石田三成の一族である父、母、妻、兄弟についてのまとめ記事です。

別で詳細記事がある人物については、簡潔に記載しています。

詳しく知りたい場合は、詳細記事リンクよりご覧ください。

 

また、通説になっていないことについては、記事の下に出典元を明記しています。

 

この記事には、石田三成の子供、孫、子孫は入っていません。

こちらの記事にまとめています。

👇
石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

石田三成の子孫~まとめ~

 

石田三成の父・石田正継

Ishida_Masatsugu

生年は不明です。

現在の滋賀県長浜市石田町の出身で、京極氏、又は浅井氏に仕えたとされます。

また、正継(まさつぐ)の頃は村長的存在であったとの見方が有力です。

三成は検地で各地を奔走したり、秀吉に仕え領内にいないことが多く、正継が代わって城主の仕事をしていました

領内に出した書状は、三成のものより多く残されています。

書状からは、正継の領民を思いやる人柄徳のある人物であることが読み取れます。

関ヶ原の戦いの時は、三成の居城である佐和山城に籠(こも)り主将として奮戦しています。

しかし、多勢に無勢でついに、自害して果てます。

三成の長男が住職を務めた妙心寺寿聖院(みょうしんじじゅしょういん)にて、現在も供養が行われています。

父・正継の詳細はこちらの記事です。

👇
石田三成の父・石田正継

 

石田三成の母・瑞岳院

三成の母は瑞岳院(ずいがくいん)という戒名のみ伝わっており、名前は不明です。

出自も不明で岩田氏土田(どた)氏の娘とされています。

瑞岳院は、1594年9月3日に亡くなり、1599年に三成が佐和山に瑞岳寺(ずいがくじ)を建立します。

佐和山城落城時に瑞岳寺は焼却してしまい、現在は残っていません。

佐和山城落城時に三成の父と兄を介錯したのは、土田成久(どだ なりもと)と伝わります。

瑞岳院が土田氏の娘であった場合、三成の叔父に当たる人物です。

佐和山城落城時の介錯は、親族衆がしています(例えば、三成妻の宇多一族は、宇多一族の者が介錯しています)。

三成の父と兄を介錯した土田成久も親族衆である可能性は高いと思います。

 

瑞岳院の詳細は現代に伝わっていませんが、知られている範囲でまとめた記事はこちらです。

👇

石田三成の母・瑞岳院

スポンサーリンク






三成の妻・皎月院

皎月院(こうげついん)の名前、生年は不明です。

豊臣家の家臣である宇多頼忠(うだ よりただ)の娘であり、三成からは「うた」と呼ばれていました。

1577~1579年頃に石田三成が結婚したものと推定され、三成との間に3男3女がいると伝わります。

石田三成の肖像画

石田三成

1600年、佐和山城落城時に亡くなったとも、生き延びて1615年に亡くなったとも言われています。

また、「皎月院」は近年つけられた戒名であり、本当は「無量院」とする説もあります。

 

皎月院と宇多頼忠についての詳細はこちらです。

👇

石田三成の正室・皎月院(こうげついん)と岳父・宇多頼忠

 

石田三成の兄弟

通説では三成の兄は1~2人で、長兄は正澄(まさずみ)とされ、姉妹は1~2人いたとされています。

ですが、石田三成には、兄が2人と弟が3人、姉妹が2人いたとする説もあります。

この説は、石田家の記録を元にして執筆された、白川亨(とおる)氏著書などに記載してあります。

丹念に研究された信頼性の高いものと考えていますので、兄が2人と弟が3人、姉妹が2人として書かせていただきます。

尚、弟3人のうち1人しか詳細はわからず、弟と妹の生まれた順番は不明です。

 

長兄・弥治郎

石田家の記録には長兄・弥治郎の存在が記されているそうです。

弥治郎について詳しい記録の存在は確認されていません。

1572年2月25日に夭逝(ようせい)し、戒名は弥天正宗居士である旨の簡単な記録が残っているだけのようです。

ここから分かることは、三成13歳の時に、元服の年齢を過ぎた兄が亡くなったという事実です。

 

