石田三成福島正則(ふくしま まさのり)は、共に豊臣秀吉に幼少の頃から使えた家臣でありながら、なぜ関ヶ原戦いで敵対したのか。

疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。

福島正則と石田三成、豊臣家との接点をみながら、関ヶ原の戦いで何故、正則が徳川方についたのか考察します。

 

福島正則の経歴

福島正則の経歴と三成、豊臣家との接点をみていきます。

Masanori_Fukushima

福島正則

1561年、桶屋(おけや)を運営した福島正信(まさのぶ)の嫡男として、尾張で生まれたとされます。

※福島正信は養父との説もあります。

正則の母は、豊臣秀吉の母(大政所<おおまんどころ>)と姉妹であると伝わりますので、豊臣秀吉の一族衆ということになります。

秀吉の叔母を母に持つ縁から、幼少の頃より秀吉に仕え、明智光秀との山崎の合戦による戦功を皮切りに、1583年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いにおいては、柴田勝家(しばた かついえ)方の大将・拝郷家嘉(はいごう いえよし)を討ち取り、大いに武名をあげます。

おそらく秀吉の宣伝ではあるものの、賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)と称され、7人の中でも最高の5,000石を与えられます。

その後も、秀吉に従って戦功をたて、島津氏を屈服させた九州攻めの後に、伊予今治(いよのくにいまばり)(愛媛県)にて、11万3,000石の大名となります。

 

正則らと石田三成との対立

正則は参加していませんが、朝鮮出兵の後半戦である慶長(けいちょう)の役にて、石田三成と武断派の武将との仲が険悪になったとされています。

 

石田三成の朝鮮出兵の記事はこちらです。

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石田三成と朝鮮出兵

そして、秀吉が亡くなり、仲介役であった前田利家(としいえ)も亡くなると、1599年に「石田三成襲撃事件」が起きます。

 

石田三成襲撃事件を起こした七将(しちしょう)は、福島正則、黒田長政(ながまさ)、加藤清正(きよまさ)、細川忠興( ただおき)、浅野幸長(よしなが)の5名と池田輝政(てるまさ)、加藤嘉明(よしあきら / よしあき)とする説、または、5名と蜂須賀家政(はちすか いえまさ)、藤堂高虎(たかとら)とされています。

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正則が秀吉の遺命に背(そむ)く

 

この頃、福島正則の養子である福島正之(ふくしま まさゆき)と家康養女満天姫(まてひめ)が、秀吉の遺命に反して結婚します。

満天姫の肖像画

満天姫

少し話がそれますが、1607年に福島正之は乱行を理由に幕府に訴えられることになり、幽閉処分の後に1608年に餓死したそうです。

正則が実の子供を跡継ぎにする為の虚偽であるとも言われているそうです。

真実は不明ですが、実の子を跡継ぎにする為とはいえ、甥っ子を餓死させたことが事実だとしたら怖い人だなと思ってしまいました。

戦国時代は珍しいことではありませんが…。

また夫亡き後、満天姫は津軽信枚(つがる のぶひら)に再嫁するのですが、当時の津軽信枚の正室は石田三成の三女である辰(たつ)姫でした。

家康の養女(満天姫)降嫁により、三成三女は側室に降格になり、満天姫に幽閉状態の生活を強いられ、幽閉状態の中亡くなります。

三女についてはこちらの記事に記載しています。

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石田三成の子供~三女 辰姫~

 

正則の関ヶ原戦い

1600年の関ケ原の戦いで、正則は最も奮戦した武将とも言われます。

三成に先んじて尾張(おわり)・美濃(みの)を抑え、岐阜城を攻め、関ケ原の戦いでは徳川方の先鋒として、西軍で最大兵数である宇喜多秀家(うきた ひでいえ)隊1万7,000と戦い、退けることに成功します。

 

正則と三成の逸話

関ヶ原の戦いで敗北し、お縄を受けた三成に、正則が罵った話は有名です。

正則が「そのざまはなんだ」と言ったことに対して、三成が「おのれを生け捕りにして、縄を掛けられなかったのは天運なり」と話したと伝わります。

しかし、全く反対で三成を慰めたとする話が「名将言行録」に残されています。

「至極もっともなことだ。武将たる者はみなそのように考えなければならない。決して恥じることではない」と言って三成を慰め、それを見た他の武将達は、正則のことを誉めたといいます。

 

※この話の真偽は不明です。

 

関ケ原の戦い後の正則

そして、関ヶ原戦いの功績により、正則は安芸(あき)・備後(びんご)(広島県)49万8,000石の大大名となります。

戦で功名をあげているイメージが強い正則ですが、行政面でも実績も残しています。

1601年の検地で石高(こくだか)の再算出を行い、49万8,000石から51万5,000石まで増加させたり、領民の負担を少なくするなどの善政を敷き、優れた政治力も発揮したとされています。

 

関ケ原の戦い後も豊臣家を立てる

1603年に江戸幕府が成立していますが、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかったことから、江戸幕府に警戒されたとも伝わります。

1611年、正則らの説得で家康と秀頼の二条城での会見が実現します。

豊臣秀頼

豊臣秀頼

しかし、この会見の直後に正則以外の豊臣恩顧の大名は相次いで亡くなります。

江戸幕府の毒殺説などありますが定かではありません。

 

