竹千代(徳川家康)は三河国の国人土豪の出自で、人質として過ごした苦難の時期を経て、元服後、松平元信と名乗り、桶狭間の戦いを経て今川氏から独立し、やがて徳川家康と名乗ります。
宿敵・武田信玄の病没、同盟相手・織田信長の死去を経て豊臣秀吉に従属しますが、関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いています。
大坂夏の陣で豊臣宗家を滅亡に追い込み、徳川氏264年の天下の礎を築いています。
ここでは徳川家康の人生のまとめについて書いています。
竹千代誕生と不遇の時期
天文11年(1542年)、徳川家康(幼名は竹千代)は、三河国額田郡岡崎城主であった松平広忠の嫡男として、岡崎城で生を受けます。
松平広忠は元服前の10歳で父・清康を亡くしており、清康の築いた支配体制を保つことが出来ず、駿河国の今川氏の庇護を受けていました。
徳川家康(竹千代)の母は、尾張国の緒川城主であった水野忠政の娘・於大の方(伝通院)です。
しかし、松平広忠と於大の方の婚姻関係は長くは続きませんでした。
翌年、今川氏についていた水野忠政が没すると、水野信元(於大の方の異母兄)が水野家の家督を受け継いでいます。
水野信元が今川氏の敵である尾張国の織田氏への協力姿勢を示したことで、今川氏を憚った松平広忠によって於大の方は離縁されてしまいます。
こうして、徳川家康(竹千代)は、僅か3歳で母と生き別れになります。
織田氏の人質になる
天文16年(1547年)、尾張国・織田信秀の三河侵攻を受け、松平広忠は駿河国・今川義元に加勢を乞います。
その見返りとして、数え6歳だった徳川家康(竹千代)は、今川氏への人質として駿府へ送られることとなります。
徳川家康(竹千代)を駿府まで送り届ける役目を担ったのは、義母(真喜姫)の父・戸田康光です。
しかし、戸田康光の裏切りに、徳川家康は織田信秀のもとに送られます。
織田信秀は徳川家康(竹千代)に帰属を迫りますが応じなかったと言われています。
近年までこの説が通説でしたが、近年は研究が進み違った説もあります。
天文16年(1547年)に松平広忠の岡崎城は、織田信秀によって攻め落とされており、広忠が降伏の証として、信秀の元に人質を送ったのではないかとも言われています。
真実は定かではありませんが、いずれにせよ、徳川家康(竹千代)は、織田氏の人質として2年間、尾張の熱田にあった加藤順盛邸で過ごしています。
熱田と織田信長の居城であった那古野城は近く、徳川家康(竹千代)と信長が出会う機会があったのではないかという推察があります。
今川氏の人質になる
天文18年(1549年)、松平広忠が亡くなります。
同年、今川方の太原雪斎率いる今川・松平連合軍によって、織田信広(信長の庶兄)が生け捕りにされ、徳川家康(竹千代)と人質交換されることになり、竹千代は駿府へ移されます。
駿府で徳川家康(竹千代)が元服するまで養育したのは、竹千代の祖母である源応尼(華陽院)だと言われています。
松平氏の拠点であった岡崎城には、今川氏の重臣である朝比奈泰能や山田景隆らが派遣され、岡崎城代を務めています。
今川義元は、事実上、松平氏の領土を領有するため、家臣を送り込んだという見方がありますが、近年は将来的には徳川家康(竹千代)が松平領を継ぐと義元が考えていたとの説もあります。
また、岡崎城の城代による統治より、松平氏の家臣である鳥居忠吉や阿部定吉らの実務によって岡崎は統治されていたと言われています。
松平元信から松平元康へ
天文24年(1555年)、徳川家康(竹千代)は元服して「松平次郎三郎元信」(以下、松平元信)と名乗ります。
松平元信の「元」の字は、烏帽子親の今川義元から「元」の一字を与えられて名乗ったものです。
その際、松平元信の理髪を担当したのは、今川氏の有力家臣・関口親永(瀬名義広)で、後に元信の舅になる人物です。
弘治2年(1556年)頃、松平元信は、父・広忠の墓参りと称して、岡崎城へ帰ります。
岡崎の松平家臣は、日々の暮らしにも困る位に困窮していたそうですが、老臣・鳥居忠吉が松平家再興の為に、倉庫に米や銭を密かに蓄えており、松平元信を感動させたとのエピソードはこの時の話だと言われています。
弘治3年(1557年)、松平元信は、関口親永(瀬名義広)の娘である瀬名姫(築山殿)を娶ります。
瀬名姫(築山殿)は、今川氏一門の名家の出身であり、結婚により松平元信は、今川氏一門に準ずる武将となっています。
その後、時期は分かりませんが、松平元信の祖父である松平清康の偏諱をもらい「松平蔵人佐元康」(以下、松平元康)と改名しています。
永禄元年(1558年)、加茂郡寺部城主・鈴木重辰が今川義元から離反し織田信長についたため、松平元康は重辰討伐を命ぜられ、初陣を飾ります(寺部城攻め)。
松平元康は苦戦しながらも鈴木重辰を寺部城本丸に追い詰めて、城下を焼き払い寺部城を攻略しています。
