榊原康政は徳川家康が天下人になる道を切り開いた勇将

榊原康政は徳川家康の天下取りに大きく貢献した人物です。

陪臣の身分から取り立てられた榊原康政は、その恩義に報いるかのように、三方ヶ原の戦いなど厳しい戦で先鋒を務めています。

正に実戦叩き上げの武将で、徳川四天王にまで身を起こした人物と言えます。

この記事では榊原康政の生涯、家紋、子孫について書いています。

目次

榊原康政の出自

『寛政重修諸家譜』などによると、榊原康政の家系は、室町時代の武将・仁木義長(清和源氏)の子孫であると称しています。

榊原康政の祖先・仁木氏は、伊勢国壱志郡榊原村に住んで榊原を称し、後に三河に移り住んだと言われています。

三河に移住したのは、榊原康政の祖父・清長であるとされていますが、天文14年(1545年)に榊原清長は没し、三河国上野に葬られています。

祖父が没した3年後の天文17年(1548年)、榊原康政は三河国上野で生まれています。

榊原康政の幼名は於亀(亀丸)、通称は小平太です。

榊原康政
榊原康政

父は榊原長政、母は道家氏と伝わっていますが、祖父・清長を含めて具体的な功績は分かりません。

また、榊原康政が始め仕えたのは、松平家(後の徳川家)ではありません。

榊原康政は、松平広忠(徳川家康の父)の重臣で、三河上野城主・酒井忠尚(酒井忠次の叔父)の小姓でした。

徳川四天王の一人として知られている榊原康政ですが、陪臣の身分から抜擢された人物になります

榊原康政 徳川家康に仕える

永禄3年(1560年)、松平元康(後の徳川家康)に見出されて、元康の小姓となっています。

永禄6年(1563年)、徳川家康の三大危機の一つである三河一向一揆が起きて、松平元康(家康)は本願寺門徒らと戦になります。

松平元康の一門や家臣には一向宗門徒が多く、元康への忠節か宗教への信仰心をとるかの選択が迫られます。

三河一向一揆によて松平家中が分断された上、一向一揆に乗じた反松平元康勢力もありましたが、翌年に一揆は収束しています。

この三河一向一揆鎮圧戦が、榊原康政の初陣であると言われています。

かつて榊原康政が仕えていた酒井忠尚も松平元康(徳川家康)に背いて挙兵しており、忠尚が籠城する上野城攻めに康政は参じています。

敵を破った武功があった榊原康政は、称賛され元康(家康)の一字である「康」の字を与えられています。

徳川家康
徳川家康

また、榊原康政が水野信元(家康の叔父)の家人から貰った具足を使用し、高名があった為、出陣の際はその具足を付けたと言われています。

榊原康政は次男で、長男・榊原清政もいましたが、兄を差し置いて榊原家の家督を継承しています。

その理由として、兄・榊原清政は、侍大将となっていましたが、病弱であった為、康政が陣代を務めることが多かった為とも言われています。

また、榊原清政は、松平信康(家康の長男)の傅役でしたが、信康は謀反を疑われて自刃しており、清政は後悔の念により隠居したとも伝わりますが、定かではありません。

永禄5年(1562年)、榊原康政の父・榊原長政が没し、康政は叔父・榊原一徳斎の養子となり、後見を受けています。

永禄9年(1566年)、榊原康政は19歳で元服しています。

永禄10年(1567年)、榊原康政は与力を付けられ、旗本先手役に抜擢されています。

旗本先手役は、徳川家康(永禄9年に徳川に改姓)を護衛したり、戦闘に参じる家康直属の部隊のことで、以降、家康の側近として部隊を率いて出陣していきます。

因みに、本多忠勝・鳥居元忠らも旗本先手役に選ばれています。

榊原康政と姉川の戦い

元亀元年(1570年)、織田信長が越前の朝倉義景に攻撃を仕掛けたところ、信長と同盟関係にあった北近江の浅井長政が信長から離反します(金ヶ崎の戦い)。

同年、織田信長は裏切り者の浅井長政を討つ為に出陣し、やがて同盟関係ある徳川家康が織田軍に合流します。

一方の浅井長政にも朝倉軍の援軍が到着し、近江の姉川河原にて戦になります(姉川の戦い)。

姉川古戦場跡
姉川古戦場跡

徳川軍は真向いに布陣していた朝倉軍に襲い掛かります。

浅井・朝倉連合軍は、数で勝る織田・徳川連合軍を相手に善戦し、激戦となっています。

一説には、信長の本陣にまで浅井軍が迫ったとも言われています。

しかし、徳川家康が浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びていることに気が付き、榊原康政に側面から攻撃させて、先に朝倉軍が崩れ、次に浅井軍も敗走に追い込んだと伝わります。

