松代(まつしろ)藩の真田家には、歴史的に貴重な文書である真田家文書が伝わっています。

今回は、真田家文書から見える石田三成についての記事です。

また、真田信之(さなだ のぶゆき)が石田三成の盟友であることは、あまり知られていないかもしれませんが、真田家文書を通して関係をみていきます。

 

真田家文書

真田家文書とは、真田昌幸(まさゆき)の父・真田幸隆(ゆきたか)以来、真田家に伝わる381通の文書のことです。

真田幸隆は、上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)や武田信玄などに仕えた武将で、子供には昌幸の他、真田 信綱(さなだ のぶつな)、真田 昌輝(さなだ まさてる)などがいます。

真田家文書には、以前の主君であった武田信玄・勝頼、後に仕えることになる豊臣秀吉や秀次からの文書もあります。

その数は、御奉書を除くと真田信之が後に仕えることになる徳川秀忠・家光ら将軍家からの文書が最も多く次いで多いのは、石田三成からの奉行連書状を除いた15通の文書であるといいます。

 

真田家文書から見える三成と信之

Sanada_Nobuyuki

出典:wikipedia 真田信之

15通の内2通は関ケ原の戦いについての文書で、13通は真田信之に宛てた文書です。

当時の文書には、署名の代わりに使用される記号のような、現代でいうところの印鑑のような役目をする「花押(かおう)」を文書に記すことが多い時代でした。

しかし、信之に宛てた三成からの文書は、花押(かおう)が押されていないものが複数あり、文書の内容もとても私的なものが多いです。

信之は「伊豆守」の官位を持っており、真田家文書にある信之への書状のほとんどは、「眞田伊豆守殿」という宛名になっています。

三成が信之に出した13通のうち5通は「眞豆州(御報・人々御中)」、残りの8通は「さいつ殿(様)」宛てとなっています。

「さいつ殿」とは、眞田伊豆守(さなだいずのかみ)から省略して記されたものであり、親しい間柄が垣間見える内容になっています。

では、三成が信之に出した現代語訳の文書を紹介させていただきます。

 

信之宛、三成文書

『先日は約束の鷹をいただき、こちらからすぐご連絡するべきなのに、疲れ果てていて遅くなりました。

さても見事な鷹をいただき、ありがとうございます。

昨夕もお尋ねくださったそうで、私もお会いしたかったですが、(秀吉の)御わずらいにより宿へ帰る暇もなく、本中書(本多忠勝殿)もお尋ねくださったとのことですが、このような次第でお会いできませんでした。

お察しください。

謹言』

 

この文書の他にも、

『忠勝殿へすぐ返事を出す予定ですが、もしも忠勝殿から返事のことで問い合わせがあれば、すぐに返事を出しますと言っていたと伝えてほしいです。』

と書かれた文書もあり、信之(本多忠勝は義父)を介して、徳川四天王の一人である本多忠勝(ほんだ ただかつ)と交流があったようです。

意外な感じがします。

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『最近は私も忙しく、ご無沙汰しています。

ところで岐阜中納言(織田秀信)殿が具合が悪く、あなたの分領地である草津(群馬県)で湯治をしたいとのことです。

しかし彼(秀信)は草津に地の利がないので、すみませんが留守居衆へ面倒をみるように手紙を書いてもらえませんか。

そうしてもらえれば、私も助かります。

いつもこのようなことをお願いし、心中ご迷惑と思います。

御意を得られますように。

詳細は使者にて。

恐々謹言

六月九日 花押』

 

この文書は、織田信長の孫である織田秀信(おだ ひでのぶ)のために、草津(信之の領土)湯治の案内を信之お願いしています。

織田秀信の幼名は三法師といい、信長没後、秀吉の権力闘争に利用されて、わずか3歳で織田家の家督を相続し、最終的には秀吉の一家臣という扱いになってしまいます。

1580年生まれですので、三成と20歳差ですが、三成とは懇意だったのではないかと推測されています。

三成との良好な関係もあってなのか、理由はわかりませんが、関ケ原の戦いでは西軍につきます。

その他には

 

度々の思い召しありがとうございます。

ことに何度もお訪ねいただいたのに、具合が悪くお会いできませんでした。

既に(具合も)よくなりましたので、相つもる話をしましょう。

重ね重ねありがとうございます。

謹言

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御礼状拝見いたしました。

私の具合が悪かったこと、よくもうご存知でしたね。

宿に戻りましたが、すこしくたびれています。

一両日中には罷(まか)り出るつもりです。

ご帰国されるとのこと。

承知しました。

(秀吉廻りの)皆々は大坂(大阪)へ行っていますが、今日中には(伏見に)帰りますので、これより申しいれておきます。

謹言

 

真田家文書についてと筆者の所感

信之宛、三成の文書の中には、もっと短くメモのような文書まであり、信之によって保管され現代に伝わっています。

戦国時代の大名間の文書は、もっと長くて硬いイメージがあります。

三成と信之は、現代でいうところの文通というところでしょうか。

このような文書から、三成と信之は相当親しい間柄であったと推測されます。

しかし、七将襲撃事件で三成が失脚して、佐和山城へ引退する頃、信之もまた居城である沼田城へ帰って行きました。

そして、関ケ原の戦いで敵味方に分かれてしまい、関係は途絶えたと思われます。

 

 

