服部半蔵正成は何した人?生涯や子孫について

服部半蔵正成は忍者ではなく徳川家に仕える戦国武将です。

三河一向一揆・姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・伊賀越えなど多くの戦に従軍し、武功を挙げています。

服部半蔵正成は何をした人で、どのような生涯であったか、また子孫について書いています。

目次

服部半蔵正成の生涯

天文11年(1542年)、服部半蔵正成は三河国伊賀で生まれます。

服部半蔵正成は、忍者で武将でもある服部半蔵保長の五男か六男であると言われています。

また、産まれた日付や生母については分かりません。

服部半蔵保長は、始めは幕臣でしたが、三河に移住して松平清康(家康祖父)・松平広忠(家康父)・松平家康(徳川家康)の三代に仕えたそうです。

また、服部半蔵正成の「半蔵」は、服部半蔵家の歴代当主の通称です。

服部半蔵の名前でも良く知られていますが、この記事では服部半蔵正成と表記しています。

服部半蔵正成
服部半蔵正成

先に述べたように、服部半蔵家当主の通称の名乗りが半蔵の為、服部半蔵は複数人います。

その中でも世間で最も知られているのは、2代目である服部半蔵正成のことです。

天文17年(1548年)、服部半蔵正成は、満年齢6歳の時に、三河国の大樹寺(徳川氏の菩提寺)に預けられます。

ですが、天文20年(1551年)、出家を拒んだ服部半蔵正成は、大樹寺から姿をくらまし、兄達の支援を得て生活したそうです。

その後、服部半蔵正成は暫く消息不明となりますが、弘治3年(1557年)、宇土城(上ノ郷城)攻めに参じ初陣を飾ったと言われています。

宇土城(上ノ郷城)攻めで武功を挙げた服部半蔵正成は、徳川家康(当時は松平元康)から盃と持槍を与えられたと伝わります。

ただ、宇土城主は今川義元の家臣・鵜殿長持で、服部半蔵正成が仕える徳川家康も今川氏に属し人質として駿河国に留め置かれており、時代背景と一致しないとの指摘もあります。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いが起きて今川義元が討ち取られており、やがて、徳川家康は今川氏と断交して織田信長と軍事同盟を結んでいます。

この頃の服部半蔵正成は、徳川家臣団の旗本馬廻衆に属していたと言われています。

永禄5年(1562年)、徳川家康は、今川方の家臣・鵜殿長照らが守る宇土城(上ノ郷城)を陥落させ、徳川方の城としています。

先ほど述べた服部半蔵正成の初陣とされる弘治3年(1557年)の宇土城(上ノ郷城)攻めが、永禄5年(1562年)の宇土城攻めに参じた誤りではないかとも思いますが、永禄5年の宇土城攻めは、服部半蔵正成が参戦したとの記録はないようです。

三河一向一揆で忠節を尽くす

永禄6年(1563年)、西三河で一向宗の門徒らが蜂起し、領主である徳川家康(当時は松平家康)と争いになり三河一向一揆が起きます。

徳川家康の家臣にも門徒が多く、本多正信(後に江戸幕府の老中)、渡辺守綱(徳川十六神将)、蜂屋貞次(徳川十六神将)、夏目広次(吉信)などは一揆方についています。

服部半蔵正成は、一向宗でしたが徳川家康に属して、一揆と戦っています。

徳川家康優位の戦となり、やがて和睦して一揆は収束しています。

掛川城を攻囲

徳川家康は遠江国の今川領へ侵攻し、本拠の駿府から逃れた今川氏真が身を寄せる掛川城を攻め囲みます。

掛川城は今川氏の家臣・朝比奈泰朝が守っていましたが、永禄12年(1569年)、掛川城攻の戦いに服部半蔵正成も参じ、渡辺守綱・榊原忠政・内藤正成・本多重次らと共に戦い開城させています。

掛川城天守(再建)
掛川城天守(再建)