正則の夏の陣

豊臣家滅亡の戦である大阪の陣では、秀頼に見方になるよう求められますが断ります。

しかし、米8万石が盗まれることは、黙認したと伝わります。

何もできないので、せめてとも思ったのでしょうか…。

その時に、「時すでに3年早く、3年遅かった。こうなってはあとの祭りである」と話したという逸話があります。

3年早ければ、加藤清正など豊臣恩顧の有力武将が多数生き残っていましたし、3年遅ければ徳川家康が老齢の為、亡くなっているかもしれないという意味のようです。

一方で江戸幕府から徳川方としての参戦も認められず、嫡男の福島忠勝(ただかつ)のみ徳川方として参戦します。

※親族の福島正守(まさもり)、福島正鎮(まさしげ)は浪人した後に、豊臣家に加勢したと伝わります。

正則改易

そして、1619年に広島城を無断で修改築したと難癖をつけられて、安芸広島藩50万石は没収、越後国魚沼郡(えちごのくにうおぬまぐん)(新潟県)の4万5,000石に配流(はいる)の身となり、嫡男・忠勝(ただかつ)に家督を譲った後に出家します。

しかし、1620年に嫡男・忠勝が亡くなり、正則は悲しみの余りは2万5,000石を幕府に返上したと伝わります。

そして、1624年7月13日に正則は64歳で没し、残りの2万石も没収され、福島家は取り潰しになります。

正則の子で忠勝の弟である福島正利(まさとし)は、父(正則)の貴重な遺品の一部を幕府に献上し、献上が功を奏したのか不明ですが、正利は旧領から3,112石を与えられて旗本となります。

後に、福島正利(まさとし)が跡継ぎなく亡くなったため、福島家は一時断絶しますが、正則の嫡男である福島忠勝の孫・正勝(まさかつ)が、2,000石を与えられ寄合(よりあい)になり、以降、福島氏は2,000石の旗本として存続することになります。

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関ヶ原戦いの戦いで三成に敵対したのは何故か

 

いくつかの説がありますので、あげていきます。

◎保身のため徳川家康にすり寄った
保身のためとする説のそれらしい理由として、秀吉の遺命を破ってまで、徳川家と婚姻関係を結び、徳川家康に懐柔されています。

一方で、1600年の関ケ原の戦い後も豊臣家を主筋に立てていたことや、関ケ原の戦い後も豊臣姓であることが確認されています。

◎豊臣政権の内部分裂だった

関ケ原の戦いの後、どうなったのかを知っている現代人から見たら、違和感があるかもしれませんが、豊臣家滅亡になると思っていなく、豊臣政権の内部分裂であったとする説です。

福島正則は槍(やり)働きなどで、石田三成は奉行など政治手腕などで出世した人物とされており、タイプが違う人間同士で気が合わなっかたと伝わります。

気が合わないといっても、朝鮮出兵以前に対立したとする資料はなく、朝鮮出兵を機に、槍働きなどで出世した武断派と呼ばれる武将達と三成が対立するようになります。

秀吉の死と共に朝鮮出兵が終わり、朝鮮出兵で仲たがいしたまま豊臣家家臣内で対立し、関ヶ原戦いへ繋がっています。

関ヶ原戦いは、「徳川vs豊臣」ではなく「豊臣vs豊臣」の戦いであったということです。

◎豊臣家が残れるなら良いと思っていた
 

豊臣秀吉も織田信長亡き後、豊臣家の天下を築いたわけです。

徳川の世になっても、豊臣家が残れるなら良いと思っていたとする説です。

 

正則の本音を知る術はありませんが、秀頼は自害して果て、豊臣家は滅びたわけですので後悔はあったのかもしれません。

そして、晩年は福島家も改易されるのですが、「名将言行録」にその時の逸話が書かれていますので、紹介させていただきます。

 

正則、晩年の逸話

ある時、広島城を無断修繕したと言いがかりをつけられて改易されてしまいます。

正則の家臣が、徳川の天下取りに最も貢献したのに酷い仕打ちだと嘆きます。

嘆く家臣に対する正則の言葉です。

「弓を見てみろ。敵がいる時は重宝この上ない物だが、国が治まり、敵がいない時は袋に収めて土蔵にしまわれているだろう。我は弓である。乱世には役立つが、平和な世ではそこらに置いておいては危ないので土蔵に入れられるのだ」

 

自身を我は弓のようなものだと例えて、乱世では重宝されるが、太平の世では役に立たずお蔵入りであると嘆いています。

そして、素直に幕府の指示に従うように家臣を諭したといいます。

大事にしていた豊臣家は滅び、自身も改易となった晩年は後悔の念があったかもしれません。

 

筆者の所感

個人的な所感としては、正則が徳川家康が天下を狙っていたことに、気が付かなかったことはないと思っています。

下剋上の世の中、家臣が大名にとって代わるなど、散々目の当たりにしていたはずで、徳川家康の野心には鈍感であったという説には違和感があります。

かといって豊臣家を見捨てて、関ケ原の戦いで徳川家康についたわけでなく、徳川政権になっても存続できると思っていたのかなと思います。

(結果を知っている筆者としては、そんな訳ないと言いたくなりますが…。)

徳川家康も最初は、豊臣家を滅亡させるつもりはなかったとも言われていますし、小西行長(ゆきなが)と三成ら奉行衆を排除したかったのではないかと思っています。

※小西行長は、三成の盟友の一人で、朝鮮出兵で三成以上に武断派武将と対立したと伝わります。

正則は晩年、何を思ったのでしょうか。

この世の無常を感じていたかもしれません。

嫡男にも先立たれ、失意のうちに没したようです。

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参考・引用・出典一覧

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