水野信元は徳川家康の叔父で織田信長と同盟を結ぶ際の仲介役

水野信元は徳川家康の叔父として知られている人物です。

知多半島の覇者となり、織田信長と松平元康(徳川家康)の清州同盟締結にも関わったと言われています。

ですが、佐久間信盛の讒言によって信長に謀反を疑われ、無念の最期を迎えます。

この記事では、水野信元の生涯について書いています。

目次

水野信元の出自

水野信元は、緒川城・刈谷城を領有する戦国大名・水野忠政の次男として生まれています。

水野信元の生年は不明ですが、水野忠政の三男・信近の生年は大永5年(1525年)であり、兄の信元が2~3歳年上ではないかと推測する説があります。

水野氏は清和源氏を称しており、大高水野氏、常滑水野氏などの諸家に分かれていましたが、水野信元は水野宗家である小河(緒川)水野氏の出自です。

母は松平信貞(昌安)の娘です。

松平氏といえば、徳川家康の改姓前の名前も「松平」ですが、松平信貞(昌安)は大草松平家で、家康は安祥松平家の出身です。

ただ、同じ松平氏の一族であり、庶家の十八家を指すという「十八松平」の一つに数えられています。

また、徳川家康の母・於大の方は、水野信元の異母妹であり信元は家康の叔父です。

於大の方
於大の方

水野信元の初名は忠次で、後に信元と改名したようで、通称は藤四郎や藤七郎という名前で知られています。

今川から離反し織田につく

天文12年(1543年)、父・水野忠政が死去し、水野信元が家督を継承しています。

翌年、松平広忠(家康の父)と政略結婚していた於大の方は、広忠から離縁されています。

このことから、水野信元が親今川路線であった外交政策を変更した為、離縁されたのではないかと言われています。

水野信元の父が当主であった頃は、松平氏と共に駿府の今川氏についていましたが、信元は尾張の織田氏に寝返ったと見られています。

今川義元
今川義元

その為、今川氏を憚った松平広忠によって、離縁されたと考えられています。

以前から水野家と松平家の関係は深く、何度も婚姻関係を重ねていますが、松平清康(広忠の父)が亡くなってから松平氏が衰退したことも一因かもしれません。

また、松平広忠は10歳で父を亡くした為、叔父・松平信孝が後見人となっていました。

松平広忠が於大の方を娶った時も松平信孝が後見人を務めていた時期です。

その後、松平信孝は失脚し松平広忠らによって追放されており、水野氏は信孝と結んでいた為、水野氏との同盟も終わったともいわれています。

また、水野信元の妻は松平信定(桜井松平家)の娘であり、桜井松平家は松平宗家の広忠と対立関係にありました。

松平信定の嫡男・清定の妻は織田信秀(信長の父)の妹で、信秀の弟(信光)の妻は、松平信定の娘です。

このように水野信元は、尾張織田家と縁戚関係にあり、織田信秀に近づいて勢力拡大を狙っていたと見られています。

また、水野信元は、当時、織田氏と対立関係にあった美濃の斎藤道三(利政)とも同盟関係にあったようですが、織田氏についたことで破棄されたと見られています。

水野信元 知多半島の覇者に

天文16年(1547年)、水野信元は、妹・於大の方を知多郡阿古居城(坂部城)主・久松俊勝と再婚させています。

知多半島に侵攻した水野信元は、知多郡宮津城を攻め、城主・新海淳尚に降伏勧告します。

新海淳尚は勧告を拒否して討ち死にし、宮津城を落城させています。

その後、宮津城を廃城にした水野信元は、亀崎城を築城し稲生政勝を入れ城主としています。

同年、要害の堅城であった成岩城を攻略するため、砦を築いて攻め、成岩城も落城させています。

その際、成岩城主であった榎本了圓(榎本了円)は、討たれています。

成岩城の守備は、水野信元の家臣・梶川文勝(梶川秀盛)が任されて入城しています。

