関ケ原の戦いで敗者側になった石田三成ですが、石田三成の一族はその後、どうなったのでしょうか。

石田三成の一族について調べていくと意外なことがあったり、興味深く感じています。

今回は、石田三成の一族の生涯と関ケ原の戦い後どうなったのかを記した記事です。

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三成の一族・石田正継

 

先ずは石田三成一族の長ともいえる三成の父の生涯と、関ヶ原の戦い後どうなったかを記しています。

石田三成の父・石田正継(まさつぐ)の生年は不明ですが、出身は現在の滋賀県長浜市石田町の土豪の一族であったと云われています。

石田正継

石田正継

 

正継の頃の石田家は、村長的存在であったとも、京極氏に仕えたとも伝わっています。

また後の三成は、秀吉政権で頭角を表し各地を奔走するなどしたため、領内にいないことが多かったと云います。

なので、三成に代わり正継が城主の仕事をしていました。

そのためか領内に出した書状は、三成のものより正継のものが多く残されています。

その書状からは、正継の領民を思いやる人柄、徳のある人物であることが読み取れると云われています。

後に石田は家滅亡しますが、その後も領民から慕われた理由は、領民目線にたった善政を敷いた為とされています。

1600年には、関ケ原の戦いが起きますが、父の正継は出陣していません。

正継は、関ヶ原の戦い後どうなったかというと、関ヶ原の戦い後に、三成の居城・佐和山城で徳川方と戦いが起き、正継は佐和山城に籠(こも)り主将として奮戦していたのですが、多勢に無勢で、ついに火の手の上がった本丸天守で自害して果てます。

京都の妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)、ここに正継など石田三成一族のお墓があります。

建てたのは三成とも正継とも云われていますが、住職は三成の長男・重家です。

そして妙心寺寿聖院にて、現在も供養が行われています。

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三成の一族・瑞岳院

 

三成の母は、関ケ原の戦い前に無くなっていますので、敗戦後どうなったのかという話はありません。

石田三成の一族ということで、三成の母について記しますので、ご興味ない方は次に進んでください。

三成の母は瑞岳院(ずいがくいん)という戒名のみ伝わっており、生前の名前は不明です。

生年、出自も不明で岩田氏か土田(どた)氏の娘とされています。

瑞岳院が亡くなったのは1594年、京都の大徳寺三玄院(だいとくじさんげんいん)にて葬儀が行われたそうです。

大徳寺の三玄院の説明板

大徳寺の三玄院の説明板

 

この大徳寺三玄院にも三成のお墓があり、三成の遺骨が埋葬された場所でもあります。

母亡き後母の為に、三成が佐和山に瑞岳寺(ずいがくじ)を建立したと云います。

佐和山城落城時に瑞岳寺は焼却してしまい、現在は残っていませんが瑞岳寺に祀っていたお地蔵様が宗安寺に残されています。

佐和山城落城時に三成の父と兄を介錯したのは、土田成久(どだ なりもと)と伝わります。

母の生家の候補である土田家の人物で、母の生家の場合は三成の叔父に当たる人物です。

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三成の一族・妻

三成から「うた」と呼ばれ、3男3女の母となった三成の・「皎月院」。

その三成の妻はどうなったかのでしょうか。

妻は、関ヶ原の戦い後の佐和山城落城時に自害し、土田成久によって介錯されたとする説が一般的です。

しかし生き延びて1615年に亡くなったとも言われています。

有名武将の一族が、実は生きていたとする説はよくある話ですが、妻の話はあり得ない話ではないように思います。

そもそも、三成の妻が当時佐和山城にいたこと自体疑問視する声もあるようです。

大名の妻たちが大坂城に居る中、三成の妻だけが三成の城に居るは不自然との指摘があります。

つまり、本当は生きていて隠れ住んでいるのを隠すために、誤った情報を流したということですね。

また、生存説の一つに出家した三成の長男が書き残した『霊牌日鑑(れいはいにっかん)』という石田家の記録に、三成の妻の戒名がないことがあげられ、当時生きていたため、戒名が書いていないのではという声もあります。