また、姉川の戦いにおいて榊原康政は、酒井忠次に次いで第二陣を任されています。

榊原康政は、隊を真一文字に進ませて、登りにくい岸を声を掛け合って上がらせます。

榊原康政隊は、酒井忠次隊を追い抜きそうな勢いがあり、慌てた忠次と功を競い合ったそうです。

榊原康政は姉川の戦いの勝利に大きく貢献したと言えそうです。

榊原康政と三方ヶ原の戦い

元亀3年(1573年)、大軍を率いた武田信玄は、徳川領である遠江国に侵攻します。

武田軍の軍事行動に対処する為、徳川家康は織田信長に援軍要請しますが、信長包囲網に対応していた為、十分な援軍は得られません。

しかし、徳川軍は、一説には3千?とも言われる織田家の援軍と共に、武田軍を迎え撃ちます。

武田軍に浜松を守る拠点であった二俣城を攻略され、武田軍の次の狙いは浜松城かに思え、徳川・織田連合軍は籠城戦に備えていました。

しかし、武田軍は浜松城を素通りして、三方ヶ原の台地に上ります。

徳川家康は反対する家臣がいる中、武田軍の背後を突こうと出撃しています。

ですが、徳川・織田連合軍をおびき出す武田軍の作戦であり、徳川方は惨敗しています。

多くの犠牲者を出しながらも、徳川家康はなんとか浜松城に逃げ帰っており、三方ヶ原の戦いは家康三大危機の一つに数えられています。

三方ヶ原古戦場跡
三方ヶ原古戦場跡

榊原康政は、三方ヶ原の戦いでは先手役の将を務めています。

また、敗退の際、榊原康政は敢えて浜松城に入らず、日中、浜松城に入れなかった味方を集めています。

夜陰に乗じて武田軍を襲えば、不意をつかれて敵を混乱させられるとの考えがあったようです。

夜を待った榊原康政は、一斉に武田軍の陣に駆け入らせ、武田軍を動揺させてから浜松城に入ったと言われています。

その後も徳川と武田の戦は続きましたが、元亀4年(1573年)に武田信玄病死により、武田軍は甲斐に撤退しています。

榊原康政と甲斐の武田氏

武田信玄は没しましたが、家督を相続した武田勝頼は、東美濃や遠江方面に侵攻しています。

武田勝頼は織田領の明知城を落とし、徳川方の高天神城も陥落させるなど積極的に侵略活動を行っています。

そのような中、武田勝頼から離反し、徳川方に寝返った奥平貞昌(後の信昌)が守る長篠城を1万5千の武田軍が包囲します。

長篠城の守兵は僅か500人であり、援軍が来なければ持ちこたえられない状況下で、奥平家の家臣・鳥居強右衛門が援軍要請をしています。

長篠城救援のため出陣した織田・徳川連合軍は、設楽原を挟んで武田軍と向かい合います(長篠の戦い)。

長篠の戦いの再現馬坊柵
長篠の戦いの再現馬坊柵

長篠の戦いでの榊原康政は、敵中で縦横に奮激したと言われています。

一方の武田軍は決死の覚悟で突撃しますが、約一千挺の鉄砲の前に斃れていきます。

やがて、武田軍は敗色濃厚となり、武田勝頼を退却をさせるため、武田四天王の一人・内藤昌豊が残兵百名余りを率いて、徳川軍に突撃します。

榊原康政は本多忠勝と共に、内藤昌豊と戦ったようですが、昌豊を討ち取ったのは朝比奈泰勝であると言われています。

長篠の戦いは織田・徳川連合軍の大勝利で終わり、多くの勇将を失った武田勝頼は、僅かな騎馬武者を従えて逃げ延びています。

天正8年(1580年)、武田方の城となっていた遠江の高天神城奪還を目指し、徳川家康は兵糧攻めを行っています。

高天神城の戦いでの榊原康政は、先陣をつとめ激しく戦い、翌年、高天神城は武田勝頼からの援軍がないまま落城しています。

高天神城の救援要請に応えられなかった武田勝頼の名声は失墜したと見られており、天正10年(1582年)、織田軍に攻められ甲斐武田氏は滅亡しています。

榊原康政 家康と危機を共にする

天正10年(1582年)、徳川家康や榊原康政らが摂津国の堺から京都へ向かう途中、明智光秀の謀反により織田信長が死去したとの知らせが入ります(本能寺の変)。