勢いに乗った水野信元は、今川方の知多郡長尾城を包囲し、城主の岩田安広は今川家に援軍要請をしています。

しかし、援軍は無かったようで、岩田安広は降伏して出家しています。

水野信元は、常滑城(現・愛知県常滑市山方町)城主で、分家筋である常滑水野家(監物家)当主に娘を嫁がせています。

また、水野信元は、河和城主・戸田守光を娘婿にするなどし、知多半島南部に勢力を持つ戸田氏を攻略しています。

一部の豪族が残っているものの、水野信元は知多半島の覇者となっています。

水野信元 今川の傘下に入る

水野信元は、織田信秀の三河侵攻(松平領)に協力しています。

天文16年(1547年)、織田信長は、今川氏との小競り合いに出陣し初陣を果たしていますが、水野氏への援軍であったと見られます。

ですが、尾張随一の実力者に飛躍した織田信秀の勢力に陰りが見えるようになります。

織田信秀木像(萬松寺所蔵)
織田信秀木像(萬松寺所蔵)

特に、三河侵攻の重要拠点であった安祥城を今川軍に落とされ、奪還されてから、織田氏は不利な状況に追い込まれています。

その後、水野信元は今川義元に降伏したようで、信元を赦免したと見られる義元の書状が残されています。

織田信秀と今川義元が和議し、取り決めによって水野信元は今川義元の傘下に入ったと見られています。

天文20年(1551年)から翌年頃、織田信秀は病没し、信長が家督を継承しますが、織田家中で内戦が起きています。

また、鳴海城主・山口教継父子、寺本城主・花井氏も織田から離反して今川義元につき、織田家の勢力は削がれています。

その一方で、大給松平家(松平氏の庶流)は、今川方から織田方に寝返り、水野信元も再び織田方についたと見られています。

信長の援軍に救われる

天文23年(1554年)、今川氏は水野氏を討つため軍事行動を起こします。

今川方に味方の城を攻略され、水野忠分(水野信元の弟)守る緒川城は、今川方の城に囲まれて孤立し、水野信近(信元の弟)の刈谷城も包囲されてしまいます。

緒川城を攻めるため、緒川城近くの村木に今川方が砦を築き、窮地に立たされた水野信元は信長に援軍を要請しています。

緒川城址
緒川城址

織田信長は、居城・那古野城の守備を、舅・斎藤道三からの援軍に任せ、自身は信元の救援に向かっています。

織田・水野軍の攻撃により、村木砦側(今川軍)は降伏し、信長は降伏を受け入れています(村木砦の戦い)。

弘治2年(1556年)、水野信元は叔母の嫁ぎ先であった奥平貞勝を、今川方から織田方に離反させることに成功しています。

永禄元年(1558年)、今川氏の命を受けた松平軍が石ヶ瀬で水野軍と戦い、一番に槍合わせをした水野忠重(信元の末弟)が一番槍の武功を挙げています。

水野氏と桶狭間の戦い

永禄3年(1560年)、今川義元は、大軍を率いて尾張に侵攻しますが、桶狭間で織田信長率いる精鋭部隊に襲撃され討たれます(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いでの、水野元信の動向は分かりません。

桶狭間は、水野氏の家臣で水野信元の妹婿でもある中山勝時の領土です。

桶狭間古戦場公園の織田信長と今川義元
桶狭間古戦場公園の織田信長と今川義元

また、水野元信に仕えていたと考えられる梶川高秀と梶川一秀は、桶狭間の戦いで中島砦を守備しています。

中島砦は、山口教継の寝返りにより、今川方となった鳴海城を囲むため築かれた砦の一つです。

水野帯刀(忠広)が守備する丹下砦も鳴海城を囲むため築かれた砦です。

桶狭間の戦いは、水野方が属した織田信長の勝利に終わります。

戦後、水野信元は、今川方に属した甥・松平元康(のちの徳川家康)が落ち延びられるよう、浅井道忠を使者にして、織田勢が襲撃する前に大高城から退くよう勧められたようです。