次兄・石田正澄

正澄の生年は不明ですが、石田家の次男として生まれます。

三成との兄弟仲はとても良かったと伝わります。

正澄は、三成の縁で出世できた、正澄は三成の家臣であるなどと誤解されることもあります。

正澄は秀吉に仕え、秀吉の信任も厚く優秀であると評判であると言われています。

また、秀吉から2万5000石を拝領し、三成とは別の独立した大名です。

近江国高島郡や河内国(かわちのくに/かはちのくに)(大阪)の蔵入地の代官、美濃国(みののくに)(岐阜県)の検地を行ったとして記録が残ります。

朝鮮出兵では、輸送する任務や、秀吉に奉行衆の報告をする役目を担っていました。

正澄の働きは認められて豊臣姓も下賜されています。

関ヶ原の戦いでは、父や一族と共に、三成の居城である佐和山城を死守しますが、裏切りなどもあり落城し自害します。

大徳寺の三玄院に、春屋宗園(しゅんおくそうえん)の好意により、供養塔がに建立されています。

 

正澄や息子についての詳細はこちらです。

👇
石田三成の兄・石田正澄

石田 朝成

石田 朝成(いしだ ともなり/ともしげ)(右近朝成)は、通説では佐和山城落城の時に自害したことになっています。

ですが、父・正澄が、家名が絶えることを憂い、佐和山城脱出を厳命し、生き延びたという説もあります。

西国へ逃れたのちに、一族の石田氏がいたと伝わる江州野州群(ごうしゅうやすぐん)赤野井村に移住したそうです。

その後、朝成から5代目の子孫が一向宗の僧となり、紀州有田群栖原(すはら)の極楽寺の住職になったと言われています。

詳しく知りたい方は、正澄の記事の詳細をご覧ください。

スポンサーリンク






主水正

主水正(もんどのしょう)は、大阪城にいたと伝わります。

高野山に上り、木喰上人(もくじきしょうにん)を頼りますが見つからず、高野山を降り自害して果てます。

 

正澄の妻

出自、名前、正澄の子供の生母かも不明です。

佐和山城落城の時は逃れて、1607年12年2月28日亡くなります。

戒名・龍珠院殿心峯妙現大禅定尼(りゅうじゅいんでんしんぽうみょうげんだいぜんじょうに)

石田三成の長男である宗享(そうきょう)禅師により葬儀が行われて、その後も供養が続けられているそうです。

 

 

三成の弟・石田左衛門尉光重

 

生年不明で、名前は石田左衛門尉光重(石田光重)、豊臣秀次の家臣であったそうです。

石田左衛門尉光重についての記録は

文禄年間、子細ありて江州横田村(甲賀)に退去し、世の無常と儚(はかな)さを嘆じ、剃髪染衣(ていはつせんい)の身となり

とあるそうです。

文禄年間の西暦は1592年12月8日~1596年10月27日です。

文禄年間に起きた主な出来事は、朝鮮出兵、豊臣秀頼の誕生、豊臣秀次が自害する事件です。

光重は豊臣秀次の家臣でしたので、豊臣秀次事件について思うことがあったのかもしれません。

何が理由かは、断定できませんが、この世の無常と儚(はかな)さから出家したのは事実のようです。

 

石田光重の子・光吉

石田光重(三成の弟)の子供である石田左衛門尉光吉は、横田と性を改め美濃国(岐阜県)に移ったとされます。

そして、荒れ果てた勝慶寺に逃げ込み、その寺の娘と結婚して、善能(ぜんのう)寺として復興させて、後に石田性に復帰したそうです。

そのお寺は、岐阜県揖斐(いび)郡大野町にある石田善能寺であったと言われています。

現在、岐阜県揖斐郡大野町寺内243-2に善能寺がありますがそこのことでしょうか?

 

三成の妹

2人居ます。

福原長堯(ながたか)(直高)の正室と熊谷直盛(くまがい なおもり)の正室と伝わります。

また、妹は1人で、熊谷直盛(くまがい なおもり)の正室の女性は三成の娘という異説もあります。

妹の詳細は不明です。

夫である福原長堯、熊谷直盛の記事はこちらです。

👇

石田三成の妹婿・福原長堯(直高)と熊谷直盛と大垣城の戦い

 

石田佐兵衛(いしだ さへい)

三成の甥で関ケ原の戦い当時は、能登(のと)(石川県)の安代原城を守っていたと伝わるそうです。

ただ、詳細は不明で確証もない幻の一門衆とのことです。

スポンサーリンク






 

 

石田頼次

頼次(よりつぐ)は、三成の妻の父である宇多頼忠の兄・尾藤 知宣(びとう とものぶ)(尾藤左衛門尉)の子供です。

父・尾藤 知宣は、豊臣秀吉の勘気(怒り)に触れ、斬られてしまいます。

子供である頼次は、石田正継の猶子となり石田頼次(よりつぐ)(石田刑部少輔)と名乗ります。

妻は、真田昌幸の五女である趙州院(ちょうしゅういん)です。

この縁により、昌幸は関ヶ原の戦いで、西軍に属したとも言われます

関ヶ原の戦いの後のことは、はっきりしていません。

近江佐和山城で叔父の頼忠らと共に自害したとする説もあります。

一方で別説もあり、関ヶ原の戦いの時は、大坂城下の石田屋敷の留守を任されていたため死に遅れてしまい、後に旧姓の尾藤性の戻して、寺沢堅高(てらざわ かたたか)の家臣になったとする説もあります。

