明智光秀は謎の多い武将ですので、エピソードは多くありませんが、いくつか伝わっていますので紹介させていただきます。

 

光秀と大黒天(大黒様)のエピソード

『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)という記録などに記されている、光秀のエピソードを紹介させていただきます。

若いころ光秀は越前国の川で大黒天の像を見つけ拾いました。

喜んで持ち帰り、毎日拝みました。

そのことを聞いたある人が「大黒を拾えば千人の頭になれるそうです」と述べて喜びました。

光秀はそのことを聞いて驚き、「ならばこれは必要ない」と捨ててしまいました。

ある人は驚き尋ねると、「わしは千人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる」と言い志が高いことを示したといいます。

大黒天(大黒様)の像

大黒天(大黒様)の像(光秀の像ではありません)

 

このエピソードが描かれた頃の光秀は、斎藤義龍(よしたつ)と明智城の戦いに敗れ、美濃を追われ越前国(えちぜんのくに)(福井県)にいたころです。

越前国の河原で拾った七福神の一つである大黒天(だいこくてん)(大黒様)の像を「縁起が良い。良いことがあるに違いない」ということで、持ち帰り神棚に祀っていたそうです。

ところがある日、「大黒天(大黒様)は1000人を養うと言われている福の神です。よく信仰されると良いでしょう」と家臣に言われて光秀は驚きます。

「並みの人間だって1000人養うものは大勢いる。その程度の神に武人の出世を願えるものか」

と言い放ち、大黒天(大黒様)の像を処分してしまったそうです。

 

このエピソードの出典元とされる『名将言行録』は、江戸時代から書かれ完成したのは、明治時代初期とされています。

参考文献があったのかもしれませんが、信憑性に疑問のある『俗書』としての扱いであります。

負けた側である光秀の実像が明治時代初期に分かっていたとは思えませんし、光秀の志の高さを表した?のかもしれませんが、この大黒様のエピソードは史実ではないと思いますが…、いかがでしょうか。

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光秀と鉄砲のエピソード

『明智軍記』に記されたエピソードです。

義龍との戦に破れた光秀は、美濃を追われて越前国の朝倉義景(あさくら よしかげ)に仕えたとされています。

朝倉義景の肖像画

朝倉義景

 

その際に、射撃が抜群にうまかったとされる光秀の腕前を義景が確かめようとし、義景に射撃を披露することになります。

光秀は25間(約45メートル)離れた場所から、的が描かれた1尺(約30センチ)四方の板を狙い、100発撃ち込んで黒星に68発を的中させ、残り32発も的に当たり百発百中の成果になったとされています。

これに関心した義景は、射撃の指南役に抜擢したとするエピソードが残されています。

 

このエピソードの出典元である『明智軍記』は信頼性に乏しい史料です。

また、朝倉義景に仕えていたこと自体史実か不明とされていますので、このエピソードも史実と捉えるのは難しいかもしれません。

ただ、光秀が鉄砲の名手であった可能性はあるようで、織田信長に仕えていた頃、明智鉄砲隊という部隊があり、信長が鉄砲を使い武田家を衰退させた戦である長篠(ながしの)の戦いでも活躍したとも言われています。

※真偽のほどは不明です。

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光秀が足利義昭に暇乞いを願いでたエピソード

光秀が室町幕府第15代・足利義昭(あしかが よしあき)に仕えていた頃、義昭に暇乞(いとまご)いを願いでた時のエピソードです。

足利義昭の像

足利義昭

 

この頃の時代背景としては、元々は利用し合っていた信長と義昭でしたが対立するようになり、浅井家、朝倉家、石山本願寺(いしやまほんがんじ)、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)などに御内書(ごないしょ)を下し、信長包囲網(のぶながほういもう)と呼ばれる反織田信長連合を築いていた時期です。

この頃、光秀は信長と義昭両方の家臣でしたので、光秀から見たら主君同士が敵対していることになります。

そのような中、元亀二年(1571)十二月二十日、光秀が同僚の幕臣で義昭の側近の曾我助乗(そが すけのり)に宛てた書状には、

 

下京壺底分地子銭、両季に弐拾壱貫弐百文、合力として進り候、
公儀(義昭)御取り成し以下頼み入り候につきて、此の如く候、
別して御馳走肝要に候、
恐々謹言、
明智十兵衛尉
元亀二 十二月廿日            光秀(花押)