そして、三成次女を頼って暮らしと云われ、そこには「無量院殿一相寿卯大禅定尼」という戒名が残されています。

一方の通説では、「皎月院殿寂室宗珠大禅定尼」という戒名ですが、この戒名は近年に住職が付けたものと判明しています。

亡くなった説と、敗者側が生きていたとバレないようにひっそりと暮らしたとの説がある妻の話でしたが、いはがでしょうか。

 

石田三成の肖像画

石田三成

 

三成の一族・子供

三成の子供達は、関ヶ原の戦い後はどうなったのでしょうか。

私は三成の子供や子孫について、調べると結構面白いかなと思っています。

徳川の一門衆などから保護されたり、複数の子孫は徳川の縁者と結婚もしてますし。

なので、当ブログは石田三成の子供や子孫については、何個も記事を書いています。

ご興味ある方は、詳細を是非ご覧いただけるように、この記事の中でご案内しています。

今回の記事では、三成と正室との間の子供が関ヶ原の戦い後にどうなったのかを主に書かせていただきます。

<三成の長女>

三成の長女は、関ヶ原の戦い後どうなったのでしょうか。

長女自身のその後の詳細はありませんが、行動を共にした夫については伝わっています。

夫は三成の家臣・山田上野介の嫡男の山田隼人正(やまだ はやとのかみ)であったと云います。

三成長女の義父・山田上野介の妹は、茶阿局(ちゃあのつぼね)といい、徳川家康の六男・松平忠輝(まつだいら ただてる)の母でした。

松平忠輝

松平忠輝

親戚の縁で山田隼人正は、松平忠輝に仕えます。

後に、松平忠輝が改易されたため、三成の孫が藩主を務めることになる津軽家の援助で暮らしたと伝わります。

 

三成長女の詳細はこの記事です。

石田三成の長女(山田隼人正勝重の正室)

 

<三成の次女>

三成の次女「小石殿」の関ヶ原の戦い後についても、夫の岡重政(おか しげまさ)の話を交えながら書かせていただきます。

父が敗軍の将となり、敗戦後どうなったのか気になるところですが、「小石殿」と岡重政は関ケ原の戦いの少し前に結婚したようです。

岡重政の関ヶ原の戦い当時の主君は上杉家でした。

しかし戦後、上杉家の領地が減らされ、元々仕えていた蒲生家の領地が増えたため、蒲生家に復帰することになります。

その蒲生家で岡重政は、筆頭家老として腕を振るいます。

その後、蒲生家では幼君が当主となった為、徳川家康の三女が後見を務めます。

その徳川家康の三女と岡重政が対立し、重政は自害させられてしまいます。

その後、三成次女は、若狭国(福井県)へ子供と移り住み亡くなったそうです。

 

三成次女の詳細はこちらです。

石田三成次女・小石殿と夫・岡重政

 

<三成の長男>

次は、三成の長男・重家です。

敗者の長男は悲惨なイメージがありますが、どうなったのでしょうか。

関ケ原の戦い後、出家を条件に助命されています。

助命された理由は、若かった為とも云われますが定かではありません。

また、長男の名前の重家は、「家」は家康から拝領したとも云われており、一説には可愛がられたこともあるという話も残されています。

いずれにせよ、重家は妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)の住職となり、石田三成の一族の菩提を弔っています。

また重家は老後、岡部宣勝(おかべ のぶかつ)の保護を受けたと伝わります。

岡部宣勝とは、徳川家康の異父弟・松平康元の孫です。

岡部 宣勝と弘前3代目藩主・津軽信義(つがる のぶよし)は従兄弟です。

津軽信義にとって重家は叔父になりますので、その縁で保護されたものと推測できます。

津軽信義の肖像画

三成三女の子供・津軽信義

重家は100歳前後の長寿を全うした人生でした。

また、重家には関ヶ原の戦い当時、身重の妻がいたとの伝承があり、徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)とその子供・松平忠直に庇護され、子孫は現代も続いているそうです。

