石田三成の盟友といえば直江兼続(なおえ かねつぐ)を思いつく方も多いのではないでしょうか。

 

直江兼続

Naoe_Kanetsugu

出典:wikipedia

豊臣秀吉は、直江兼続を「天下執柄(しっぺい)の器量人」と評したと伝わります。

天下執柄の器量人とは、天下を治める器量を持つ者というほどの意味になります。

天下人の豊臣秀吉が、上杉家の陪臣に過ぎない直江兼続に向ける言葉として、最高の褒め言葉ではないかと思います。

 

直江兼続の幼少

兼続は、石田三成と同じ1560年生まれと伝わります。

直江兼続の幼名は、樋口(ひぐち)与六で、元服後、兼続と改名します。

1560年、新潟県南魚沼市(みなみうおぬまし)かに南魚沼郡湯沢町(みなみうおぬまぐんゆざわまち)で、樋口兼豊(かねとよ)の長男として生まれたとされます。

父、母の身分については諸説有り、又、信頼度の高い資料はなく立証はされていません。

 

スポンサーリンク






直江兼続、上杉景勝の家臣になる

主君であった長尾政景(ながお まさかげ)が死去すると、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)(当時は顕景<あきかげ>)に従います。

1578年、上杉謙信が亡くなった後に起こった上杉家の後継者争いである「御館の乱(おたてのらん)」に、上杉景勝が勝利します。

この乱で兼続は、一族とともに戦功をあげたとも、武田勝頼(かつより)との和睦をまとめるのに奔走したとも伝わります。

naoekanetugu

直江家を相続する

1581年9月、上杉家の重臣であった越後与板(よいた)城主・直江信綱(のぶつな)が、春日山城内で争いに巻き込まれて死去してしまいます。

直江家は跡取りがないため、上杉景勝は兼続に直江景綱の娘であった船の婿養子になり、直江家を相続するよう命じます。

そうして、ここに与板城主・直江兼続が誕生しました。

景勝は、生涯、兼続に絶大な信認を与えて上杉家の軍事・民政・外交を任せています。

 

兼続と三成の接触

兼続と三成、二人の初めての接触は、1582年から翌年にかけてとする説があります。

その直後に起きたことと言えば、1583年4月、秀吉が柴田勝家と覇権を争った近江(おうみ)(滋賀県)で起きた賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いです。

秀吉は、景勝に越前の柴田勝家の背後を脅かすことを期待していたとされます。

秀吉は、越中(えっちゅう)(富山県)に攻め入ることを書状で求め、景勝は家臣の大石綱元(つなもと)を使者にたて、秀吉と同盟の誓詞(せいし)を交わしたと伝わります。

その時、書状の副状(そえじょう)に三成の名を確認することができ、上杉方の折衝は兼続が担っていたことが推測され、この時に出会っていたのではないかといわれています。

 

石田三成と賤ヶ岳の戦いについての記事はこちらです。

👇

石田三成と賤ヶ岳の戦い

 

上杉家と緊迫状態に

しかし、当時の景勝の関心は越後の平定であった為、景勝の動きは鈍かったそうです。

秀吉は苛立ち、柴田滅亡後に上杉討伐を公言していました。

そのような緊迫した中、三成らが兼続にだした書状が現存しています。

 

兼続宛の三成書状

現代語訳を引用します。

書状ありがとうございます。この度、人質を上洛させるとのこと、よくよくお考えいただき、秀吉も満足しています。詳しくお知らせください。これよりはどんなことでも使者をもって申し入れください。
恐惶謹言

 

恐惶謹言(きょうこうきんげん)とは、当時、相手に敬意を表するために手紙の末尾に用いた言葉とのことです。

三成らは敬意を払い兼続に接しています。

緊迫状態から、景勝側が人質を出すことで、秀吉との関係が修復されました。

当時、上杉家は豊臣秀吉に主従していませんが、人質を送る異例の対応で危機を乗り切りました。

 