姉川の戦いで手柄

元亀元年(1570年)、織田信長は裏切り者の浅井長政を討伐するため出陣し、浅井方の横山城を包囲します。

これを受けて、朝倉軍が浅井軍の援軍として出撃し、織田軍の援軍には徳川軍が合流します。

織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍は、姉川を挟んで対峙し、姉川の戦いが始まります。

姉川古戦場跡
姉川古戦場跡

服部半蔵正成は、姉川堤で一番槍の手柄を上げたと言われています。

そして、偶然、浅井の兵数十人に会った服部半蔵正成は、味方のふりして討ち取るタイミングを計っていましたが、通りかかった弟の半助に声を掛けられ、敵に怪しまれたため、数人をたおしたそうです。

三方ヶ原の戦功により槍を拝領

元亀6年(1572年)、遠江国に侵攻した武田信玄は、徳川方の重要拠点である二俣城を開城させ、徳川家康の本拠である浜松城に迫ります。

徳川家康は、浜松城での籠城戦に備えていましたが、浜松城を素通りされた為、武田軍を討つべく出撃して三方ヶ原の戦いが始まります。

三方ヶ原古戦場跡
三方ヶ原古戦場跡

三方ヶ原の戦いで服部半蔵正成は、大須賀康高(徳川二十四将の一人)隊に属して、一番槍の手柄を上げています。

ですが、徳川軍は有力な家臣を含めた多くの家臣を失い、壊走しています。

服部半蔵正成は、大久保忠隣(大久保忠世の長男)・土岐定政(菅沼定政)らと共に徳川家康を守りながら、浜松城帰還を目指します。

服部半蔵正成は、顔と膝に怪我しながらも、敵を倒して家康を守ったそうです。

無事に浜松城に帰還した服部半蔵正成は、動揺する徳川軍を鼓舞するため、城外へでて敵と一騎討ちして首を持ち帰っています。

三方ヶ原の戦いで武功を挙げた服部半蔵正成は、平安城長吉の槍など槍二穂の褒美を家康から与えられ、同時に、伊賀衆150人をつけられています。

鬼半蔵

ある時、服部半蔵正成は、家康から「その方の働きは誠に鬼槍である」という評価を受けたとの逸話があります。

また、服部半蔵正成は、槍の戦功を重ね「鬼半蔵」と呼ばれるようになり、「槍半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱と並び称されています。

武田勝頼との抗争

天正2年(1574年)、武田信玄の後を継いだ武田勝頼は、積極的な攻勢に出て、遠江国の徳川領に侵入します。

武田勝頼の攻勢は凄まじく、堅固さを誇った高天神城を開城させ占領しています。

武田勝頼が遠江国へ侵攻する際に、天竜川が氾濫したことがあり、渡ろうとした武田方の武将を服部半蔵正成は攻撃したと言われています。

天正3年(1575年)、服部半蔵正成は、長坂信政の娘を娶り正室とし、翌年に長男・正就(まさなり)が誕生しています。

松平信康の自害

天正7年(1579年)、徳川家康の嫡男である松平信康が織田信長の命令により、二俣城で自害します。

将来の徳川家康の後継者と見られていた松平信康の自害は、服部半蔵正成ら徳川家家臣に衝撃を与えたと思われます。

自害の際、服部半蔵正成は検使に遣わされ信康の介錯を命じられますが、「三代相恩の主のに刃は向けられない」と涙を流して伏した為、天方道綱が代わりに介錯を行ったそうです。