 

三成長男の詳細です。

石田重家と直重と子孫

 

<三成の次男>

三成の次男はどうなったでしょうか。

三成の次男・重成は、三成敗北を知ると逃げ延びることになります。

次男を匿ってくれたのは、弘前藩主・津軽家です。

先ほど長男のところで記載した3代となる津軽信義の家です。

ただこの頃は信義が生まれる前で、初代藩主・津軽為信(つがる ためのぶ)の時代でした。

三成の次男を匿ってくれた理由は、為信と三成は親しい仲で、三成に恩義もあった為ではないでしょうか。

次男は徳川家から隠れて住むことになりますので、名前を杉山源吾(すぎやま げんご)と改名します。

その後、1610年亡くなったとも云われていますが、実は亡くなっておらず1641年まで生きたとの説もあります。

また、源吾は3人の男子が生まれましたが、嫡男の家は弘前藩主の重臣として存続します。

 

三成次男の記事はこちらです。

杉山源吾と名を変え生きた石田重成と子孫

 

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<三成の三女>

三成の三女は、辰姫として知られています。

敗軍の将の息女が「姫」と呼ばれているとは、意外でしょうか。

辰姫は藩主の生母となった方ですが、その過程を記します。

辰姫の養母は秀吉の妻である北政所(きたのまんどころ)です。

辰姫が養女になった時期は、秀吉が亡くなった数か月後の1598年頃と云われています。

そして、1610年頃に弘前藩主・津軽信枚(のぶひら)へ正室として輿入れすることになります。

津軽信枚の肖像画

辰姫の夫・津軽信枚

北政所の養女として輿入れしていますが、徳川家は三成の子供だと気がついていたようです。

そこで翌年には、徳川家康の養女・満天姫(まてひめ)を津軽信枚の正室として輿入れさせてきました。

津軽家の去就を試したのでしょうが、正室は満天姫、辰姫は側室になります。

いつからか不明ですが、辰姫は弘前から遠く離れた地で暮らすことになります。

大館(おおだて)という現在の群馬県にあたります。

大館にも津軽家の領地があり、そこで暮らしたそうです。

しかし津軽信枚は、参勤交代の時には欠かさずに辰姫の元へ通い、信義という嫡男に恵まれます。

しかし、それを知った満天姫により幽閉状態に追い込まれ、幽閉状態の中で辰姫は亡くなります。

その後、紆余曲折を経て信義は3代目藩主になるのですが…。

信義を藩主にするのは、大変だったようで、父・信枚が命を賭け藩主にし、その無理がたたり信枚は亡くなります。

しかし、三成の孫が藩主になったことで、三成の子孫の多くは江戸時代を通じて弘前藩にお世話になり明治を迎えています。

また、三成の次男・重成(源吾)も弘前藩主の津軽家にお世話になっていますが、1610年亡くなった説というのは、辰姫が輿入れした頃です。

つまり亡くなったことにして、妹の傍に仕えていたのではないかとも云われています。

 

辰姫の詳細と、その下に辰姫の子で藩主になった信義の記事です。

石田三成の三女・辰姫と子孫

 

津軽信義とその子孫

 

