直江状を現代語に意訳|関ヶ原の戦いのキッカケになった直江兼続の書状

関ヶ原の戦いを語る時、話に出てくる直江状とは何でしょうか。

直江兼続が書いたという直江状は、本当にあったのかという疑問や改ざんの可能性がある文書です。

この記事では、現代語に意訳した直江状についてや、偽書の可能性について書いています。

まず、直江状が書かれたという当時の時代背景について書きます。

目次

直江状が書かれた時代背景

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉は、数え年で6歳になる豊臣秀頼を残して没しました。

豊臣秀吉の遺命により秀頼成人まで、いわゆる「五大老・五奉行」による合議制で、豊臣政権を運営しようとしていました。

豊臣秀頼
豊臣秀頼 出典元:Wikipedia

五大老は、徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝で、五奉行は浅野長政・前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家です。

中でも徳川家康は特別な地位にいて、唯一対抗しうる人物は、いわゆる武断派武将からの信頼もある前田利家のみです。

翌年、無許可での縁組が禁じられているにも関わらず、徳川家康は婚姻政策を進めています。

  • 伊達政宗の娘・五郎八姫と家康六男・松平忠輝の婚約しています。
  • 福島正則の養子・福島正之と徳川家康の養女・満天姫(家康の姪)が結婚します。
  • 加藤清正は、継室に徳川家康の養女・かな姫(家康の従妹)を娶っています。
  • 蜂須賀家政の嫡男・蜂須賀至鎮と家康の養女・万姫(家康の曾孫)が、慶長5年(1600年)に結婚します。
  • 黒田長政は、正室と離縁してまで家康の養女・栄姫(家康の姪)を継室として迎えています。

私婚問題に激怒した四大老・五奉行は、家康に抗議する事態になり、問罪使(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)が家康の元に派遣されます。

ですが結局、婚約関係はそのままで和解することになります。

秀吉亡き後、大名間の婚姻を決める御意の担い手が曖昧であり、秀吉の代行として豊臣政権の政務を遂行するのが家康であったことから、責めきれなかったようです。

慶長4年(1599年)3月、豊臣家家臣団の仲裁役であった前田利家が病没すると、福島正則・加藤清正ら七将による石田三成襲撃事件が勃発します。

朝鮮出兵での確執などが理由のようですが、徳川家康が仲介し、石田三成は五奉行から失脚して、佐和山城に隠居させられます。

石田三成
石田三成 出典元:Wikipedia

五大老・五奉行から、前田利家と石田三成が欠けたことで、徳川家康の存在感は増していきます。

前田利家の嫡男・利長が跡を継ぎ五大老の一人となっていますが、徳川家康を牽制する力は無かったようです。

同年7月、上杉景勝が会津に帰国し、翌月に徳川家康の勧めにより前田利長も金沢へ帰国へ帰国します。

その後、前田利長と浅野長政に徳川家康暗殺の疑いがかけられ、長政が五奉行から失脚します。

徳川家康は前田領に攻め込もうとしますが、前田利長は実母の芳春院(まつ)を人質として差し出し、徳川家と縁組をして戦を回避しています。

こうして、五奉行は三奉行となり、五大老も上方にいる大老は三名となっています。

大老と奉行による合議制であったはずですが、事実上、徳川家康が豊臣公儀の政務を執り行っています。

時間が前後しますが、慶長3年(1598年)、上杉景勝は越後から会津に転封しています。

慶長5年(1600年)2月、上杉景勝と家老の直江兼続は、旧領主の居城であった若松城に代わって、神指城の築城を始めています。

神指城は戦のためのお城ではないと見られていますが、他にも諸城を修築したり、武器を集めたり兵糧を蓄えたことを堀秀治が徳川家康に報告し、上杉景勝に謀反の疑いをかけられてしまいます。

徳川家康は、家臣の伊奈昭綱を上杉景勝の元に派遣して、起請文を書いて上洛を求めます。

また、家康の意向を受けた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょう/せいしょう じょうたい)は、景勝の家老・直江兼続に宛てて書状を書いています。

