石田三成とキリシタン~キリスト教の禁止~

慶長元年(1596年)、石田三成は、豊臣秀吉からキリシタン弾圧を命じられています。

石田三成は穏便な処置になるよう奔走しましたが、キリスト教の信仰のために命を落としています(日本二十六聖人)。

この記事では、豊臣秀吉が禁教令を発布した経緯や、日本二十六聖人が殉教に至るまでを書いています。

目次

バテレン追放令とキリシタン

元々、豊臣秀吉は織田信長と同じくキリスト教布教を認めていました。

ですが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉はキリスト教宣教を禁止するバテレン(ポルトガル語で神父)追放令を発布します。

理由は諸説ありますが、秀吉が九州征伐に行った際に、九州の大名の間でキリスト教が想像以上に広がっており、脅威を感じたためとも言われています。

キリシタンの反乱が起きれば、キリスト教信者の大名を含め大変な事態になる恐れや、九州で民をキリスト教に改宗させたり、日本人の信徒に神社仏閣を破壊させるなど神道、仏教を迫害する行為があったとも伝わります。

また、西欧人たちの日本侵略をする意図を秀吉が読み取った為ともいわれ、日本人が奴隷として売買されていたことも発覚しています。

しかし、キリスト教の布教は、南蛮貿易とセットで行われていました。

南蛮人渡来図
南蛮人渡来図 出典元:Wikipedia

南蛮貿易によって得られる利益を無視できない秀吉は、布教活動は表向きは禁止されたものの黙認されています。

また、キリスト教の信仰は禁止されておらず、わりと緩めの禁教令でした。

因みに、小西行長、有馬晴信のようにキリシタンであり続けた大名がいる一方、黒田官兵衛は棄教しています。

キリシタン大名として有名な高山右近は、キリスト教の信仰を守る為、領地や財産を捨てています。

サン=フェリペ号事件

日本に新しくスペイン勢力が現れて、キリスト教フランシスコ会が畿内で活発に宣教活動をしているとの情報が秀吉の耳に届き、秀吉は心配していたそうです。

文禄5年(1596年)、キリシタンの取り締まりが厳しくなる出来事が起きます。

バテレン追放令が出されている時代背景の中、スペインのサン=フェリペ号は、メキシコを目指し航海に出ますが、台風に何度も襲われます。

多大なダメージを受けながらも、荷物を海に放棄するなどして、なんとか無事に四国土佐沖へ辿り着きます。

南蛮船漂着の知らせを受けた長宗我部元親が駆けつけ、船員たちは長浜(現・高知市長浜)に収容されることになります。

秀吉は、スペイン側に遭難者を救助する旨告げていたそうです。

そこへ、豊臣秀吉の命令で奉行である増田長盛が派遣されてきました。

増田長盛は、船員の名簿や積荷の一覧を作った上で、船員の所持品をすべて没収しています。

増田長盛が船員に読み上げた秀吉書状によると、秀吉はスペイン人たちは海賊であると考えたようです。

スペインは、ペルー・メキシコ・フィリピンを武力制圧したのと同じく日本も制圧するため、測量に来たのだろうとポルトガル人などから聞いたそうです。

また、船員は拘留された後、処刑など厳しい処分の可能性があることを知り反発しています。

そして船員が、スペインが領土拡大に宣教師を利用しているなどと暴言を吐いたことで、秀吉がキリシタンに対し、警戒心を強くしたとも伝わります。

実際、西欧列強は、宣教師や商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取る植民地化政策をとっています。

増田長盛が京都に戻り、秀吉に報告した直後に、厳しい禁教令が出されます。

石田三成と日本二十六聖人

秀吉は、キリスト教による日本征服もあり得ると疑いを持ち、その上、ポルトガルよりもスペインは、日本の植民地化を露骨に目指しているとも感じたようです。

京都所司代であった石田三成は、秀吉からキリシタンの弾圧を命じられています。

石田三成の元には、キリシタン信者の名簿が提出されており、捕縛されるキリシタンの数を減らせるよう名簿を精査しています。

石田三成の肖像画
石田三成 出典元:Wikipedia

豊臣秀吉からは、死罪にするよう命じられていましたが、前田利家らと共に穏便に治まるよう奔走したと伝わります。

オルガンティノは、秀吉が探させていた宣教師でしたが、京都に隠れていることを三成が知り、手紙で長崎に逃げるようすすめ捕らえられずに済んだそうです。

後に、オルガンティノは、前田玄以の取り成しによって、秀吉から許されています。

また、高山右近を名簿から除くこともできました。

ですが、パウロ 三木やその他信者は除けなかったようです。

石田三成は、イエズス会派の者を除外するように主張したそうですが、叶いませんでした。

ポルトガル系のイエズス会とスペイン系のフランシスコ会は、別と考えたのだと思われます。

キリシタン捕縛と刑の執行

大坂と京都でフランシスコ会員、イエズス会関係者など、日本人信徒を含む合計24名が捕縛されています。

24名は牛馬に乗せられて、京、伏見、大坂、堺を引き廻され、、1597年1月10日大坂を出発し、刑場である長崎まで歩いて向かいます。

真冬の中1ヶ月弱歩き、途中で2名加わり、一行は合計26名になっていました。

一行の中には、わずか12歳の少年もいて、棄教すれば助命するとの長崎の責任者の申し出を断って、共に十字架にかけられています。

刑の直前パウロ三木は、十字架の上から、集まった群衆に対して自らの信念を語ったとされます。

長崎の西坂の丘の上にて、刑が執行されたのは、1597年2月5日(慶長元年12月19日)のことです。

日本二十六聖人殉教地(西坂公園)
日本二十六聖人殉教地(西坂公園)

キリストが絶命したゴルゴタの丘に似ているという理由から、信者らが望んだそうです。

また、この26人の信者は、後にカトリック教会によって聖人の列に加えられ、日本二十六聖人と呼ばれています。

一方、サン=フェリペ号の船員たちは、何度も抗議をし、サン=フェリペ号の修繕を行い無事に帰れたそうです。

後に、スペイン使節が秀吉の元へ派遣され、二十六聖人殉教での宣教師らの亡骸の引渡しを求めていますが、実行されていません。

諸師を愛顧する奉行治部少輔(三成)

天正14年(1586年)、石田三成は堺奉行に就任していますが、キリシタンであったディオゴ日比屋了珪の女婿を断罪しています。

この経緯から、石田三成はイエズス会宣教師から敵意を持たれていたようです。

その後、先に述べたように、捕縛されるキリシタンの数を減らすよう奔走しています。

そのことで、石田三成のイメージが良くなったのでしょうか。

理由は分かりませんが、イエズス会宣教師が残した『日本西教史』などに、石田三成のことを「諸師を愛顧する奉行治部少輔」と好意的な表現で書かれているそうです。

参考・引用・出典一覧
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