<三成の三男>

三成の三男は関ヶ原の戦い当時、幼少のため佐吉という幼名だけ伝わっています。

佐吉は関ヶ原の戦い当時、三成の城・佐和山城にいたそうです。

佐和山城は、奮戦虚しく落城しますが、三成の兄の自害を条件に開城交渉が進んでいたと云います。

佐和山城祉の碑石

そのような中、石田方の内通者が徳川方の武将を手引きしたために、佐和山城は落城し多くの命が失われました。

その行為に、津田清幽(つだ きよふか/せいゆう)という石田方の交渉役を務めた人物が怒りました。

津田清幽は、徳川家康に交渉し、佐吉を含む従者11名の助命を認めさせたそうです。

家康に直談判とは、ちょとビックリする話ですが、元は家康に10年仕えていたそうで、家康の口利きで三成の兄・正澄の家臣になった人物でした。

だからと言って、石田家を裏切っていた気配はないようで、徳川とはつながっていなかったようですが…。

いずれにせよ、佐吉は津田清幽に助けられ、その後木食応其(もくじきおうご)という僧侶に託されます。

そして佐吉は、木食応其に深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)という名前を与えられます。

津田清幽から名前の一部「清幽」を貰い、恩義を忘れない為だそうです。

そして、甲斐の河浦山薬王寺の住職となり、1676年に没したそうです。

 

佐吉の詳細はこちらです。

石田三成の三男・佐吉~関ヶ原の戦い当時からその後~

三成の一族・弥治郎

石田三成の兄弟が何人いたのか正確にはわかっていません。

Wikipediaには正澄(まさずみ)、弥治郎、福原長堯(ふくはら ながたか)の妻と3人の名前が書いてあります。

この中でも「弥治郎」という名前は、聞き覚えがない方が多いと思います。

弥治郎は殆ど名前しか伝わっていませんが、石田三成の一族と云われています。

弥治郎が生まれた順番は不明ですが、Wikipediaに一説には長男である旨が記されています。

石田家の記録に目を向けてみても、弥治郎は長男として記されています。

その石田家の記録にも弥治郎については詳しいことは書かれていないようで、1572年2月25日に夭逝(ようせい)し、戒名は弥天正宗居士である旨の簡単な記録が残っているだけのようです。

ここから分かることは、三成13歳の時に、元服の年齢を過ぎた兄が亡くなったということです。

ただ弥治郎の存在の有無もよく分からないという感じですので、石田家の長男であると定説には至っていません。

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三成の一族・石田正澄

一般に三成の兄として知られているのは、石田正澄(まさずみ)です。

正澄の生年は不明ですが、三成の兄として生まれます。

三成との兄弟仲はとても良く、弟・三成を補佐したとも云われています。

正澄の豊臣政権での業務は何かというと、蔵入地の代官や検地を行っていた記録が残ります。

朝鮮出兵では、輸送する任務や、秀吉に奉行衆の報告をする役目を担ってたそうです。

三成と同じように政治家タイプというところでしょうか。

弟の三成があまりにも出世した為か、正澄は三成の縁で出世できた、また正澄は三成の家臣であるなどと誤解されることもあります。

しかし正澄は秀吉に仕え、秀吉の信任も厚く優秀な人物であったと云います。

正澄の働きは認められて、秀吉から2万5000石を拝領し、三成とは別の独立した大名になっていますし、豊臣姓も下賜されています。

しかし、秀吉の亡き後、関ヶ原の戦いが起きます。

正澄はどうなったのでしょうか。

正澄は関ヶ原の戦い本戦には参加せず、三成の居城の佐和山城を守備していました。

関ヶ原の戦いの後に攻め寄せる徳川勢に対して、正澄は大手門を守備したと云います。

父や一族らと共に奮戦し、幾度となく敵を退け佐和山城を死守しますが、裏切りなどもありついに落城し父と共に自害したとされています。

正澄亡き後は、春屋宗園(しゅんおくそうえん)の好意により、大徳寺の三玄院に位牌と供養塔がに建立されています。

大徳寺の三玄院

大徳寺の三玄院

 

石田正澄の妻

正澄の妻は出自も名前も不明です。

そして、正澄の子供の生母かも不明です。

佐和山城落城の時は逃れて、1607年12年2月28日亡くなったと云われています。

戒名は「龍珠院殿心峯妙現大禅定尼(りゅうじゅいんでんしんぽうみょうげんだいぜんじょうに)」であると記録されています。

石田三成の長男である宗享(そうきょう)禅師により葬儀が行われて、その後も供養が続けられているそうです。

 