松平信康
松平信康

その様子を聞いた徳川家康は、「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と言ったそうです。

ただ、本当かどうかは定かではなく、「三代相恩の主のに刃は向けられない」との言葉は、介錯を命じられたものの出奔した渋川四郎右衛門の言葉であるとも言われています。

また、松平信康が自害に追い込まれたのは、織田信長の命令ではなく徳川家康と対立などが原因との見方もあります。

松平信康の後見人は石川数正平岩親吉ですが、服部半蔵正成は信康の守役だったとの説もあります。

服部半蔵正成と松平信康は、あまり面識がないとも諸説ありますが、正成は西念寺に信康の供養塔を建てており、西念寺は正成含む服部一族の墓所でもあります。

岡崎三郎信康供養塔(西念寺)
岡崎三郎信康(松平信康)供養塔(西念寺)

織田信長家臣・大垣氏と衝突

天正8年(1580年)、後に服部半蔵家四代目となる次男・正重が誕生します。

同年、遠江国・高天神城奪回を図った徳川家康は、築城した砦で高天神城を包囲して補給路を断ちます。

高天神城攻めのため、応援としてやってきた織田信長配下の大垣家(氏家)が浜松城下に駐在していました。

その大垣家(氏家)の家人と徳川家臣の家人との間で紛争があり、頼まれた服部半蔵正成も徳川方に加勢しています。

結局、大垣家と服部家の両方で死者を出す事態となります。

大垣家が織田信長の家臣であることから事態を深刻に見た徳川家康は、別人の首を「正成の首」として差し出したそうです。

そして、秘密裏に服部半蔵正成を牢人とし、妻子と共に浜松から逃がしたと言われています。

その後、服部半蔵正成の消息は不明になりますが、天正10年(1582年)のいわゆる「神君伊賀越え」で正成の名前が確認できます。

神君伊賀越え

天正10年(1582年)3月、武田勝頼・信勝父子の自害により、甲斐武田氏嫡流は滅亡します。

論功行賞として織田信長から駿河一国を与えられた徳川家康は、安土城で饗応を受けて、摂津国堺を遊覧しています。

同年6月、徳川家康一行は堺から京都へ上洛する途中の河内国飯盛山付近で、本能寺の変の一報がもたらされます。

徳川家康は、同盟者であった織田信長が討たれ取り乱しますが、本多忠勝らの説得を受けて、わずかな側近と共に三河帰還を目指すことになりました。

徳川家康に随行したのは34名と僅かではありますが、服部半蔵正成・酒井忠次・石川数正・本多忠勝・榊原康政・井伊直政など重臣層が多く含まれています。

神君伊賀越えの経路は、河内国から山城国宇治へ行き近江国を経て伊賀国に入り三河国に帰還したと言われています。

徳川家康
徳川家康

伊賀国は、織田軍の猛攻を受けた過去があり、織田方に恨みを持っていると思われます。

伊賀国の土豪を父に持つ服部半蔵正成は、伊賀や甲賀の土豪と交渉して見方にし、徳川一行を護衛させたと言われています。

服部半蔵正成は、道を開けるよう一揆に呼びかけたり、襲撃する敵に応戦するなど家康を守っています。