 

とあり意味は、「下京の底壺の地子銭を二回にわたり二十一貫二百文ずつ進呈しますので、公儀(義昭)へのお取り成しをよろしくお願いいたします」

金銭を払い辞職の取り成しをお願いしているエピソードですが、『古簡雑纂』という文献に記載されているそうです。

 

また年も月日の記載もない曾我助乗宛て、光秀書状には
「将来的に見込みがないので暇をもらいたい。暇をもらったなら頭を丸める(出家する)なりするつもりなので、義昭様へのとりなしとりなしをたのみいる」

としていると『神田孝平氏文書』、『大日本史料』にあるそうです。

この返事がどうであったのかはわかっていませんが、この後も光秀は両属的な立場であるため、辞職の申し出は認められなかったのではないかとする説があります。

いずれにせよ、1573年2月に義昭が信長に挙兵をした時には、光秀は義昭と決別したとされています。

 

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光秀の連歌 愛宕百韻のエピソード

「ときは今 あめが下しる 五月かな」

この句をご存知でしょうか?

詠んだのは光秀ですが、この句に込められた意味は本能寺の変の決意表明ではないかとするエピソードがあります。

天正10年(1582年)5月24日(または28日)に光秀は、京都の愛宕山(あたごやま)に登り、愛宕百韻(あたごひゃくいん)という連歌会を興行したとされています。

参加者は光秀の家臣、連歌師や僧侶です。

その会で最初の一句を任された光秀は、「ときは今 あめが下しる 五月かな」と発句します。

その時は何事もなく続けられますが、数日後の6月2日に本能寺の変が起きたため、この句に深い意味が込められているのではないかと言われるようになります。

句にある「とき」とは「土岐氏=光秀の祖先とされる土岐家」のことであり、「あめが下知る」とは「天下に命令すること」いうことであり、「土岐氏が天下を支配する五月となった」という意味になるというものです。

歴史ミステリーなどに出てきそうな話ですが、この説は光秀の伝記などで否定的な意見の方が多いと感じます。

ここまで読んでいただきお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、本能寺の変は6月に起きているのに、「土岐氏が天下を支配する五月」というのは、おかしいのではないかとする意見があります。

また、この句が謀反の決意として有名になったのは、『惟任退治記<これとうたいじき>』という史料に光秀の謀反の野望として記された為だと云います。

『惟任退治記』の「惟任」とは明智光秀のことですので、「光秀退治記」という意味の史料になります。

『惟任退治記』は秀吉が家臣に書かせたものですので、史実を伝えるものというより、秀吉の喧伝(けんでん)(言いはやして世間に広く知らせる)の意味合いが強いものではないでしょうか。

 

光秀の連歌は書き直されていた

また句の表現が意図的に書き換えられたのではないかという意見もあります。

本当は光秀が詠んだ句は、「ときは今 あめが下なる五月かな」であり、意味は「今は雨が降りしきる五月である」となるそうです。

愛宕百韻に参加した里村紹巴(じょうは)も、光秀が詠んだ句は「ときは今 あめが下なる五月かな」であると答えているそうです。

また、愛宕百韻が興行された本当の日付は5月24日なのに、「本能寺の変が起きた6月2日」に近づけるため、より近い日付である28日に改ざんしたとも云われています。

※この年の5月は29日までだったそうです。

筆者もこの説は、決意表明ではないと思っていますし、表明をしたことろで光秀にリスクが高まるのではないかと思います。

愛宕百韻には、光秀の家臣でない人も沢山参加していましたので、謀反の意図に気が付かれて信長に密告でもされたら計画も頓挫しますし…。

そもそも、この時点で謀反を決めていたかわかりませんが…。

ですが、まるで光秀の決意表明であると後押しするかのようなエピソードも残されています。

光秀は愛宕山に二日間滞在して、おみくじを三度引き直し、「本能寺の堀の深さはどのくらいになるのだろう」とつぶやいたとするエピソードです。

真偽のほどは分かりませんが、創作の可能性を感じます。

皆さまはいかかでしょうか。

 

光秀は愛妻家としても知られており、妻とのエピソードをまとめた記事はこちらです。

明智光秀の妻・妻木 煕子(ひろこ)

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参考・引用・出典一覧

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