同盟者・信長の横死に動揺した家康ですが、僅か34名の供廻りと共に帰国の途につきます(伊賀越え)。

徳川家康の供廻りは、榊原康政の他にも酒井忠次石川数正など徳川家の重鎮が多くいましたが、一揆の襲撃など危険があり家康の三大危機の一つに数えられています。

榊原康政は、家康の三大危機と言われる「三河一向一揆」、「三方ヶ原の戦い」、「伊賀越え」全て家康に付き従っていたことになります。

帰国後、榊原康政は大須賀康高と共に豆生田砦を攻めたそうです。

大須賀康高と行動を共にすることが多かった榊原康政は、康高の娘を正室に迎えています。

また、本能寺の変が起きると、かつて関白の職にあった近衛前久が秀吉と不和になっています。

近衛前久は、榊原康政に徳川家康への取り成しを依頼し、家康を頼って浜松に赴いています。

榊原康政は徳川家康の重臣として諸国に知られていたようです。

榊原康政と小牧・長久手の戦い

天正12年(1584年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と織田信雄の間で緊張感が高まり、戦が回避できない状況になります。

徳川家康は織田信雄に味方し、尾張の小牧山周辺で羽柴軍と対峙しています。

榊原康政は、旧主・信長の恩を忘れて、信雄と兵を構える秀吉を痛烈に批判する檄文を書いたと言われています。

幼い頃から勉学を好んだ榊原康政は、家康の書状を代筆する位達筆だったと言われており、秀吉を非難する文書も達筆な文字で書かれていたそうです。

激怒した秀吉は、榊原康政を討った者に望みの恩賞(十万石とも)を与えると叫んだと言われています。

織田・徳川軍と羽柴軍の対峙が続く中、秀吉は三好信吉(豊臣秀次)・池田恒興・森長可・堀秀政らを、家康の拠点である三河国に進軍させます。

ですが、先手を打った徳川家康は、榊原康政らを派遣しています。

三好信吉(豊臣秀次)勢が休息を取っている時、榊原康政・大須賀康高らは、信吉(秀次)隊に奇襲をしかけ壊滅状態に追い込んでいます。

また、小牧・長久手の戦いで、秀吉方の池田恒興・元助父子、森長可などが討死しています。

羽柴勢の攻撃を受け不利な戦況に落ちった織田信雄は、家康に断りなく単独講和(事実上の降伏)を結んでいます。

戦の大義名分を失った家康は、秀吉と講和し次男の於義伊(結城秀康)を事実上の人質として差し出しています。

豊臣政権下での榊原康政

天正14年(1586年)、徳川家康は豊臣秀吉に臣従することを表明しています。

同年11月、徳川家康と共に上洛した榊原康政は、豊臣秀吉と対面し、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓の下賜もされています。

先に述べたように、かつて榊原康政は、秀吉を非難する檄文を触れ回しています。

豊臣秀吉は「怒りの余り汝の首を取ってやろうと思ったが、和睦した今となれば、主君への忠義心はあっぱれである」と言い榊原康政を労ったという逸話があります。

また、豊臣秀吉は、「徳川殿は小平太(榊原康政のこと)殿のような武将を持っていて羨ましい」とも言い、宴会まで開いたと言われています。

史実か分からない話ですが、「人たらし」の名人と言われる秀吉らしい逸話に思います。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとも言える小田原征伐に、榊原康政は徳川軍の先鋒 として参じています。

同年、徳川家康は加増の上、関東に転封されます。

榊原康政は関東総奉行として、本多正信らを指揮し、江戸城の修築を行っています。

また、上野国館林城主となり、館林10万石を領しています。

館林城の土橋門(復元)
館林城の土橋門(復元)