石田正澄の子供

<石田>

正澄の子供に何人子供がいたのか定かではありません。

名前が伝わっているのは二人です。

その中で、長男の可能性が高いと見なされているのは、石田朝成(いしだ ともなり/ともしげ)です。

石田朝成の別名は、右近朝成と伝わっており、通説では佐和山城落城の時に自害したと云われています。

佐和山

佐和山

ですが父・正澄が、家名が絶えることを憂い、佐和山城脱出を厳命し、生き延びたという説もあります。

真偽は不明ですが、その後生き延びた説によると、どうなったのでしょうか。

石田朝成は西国へ逃れたのちに、一族の石田氏がいたと伝わる江州野州群(ごうしゅうやすぐん)赤野井村に移住したそうです。

その後、朝成から5代目の子孫が一向宗の僧となり、紀州有田群栖原(すはら)の極楽寺の住職になったと云われています。

<主水正>

もう一人の正澄の子供は、主水正(もんどのしょう)というそうです。

関ヶ原の戦い当時は、大坂城にいたと伝わります。

敗北を知り、高野山に登ったそうです。

しかし頼ろうとした木喰上人(もくじきしょうにん)が留守で見つからず、高野山を降り自害して果てたそうです。

 

正澄やこの話の詳細はこちらです。

石田三成の兄・石田正澄と子孫

 

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三成の一族・妹

<福原長堯の妻>

石田三成にはがいると云われています。

通説として認められているのは、福原長堯(ふくはら ながたか)の妻と伝わる人物です。

ただ三成の妹の記録は見つかっていません。

この当時の女性の記録は、有名武将の妻であっても伝わっていないことが珍しくないですし、敗者側となれば仕方ないことかもしれません。

夫の福原長堯について簡単に記載します。

福原長堯は同族を秀吉に滅ぼされたにもかかわらず、秀吉に仕えたという経歴を持つ人物であると云われています。

しかし後に豊臣姓を下賜され、12万石を拝領する程の豊臣家の家臣になります。

後に起きた関ケ原の戦いでは、三成方の拠点として重要な大垣城の守備に当たります。

しかし、関ケ原の戦い本戦で三成方が敗北すると大垣城で裏切りがおきます。

その後も、必死の抵抗を続けましたが、窮地に立たされ和議を受け入れて開城したそうです。

その後、福原長堯はどうなったのかというと、和議の条件通り出家したそうですが、許されなかったそうです。

自害したとも滅ぼされたとも云われています。

<熊谷直盛の妻>

熊谷直盛(くまがい なおもり)の妻は、三成の妹か娘と云われています。

また石田家の記録によると、姉妹が2人いた記録があるそうで、熊谷直盛の妻がその妹に当たるという意見もあります。

未だ三成の妹なのか娘なのかハッキリしていませんが、三成の子供については研究が進んでいるにもかかわらず、熊谷直盛の妻と思しき人物もいません。

そのこともあり、当ブログでは妹の欄に記入させていただきます。

熊谷直盛の妻は、いずれにしても石田三成の一族ということになりますが、記録は見つかっていません。

夫の熊谷直盛とはどのような人物か簡単に記します。

鎌倉幕府の御家人の子孫という伝承のある熊谷直盛ですが、戦国時代には豊臣秀吉に仕えていました。

秀吉亡き後に、朝鮮出兵の際に問題行為があったとして、家康ら五大老によって改易処分となります。

その後、三成の佐和山城に身を寄せていましたが、関ケ原の戦いの際は、福原長堯らと共に大垣城を守ります。

三成は大垣城を一族である福原長堯、熊谷直盛に任せていたと伝わります。

しかし関ケ原の戦いで三成が敗北すると、内通者が出て裏切りによって、熊谷直盛は滅ぼされてしまったそうです。

石田三成の妹婿・福原長堯(直高)と熊谷直盛と大垣城の戦い

 

