石田三成と豊臣秀吉の側室である淀殿(茶々)が不適切な関係であったのではないかと話題になることがあります。

何故、石田三成と淀殿に関係があると囁かれるようになったのか検証します。

 

 

淀殿の夫・秀吉不妊症の可能性

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出典:wikipedia 伝淀殿画像

豊臣秀吉には、正室である北政所(きたのまんどころ)の他に、沢山の側室がいたと伝わります。

正確な数は不明ですが、側室は少なくても13人いるとされ、推定では20人弱いたのではないかとも言われています。

秀吉には沢山の妻がいるのに、子が少ないため秀吉は不妊症ではないかと言われてきた事が、淀殿が産んだ鶴松(つるまつ)や秀頼が秀吉の実子でない可能性が囁かれることになった一因であったと推測できます。

 

秀吉の子供

現在、豊臣秀吉の子供を調べると、長男の羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)(幼名は石松丸<いしまつまる>)と一女の他に、淀殿(茶々)が産んだ次男の豊臣鶴松、三男の豊臣秀頼がいると検索できます。

ですが、羽柴 秀勝(石松丸)と一女については、以前は存在が疑問視されていました。

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羽柴 秀勝(石松丸)と一女

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出典:wikipedia 羽柴秀勝肖像

まず、羽柴 秀勝(石松丸)と一女について記載します。

秀吉が織田信長の家臣であった長浜城主時代に、南の局(みなみのつぼね)という側室との間に一男一女を儲けたという伝承が残っていました。

南の局は、秀吉に攻められ降伏した鳥取城主・山名 豊国(やまな とよくに)の娘です。

※生母については諸説あり、現在も定かではありません。

現代の我々から見れば、秀吉はもの凄く有名な偉人になりますが、当時は信長の一家臣であり、後に豊臣家が滅んでしまったこともあり、羽柴 秀勝(石松丸)と一女がいたことは伝承の域を出ませんでした

 

羽柴 秀勝(石松丸)の実在の可能性

しかし2002年に、秀吉の子・羽柴 秀勝(石松丸)の墓の伝承があった廟所(びょうしょ)( 祖先や貴人の霊を祭った場所)の発掘調査があり、この調査によって、埋葬されていたところは、確かに安土桃山時代の大名が埋葬者であると結論づけられました。

この調査により、長浜城主であった羽柴秀吉(後に豊臣秀吉)の子が現実的になり、現代では羽柴 秀勝(石松丸)は、実在した可能性が高いのではないかと見なされるようになりました。

一方の一女については、長浜八幡宮(ながはまはちまんぐう)に秀吉の娘の延命を願って、懸仏(かけぼとけ)を奉納したことが伝わっていますが、定かではありません。

※羽柴 秀勝(石松丸)と一女共に、実子である確証はないと疑問視する声もあります。

このように、羽柴 秀勝と一女の存在が実在したのではないかと見なされたのは最近のことです。

以前は、秀吉の子を産んだのは淀殿一人かもしれないと思われていたので、鶴松、秀頼の父親を疑問視する声が真実味を帯びていました。

 

 

鶴松を出産後に淀殿に不義の噂

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出典:wikipedia 豊臣棄丸(鶴松)像

淀殿(茶々)は最後まで徳川家康と対立していますので、徳川政権下(江戸時代)で不貞行為があったと蔑まれたのかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、秀頼の兄・鶴松を出産してから淀殿に不義の噂があったようです。

ですが事実上、不貞行為は難しい状況にあり不可能だと推察できます。

淀殿の不義の噂は、個人的な意見ですが、側室など女性達の嫉妬心などから生まれたのかもしれないと思っています。

 

豊臣期の大奥御殿

豊臣期の大奥御殿は厳しい管理下にあり、過去に不祥事が起きた際は、容赦のない厳格な処罰(酷い殺され方)が下されています。

ただでさえ厳しい大奥御殿、淀殿(茶々)に不義の噂があったとあれば、より厳しく見られると思います。

秀吉が留守にしていても、大奥御殿の管理者は秀吉の正室・北政所です。

秀吉の側室が不貞行為を行うのは、現実的に難しかったそうです。

 

淀殿の相手は石田三成との説

石田三成の他に、もう一人関係があったのではと囁かれる大野治長(おおの はるなが)も同じで、不適切な行為は難しかったのではないかと推察できます。

また秀頼の父親は、石田三成であるかのように語られることがありますが、淀殿(茶々)が秀頼をお腹に宿したころ、三成は朝鮮出兵に従事するため朝鮮にいましたので、物理的に父親であることは有り得なそうです。

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淀殿は石田三成方である西軍支持との説

関ケ原の戦いで、淀殿(茶々)は三成方・西軍を支持していた(親しい間柄であった)との説が通説であった時期がありました。

三成と淀殿が近江国出身であることから接点があったのではと推測され、関ケ原の戦いでも三成、大谷吉継、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)など文治派を淀殿が支持したとする説が有力視されていた時があります。

そして、福島正則(まさのり)、加藤清正(きよまさ)、黒田長政(ながまさ)らの武断派は北政所(秀吉の正室)が支持したとされていましたが、現在ではこれ等の説は誤りであろうとの見方が有力です。

また、三成が決起した(家康対立を鮮明にした)とき淀殿は、三成と吉継が謀反(むほん)を企てていると徳川方に書状を送っていることからも、三成(西軍)支持は否定されると思います。

 

 

淀殿と三成の関係はフィクション

また秀吉、北政所ともに鶴松、秀頼を豊臣家の子として処遇しており疑っているような記録はありません。

北政所は、秀吉没後も秀頼を豊臣家の主として大切にし補佐し続けていることから、一番近くにいた人たちは不義の子と疑っていなかったとようです。

また、江戸時代の軍記物で淀殿(茶々)の不貞行為を描く際に「淀君」と表現しているようですが、この表現は遊女を連想させる言葉です。

大坂(阪)の陣で、神君・徳川家康に逆らった好色な「淀君」は、関ケ原の戦いで家康に歯向かった逆族の三成をたぶらかし、不義の子(豊臣家秀頼)が生まれたという筋書きだと思います。

淀殿(茶々)と三成に関係があったことは、現代ではほぼ否定されていますが、ドラマなどフィクションで関係があったかのように描かれることがありますので、そのような関係だったのかと疑問に思う方がいっらしゃるのだろうと思います。

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参考・引用・出典一覧

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