ところが、服部半蔵正成は、敵との戦いで堀に落ちたところを、槍で突かれて気絶したようです。

息が無いと思った家臣により服部半蔵正成討死の知らせは、徳川家康に伝えられ、亡骸を回収しようとしますが、正成の息があったそうです。

こうして、服部半蔵正成は命辛々、徳川一行と共に三河へ帰還します。

徳川家康は、伊賀越えを助けた伊賀者を「伊賀同心」として雇い、服部半蔵正成に指揮権を与えています。

小田原北条氏との抗争

本能寺の変で織田信長が非業の死を遂げたことにより、甲斐の武田氏旧領で織田領となっていた領地を巡って、徳川氏・北条氏・上杉氏の間で争いが起きます(天正壬午の乱)。

徳川家康は、相模国の北条氏と甲斐を巡って対立し、服部半蔵正成は甲斐へ出陣しています。

服部半蔵正成と伊賀衆は、甲斐の勝山城やその近くの右左口砦・金刀羅山砦に置かれ、守備や監視役を務めます。

同年、徳川方が信濃国佐久郡に攻め入ると、伊賀衆を率いた服部半蔵正成は、佐久郡江草城攻めをして落城させています。

その後、天神ヶ尾砦に入った服部半蔵正成は、伊豆の韮山方面の攻撃や守備を担っています。

服部半蔵正成は、敵方の砦を伊賀者に調べさせ、大雨に紛れて落としており、徳川家康から功績を称えられています。

同年末、服部半蔵正成は、伊賀衆と共に江草城を守り、天正11年(1583年)に甲斐国の谷村城の城番を任じられています。

徳川家康は、武田遺領の甲斐や信濃の確保し、領土を拡大させています。

豊臣秀吉との抗争

この頃、明智光秀を討って織田信長の仇を討ち、織田家の筆頭家老に位置する柴田勝家を自害に追い込んだ羽柴秀吉(1586年に豊臣賜姓)は、天下人の道を歩もうとしていました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

天正12年(1584年)、徳川家康は、羽柴秀吉との仲が険悪になった信長次男・織田信雄と同盟を結んで、秀吉と戦闘状態に入ります(小牧・長久手の戦い)。

徳川家康から織田信雄に仕える滝川雄利の援軍を命じられた服部半蔵正成は、伊賀甲賀者100人を率いて鉄砲で豊臣勢を退けています。

滝川雄利は伊勢松ヶ島城に籠城しており、羽柴秀長(秀吉の弟)が松ヶ島城を包囲しています。

服部半蔵正成は二の丸を守り、筒井勢と対峙したようですが、40日の籠城を経て松ヶ島城は開城しています。

その後、織田信雄方の城であった尾張国蟹江城は、羽柴秀吉に見方する滝川一益に攻略されますが、服部半蔵正成は松平康忠(徳川家康の従弟で義弟)らと共に蟹江城奪還戦に参じています。

小田原征伐と旗印

天正18年(1590年)、既に徳川家康を従わせ天下統一を目前した豊臣秀吉は、小田原北条氏征伐を決め大軍で攻め込みます(小田原征伐)。

服部半蔵正成は鉄砲奉行として小田原征伐に参じ、根来衆50人を率いて首級を十八も挙げる活躍を見せます。

この時、服部半蔵正成は、黒地に白の五字附四半指物を使用していましたが、家康が使番の旗印にしたいと思っていることを本多正信から伝えられたため差し出し、正成は「矢筈車紋の旗」を使用するようになったそうです。

