石田三成の妹婿と伝わる福原長堯(ながたか)(直高)と、石田三成の妹婿か娘婿と言われている熊谷直盛(くまがい なおもり)についての記事です。

 

福原 長堯

福原 長堯(ふくはら ながたか)は、誕生年月日は不明で、最初、直高(なおたか)と名乗ります。

 

福原 長堯、豊臣秀吉の小姓になる

1578年、羽柴秀吉の中国征伐の際に、同族とされる福原則尚や福原助就(ふくはら すけなり)を殺害されています。

同族が殺害されているのに不思議ですし、時期は不明ですが、豊臣秀吉に小姓として使え始めたとされます。

 

石田三成の妹婿になる

福原長堯(直高)が結婚した時期は不明ですが、正室は石田正継(まさつぐ)の娘で、石田三成の妹婿とされています。

石田三成の肖像画

石田三成

石高は少しずつ加増され、1597年には自身最大となる12万石を与えられます。

同時に、豊後国(ぶんごのくに)(大分県)の府内新城(ふないじょうせき)へ転封され、居城の築城を開始します。

また同年の1597年に、豊臣姓を下賜されます。

 

朝鮮出兵で武断派に恨まれる

1597年1月~1598年12月まで続いた、朝鮮出兵の後半戦である慶長の役(けいちょうのえき)では、熊谷直盛らと共に朝鮮出兵の軍目付に任命されます。

福原長堯(直高)は軍目付として、熊谷直盛らと共に軍令違反をした者を秀吉に厳しく報告したと伝わります。

そのことが原因で、加藤清正(かとう きよまさ)、細川忠興(ほそかわ ただおき)、黒田長政(くろだ ながまさ)、脇坂安治(わきざか やすはる)、加藤嘉明(かとう よしあきら/ よしあき)、福島正則(ふくしま まさのり)、浅野幸長(あさの よしなが)ら武断派から恨まれてしまいます。

朝鮮出兵の記事はこちらです。

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石田三成と朝鮮出兵

 

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徳川家康が政務を行う

1598年秀吉の死により、豊臣秀頼に仕えます。

後に石田三成の失脚後、朝鮮出兵の際に、秀吉に厳しく報告された武断派の武将達の名誉回復処置を五大老筆頭の徳川家康が行い、彼らは後の関ケ原の戦いで徳川家康につきます。

一方の福原 長堯は、徳川家康により建設途中の府内城を没収され、6万石に所領を減らされます。

 

関ヶ原の戦い

関ケ原の戦いでは西軍につきます。

関ヶ原の戦い直前まで、西軍の多くは大垣城に駐留していました。

大垣城に守備兵として福原長堯を主将に据えて、三成は主力を関ケ原に移します。

 

 

大垣城の戦い

福原長堯の関ヶ原の戦いは、大垣城の戦いとなりました。

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大垣城

本丸は福原長尭、熊谷直盛、二の丸は垣見一直(かきみ かずなお)、木村由信(きむら よしのぶ)(木村宗左衛門勝正)、相良頼房(さがら よりふさ)、木村豊統(木村由信の子)、三の丸は秋月種長(あきづき たねなが)、高橋元種(たかはし もとたね)ら総勢7,500名で大垣城を守備します。

三成の腹心と言われる諸将たちです。

大垣城は天然の要害地であり、徳川方も容易に攻略できないことがわかっていたそうです。

 

大垣城の諸将が動揺する

しかし、関ヶ原の戦いで西軍敗北の知らせが入ると大垣城にも動揺がはしります。

相良氏の家臣である犬童頼兄(いんどう よりもり/よりえ)(別名、相良清兵衛)は、徳川家康の家臣である井伊直政と内通していました。

頼兄は、主君である頼房に東軍に寝返るように助言し、同じく内通していた秋月種長と高橋元種(秋月種長の弟)らと共に寝返りを決めます。

相良頼房の正室は、秋月種長、高橋元種兄弟の妹であり親しい間柄であったと推察できます。

 

徳川家康に降伏状を届ける

相良頼房、秋月種長、高橋元種ら3将連署の降伏状を持った密使は、徳川家康に、4800人の兵は徹底抗戦派と恭順投降派に分かれていて、3将は恭順投降派であると降伏状を渡したそうです。

家康からは、武器を捨て投降すれば、無血開城する旨の返答があったとされます。

 

井伊直政の命令

家康のいる本陣から引き下がる相良らの使者を待っていた井伊直政は、

三成恩顧に預かり、徹底抗戦を主張する垣見一直、熊谷直盛、木村勝正の首をとって、家康公の面前に差し出すよう

命じています。

そうして、相良頼房、秋月種長、高橋元種は、熊谷直盛(本丸守備)、垣見一直(二の丸守備)、木村由信(二の丸守備)、木村豊統(二の丸守備)、らを軍議を名目に呼び出し謀殺し、相良頼房らは二の丸を制圧します。

 

福原 長堯は奮戦し降伏

徹底抗戦を唱える主力武将は、福原 長堯のみになってしまいます。

福原 長堯は本丸に立て籠もって奮闘しましたが、逃げ出す兵もいて、ついに降伏を申し入れます。

 

福原 長堯、出家と自害

大垣城を明け渡して、伊勢朝熊山(いせあさまやま)へ蟄居し、出家して道蘊(どううん)と名乗ります。

和議の条件の通りに出家しましたが、家康は長堯を許さず切腹を申し付けます。

朝鮮出兵の際に軍目付として、東軍諸将の恨みを買っていた為とも、自害ではなく相良の者に謀殺されたとも伝わります。

お墓は、朝熊永松寺にあり、戒名は一住院順積道蘊大禅定門と伝わります。

 