徳川家家臣では、井伊直政が12万石で一番の石高で、榊原康政は本多忠勝と同列で第2位の石高を拝領しています。

榊原康政は、館林で利根川の堤防工事や、街道などインフラ整備を行っています。

豊臣政権下での徳川家康は、江戸城よりも京都の伏見城に滞在することが多くなっています。

井伊直政・榊原康政・本多忠勝・石川康通・平岩親吉は隊長として、在京中の家康警護を交代で務めています。

文禄元年(1592年)、文禄の役(朝鮮出兵)が開始されますが、徳川家康は渡海することなく、拠点・肥前名護屋に在陣しています。

榊原康政は江戸に残って徳川秀忠に附けられており、時期は分かりませんが、秀忠の老臣となったようです。

秀吉没後の榊原康政

豊臣秀吉が病没した翌年の慶長4年(1599年)、備前岡山城主・宇喜多秀家の家中でお家騒動が発生します(宇喜多騒動)。

宇喜多家家臣らが大坂の屋敷を占領する騒ぎとなり、榊原康政は、越前の敦賀城主・大谷吉継と共に騒動の調停役として派遣されています。

榊原康政の側室に宇喜多氏家臣・花房氏の縁者がいることが康政が選ばれた一因と考えられます。

しかし、榊原康政は、伏見在番の任期が終わった後も調停の為に残り、領国での政務が滞ります。

その為、榊原康政は帰国し、大谷吉継も手を引いた為、徳川家康が騒動を鎮めています。

この宇喜多騒動によって、宇喜多家から多くの家臣が離れ、徳川家康に仕えています。

関ヶ原の戦いの時、西軍(反徳川方)の主力となる宇喜多秀家ですが、騒動による軍事力低下があったと思われます。

慶長4年(1599年)頃、石田三成による徳川家康襲撃計画があったとの説があり、情報を得た榊原康政によって守られたそうです。

榊原康政の関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)、徳川家康は謀反の疑いがあるとして、会津の上杉征伐を決定し、諸将を率いて進軍します。

しかし、進軍途中の下野国小山において、徳川家康は大老・毛利輝元の賛同を得た石田三成や大谷吉継らの挙兵の知らせを受けます。

徳川家康は次男の結城秀康を上杉の押さえとして宇都宮に留め、徳川秀忠を大将とする徳川主力軍は、西軍についた真田昌幸・信繁父子の征伐にあたらせます。

榊原康政は、徳川秀忠の軍監で先備として従軍し、真田昌幸らが籠る上田城攻めをしています。

しかし、徳川軍は上田城攻めに手こずり、徳川家康から真田昌幸征伐は後回しにして、西上するよう指示が届きます。

上田城攻めを延期した徳川秀忠は、榊原康政らと共に関ヶ原の戦いの決戦に参じる為、美濃に急ぎ向かいます。

ですが、関ヶ原の戦い本戦は、一日で決着がつき徳川秀忠率いる徳川軍主力は、決戦に遅れる大失敗をしています。

一説には、榊原康政は、徳川秀忠に上田城攻め中止を進言したそうです。

徳川家康は徳川秀忠に激怒しますが、榊原康政が秀忠を庇い取り成した為、秀忠は家康と対面できたそうです。

なので、徳川秀忠は榊原康政に感謝し、榊原家の安泰の遺命を残したという説がありますが、真偽は分かりません。

関ヶ原の戦い後、西軍についた多くの大名は、改易や減封などの処分を受けています。

一方、東軍についた多くの大名は、所領の加増や領土を安堵されています。

しかし、大きな失敗のなかった榊原康政に加増はなく、江戸時代、徳川家康は古参家臣に冷たかったという一例として挙げられることがあります。

榊原康政は徳川家康が過酷な戦を強いられた時期に先鋒を多く務め、家康の天下人への道を切り開いた人物の一人と言えると思います。

一説によると、徳川家康から加増の上、水戸に転封する事を提案されたとも言われます。

しかし、関ヶ原の戦いで武功を挙げていないこと、館林の方が江戸に参じやすいという理由で断ったとも言われています。

感銘を受けた徳川家康は、榊原康政に借りがあるとして、神に誓い証文を与えたそうです。

また、榊原康政は、関ヶ原の戦い後に老中になっていますが、既に大久保忠隣と本多正信が老中に就任しており、康政は「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、去っていたとも言われています。