直江兼続
直江兼続 出典元:Wikipedia

起請文で弁解して、上洛して謝罪するよう勧めた書状ですが、西笑承兌に宛てた直江兼続の返書が世にいう「直江状」です。

直江状の原文は見つかっていませんが、写しが伝わっています。

直江状を現代語に意訳

※厳密な直江状の言語訳ではなく、現代語で意訳しています。

一、東国(当国)について、そちらで噂が飛び交い、内府(徳川家康)様が不審に思っていることは無理のない事です。

京都と伏見においてさえ、あらぬ噂が飛び交うのですから、ましてや遠国の(上杉)景勝にはお似合いの噂と存じますので、問題にしていません。

内府(家康)様には安心いただき、今後ともお聞きいただければと思います。

一、景勝の上洛が遅れているとのことを話題にするのは、おかしなことです。

一昨年に国替えがあり、直ぐに上洛して昨年の九月に帰国したのです。

今年の正月に上洛するよう申されるのであれば、いつ領国の仕置きなどを申し付けたら良いのでしょうか。

その上、当国は雪国ですから十月から三月までは、何事も実施出来ません。

当国に詳しい方にお尋ねいただければ、景勝に謀反の心があるという者は居ないでしょう。

一、景勝に謀反の心がないことを起請文をもって申し上げるべきとのことですが、昨年から数通の起請文が反故にされていますので、重ねての起請文の必要はないと思います。

一、太閤(豊臣秀吉)様ご在世の時から、景勝は律儀者であると内府(家康)様が思っているならその通りで、今も変わりありません。

一、景勝に逆意など毛頭ございません。

ですが、讒言をする者を調べることなく、景勝に謀反の心があると言うのはいかんともしがたい事です。

讒言をする者を糾明し、善悪を判断しないのは、内府(家康)様に裏表があるとすべきでしょう。

一、北国肥前(前田利長)殿のことは内府(家康)様の思う通りになり、内府様の御威光がたいそうなものと思った次第です。

一、増右(増田長盛)と大刑少(大谷吉継)が出世し、めでたい事と思います。

所用あれば両名に連絡します。

もし、景勝に謀反の心があると思うなら、景勝の公式な取次である榊原康政殿から忠告するのが武士の筋目です。

そうしない上に、讒言をした堀監物(直政)の取次をし、工作をして事実を歪曲したことは問題です。

堀監物(直政)が忠臣か奸臣か見極めてから、頼みごとをしたいと思います。

一、景勝の上洛が遅いことから生じた噂でしょうが、実際はは右に申し上げた通りです。

一、武器を集めているとのことで、上方の武士は茶器などひとたらしの道具を収集しますが、田舎武士は槍・鉄砲・弓矢などを集めるのがたしなみです。

お国柄と思っていただき、ご不審に思われる必要はありません。

たとえ景勝が似合わない道具を用意したとしても、気にすることはありません。

景勝ごとき分際のことを気にするなんて、天下を預かる人らしくありません。

一、道や橋を造っている点ですが、人々の往来に不便がないようにするのは、国を持つ者にとって当然のことです。

(かつて拝領していた)越後国においても、道や橋を造っており、そのことは堀監物(直政)が良く知っているはずです。

越後は上杉家の本国ですから、久太郎(堀秀治)ごときを踏みつぶすのに何の手間が要りましょうか。

道を造る必要はありません。

景勝の領地は、越後・上野・下野・相馬・岩城・最上・由利など沢山の国と隣接していますが、いずれの境目でも同様に道を造っています。

それなのに、堀監物(直政)ばかりが道を造ることに恐れ騒いでおり、弓矢の道を知らない無分別者とお考えになるべきです。

