明智光秀の年齢は、織田信長よりも上なイメージがあるのではないでしょうか。
明智光秀と織田信長の年齢差は、光秀の生まれた年が定かではない為、実際のところは不明です。
諸説ある光秀の生まれた年から、信長との年齢差の候補を探ります。
また記事の下に豊臣秀吉、徳川家康との年齢差も書いています。
光秀が信長より6歳上の年齢差説
織田信長の生まれた月日は諸説あるものの、いずれにせよ、天文3年(1534年)生まれと云われています。
一方の明智光秀の生まれた年は、複数の候補があり定まっていません。
よく云われるのは、『明智軍記』などを根拠にした説です。

『明智軍記』には、光秀の享年は55歳だったとあり、そこから光秀は享禄元年(1528年)生まれではないかと云われています。
『明智軍記』とはどのような史料かというと、1688年~1702年の間に書かれてとされる軍記物です。
つまり創作なども入っていて、史料価値は低いようです。
その上、明智光秀が亡くなったのは天正10年(1582年)ですので、亡くなって100年以上も経ってできたものです。
戦国時代の敗者だからでしょうか、明智光秀の信頼のできる史料は殆どないため、信憑性に疑問を持ちながらも享禄元年(1528年)生まれ説を唱える書籍は多いように思います。
また『明智一族宮城家相伝系図書』も享禄元年(1528年)説を唱えていますが、『明智軍記』を参照して享禄元年(1528年)説を記載したのではないかという指摘もあります。
ですが、光秀の「享禄元年(1528年)生まれ説」が正しいとして、信長との年齢差を見てみます。
信長は1534年生まれで、光秀は1528年生まれですので、光秀が6歳上の年齢差ということになります。
そうすると本能寺の変で信長は数え年49歳、光秀は55歳だったということになります。
因みにですが、光秀と妻・ひろ子は光秀が2歳上、光秀と濃姫(帰蝶)は光秀が7歳上、信長と妻の濃姫(帰蝶)なら濃姫(帰蝶)が1歳上です。
ただ、ひろ子と濃姫(帰蝶)の生年は確定ではないため、一説にはという参考程度の年齢差です。
信長との年齢差18歳説
今度の説は、本能寺の変の頃、光秀の年齢は67歳だったとしての年齢差です。
当時で67歳といえばかなりの高齢だと思いますが…『当代記』という史料に、光秀が亡くなった時、67歳であった旨が書いてあるそうです。
「時に明知(智)歳六十七」と記されており、そこから逆算すると光秀の生まれた年は、永正13年(1516年)になります。
その時の信長との年齢差は、光秀が年上の18歳差ということになります。

ですが、『当代記』という史料も、どこまで信頼できるのか分からないという位置づけです。
また『当代記』が成立したのは1624年~1644年、光秀が亡くなったのは1582年ですので、こちらも亡くなってから大分経ってからできたものですね。
『当代記』の説を信じると67歳という年齢の頃、織田信長の主力の一人で戦にも参加していたことになります。
当然、当時は電車などはありませんので、馬や自分の足などでもの凄い距離を移動して戦っていたということです。
そんなことが可能なのかと考えてしまいますね。
例えば、関ヶ原の戦い当時、ベテランとされた徳川家康の年齢は、数え年で58歳でした。
その15年後の大坂の陣に家康は、73歳で出陣していることを考えると…あり得なくもないのでしょうか。
ですが立場が全然違うので、体力の消耗も全然違いそうですが。
また、当時の平均寿命の統計はありませんが、50歳には満たなかったと推測できるそうです。
理由は夭折が多く、元服前に亡くなる人が多かったので、平均寿命を下げていると推測できるようです。
有名武将の享年は数え年で、信長49歳、秀吉62歳、家康74歳、真田昌幸65歳と意外と長生きの武将と、森蘭丸18歳、小早川秀秋21歳と早くに亡くなった方といますね。
本能寺の変の頃の光秀の年齢67歳とのことですが、67歳まで生きている武将の方が少なそうな気もしますね、なのに信長家臣として第一線で戦っているという…。
少し難しように思いますが、これだけでは否定もできません…、いかが思うでしょうか。

『信長公記』とは、信長の家臣が記した信長の記録です。
当時の人が書いた記録は、興味深く思いますし、現代人にも読みやすく現代語訳されています。
その他の年齢差
これまで信長よりも光秀の方が年上として記載しましたが、実は若かったとする説もあります。
光秀と親交のあった吉田兼見(よしだ かねみ)が記した日記に、光秀は若かったのではないかと推察できる記述があるそうです。
その日記によると、天文9年(1540年)以降に生まれたのではないかと云われています。
また光秀の干支が子年であるという説があり、今まで記載した光秀の生年も子年です。
光秀の子供も諸説ありよくわかっていませんが、細川ガラシャの名前で知られる、光秀の娘・明智玉子(細川ガラシャ)については記録が残っています。
細川ガラシャの生まれは永禄6年(1563年)だと云われており、そこから子年(ねずみどし)で丁度良さそうな西暦として1540年説もあり得る話として候補になっています。
光秀23歳の時の子供ということですね。
もしそうだとすると、今度は光秀の方が6歳年下という年齢差になります。
また、細川ガラシャの嫁ぎ先である熊本藩の肥後細川家の公式の歴史書である『細川家記』には、光秀は大永6年(1526年)に生まれたとする、また新たな説も載っているそうです。
この説に従うと信長よりも8歳上の年齢差ということになります。
しかし『細川家記』は貴重な史料ですが、光秀の箇所は信憑性に疑問を持たれていますし、可能性は低そうな説です。
光秀と信長の年齢差のまとめ
光秀と信長の年齢差の候補をまとめますと光秀が年上の場合、6歳差、18歳差、8歳差、光秀が年下の場合6歳差という結果になりました。
敗軍の将ですので史料が乏しく、娘の嫁ぎ先でさえ時の権力者を憚ったのか、真実ではなさそうな記録が残されているということのようです。
現在では、真実は闇の中という感じですが…、信長より年上のイメージのある光秀が実は若かったかもしれない話など興味深く思っています。
明智光秀と豊臣秀吉、徳川家康の年齢差
明智光秀と豊臣秀吉、徳川家康との年齢差も見てみます。
まず光秀の生まれが1528年だとして、豊臣秀吉は1537年か1536年生まれなので、光秀が8~9歳年上です。

一方の徳川家康は、1543年生まれなので、光秀が15歳年上になります。
光秀が1516年生まれの場合の年齢差は、秀吉より20~21歳、家康より27歳年上です。
光秀が1540年生まれの場合、秀吉より3~4歳年下、家康より3歳年上です。
光秀が1526年生まれの場合、秀吉より10~11歳、家康より17歳年上です。
また、織田信長は1534年生まれなので、秀吉より3~2歳、家康より9歳年上です。
明智光秀の生年について詳しく書いた記事こちらです。
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