1592年に始まった朝鮮出兵と石田三成の動向についてまとめます。

1590年に豊臣秀吉が天下統一を果たし、当時の人は、太平の世が訪れたかに思えたのではないでしょうか。

しかし、豊臣秀吉は明(中国)の征服を目指すようになります。

このことは、生前の豊臣秀長や石田三成、大谷吉継(おおたに よしつぐ)、前野長康(まえの ながやす)など反対する者もいたそうですが、秀吉は耳を貸さず、

朝鮮に出兵することに決まってしまい、異国の地で朝鮮軍、明軍と戦うことになります。

 

朝鮮出兵の前半戦・文禄の役(ぶんろくのえき)

石田三成

石田三成

1592年5月24日~1593年7月に朝鮮半島、満州(まんしゅう)・豆満江(とうまんこう、とまんこう) で起きた戦争です。

日本軍の総大将は、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)です。

石田三成は船奉行に任じられ、大谷吉継らと共に約4万そうもの船を用意し、大部隊や食料、武器などを朝鮮に送る手筈を整えます。

朝鮮に上陸した日本軍は、開戦当初は朝鮮側の食糧庫を奪いながら、連戦連勝で進撃していました。

そのような中、石田三成大谷吉継(おおたに よしつぐ)、増田長盛(ました ながもり)の三奉行は、朝鮮在陣奉行として朝鮮の地を訪れます。

そして三成は、総大将・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)らと共に軍議を開きます。

秀吉が早々の明侵攻を命じていることもあり、さらに進軍しようとする主戦派と三成ら慎重派との間で、激しい議論があったと、「武功夜話」、「フロイス日本史」などに記されているそうです。

(※秀吉自身は「唐(から)入り」と称しています)

ですが、三成ら慎重派の意見が主流となり、さらなる進軍は見合わせとなりました。

三成らの書状

この軍議の直後に三成らが書いた書状が現存します。

長束正家(なつか まさいえ)ら秀吉近臣に宛てた書状であり、石田三成、大谷吉継、増田長盛の三奉行連署の書状です。

その書状に書かれていたことは

明への討ち入り(唐入り)は不可能であり、年内は朝鮮国内を鎮めることが必要であること

・(食料の補給ができないので)兵糧の維持が難しいこと

が書かれており、このままでは日本人がいなくなっていまうと、秀吉の期待とは正反対の意見を書いています。

 

三成らの予想が的中

後に、この三成らの予想は的中してしまいます。

小西行長(こにし ゆきなが)の敗走により、日本側の前線は総崩れになり、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)が守備する開城(けそん)に退きます。

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三成ら奉行衆と小早川隆景ら対立

この時、小早川隆景は開城(けそん)で明軍を迎え撃つことを主張します。

日本側の要の地であり、秀吉からも死守を命じられていた拠点でもあり、小早川隆景の意見は理解できるものでした。

ですが、この時また三成ら奉行衆小早川隆景らとで意見が対立してしまいます。

三成ら奉行衆は、開城への通路が塞がれ、補給路が遮断されるのは避けられず、兵糧や弾薬が足りなくなる旨主張します。

(奉行衆の意見が正しいのは明らかのようです)

ですが、怒り心頭した小早川隆景は、「奉行衆は臆病風に吹かれたのか」と言い放ちます。

ですが、大谷吉継(おおたによしつぐ)、前野長康(まえのながやす)らが仲裁に入り、景隆が撤兵に同意したそうです。

 

碧蹄館の戦い

そうして、漢城へ集結し漢城北方の碧蹄(ぺくちゅ)で明軍を撃退します。

これは、史上名高い「碧蹄館の戦い」であり、小早川景隆、立花宗茂(たちばな むねしげ)らの活躍により勝利しました。

 

秀吉激怒

碧蹄館の戦いの戦いに勝利したものの、開城からの撤退に激怒した秀吉が門罪使(もんざいし)として浅野長政(あさの ながまさ)(石田三成の上司に当たる人物です)を送り込んできました。

責任を問われることを恐れ皆が黙り込む中、三成が一人立ち上がり、開城撤退の理由を理路整然と述べ長政も納得せざるをえなかったそうです。

三成帰国後、秀吉の面目が保たれる形で、明と講和の道を探りますが、結局決裂します。

 

朝鮮出兵の後半戦・慶長の役(けいちょうのえき)

1597年1月~1598年12月に朝鮮半島で起きた戦争です。

総大将は小早川秀秋(こばやかわ ひであき)(秀吉の義理の甥)です。

朝鮮出兵の後半戦は、日本軍は加藤清正小西行長を先鋒として出陣します。

そして、戦目付7名を任命し、日々の戦況の記録、詳細な報告を命じられています。

通説ではその頃、三成は伏見城に留まっていたとされています。

しかし、石田三成研究家の白川亨氏によると、諸将の恩賞要求に対処する為、各地を奔走し検地を行っていたそうです。

戦っている諸将としては、恩賞として石高(こくだか)を加増して欲しいわけですが、朝鮮出兵では加増できるか不透明であるため、検地を行い要求に対処できないか奔走していたそうです。

 