景勝に逆意があれば、堀切や要害を設けて、防戦の支度を整えるのではないでしょうか。

至るとこに道を造って謀反を企てても、大人数で攻められ十方の防戦など出来るでしょうか。

いくら他国との境に道を造ろうとも、景勝も一方には相当の軍勢も出せましょうが、多方向へはどうやって出撃できるのか、相当なうつけ者です。

江戸からの御使者も、白河口やその奥を通っておられますので、お尋ねいただくのが宜しいかと思います。

もし、不審に思われるのであれば、御使者を下さればご案内致しますので、ご納得いただけるでしょう。

一、当年三月は謙信の追善供養にあたり、景勝は夏のうちにはお見舞いに上洛するつもりのようです。

人数・武具など国の政務を在国中に整えていたところ、増右(増田長盛)と大刑少(大谷吉継)の使者がやってきました。

景勝に謀反の心がないのであれば、上洛すべきとの内府(家康)様の御意向を伝えられました。

ですが、讒言をする者の言い分をこちらにお伝えになった上で、糾明すれば謀反の心がばいと分かると思います。

逆意がないとお伝えしているのに、逆意がなければ上洛するようになどと、赤子のごとき扱いを受けています。

昨日まで、謀反の心があった者でも、素知らぬ顔で上洛すれば、良しとされる昨今ですが、景勝には似合いません。

景勝に謀反の心はありませんが、逆意の噂が広がっている中で上洛すれば、上杉歴代の誇りまで失ってしまいます。

ですので、讒人(堀直政)を引き合わせて糾明していただかないと、上洛出来ません。

このことは、景勝が正しいです。

とりわけ、景勝家中の藤田能登守信吉(藤田信吉)が先月半ばに当家を出奔して江戸に移り、その後上洛したとのことですので、全て知れ渡ると思います。

景勝に非があるか、内府(家康)様に裏表があるか、世間が判断するでしょう。

一、景勝に謀反の心はありませんが、上洛できないように仕掛けられているのですから、仕方ありません。

内府(家康)様の分別に従い、上洛するべきであることはわかっています。

このまま在国したとしても、太閤(秀吉)様の御遺言に背き、数通の起請文を反故にし、秀頼様を見放したことになります。

例え、景勝が挙兵をし天下の主になったとしても、悪名は避けられず末代までの恥です(戦に勝てると暗喩)。

そのことを考えますので、どうぞご安心ください。

ですが、讒人(堀直政)を信用され、不義の扱いをされるようでは致し方ありません。

誓いも堅約も必要もありません。

一、そちらで景勝に謀反の心があるとか、隣国においても会津が攻めてくると言い廻り、軍備を整えるのは無分別者がやっていることなので、気にしていません。

一、内府(家康)様に使者をもって釈明申し上げるべきと思いますが、隣国から讒言を申しているようですし、家中からも藤田能登守信吉(藤田信吉)が出奔するような状況下では、謀反の心があるとお考えでしょう。

そこに使者を出しては、表裏者との風評を得るばかりです。

ですので、讒人(堀直政)を調べていただかないと、釈明などできません。

御意向を疎かにするつもりはありませんので、、しっかり糾明していただければ我々も従います。

一、遠国のため推測するしかありませんが、ありのままお伝えください。

事実も嘘のようになってしまいます。

真実を知っていただきたく書状を書きました。

失礼な点が多々あったと思いますが、お考えを頂戴するため、憚ることなくお伝えしました。

直江状はあったのか偽書の可能性も!?