桶狭間の戦いの時、松平元康が守備していた大高城には、水野元氏が入っています。

水野信元 刈谷城を接収する

桶狭間の戦い直後、水野信元の弟・水野信近は、今川方の岡部元信に居城・刈谷城を攻められ亡くなっています。

その後、水野信元は信近の首を奪い返しています。

信近の居城・刈谷城は、水野信元が奪還したとも、今川軍撤退のため落城を免れたともいわれています。

いずれにせよ、刈谷領は水野信元の領土となったようです。

水野信元は、かつて今川氏が落城させ、今川方の城となっていた重原城も奪っています。

同年、重原城は松平元康の攻撃を受けますが、退けています。

水野信元は、松平元康と小河・刈谷・石ヶ瀬川など西三河の国境周辺や尾張南部で抗争を続けていましたが、状況が一変します。

信長と元康の同盟を仲介

松平元康は、今川氏真を見限り、今川氏から独立を果たします。

相模国の戦国大名・北条氏康は、今川と松平の和解に乗り出す意思を見せますが、松平元康は織田信長と連携する決意をします。

水野信元は、織田信長と松平元康の同盟の仲介役であったといわれています。

徳川家康
徳川家康(松平元康)

その後、水野信元は、松平元康の相談に乗ることもあり、強い影響力があったと言われています。

また、水野信元の弟・水野忠重、従兄弟・水野清久が元信の元を去り、松平元康の傘下に入っています。

永禄6年(1563年)、松平家康(改名)は、本願寺門徒・反家康勢力らと戦になります(三河一向一揆)。

門徒側に見方する家康の家臣も現れ、苦戦しているところに、水野信元は家康に援軍を派遣しています。

永禄10年(1567年)、水野信元の子供は既に亡くなっており、甥で養子の水野信政に家督を譲っています。

水野信政の父は、桶狭間の戦い直後、今川方に攻められ討死した、刈谷城主・水野信近です。

水野信近が没したことで、水野信元は刈谷領を接収しています。

水野信近の息子を養子として継がせることで、刈谷水野氏と緒川水野氏(信元の家)を合併できるという考えがあったようです。

水野信元 信長に従い転戦

永禄11年(1568年)、織田信長は、足利義昭を奉じて上洛を開始し、途中敵対勢力を撃退しいています。

水野信元は、上洛に同行し、朝廷に2千疋の献金を行っています。

元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍は、浅井・朝倉連合軍と合戦になり勝利します(姉川の戦い)。

姉川の戦いの後、浅井長政方の孤立した佐和山城は、織田軍に攻められています。

『信長公記』によると、織田信長は、磯野員昌籠る佐和山城を四方から囲んで攻撃しています。

その中に水野信元の名前も確認でき、信元は南の山に配置されており、磯野員昌を降伏に追い込んでいます。

織田信長
織田信長

元亀3年(1572年)、反信長勢力に呼応した武田信玄は、信長の同盟者である徳川家康の領土・遠江国に侵攻します。

武田軍は、徳川方の本拠・浜松を守る拠点である二俣城を包囲します。

『信長公記』によると、織田信長は、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元を大将として、徳川に援軍を送っています。

徳川家康は、籠城戦に備えますが、本城・浜松城を素通りされ、武田軍を背後から襲撃する野戦に変更します。

水野信元は籠城戦を唱えますが、徳川家康は反対を押し切って出撃し、多数の家臣を失う程の惨敗をしています(三方ヶ原の戦い)。

家康の三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の姿との口伝がある
家康の三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の姿との口伝がある