慶長8年(1603年)、在京料として近江に5千石が加増されています。

榊原康政 没す

慶長7年(1602年)、徳川四天王の一人である井伊直政が亡くなります。

榊原康政は、13歳年下の井伊直政を大変買ってり、親友であったと言われています。

榊原康政は、「我が直政に先立って死ねば、必ず直政も病になるだろう。直政が先立てば、我の死も遠からん。」と語っていたそうです。

また、お互い、どちらかが家康に従軍すれば安堵したとも伝わります。

実際、井伊直政がこの世を去ってから、あまり間を置かずに、榊原康政は床に臥すことになります。

慶長11年(1606年)5月、榊原康政に恩のある徳川秀忠は、康政に医師や家臣を遣わせ、見舞っています。

しかし、同月、見舞いの甲斐なく、榊原康政は館林で59年の生涯を閉じています。

慶長12年(1607年)、榊原康政の兄・清政は、徳川家康からの再度の要請に応え久能城城代を務めています。

久能城は、のちの家康墓所・久能山東照宮となりますが、清政の家系が代々管理を任されています。

榊原康政と「無」

榊原家に伝来し、現在は国立博物館が所蔵する日輪の下に「」と書かれた指物(隊旗)があり、康政の絵にもこの指物が描かれています。

「無」の意味については分かりませんが、「無欲無心」で戦う信念であるとも、「つねに無心の一将」でありたいと思う康政の志向であるとも言われています。

榊原康政は、徳川四天王のうちで最も旗・馬印の記録がない人物で、康政の活躍を考えると不思議な程です。

故に「無」の意味も定かではなく、寡黙な武将であると言われることがあります。

榊原康政の家紋

榊原康政の家紋は、「榊原源氏車」(さかきばらげんじぐるま)です。

榊原源氏車
榊原源氏車

榊原源氏車は、公家の乗る牛車の車輪を象った車輪紋の一つです。

牛車は御所車とも呼ばれ、榊原源氏車は御所車紋とも呼ばれます。

牛車は平安貴族の乗り物でもあり「栄華の象徴」とされますが、優雅さや形の面白さから家紋になっています。

伊勢神宮外宮に奉仕していた藤原秀郷流佐藤氏の榊原氏も車輪紋を使用していたとの記録がありますが、榊原康政との関係は分かりません。

榊原康政の家系は、仁木義長(清和源氏)の庶流を称していますが、「源氏車」の「源氏」は清和源氏が由来ではないようです。

「源氏車」が源氏物語の巻物の模様になっていたことから、源氏車と呼ばれていると言われています。

その他、由来は分かりませんが、榊原康政は九曜紋も使用していたそうです(『寛政重修諸家譜』より)。

九曜
九曜

九曜紋は星紋の一つで、真ん中にある大きな星が太陽、回りの星は太陽系を巡る惑星を象った家紋です。

榊原康政の家臣団

榊原康政は陪臣の身分から身を起こした人物なので、家臣は少なかったと言われています。

ここでは、徳川家康から家臣が派遣され、榊原康政の家臣になった「三家老」と称された人物について書きます。

《原田種政》

原田種政の出自は九州肥前の豪族です。

父・原田種高が亡くなった後に、徳川家康の家臣になっています。

原田種政は北条家との戦で武功を挙げてたと言われており、種政の活躍を目にした榊原康政が家臣に欲しいと家康に願い出たそうです。

榊原康政が館林に移封されると、1,300石を拝領する家老となっています。

やがて大坂の陣が起き、原田種政は既に老齢でしたが、奮闘の上首級をあげています。

享年は73歳です。

館林市にある龍興寺に原田種政の五輪塔があるそうです。

《中根長重》

中根長重が徳川家康に仕えたのは永禄6年(1563年)と言われており、その後、榊原康政の家臣になっています。

中根長重は勇猛さで知られた人物です。

甲斐・武田氏の城となっていた駿河国の田中城攻めでは、「中根の一本槍」と言われる位の活躍をみせます。

榊原康政の信頼を得た中根長重は、康政軍の先陣を担うようになります。

