石田三成はキリシタンではありませんが、キリシタンに関わる話が残されていますので紹介させていただきます。

石田三成に残るキリシタンの話は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)に豊臣秀吉の命令によって、キリスト教の信仰を理由に磔の刑が執行された時の話です。

何故このようなことが起きたのかみていきます。

 

バテレン追放令とキリシタン

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出典:wikipedia 豊臣秀吉

元々、豊臣秀吉は織田信長と同じくキリスト教布教を認めていました。

ですが、1587年7月25日、秀吉はキリスト教宣教を禁止するバテレン(ポルトガル語で神父)追放令を発布します。

理由は諸説ありますが、一番の理由は、秀吉が九州征伐に行った際に、九州の大名の間でキリスト教が想像以上に広がっており、脅威を感じたためと言われています。

キリシタンの反乱が起きれば、キリスト教信者の大名を含め大変な事態になる恐れや、九州で民をキリスト教に改宗させたり、日本人の信徒に神社仏閣を破壊させるなど神道、仏教が迫害する行為があったとも伝わります。

また、日本人が奴隷として売買されていたことが発覚したためとも言われています。

しかし、キリスト教の布教は、南蛮貿易(なんばんぼうえき)(スペイン人、ポルトガル人との貿易)とセットで行われていました。

南蛮貿易によって得られる利益を無視できない秀吉は、布教活動は表向きは禁止されたものの黙認され、キリスト教の信仰は禁止されておらず、わりと緩めの禁教令でした。

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出典:wikipedia 南蛮人渡来図

サン=フェリペ号事件

ですが、キリシタンの取り締まりが厳しくなる出来事が起きます。

バテレン追放令が出されている時代背景の中、1596年7月にスペインのサン=フェリペ号は、メキシコを目指し航海に出ますが、台風に何度も襲われます。

多大なダメージを受けながらも、荷物を海に放棄するなどして、なんとか無事に四国土佐沖へ辿り着きます。

南蛮船漂着の知らせを受けた長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が駆けつけ、船員たちは長浜(高知県の浦戸<うらど>)に収容されることになりました。

 

秀吉からは、遭難者を救助する旨告げられていたそうですが、そこへ、豊臣秀吉の命令で奉行である増田長盛(ました ながもり)らが浦戸に派遣されてきました。

増田長盛らは、船員の名簿や積荷の一覧を作った上で、船員の所持品をすべて没収しました。

 

秀吉の書状

増田長盛は船員に秀吉からの次の書状を読み上げたそうです。

スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた

と告げられ、船員は拘留された後、処刑など厳しい処分の可能性があることを知り、反発します。

そして船員が、スペインが領土拡張に宣教師を利用しているなどと暴言を吐いたことで、秀吉がキリシタンに対し、警戒心を強くしたとも伝わります。

 

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石田三成と日本二十六聖人

 

増田長盛が京都に戻り、秀吉に報告した直後に、とても厳しい禁教令が出されました。

秀吉は、キリスト教による日本征服もあり得ると疑いを持ったようです。

秀吉は石田三成に、フランシスコ会員とキリスト教徒を捕らえて滅ぼすよう命じます。

その数は膨大であったそうですが、三成はできるだけ死刑にならないように奔走し、取り計らったと伝わります。

キリシタン大名として有名な高山右近(うこん)やキリスト教の宣教師オルガンティノは刑を逃れています。

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出典:wikipedia 高山右近

 

オルガンティノは、秀吉が探させていた宣教師でしたが、京都に隠れていることを三成が知り、手紙で長崎に逃げるようすすめ捕らえられずに済んだそうです。

後に、前田玄以(まえだ げんい)のとりなしによって、秀吉から許されています。

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キリシタン捕縛と刑の執行

また三成は、イエズス会(キリスト教、カトリック教会の男子修道会)派の者を除外するように主張したそうですが叶わず、パウロ三木(キリシタンでイエズス会宣教師)を含む信者の助命を果たせず、宣教師、修道士(禁欲的な修道生活を送る人々)、日本人信徒を含む合計24名が捕縛されてしまいます。

24名は市中引き回しの上、1597年1月10日大坂(阪)を出発し、刑場である長崎まで歩いて向かいます。

一行の中には、わずか12歳の少年もいたそうです。

真冬の中1ヶ月弱歩き、途中で2名加わり、合計26名がはりつけの刑に処せられたのは、1597年2月5日のことでした。

刑の直前パウロ三木は、集まった群衆に対して自らの信念を語ったとされます。

 

また、この26人のカトリック信者(キリスト教最大教派の信者)は、後にカトリック教会によって聖人の列に加えられ、日本二十六聖人(にほんにじゅうろくせいじん)と呼ばれています。

 

一方のサン=フェリペ号の船員たちは、何度も抗議をし、サン=フェリペ号の修繕を行い無事に帰れたそうです。

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筆者の所感

 

筆者は、石田三成の文献を数十冊保有しており、比較的詳しい方かと思いますが、石田三成という人は血が流れることを好まない人に思えます。

関ケ原の戦いを引き起こした人物ですので意外かもしれませんが、関ケ原の戦いの先には太平の世を築くことが念頭にあったと思います。

三成が使用した「大一大万大吉」の旗印は、「天下のもと一人が万人のために、万人が一人の為に力を尽くせば、人々の生は吉となり、太平の世が訪れる」という意味です。

この旗は、三成の祖先が使用したとも伝えられますが、「大一大万大吉」は三成の願うところでもあったのではないかと思います。

「大一大万大吉」の旗についてはこちらに記載しています。

石田三成の旗印の読み方と意味

 

日本二十六聖人の件は、秀吉の命令とはいえ、三成にとっても辛い出来事であったに違いないと思います。

秀吉政権下で、罪のない人が刑に処せられそうになる時、三成は毎度奔走しています。

三成の生涯を追っていくと、豊臣秀吉に翻弄されたり、無理難題を突き付けられ苦悩している姿があります。

三成は秀吉に、進言(目上の者に対して意見を申し述べること)をしたこともありますが、秀吉に嫌悪感を持たれてしまったこともあり、秀吉に三成の義理の叔父である尾藤左衛門尉(尾藤甚右衛門)が殺害されてしまいます。

三成の進言と関係があるのではないかと推測できるようです。

 

尾藤左衛門尉は、三成の岳父・宇多頼忠の兄です。

宇多頼忠についてはこちらの記事にしています。

石田三成の正室・皎月院(こうげついん)と岳父・宇多頼忠

 

秀吉によって土豪から佐和山城城主へ引き立てもらった恩はあると思いますが、秀吉に親族を滅ぼされて、特に晩年の傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な面を目の当たりにしたのに、何故、関ケ原の戦いで豊臣家を守るために決起したのか不思議に思います…。

 

話がそれてしまいましたが…、三成がキリシタンに情け深い取り計らいをしたことも理由の一つでしょうか。

キリシタン大名として有名な小西行長(オーガスチン)とは、三成自身の書状に仲の良い人物として記載がある方で、関ケ原の戦いを共に戦い、最後まで親友であったそうです。

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参考・引用・出典一覧

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