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三成の一族・石田光重

石田三成に弟がいたとは通説になっていません。

しかし、石田家の記録には弟が3人いると記されているそうです。

ただ、3人のうち名前がわかるのは1人です。

その伝わっている名前は、石田左衛門尉光重(石田光重)といい、生年不明で、豊臣秀次の家臣であったそうです。

石田光重についての記録は、少ないようです。

そこには、文禄年間にこの世の無常と儚(はかな)さを嘆じ出家した旨の記載があると云います。

具体的な理由は書いていません。

文禄年間の西暦は1592年12月8日~1596年10月27日です。

文禄年間に起きた主な出来事は、朝鮮出兵、豊臣秀頼の誕生、豊臣秀次が自害する事件です。

豊臣秀次

光重の主君・豊臣秀次

「世の無常と儚」とは、石田光重が仕えていたという豊臣秀次の事件のことかもしれません。

豊臣秀次の事件について簡単に記します。

当時、子供の居なかった秀吉の跡継ぎに甥の秀次が指名されたものの、秀吉の実子・秀頼が生まれ、後に秀次は自害に追い込まれたという事件のことです。

秀次の側室や子供、重臣などこの事件に連座し、罪のない多くの人が秀吉によって滅ぼされました。

武士をやめ、出家したくなるような出来事に思えますが…いかがでしょうか。

いずれにせよ、石田光重は、江州横田村(甲賀)を去り出家したそうです。

<石田光重の子・光吉>

その後、石田光重がどうなったのか分かりません。

しかし、光吉という子供がいたようで光吉の記録が残っているそうです。

石田光重の子供は、石田左衛門尉光吉という名前だったようですが、横田と性を改め美濃国(岐阜県)に移ったとされます。

そして、荒れ果てた勝慶寺に逃げ込み、その寺の娘と結婚して、善能(ぜんのう)寺として復興させて、後に石田性に復帰したそうです。

そのお寺は、岐阜県揖斐(いび)郡大野町にある石田善能寺であったと言われています。

石田善能寺を調べてみましたが、よくわかりません…。

現在、岐阜県揖斐郡大野町寺内243-2に善能寺がありますがそこのことでしょうか?

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三成の一族・石田頼次

石田頼次(よりつぐ)は、三成の父の猶子になった為石田性ですが、元は尾藤性です。

この尾藤性は三成の妻の生家と伝わります。

三成の妻の父は宇多頼忠(うだ よりただ)と云い、頼忠の兄は尾藤知宣(びとう とものぶ)(尾藤左衛門尉)というそうです。

そして尾藤知宣の子供が石田頼次だと伝わります。

父の尾藤知宣は、豊臣秀吉の勘気に触れ、滅ぼされてしまいます。

そのため三成の義父は、尾藤姓から宇多姓に改名したため宇多頼忠として知られています。

父・尾藤知宣を滅ぼされてしまった頼次は、石田正継の猶子となり石田頼次(よりつぐ)(石田刑部少輔)と名乗ったそうです。

また頼次の妻は、真田昌幸の五女である趙州院(ちょうしゅういん)です。

この縁により、昌幸は関ヶ原の戦いで、西軍に属したとも云われています。

関ヶ原の戦いの後どうなったのか、はっきりしていません。

近江佐和山城で叔父の頼忠らと共に自害したとする説もあります。

一方で別説もあり、関ヶ原の戦いの時は、大坂城下の石田屋敷の留守を任されていたため死に遅れてしまい、後に旧姓の尾藤性の戻して、寺沢堅高(てらざわ かたたか)の家臣になったとする説もあります。

また、妻の趙州院は離縁し逃れた後に、滝川一積(たきがわ かずあつ)(滝川一益の孫)に再嫁したと伝わります。

 

三成の義父・宇多頼忠の記事はこちらです。

石田三成の妻・「うた」と義父・宇多頼忠

 