また、妻の趙州院は離縁し逃れた後に、滝川一積(たきがわ かずあつ)(滝川一益の孫)に再嫁したと伝わります。

 

唱岳長音上人

 

唱岳長音上人(しょうがくちょうおんしょうにん)(木食<もくじき>唱岳長音上人)は、石田三成の一族の可能性があります。

唱岳長音上人は、1602年越前の金津(かなづ)で生まれてたそうです。

父の性は石田、幼名は吉六と伝わります。

両親とともに土渡に移り住みますが、石田吉六は数え年3歳の時に両親とも亡くなってしまいます。

孤児になってしまった石田吉六の保護をしたのは、村井氏という方とのことです。

村井氏と言えば、石田三成の庶子である石田政治(まさはる)を保護してくれたのも村井氏と伝わります。

同一人物かは不明です。

石田吉六は、1619年に出家し、1657年に秋田県に鎮守山 帰命寺(ちんじゅさん きみょうじ)を創建したと伝わります。

(もし、行きたい方がいらっしゃたら、住所は秋田県秋田市八橋本町2-3-37です。)

藩主・佐竹 義隆(さたけ よしたか)の時代になっていました。

徳川家に石田三成の風評が入り、佐竹藩は詰問を受けたそうです。

佐竹藩は、唱岳長音上人(しょうがくちょうおんしょうにん)は、石田三成の弟であり既に出家している旨の説明をしたと伝わります。

なぜ弟と答えたのかわかりませんが、唱岳長音上人が生まれたとされる1602年は、三成の両親とも亡くなっていますので弟ではありません。

また、三成本人とする説もあるそうです。

関ヶ原の戦い後に処刑されたのは影武者で、三成は親しくしていた佐竹義宣(さたけ よしのぶ)を頼ったのではないかと伝えられているそうです。

帰命寺には、三成のもと伝わる墓碑があり、秋田市八橋(やばせ)町周辺には石田性が多くいらっしゃるそうです。

唱岳長音上人(しょうがくちょうおんしょうにん)が没したのは、1679年ですので三成は数え年で120歳まで長生きした?となります…。

残念ながら、唱岳長音上人は三成説は正しくないと思います。

長寿過ぎるのもそうですが、別人が身代わりとなって誰も気が付かないことは無いと思うのですが…いかがでしょうか?

また刑に処せられた後、埋葬された三成のお墓から、1907年に遺骨が発掘されています。

その遺骨から化学復元した三成の顔は、津軽杉山家に伝わった肖像画と似ているように見えます。

やはり、刑に処せられたのは三成であり、木食唱岳長音上人は三成の縁者の可能性がある人とになると思います。

 

 

初音局

石田三成の側室で、徳川家康が石田三成に送り込んできたクノー(女忍者)であるといいます。

初音局は、間者であるにもかかわらず、石田三成の側室になり佐和山城落城の際に自害したとも、脱出したとも、徳川方に殺害されたとも言われますが、出典元はフィクションではないかと思います。

元となった側室がいた可能性は否定できませんが、少なくても私が読んだ数十冊の文献には、「初音局」、「クノーの側室」がいたとの記載はありません。

石田三成には、複数の側室、複数の庶子がいて、関ケ原の戦いの敗戦後は、それぞれの生母の生家を頼って落ち延びたとされています。

側室についての詳細は伝わっていませんが、側室との間の子(庶子)については、わかる範囲でこちらの「石田三成と側室の子」の覧にまとめています。

👇

石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

 

今回の記事執筆にあたり、石田三成研究家である白川亨(とおる)氏著書、「石田三成の生涯」、「真説 石田三成の生涯」から、三成の長兄、弟、唱岳長音上人について参考にさせていただきました。


真説 石田三成の生涯 (中経出版)

オンライン三成編「三成伝説」から、三成の弟、唱岳長音上人につい参考にさせていただきました。

宝島社「悲劇の智将 石田三成」から、幻の一門衆・石田佐兵衛(いしだ さへい)について参考にさせていただきました。

 

当ブログ全体の出典元はこちらです。
👇
参考・引用・出典一覧

スポンサーリンク






戦国時代ランキング