真田家文書と関ケ原の戦い文書

真田家文書は、関ケ原の戦い前後のものが多いとされ、特に徳川家康・秀忠石田三成大谷吉継から届いたものが多いそうです。

三成文書は途中で流出したものもあり、真田家文書として現存しているものは2通です。

その2通は、真田家の歴史を語る上で非常に重要な古文書を収納した「吉光御腰物箪笥<よしみつおこしものたんす>」に入っていたそうです。

一方、先ほど一部紹介させていただいた、三成から信之に宛てた13通は、歴史事実を如実には伝えないものの、歴史上著名な人物からの手紙など古文書を収納した「青貝御紋附御文書<あおがいごもんつき>」に入っていたそうです。

 

関ケ原の戦いの文書

信之の父・昌幸が、石田三成の決起(関ケ原の戦い)を知ったのは、7月21日に三成の密書を受け取った時のようです。

真田昌幸

出典:wikipedia 真田昌幸

その密書には、三成の挙兵と西軍についた会津の上杉景勝(かげかつ)と綿密な行動をとるように求めていたとされます。

 

犬伏の別れ

その密書を受けて、真田家では今後の方向性について話し合いを行ったとされています。

父の真田昌幸、次男の幸村(信繁)は、三成方の西軍に、長男の信之は徳川方の東軍に別れる決断をしました。

この真田父子の訣別は、「犬伏の別れ」と呼ばれています。

このように分かれたのは、どちらが勝利しても真田家が生き残るためと言われていますが、婚姻関係もあったものと見られています。

①長男・真田信之の正室が本多忠勝の娘(徳川家康の養女)であること。

②次男・真田幸村(信繁)の正室は、大谷吉継の娘(三成の仲介により結婚)であること。

③これは定かではありませんが、父・真田昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹であるからとも言われています。

④三成の岳父(義父)の兄の子(石田頼次)は、三成の父の猶子となっているのですが、妻は昌幸の五女である趙州院(ちょうしゅういん)です。
この縁により、昌幸は関ヶ原の戦いで、西軍に属したとも言われます。

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昌幸の返書にたいする文書

7月27日に、三成は昌幸から東軍対策についてと、事前に相談して欲しかったと恨みのような返書を受け取ります。

なんで教えてくれなかったのかと書いてあるそうですが、それほどに真田家とは関係が深かったのではないかと思います。

7月30日に三成は昌幸に返書送り、決起の件を事前に知らせなかったことを詫び、決起計画に対する諸侯調略の目途が立ってなかったこと、計画の漏れることを防ぐためと理由も述べています。

また、増田長盛(ました ながもり)、前田玄以(まえだ げんい)らも家康討伐に同意であること、大阪在住の昌幸の妻子は、大谷吉継(次男・幸村の岳父)が保護していることも伝えています。

 

※ただ前田玄以は、淀殿、増田長盛、長束正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)と共に、徳川方に三成と吉継が謀反を企てていると密書を送っています。

前田玄以、増田長盛、長束正家とも西軍に属すことになりますが、この時点では、裏切りというより穏便に済ませたい武将もいたのかもしれません。

関ケ原の戦い後、増田長盛は改易処分になり、長束正家にいたっては、本多忠勝(徳川四天王)の妹が正室であるにもかかわらず弟と共に切腹、もう一人の弟は処刑されています。

前田玄以は、本領を安堵されています。

西軍に属していたはずの前田玄以にはお咎めなし、三成が仲間だと思っていたであろう前田玄以は内通していました…。

 

さらに三成は昌幸に会津へ向かう使者を、沼田経由で送り届けてもらいたいと道案内を依頼しており、関ケ原の戦い当時、東海道も中山道いずれも家康方の勢力下にあったため、上田-沼田間を通って会津へ向かっていたことが読み取れます。

文書から三成が真田家をいかに頼りにしているか、また会津の上杉景勝との通信連絡路としても、真田家は重要な役割を果たしていることがわかります。

 

三成の期待以上の真田家

8月5日付けの昌幸宛の書状では、上杉景勝と佐竹義宜と呼応して関東へ進攻して欲しい旨と、中国・四国・九州の西軍武将、兵数の詳細を記した一覧を送っています。

関東へ進攻とは、おそらく徳川家のいる関東へ進攻して欲しいという意味かなと思うのですが。

昌幸、幸村は関東へ進攻はしませんでしたが、徳川家主力である徳川秀忠軍を信州に足止めし、関ケ原の戦い本戦に間に合わなくなり、三成の期待以上の働きをしたことになります。

 

また、真田家から流出してしまったとされる8月6日付三成文書には、信之に対しての不信感が初めて記されているそうです。

三成は真田家が分かれたことを知らなかったことがわかります。

真田の兵力が分かれていたと知っていれば、三成の真田家にたいする期待は、もっと少なめだったかもしれませんが、昌幸、幸村は期待以上でした。

 

真田家文書が現存する理由

 

三成に関する文書は、現代ではあまり残っていません。

徳川の時代になり、多くの大名は、徳川家を憚り三成とのつながりを隠すため廃棄したものと推察できます。

また、連署は三成の名前だけ切り取られているものもあるそうです。

三成とのやり取りが徳川家に見つかったら真田家も大変なことになったかもしれません。

信之は、文書を厳重に保管するため、一日中警護をつけ寝ずの番がいたそうです。

そこまでして、何故残したのかわかりませんが、真田家文書のような一次史料があるおかげで、当時の様子が断片的にでも垣間見えますね。

 

参考・引用・出典一覧

 

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