徳川家康は命辛々、浜松城に帰城し、家康の代わりに水野信元が指揮したそうです。

水野信元は、鉄砲を使って武田軍を威嚇して、厳しい情勢から抜け出します。

天正2年(1574年)、長島一向一揆(第三次長島侵攻)では、水野信元は「しのはせ攻衆」として従軍しています。

織田信長は、長島一向一揆で織田一族を含め多くの将を失いますが、三度目の戦いで長島を平定しています。

将軍・足利義昭は、諸大名に信長を討伐するよう御内書を送っていますが、水野信元にも御内書が遣わされています。

武田勝頼と協力して信長を討つようにとのことで、徳川家康に遣わされた御内書とほぼ同じ内容だったようです。

天正3年(1575年)5月、水野信元は、織田軍武将として武田勝頼との戦に従軍しています(長篠の戦い)。

水野信元の最期

水野信元は、織田家筆頭家老である佐久間信盛の讒言によって、武田家家臣の秋山信友(秋山虎繁)との内通を織田信長に疑われてしまいます。

『松平記』によると、水野信元と佐久間信盛は、日頃から仲が悪く、信元は秋山信友と通じて食糧を送っていると讒言されたようです。

天正3年12月(1576年1月)、信長に謀反の疑いをかけられた水野信元は、甥である徳川家康を頼ります。

しかし、織田信長との同盟を重要視した徳川家康は、三河大樹寺において、家臣の平岩親吉に水野信元を誅殺させています。

同時に、水野信元の養子である水野信政も斬られています。

水野信元の生年が不明のため享年も分かりませんが、大永5年(1525年)生まれの弟・信近がいることから、信元の享年は50代前半から50代中旬位かもしれません。

水野領は、後に追放されるまで、佐久間信盛の領土となっています。

そうとは知らず、水野信元を徳川家康の元に案内したのは、久松俊勝(於大の方の再婚相手)ですが、後に真相を知って怒って隠退しています。

また、水野信元誅殺に徳川家康の家臣である石川数正が関与したともいわれ、妹である於大の方(家康の母)は数正を恨んだという説があります。

後に、徳川家康嫡男・松平信康とその生母で家康正室でもある築山殿は、家康によって粛清されています。

松平信康の後見人は石川数正であり、水野信元誅殺により於大の方に恨まれたことが関係しているとも、後に石川数正が徳川家を出奔する原因になっているとも言われています。

また、『寛政譜』によると、水野信元は冤罪であり、後に冤罪と知って織田信長は悔やんだそうです。

そして、水野信元の末弟である水野忠重に水野家を継がせています。

水野信元の子孫

先に述べたように、水野信元は実子に先立たれており、甥・信政(元茂)に家督を譲っています。

水野信元の子供について詳しいことは分からず、子孫がいるのかも分かりません。

ですが、徳川秀忠政権の老中であった土井利勝が水野信元の子供で、土井利昌の養子になったという説があります。

土井利勝の父は定かではなく、土井利昌実父説や、徳川家康落胤説もあります。

もし、土井利勝が水野信元の実子であるのなら、15代将軍・徳川慶喜や会津藩9代藩主・松平容保も信元の子孫になります。

土井利勝→万姫→徳川綱條(水戸藩の第3代藩主)→徳川吉孚→美代姫(水戸藩5代藩主の生母)→徳川宗翰(第5代藩主)―徳川治保(第6代藩主)→徳川治紀(第7代藩主)→徳川斉昭(第9代藩主)→江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(最後の将軍)

会津藩9代藩主で京都守護職に就任した松平容保も土井利勝の子孫ですので、水野信元の子孫かもしれません。

因みに、現在の徳川宗家は、松平容保の子孫にあたります。

水野信元の直系の子孫ではありませんが、江戸時代、水野氏は結城藩や沼津藩などの藩主をつとめとおり、徳川氏の外戚として水野氏は遇されています。

また、水野信元の弟・水野忠守の子孫に水野忠之(江戸幕府老中)、水野忠邦(老中、天保の改革を実行)がいます。

参考・引用・出典一覧
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