ただ、「矢筈車の旗」の家紋につて、詳しいことは分かりません。

因みに、服部氏が使用したという家紋の一つに矢や矢筈をモチーフにした「矢筈車」(はやずぐるま)の紋があります。

矢筈車
矢筈車

いずれのせよ、徳川軍の使番指物は「白地に黒五字の旗印」が使用されるようになり、使番の中で多くの功績がある者などに使用が許可されています。

家紋と旗セット 徳川将軍家
家紋と旗セット 徳川将軍家

伊賀同心との確執

小田原征伐など功績を挙げた服部半蔵正成は、遠江に8千石を拝領し、家康が関東に転封した後は与力30騎と伊賀同心200人を付けられています。

服部半蔵正成の父・保長(初代の服部半蔵)は、忍者の頭領を務める一族の出と言われており、忍者で武士でもあります。

服部半蔵正成は、忍者ではありませんが、父の縁から伊賀衆や伊賀同心を率いるようになったようです。

ただ、服部半蔵正成の祖先の家格が高くないことから、伊賀同心らは正成を格下と思い、従いたがらず確執があったと言われています。

服部半蔵正成最後の出陣

天下人となった豊臣秀吉は、明国征服を目指し「唐入り」(朝鮮出兵)実行を明言します。

ですが、徳川家康は渡海することなく、朝鮮出兵の拠点である肥前国の名護屋城に在陣しただけです。

文禄元年(1592年)、服部半蔵正成は肥前国名護屋へ鉄砲奉行として参じています。

豊臣秀吉の母・大政所の危篤の知らせにより、秀吉が名護屋を留守にしている間、徳川家康と前田利家が代わりに政務を行ったり、諸将を指揮しています。

ですが、徳川・前田両陣営の下人や足軽らの間で揉め事が起きて、人が集まり戦に発展しそうになります。

服部半蔵正成が事態を収めたとも本多忠勝が収めたとも言われます。

服部半蔵正成病没と墓所

服部半蔵正成は、病により亡くなります。

亡くなった日付は定かではありませんが、慶長元年11月14日(1597年1月2日)との説が有力のようです。

服部半蔵正成は、生前、江戸麹町清水谷に浄土宗の庵・安養院を創建し、正成が守役を務めたとも言われる松平信康の慰霊のために出家し西念と号して菩提を弔ったと言われています。

安養院の後身である西念寺に服部半蔵正成は葬られ、現在では東京都新宿区に移転しています。

西念寺 (新宿区)にある服部半蔵正成の墓
西念寺 (新宿区)にある服部半蔵正成の墓

先に述べましたが、西念寺は服部氏の菩提寺であり、松平信康の供養塔が現存する寺院でもあります。

服部半蔵正成の子孫

服部半蔵正成の病死により、長男の正就が家督を継承し、「半蔵」の通称や与力・伊賀同心の支配も引き継いでいます。

江戸城(現在の皇居)に「半蔵門」と呼ばれる門があります。

半蔵門
半蔵門

名前の由来は定かではありませんが、服部半蔵正成・正就父子の通称である半蔵からきているとも言われ、門の外に伊賀同心や与力といった服部氏の部下が屋敷を構えたことに由来するとの説があります。

服部半蔵正就もまた伊賀同心と確執があり、やがて事件が起きますが、処分されることはありませんでした。

ですが、将軍お目見前に私用で夜間に外出したことなどを理由に改易となります。

そして、服部半蔵正就の弟・正重が家督を継承しますが、正重も改易となり、村上藩に身柄を預けられ、村上氏や堀氏に仕えています。

その後、服部正辰(服部半蔵正成の孫)の招きにより、服部半蔵正重は桑名藩主に上席家老として迎えられ、以降、服部半蔵家は桑名藩の家老職家として明治時代まで続いています。

詳しいことが分からず、どこかで服部半蔵正成の子孫でなくなった可能性も否定できませんが、服部半蔵家の歴代当主の名前です。

服部半蔵正成(服部正成)→服部半蔵正就→服部半蔵正重(桑名藩上席家老)→服部半蔵正吉→服部半蔵正勝→服部半蔵正秀(年寄)→服部半蔵正輔(年寄)→服部半蔵正明→服部半蔵正盈→服部半蔵正賢(正覧)→服部半蔵(内記)(桑名藩家老)→服部半蔵正礼(桑名藩家老)→服部半蔵(諱不明)(桑名藩家老)→服部半蔵正啓(桑名藩家老)→服部半蔵正綏→服部半蔵正義(桑名藩家老)

服部半蔵正成の庶長子との説がある服部康成は、豊臣秀吉亡き後に天下を二分した関ヶ原の戦いにおける大垣城の戦いで、津軽為信に召し抱えられ戦功を残しています。

その後、弘前藩主2代・津軽信枚の代になり、服部康成は弘前藩筆頭家老になりますが、御家騒動解決前に病没しています。

長男・成昌が後を継ぎますが、幕府が下した御家騒動の処分に不服で、弘前藩を離れ加賀藩前田氏に仕えたと言われています。

また、弟・安昌は弘前藩に残っています。

因みに、弘前藩主3代・津軽信義石田三成の孫です。

石田三成に近い津軽氏を牽制するために、徳川家康が服部康成を送り込んだとも言われますが、そもそも康成が本当に服部半蔵正成の庶長子なのか分かりません。

参考・引用・出典一覧
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