福原 長堯の子供

長堯の2歳だった子供は乳母らにより因幡国(いなばのくに)(鳥取県)に逃れ、次の代で備前国(びぜんのくに)(岡山県)に移り住んだそうです。

この家系は現在も存続しているそうですが、詳細は不明です。

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熊谷直盛

熊谷直盛(くまがい なおもり)は、豊臣秀吉の家臣で、石田三成の妹婿か娘婿と言われています。

妹婿説が正しいように思いますが、もし仮に娘婿であった場合は、側室の子供ということになると思います。

三成の子供たちについてはこちらの記事です。

👇
石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

熊谷直盛は熊谷 直実の末裔

熊谷直盛の生年月日は不明で、桓武平氏(かんむへいし)・平貞盛(たいら の さだもり)の孫である熊谷 直実(くまがい なおざね)の末裔と伝わります。

熊谷 直実は、現在の埼玉県熊谷市の出身で、源頼朝の御家人(家臣)でした。

源平合戦の一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)で、平清盛の甥である平敦盛(たいら の あつもり)を討ち取ったことで有名です。

 

熊谷直盛は秀吉の金切裂指物使番

熊谷直盛は、豊臣秀吉に馬廻として仕えて、秀吉により金切裂指物使番(きんのきっさきさしものつかいばん)として選抜されます。

後に大垣城の戦いで、共に奮戦することになる垣見一直(かきみ かずなお)らと共に、金切裂指物使番として取り立てられます。

1594年には、豊後(ぶんご)(大分県)・安岐城(あきじょう)と1万5,000石を拝領します。

 

 

朝鮮出兵で恨みを買う

福原長堯(直高)のところで記載しましたが、朝鮮出兵では軍目付に任命され、軍令違反をした者を秀吉に厳しく報告し武断派武将の恨みを買ってしまいます。

一方で、秀吉の死後ですが、毛利吉成(毛利 勝信)(もうり かつのぶ)、竹中重利(たけなか しげとし)、加藤清正、黒田長政らに、朝鮮出兵の際に熊谷直盛が利己心があって正しくない行いをしたと訴えられます。

そして、五大老によって蟄居と改易の処分を受けます。

 

 

大垣城の戦い

関ヶ原の戦いは西軍に属し大垣城を守備します。

福原長堯(直高)のところで記載したように、裏切りに合い、息子の熊谷勝兵衛と共に謀殺されてしまいます。

叔父である熊谷外記(西軍として九州で戦っていました)を始め生き残った一族は、黒田官兵衛に召し抱えられ、黒田家の家臣になったそうです。

他に、加賀(石川県)の前田家、津(つ)(三重県津市)の藤堂高虎に仕えたものもいるそうです。

 

相良頼房が三成らの供養をする

関ヶ原の戦いから32年が過ぎた1632年、相良頼房は、大垣城の戦いで裏切り謀殺した諸将達と三成の追善供養を、家老である犬童頼兄(いんどう よりもり/よりえ)(別名、相良清兵衛)に命じます。

 

相良頼房も三成恩顧

相良頼房は、三成に恩義があったと伝わります。

1587年、秀吉の島津攻めの時に島津方に属し、領地没収されるべきところ、三成の執り成しに救われたそうです。

その後もなにかと三成のお世話になったようで、恩を仇で返したことに苦しんでいたのかもしれません。

三成は大垣城を重要視し、信頼できる諸将に守備を任せていますので、裏切りが三成の知るところであったとしたら、どんな思いだっただろうとも思います。

頼房は、犬童頼兄に命じ供養塔(石田三成、熊谷直盛、熊谷勝兵衛、垣見一直、木村由信、木村豊統)を6塔建てて、33回忌の法要を営み、現在も

人吉市の願成寺に供養塔が残っています。

 

犬童頼兄の功績

先に述べたように、大垣城の戦いで、犬童頼兄が井伊直政と通じ、裏切りを相良頼房に助言しました。

その結果、主君である相良家のお家は存続できました。

 

藩主も犬童頼兄に手を焼く

犬童頼兄は、この功績を誇り専横な行為が多くなっていたそうです。

そして、相良頼房は亡くなるときに、ついに犬童 頼兄の排除を言い残したそうです。

相良家にとって犬童 頼兄は恩人です。

次の藩主・相良頼寛(よりひろ)は苦悩の上、幕府に訴え土井利勝(どい としかつ)らから尋問されることになります。

犬童 頼兄は徳川家康からも大垣城の功績を称えられたそうです。

 

頼兄、三成の孫にお預け

大垣城の功績と老年が考慮され、処分は、1640年に弘前藩・3代目藩主である津軽信義(つがる のぶよし)(三成の孫)に預ける決定がされました。

犬童 頼兄としては、三成の孫のところへお預けとは、恐ろしかったのではないでしょうか。

三成の意に反し裏切り、三成の親族や腹心を謀殺したのですから。

犬童 頼兄は、殺されてしまうのではないかと思っても、不思議でない状況に思えましたが、事実は違いました。

住居の他、米300俵30人扶持を与えられ、1655年88歳の長寿を全うしています。

頼兄が住んだところは、相良町として地名が残っています。

津軽家の記録によると、犬童 頼兄の曾孫・四郎右衛門長矩(ながのり)を田浦と改正させ、時の藩主である4代・津軽信政(つがる のぶまさ)(三成曾孫)は家臣として処遇し、津軽家に代々仕えたそうです。

津軽信義の記事はこちらです。

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石田三成の子孫~津軽信義とその子孫~

 

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参考・引用・出典一覧

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