先に述べたように、直江状の原本は見つかっていません。

内容は少しずつ異なるものの写本がいくつかあるようです。

直江状が本当にあったのか、定かではありません。

偽文書とする意見もありますが、直江状の存在を認める意見も多いです。

本物の直江状を、後世に改ざんしたものが、現在の写本であるとの見立てもあります。

豊臣政権の三奉行と三中老は、上杉征伐について徳川家康に諫言しており、奉行衆らの書状に「直江所行」について家康が「御立腹もっともに存じ候」とあります。

徳川家康
徳川家康 出典元:Wikipedia

「直江所行」が指すものが書状ならば、直江状を読んで怒っているのだと解釈できますが、何を指しているのか分かりません。

ただ、徳川家康が直江兼続に対し、怒っていた事実は確かなようです。

それでは、直江状が偽文書でないかと疑われる所以を書きます。

①体言止めが多用されており、敬意を欠いた表現があること

先に述べたように、直江状は、直江兼続が西笑承兌に宛てて書いた返書です。

西笑承兌は、豊臣秀吉や徳川家康にも崇敬された高僧です。

西笑承兌に対し、不敬とも思える文章があり、その一方で丁寧な文体もあり不自然であるとも見られています。

また、当時使われていない文法があり、敬語の用法もおかしいそうです。

直江兼続の感情の起伏が文章に影響を与え、稚拙に思える文章になった一因ではないという指摘があります。

確かに同じようなことが何度も書かれていますので、兼続は怒りながら書いていたのでしょうか。

また、直江兼続と西笑承兌は親交があり、不敬な文章は、友人関係の現れではないともいわれています。

当時の直江兼続の書状に体言止めが散見することもあり、漢詩に通じた兼続なら有り得る表現かもしれないとの意見もあります。

②「増右」、「大形少」という敬称なしの表現

増右(増田長盛)と大形少(大谷吉継)は、豊臣家の直臣で豊臣政権で重きをなしています。

一方、直江兼続は上杉家の家臣ですので、豊臣家の家臣の家臣、つまり陪臣にあたります。

陪臣の兼続は、礼儀として増田右衛門尉殿(増田長盛)、大谷刑部少輔殿(大谷吉継)と表記すべきであり、実際に同時期に書かれた兼続書状で石田三成のことは治部少輔殿と敬称で書かれています。

「増右・大刑少」という敬称なしの表記は、有り得ないといわれ、偽文書説を後押ししています。

しかし、直江兼続は天下の陪臣ともいわれる程の逸材で、豊臣姓も下賜されていることから、陪臣でないと意見もあります。

また、「増右・大刑少」は、誤読であるとも云われています。

直江兼続は、思ったことを率直に言う人物のようにも思え、兼続ならば「増右・大刑少」という表記もあり得るともいわれています。

③使者の会津到着日

徳川家康の使者・伊奈昭綱らは、4月10日に伏見を出発して、直江兼続らのいる会津に向かっています。

直江状によると、西笑承兌書状が到着したのは4月13日です。

承兌書状に「使者の口上に申し含め候」と書かれていることから、書状と使者は一体であったと見られています。

しかし、当時3日で伏見から会津に移動するのは、不可能であると思われ、直江状偽書説を裏付ける一因となっています。

ですが、承兌書状の冒頭に「飛札をもって申し達し候」とあり、上杉家の重大事であるので、使者に先駆けて知らせたとも読み取れます。

先に述べたように、西笑承兌と直江兼続は、かねてから親交がありましたので、有り得る話かもしれません。

④直江状追而書

直江状には追伸に当たる「直江状追而書」も伝わっています。

「直江状追而書」によると、直江兼続は家康か秀忠主導の元、上杉征伐の準備がされているとの噂を耳にしていたようで、「その折りにお相手致そう」と徳川方を挑発する言葉があります。

直江状は西笑承兌に宛てて書かれた書状ですので、徳川家康らを挑発するのは不自然に思えますね。

「直江状追而書」は後世に挿入されたとの指摘があります。

直江状があったといわれる所以

①直江状によく似た、重臣に宛てた上杉景勝書状があります。

②大谷吉継が徳川家康方として書かれています。

後に、石田三成と大谷吉継らの挙兵により、上杉征伐はとん挫しています。

大谷吉継は、西軍(反徳川方)の中核人物として知られている人物です。

ですが、大谷吉継は、以前から徳川家康と良好な関係を築いていたと見られていて、当初は家康方にいました。

結局、大谷吉継は盟友の石田三成と共に決起する道を選び、打倒家康を唱え、関ヶ原の戦いで自害しています。

大谷吉継が徳川方であったことは、偽作家では書けないことであるとして、直江状の肯定材料になっています。

③直江状の本来の目的

直江状は家康への挑戦状ではなく、堀監物(直政)が諫言したことに対する抗議であるとする説もあります。

上杉征伐を正当化するために、後世改ざんされた可能性があるのではないかと、論じる専門家もいます。

歴史は勝者によってつくられる、徳川家に都合よく改変された可能性は有りそうに思えます。

参考・引用・出典一覧
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