榊原康政が館林を領すると、中根長重1,000石を与えられています。

大坂夏の陣の天王寺合戦で活躍したようで、徳川秀忠から加増されています。

享年は87歳です。

《村上勝重》

村上勝重は、北信濃に勢力を築いた村上義清の孫です。

徳川の家臣でありながら、武田に通じた川井小兵衛を討ち取った功績により、村上勝重は徳川家康に仕えます。

長篠の戦い、小山城の戦い、高天神城の戦い、小牧・長久手の戦いなどで活躍しています。

天正13年(1585年)、上田合戦では調停役を務め、この後に榊原康政の家臣になっています。

村上勝重は、内政でも優れた手腕を発揮しています。

榊原康政の子孫

《榊原家宗家》

榊原康政の長男・大須賀忠政は、大須賀康高(祖父)の養子となっています。

次男は榊原康政より先に亡くなり、三男・康勝が家督を相続しています。

榊原康勝の正室は、加藤清正の娘・本浄院ですが、康勝の子は側室が生んだ勝政のみだったようです。

榊原康勝は26歳で没しますが、勝政の存在を江戸幕府が認識してなかったようで、大須賀忠政の長男・榊原忠次(榊原康政の孫)に榊原氏の家督を継承させています。

榊原家当主の座を失った榊原勝政ですが、後に子である榊原勝直・政喬兄弟は、旗本に取り立てられています。

後に、この系統は、榊原本家に2度にわたり養子を出し、本家断絶の危機を救うことになります。

一方、榊原家当主となった榊原忠次は、江戸幕府の大政参与に迎えられており、老中らと共に政治を執り行ったと思われます。

榊原政喬の孫・榊原政岑(旗本1000石)は、榊原家宗家に養子入りし、8代当主となっています。

榊原政岑は、奇抜な服装をしたり、遊興にふけり、高尾太夫を身請けするなど贅沢な暮らしをしています。

榊原政岑の行いは、時の将軍・徳川吉宗が出した倹約令に反するところであり、怒った吉宗は改易さえ考えたそうです。

ですが、かつて徳川家康が榊原康政に対して出していた神誓証文を幕府に提出して弁明し、厳しい処分を逃れています。

榊原政岑は、隠居を命じられますが、政岑の嫡男・政純が家督を継承しています。

榊原政純は、懲罰移処分として、播磨姫路藩から越後高田藩に国替えを命じられています。

その後、迎えた養子も榊原康政の子孫ですが、14代当主・榊原政敬(まさたか)の代で、江戸幕府は終焉を迎えています。

榊原政敬は、旗本榊原家から婿養養子を迎えて、榊原家の家督を継がせています。

榊原康政→榊原康勝(2代当主)(上野館林藩第2代藩主)→榊原忠次(3代当主)→榊原政房(4代当主)(播磨姫路藩の第2代藩主)→榊原政倫(5代当主)(越後村上藩の初代藩主など)→榊原政邦(6代当主)(養子)(播磨姫路藩初代藩主など)→榊原政祐(7代当主)(播磨国姫路藩の第2代藩主)→榊原政岑(まさみね)(養子)(8代当主)(播磨姫路藩の第3代藩主)→榊原政純(9代当主)(越後高田藩初代藩主など)→榊原政敦(10代当主)(越後国高田藩の第2代藩主)→榊原政令(11代当主)(越後国高田藩3代藩主)→榊原政養(まさきよ)(12代当主)(越後国高田藩4代藩主)→榊原政愛(政恒)(13代当主)(養子)(越後国高田藩の第5代藩主)→榊原政敬(養子)(14代当主)(越後国高田藩最後の藩主)

《雅楽頭系酒井家》

榊原康政の長女・聖興院は、酒井正親の孫・酒井忠世の正室となっています。

聖興院は、酒井忠世の嫡男・忠行を生み、忠行は雅楽頭系酒井家8代目となっています。

雅楽頭系酒井家12代当主まで、榊原康政の長女の子孫です。

《岡山藩池田家宗家》

榊原康政の次女・鶴姫(福正院)は、徳川秀忠の養女として、岡山藩池田家宗家2代・池田利隆に輿入れしています。

鶴姫(福正院)は、池田利隆の長男を授かり宗家3代目となり、宗家9代目まで榊原康政の次女の子孫です。

参考・引用・出典一覧
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