蔚山(うるさん)城

日本軍は、朝鮮水軍を攻撃し勢力を一掃することに成功します。

そして日本軍は、水軍の他に、陸路を二手に分かれて進撃し制圧していきます。

又、加藤清正、浅野幸長(あさの よしなが)らは、計画通り蔚山(うるさん)に城を築いて、日本の領土化を目指します。

朝鮮軍は、築城中の蔚山城を包囲し、水源を断った為、蔚山城の中の日本軍は水も兵糧もない深刻な状況になり、落城は時間の問題となります。

しかし、籠城(ろうじょう)開始から10日後に、毛利秀元(もうり ひでもと)等が率いる援軍が到着し、明・朝鮮連合軍を撃退します。

 

戦線縮小案を申し出る

勝利したとはいえ、籠城戦(ろうじょうせん)は日本軍の戦意を低下させ、蔚山(うるさん)などの城を放棄する戦線縮小案を秀吉に申し出ることになります。

 

宇喜多秀家らほか12名連署言上状が三成に送くられたそうですが、この時、浅野長政と共に会津にいて対応できなかったようで、戦線縮小案は秀吉により却下され、秀吉は戦線縮小案に激怒したそうです。

 

何故会津にいたかは、こちらの記事の蒲生家騒動に対処していた為です。

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石田三成の子供~次女~

 

その後、城の補強工事や兵糧の備蓄など体制を整え、守備の兵を朝鮮に残して、順次帰国し、次の派遣に備えることになりました。

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朝鮮と和平交渉へ

しかし、1598年に豊臣秀吉が亡くなります

五大老と五奉行などで話し合い、朝鮮と和平交渉を行うことになります。

比較的順調に進んだようですが、秀吉の死が朝鮮軍に知られたことで、日本の退路を断つべく攻撃されます。

ですが、島津義弘らの奮戦で撃退し、帰国は完了します。

どちらの国も自国の勝利を主張したため、勝敗はついていません。

 

朝鮮出兵後に三成と諸大名が対立

朝鮮出兵後に、諸大名から三成が文句などを言われたのは知られた話だと思います。

朝鮮出兵の諸大名との対立は、戦場でのことを秀吉に報告する役目である戦目付も関係しています。

 

朝鮮出兵の戦目付

戦目付7名中4名は三成と親しい人達ですので記載します。

福原長堯(ふくはら ながたか)の妻は三成の妹です。

熊谷直盛(くまがい なおもり)の妻は三成の妹(又は娘)です。

垣見一直(かきみ かずなお)と太田一吉(おおた かずよし)は三成と腹心の仲です。

 

朝鮮出兵の怨恨が関ヶ原の戦いに

戦線縮小案により秀吉が激怒した戦いである、蔚山城の戦いについて、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)と黒田長政が十分な働きをしなかった旨を秀吉に戦目付が報告しています。

報告をしたのは、福原長堯、熊谷直盛、垣見一直で、その褒美として豊後国(ぶんごのくに)(大分県)内に領地が与えらたそうです。

一方で、蜂須賀家政、黒田長政は咎めを受け、蜂須賀家政は蟄居と蔵入地の没収という処罰を受けてしまいます。

その後、秀吉が亡くなり、三成失脚後に、徳川家康により蔚山城の戦いの件で諸将に「落ち度がなかった」として名誉回復処分撤回の処置が行われ、理由はわかりませんが蜂須賀家政、黒田長政は関ケ原の戦いで家康側に付つくことになります。

蔚山城の戦いで、働きが十分でないといっても蜂須賀家政は武功を挙げ、黒田長政は援軍を派遣してます。

 

 

軍目付3人の処分を要求

又、秀吉に報告する際に、三成と熊谷直盛、垣見一直、福原長堯が計ったとして、加藤清正(かとう きよまさ)、細川忠興(ほそかわ ただおき)、黒田長政(くろだ ながまさ)、脇坂安治(わきざか やすはる)、加藤嘉明(かとう よしあきら/ よしあき)、福島正則(ふくしま まさのり)、浅野幸長(あさの よしなが)らは三成を恨み軍目付3人の処分を要求しているそうです。

どうやら、朝鮮出兵で多くの反発者を作ってしまったようです。

脇坂安治以外は、全員関ケ原の戦いで家康につきました。

脇坂安治は、関ヶ原の戦いで裏切り工作を受けており、予定通り家康側に寝返りました。

元々合わなかったのかもしれませんし、三成は後半は日本にいましたので、朝鮮で生きるか死ぬかの思いをした身として、恨みのような妬みのような気持ちがあったのかもしれません。

 

筆者の所感

秀吉は天下統一を果たし戦のない世の中を作れたはずなのに、自身が亡くなるまで朝鮮出兵をしていました。

一方で戦をして高禄を得えたいと望む方達も少なからずいたようです。

朝鮮出兵では土地など得る物はありませんでしたので、7年近く朝鮮出兵をしたのに諸将に恩賞(加増)が無かったことで、諸将も苛立ちなどがあり、三成奉行衆にぶつけてきた面もあると思います(感謝状はあったそうです)。

又、三成の現存する書状についてですが、忍城の戦いの時もそうですが、秀吉と意見が違うと言えるところは凄いですよね。

現代でも上司に反対意見を言うのは大変だと思います。

戦国時代は、気にいらないと簡単に切り殺される時代です。

その上、秀吉は今まで秀吉を支えてくれた古参の家臣でさえ、言いがかりのような理由で何人も成敗しています。

三成の勇気には驚き、一方で秀吉の暴君ぶりを考えると豊臣家の滅亡も仕方ないようにも感じてしまいます。

 

 

忍城の戦いの記事はこちらです。

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石田三成と忍城の戦いから三成の戦下手を検証する

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参考・引用・出典一覧

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