引き立ててくれた信長を討った本能寺の変については謎だらけです。

怨恨説など動機は様々囁かれていますが、動機は一つでなく、複合的なものであったのではないかと推測しています。

その中でも四国説は、本能寺の変の一因に思っています。

また、裏切り者のイメージのある光秀ですが、丹波国など光秀が治めた地では、現在も慕われており、善政を敷いた良心的な光秀像が思い浮かびます。

光秀の最期は、秀吉に敗れ坂本城で落ち延びる途中です。

土民(農民)によって落ち武者狩りに遭ったそうですが、光秀終焉の地である「小栗栖」(おぐりす/おぐるす)の伝承によると、地元の武士集団に襲撃されたそうです。

通説の農民の竹槍によって重症を負ったとする説には違和感がありました。

光秀ほどの武将を武装した農民が、しかも槍でですよ…。

 

光秀亡き後、明智秀満(明智左馬助)、明智光忠(あけち みつただ)、溝尾茂朝(みぞお しげとも)、藤田伝五(行政)斎藤利三など重臣達も自害したり、捕まったりし果ててしまいます。

 

光秀は敗軍の将ですので、信頼のできる史料が少ない人物ですが、大河ドラマの効果でしょうか、少し研究が進みましたね。

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