スポンサーリンク






墜水(おちりみず)城

「上杉三代日記」によると、兼続と三成が初めて顔を合わせたのは、1585年8月のことであるとされています。

越中富山の佐々成正(なりまさ)討伐のために出陣した秀吉が突如、越後・越中国境の墜水(おちりみず)城(のち勝山城)を訪問し、秀吉、景勝、三成、兼続の4人だけで密談したとされています。

当時、越後の上杉家は、越中への侵攻を目指していました。

しかし、国内でも新発田重家(しばたしげいえ)の反乱を鎮圧できず、単独では謙信以来の領地である越中を回復できないでいました。

景勝は秀吉政権の後ろ盾を得て、新発田重家を倒すことを望んでいたとされています。

秀吉は景勝に対し、上洛して臣従するように説得し、景勝がそれに応じ臣従することが決定します。

この時、景勝、三成はともに26歳、性格に似ているところがあるともいわれており、通じるものがあったのかもしれません。

※この「墜水の会」は、上杉家正史には記録がないため、疑問視する研究家もいます。

 

上杉家越後統一

1585年、景勝は兼続を伴って上洛し、正式に秀吉に臣従します。

この時、三成は、景勝、兼続を加賀(石川県)まで迎えに行ったと伝わります。

その後、紆余曲折ありながら、新発田重家征伐が秀吉から認められ、景勝、兼続は念願の越後統一を果たします。

その後、度々の秀吉からの上洛要請に応じ、小田原参陣、朝鮮出兵、伏見城普請などの賦役(ふえき)を務め、秀吉の信用を得ることになります。

兼続は、1586年8月7日、従五位下(じゅごいげ)(日本の位階)に任ぜられます。

 

三成と朝鮮出兵の話はこちらです。
👇

三成と朝鮮出兵

上杉家会津転封(てんぽう)

1598年正月、秀吉は景勝に会津・米沢(よねざわ)92万石に旧領の佐渡(さど)・庄内を加えた120万石への加増転封を命じます。

岩出山(いわでやま)(宮城県大崎市)の伊達政宗(だてまさむね)や山形の最上義光(もがみよしあき)などの抑えとして、会津は重要な拠点です。

豊臣秀吉は、名将・蒲生氏郷に(がもううじさと)に会津の地を任せていましたが、氏郷が亡くなり幼い当主の元で蒲生家が荒れたこともあり、上杉家に白羽の矢が立ちました。

やっとの思いで越後を統一して間もない頃、父祖(ふそ)伝来の地である越後を去ると知った時は、どのような思いだったのでしょうか。

しかし、石高が増えますので、それにに伴い経済基盤を強化できます。

長い目でみれば悪い話ではなかったのではないでしょうか。

 

三成らが会津へ派遣

上杉家、豊臣政権にとっても大事業となる、転封をスムーズに実行させるために三成が派遣されます。

旧会津の村々には、直江山城守(やましろのかみ)(兼続)、石田治部少(じぶしょう)(三成)の名が連署された、不法行為を禁じる掟書きが残されています。

主君が異なる者が共同で命令を出すのは珍しいことで、兼続と三成の連携によって会津への転封が実現したことを窺わせる資料とみられています。

転封により、兼続には寄騎(よりき)を含めると30万石の所領が与えられています。

この会津移封を経て景勝は豊臣政権の五大老の一員となります。

このように兼続と三成は、度々接点があり友情が生まれたのではないかと推測されています。

 

一方の蒲生家は会津92万石から宇都宮18万石に左遷されてしまい、維持できなくなった蒲生家旧臣を上杉家、石田家などで召し抱えます。

その際、上杉家は、三成次女の夫となる岡重政も召し抱えます。

三成次女の話はこちらです。

👇
石田三成の子供~次女~

 

後の、関ケ原の戦いは、後日記事にします。

スポンサーリンク






 

石田三成の盟友・大谷吉継

真田家文書と石田三成~盟友・真田信之との関係~

参考・引用・出典一覧

戦国時代ランキング