唱岳長音上人

唱岳長音上人(しょうがくちょうおんしょうにん)も石田三成の一族の可能性があるようです。

唱岳長音上人は、(木食<もくじき>唱岳長音上人)とも呼ばれるようですが、1602年越前の金津(かなづ)で生まれてたそうです。

父の性は石田、幼名は吉六と伝わります。

両親とともに土渡に移り住みますが、石田吉六が数え年3歳の時に両親とも亡くなってしまいます。

孤児になってしまった石田吉六の保護をしたのは、村井氏という方とのことです。

村井氏と言えば、石田三成の庶子である石田政治(まさはる)を保護してくれたのも村井氏と伝わります。

同一人物かは不明ですが。

石田吉六は、1619年に出家し、1657年に秋田県に鎮守山 帰命寺(ちんじゅさん きみょうじ)を創建したと伝わります。

(もし、行きたい方がいらっしゃたら、住所は秋田県秋田市八橋本町2-3-37です。)

その頃は藩主・佐竹 義隆(さたけ よしたか)の時代になっていました。

徳川家に石田三成の風評が入り、佐竹藩は詰問を受けたそうです。

佐竹藩は、唱岳長音上人(しょうがくちょうおんしょうにん)は、石田三成の弟であり既に出家している旨の説明をしたと伝わります。

なぜ弟と答えたのかわかりませんが、唱岳長音上人が生まれたとされる1602年は、三成の両親とも亡くなっていますので弟ではなさそうです。

また、三成本人とする説もあるそうです

関ヶ原の戦い後に処刑されたのは影武者で、三成は親しくしていた佐竹義宣(さたけ よしのぶ)を頼ったのではないかと伝えられているそうです。

帰命寺には、三成のもと伝わる墓碑があり、秋田市八橋(やばせ)町周辺には石田性が多くいらっしゃるそうです。

唱岳長音上人(しょうがくちょうおんしょうにん)が没したのは、1679年ですので三成は数え年で120歳まで長生きした?となります…。

残念ながら、「唱岳長音上人イコール三成説」は正しくないと思います。

長寿過ぎるのもそうですが、別人が身代わりとなって誰も気が付かないことは無いと思うのですが…いかがでしょうか?

また1907年に三成のお墓から、遺骨が発掘され調査が行われています。

またその遺骨から三成の顔は化学復元されていますが、三成次男の子孫に伝来した三成の肖像画と似ているように見えます。

やはり、刑に処せられたのは三成であり、木食唱岳長音上人は三成の縁者の可能性がある人とになると思います。

 

幻の一族・石田佐兵衛

石田佐兵衛(いしだ さへい)とう人物は三成の甥だと云われています。

誰の子供なのかわかっていません。

関ケ原の戦い当時は、能登(のと)(石川県)の安代原城を守っていたと伝わるそうです。

ただ、詳細は不明で確証もない幻の一門衆とのことです。

当時の人は子供や兄弟が多いので、幻の一族が沢山いそうだなと思います。

 

初音局

石田三成の側室で、徳川家康が石田三成に送り込んできたクノー(女忍者)であるといいます。

初音局は、間者であるにもかかわらず、石田三成の側室になり佐和山城落城の際に自害したとも、脱出したとも、徳川方に殺害されたとも言われますが、出典元はフィクションではないかと思います。

元となった側室がいた可能性は否定できませんが、少なくても私が読んだ書籍には、「初音局」、「クノーの側室」がいたとの記載はありません。

石田三成には、複数の側室、複数の庶子がいて、関ケ原の戦いの敗戦後は、それぞれの生母の生家を頼って落ち延びたとされています。

側室についての詳細は伝わっていませんが、側室との間の子(庶子)については、わかる範囲でこちらの「石田三成と側室の子」の覧にまとめています。

石田三成の正室・側室の子供~一覧~

 

 

石田三成の子孫~一覧~

 

石田三成の父・石田正継

 

石田三成の母・瑞岳院