関口氏純(親永)は駿河国の今川氏一門で、徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)の父です。
今川義元亡き後も、今川氏に属していた関口氏純(親永)ですが、徳川家康が今川氏から離反したことで、切腹に追い込まれてしまいます。
ここでは関口氏純(親永)の生涯について書いています。
関口氏純(親永)は今川一門
永正15年(1518年)、関口氏純(親永)は、瀬名氏貞の次男として生まれます。
母は堀越貞基の娘だと言われていますが、定かではありません。
瀬名氏は清和源氏の流れを汲む堀越氏(遠江今川氏)の分家で、駿河今川氏の家臣です。
瀬名氏貞の次男として生まれた関口氏純(親永)は、元は瀬名義広と称していましたが、一族である関口氏禄の養子になって家督を継承し、今川関口家の当主になっています。
関口氏純(親永)が関口氏の養子となった経緯については異説もあります。
室町幕府の奉公衆・関口政興の弟である氏兼が今川氏に仕官し、今川貞延(堀越貞延)の娘と結婚したそうですが、大永5年(1525年)に没したと伝わります。
その嫡子も亡くなった為、瀬名氏貞の子・関口氏純(親永)が関口氏の婿養子になったと言われています。
真偽は不明ですが、いずれのせよ、関口氏・瀬名氏共に今川氏一門と位置づけられる家柄です。
今川氏の有力家臣であった関口氏純(親永)は、駿河守備の重要な支城であった持船城城主を務めています。
また、関口氏純(親永)は、室町幕府の奉公衆でもあります。
今川氏親から偏諱を賜る
関口氏純(親永)は、主君である今川氏親(義元の父)から偏諱を賜って親永と改めたと言われていますが、現存しているのは「氏純」と署名する文書です。
天文5年(1536年)、今川氏親亡き後の内乱を制して、今川義元が今川氏の家督を継承しています。
関口氏純(親永)の妻
関口氏純(親永)の正室は、今川氏親の娘(義元の妹)と言われていますが、氏純の兄・瀬名氏俊(妻は今川氏親の娘)のことが誤って伝わったとも言われています。
また、『寛政重修諸家譜』によると、井伊直宗の妹が「今川義元の養妹となり、関口刑部少輔親永に嫁す」と書かれている為、義元の養妹説もあります。
因みに、井伊直宗とは井伊直政の祖父の兄です。
徳川家康は娘婿
関口氏純(親永)と正室の間に生まれた築山殿(瀬名姫)は、徳川家康の正室です。
因みに、若かりし頃の徳川家康(松平元康)は、今川氏に服従していましたが、関口氏純(親永)の娘を娶ったことで今川氏一門に准じる立場を得たことになります。
今川一門として順風満帆に見える関口氏純(親永)の人生が一変する出来事が起きます。
永禄3年(1560年)に起きた桶狭間の戦いで、今川義元が討死してしまい、井伊直盛など今川家重臣層を含む多くの将兵も討ち取られてしまいます。
今川氏真が今川家の家督を継承しますが、離反が相次ぎ今川氏は衰退していきます。
それでも、関口氏純(親永)は今川氏を支え続けますが、娘婿の徳川家康が今川氏から独立し、今川氏の敵である織田信長と同盟を結びます。
永禄5年(1562年)、今川氏真から去就を疑われた関口氏純(親永)は、駿府屋形町の屋敷で切腹を命じられ正室と共に自害して果てます。
しかし、近年出版された書籍によると、永禄9年(1566年)9月の今川氏真文書に「関口伊豆守」の知行について書いてあり、少なくとも永禄9年までは関口氏純(親永)が生きていたのではないかという説がでてきました。
また、関口氏純(親永)は、相模国の北条氏康の四男・北条氏規を婿養子にして、関口氏を継承させる計画があったとの説があります。
北条氏規は今川義元の甥であり、早川殿(今川氏真の正室)の兄でもある人物で、関口氏継承は義元の方針とも言われています。
しかし、関口氏純(親永)は切腹になり、北条氏規は北条氏の拠点である小田原城へ帰還したそうです。
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