続けて松平元康は、加茂郡の広瀬・挙母・伊保・梅坪などを攻め、岡崎の武将は元康の勇ましい姿を見て泣いて喜んだと言われています。
松平元康は寺部城の戦いの功績により、300貫文の地と腰刀を与えられています。
また、尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった尾張国の大高城・沓掛城・鳴海城・笠寺城は、織田方から今川方の城となります。
松平元康の桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)、今川義元は大軍を率いて尾張に攻め込みます(桶狭間の戦い)。
松平元康と井伊直盛は、桶狭間の戦いで今川氏の先鋒を命じられています。
今川方の最前線の城は、鵜殿長照が守備する大高城ですが、長照が兵糧不足を訴えた為、松平元康が兵糧の補給を担っています。
松平元康は、織田方によって築かれた鷲津砦と丸根砦の間を突破し、兵糧の補給を成功させます。
翌日、松平元康は、織田方の佐久間盛重らが籠る丸根砦を攻め落としています。
鷲津砦は朝比奈泰能が攻略しており、鷲津砦と丸根砦の勝利の報告を受けた今川義元は、桶狭間山で戦勝を祝いながら休憩していました。
松平元康が大高城で休息を取っている時、織田信長率いる精鋭部隊の攻撃を受けた今川義元は討ち取られてしまいます。
織田方に与していいた松平元康の叔父である水野信元の使者が大高城にやってきて、元康に今川義元が討死したことを知らせ、織田勢の来襲が来る前に退却するよう伝えています。
松平元康は追手から逃れる為、岡崎にある松平氏の菩提寺である大樹寺に逃れています。
松平元康は自害を覚悟しますが、住職の登誉天室(とうよ てんしつ)に「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)の教え(穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない)を授けられたと言われています。
この後、松平元康は「厭離穢土 欣求浄土」という文字を軍旗として使用しています。
松平元康の自立
岡崎城にいた今川勢が駿府に撤収した後、『三河物語』によると、松平元康は「捨て城ならば捨わん」と言い岡崎城に入ります。
天文18年(1549年)、父である松平広忠が亡くなって以降、今川方の城となっていた岡崎城を取り戻したことになります。
一説によると、今川義元の後を継いだ今川氏真が織田軍に備えるために、松平元康に帰還を許したとの説もあります。
また、従来の通説によると、桶狭間の戦い後の松平元康は、今川氏真に今川義元の弔い合戦を勧めながら自身も織田信長と戦いますが、氏真は動かなかったそうです。
松平元康は、やがて今川氏真を見限り、水野信元の勧めもあり織田信長と和睦したと言われています。
一方で、桶狭間の戦い後、松平元康が織田方を攻めたのは誤りであると通説を否定した考えもあります。
桶狭間の戦い後、松平元康は織田信長と領土協定を結び、元康は今川方と戦を開始したという説ですが、真実は分かりません。
永禄4年(1561年)2月、松平元康は将軍・足利義輝の要請に応じて、「嵐鹿毛」とよばれる馬を献上しています。
足利義輝は、松平元康の対応が早かったことを神妙であると誉めています。
将軍・義輝と関係を築くことで、松平元康は独立した領主であると認めて欲しいという自立への意欲の表れであると見られています。
同年4月、松平元康は、今川方の主な武将の一人であった牛久保城主・牧野成定を攻めて「今川氏から自立」する意思を明確に示します。
今川氏真の発給文書に「松平蔵人逆心」や「岡崎逆心」、更に「三州錯乱」など憤りを感じさせる言葉が見られるようになります。
将軍・足利義輝から松平元康と今川氏真に和睦を求める御内書が発せられていますが、和睦には至りませんでした。
信長と家康 同盟締結
永禄5年(1562年)、織田信長と松平元康の間で会談が行われ、正式に同盟が締結されています。
しかし、松平元康と織田信長の同盟は今川氏真を怒らせてしまいます。
松平元康の舅・関口親永(瀬名義広)は、今川氏真に仕えていましたが、家康の独立に腹を立てた氏真に自害を命じられ、正室と共に自害して果てています。
また、関口親永(瀬名義広)の娘で松平元康の正室である築山殿(瀬名姫)や元康との子供である松平信康・亀姫も、今川領の駿府に滞在しており危険が及びかねない状態です。
同年、徳川家康率いる松平軍は、今川氏から重用されていた鵜殿長照が守備する上ノ郷城を攻めて長照を討ち取り、長照の子の鵜殿氏長・氏次を生け捕りにします。
今川家の親戚でもある鵜殿氏長・鵜殿氏次との人質交換により、築山殿(瀬名姫)・松平信康・亀姫は岡崎に移ります。
「元」の字を捨てて家康に改名
永禄6年(1563年)には、今川義元からの偏諱である「元」の字を捨てて、元康から「家康」と名を改めています(以下、松平家康と表記)。
家康の「家」の字の由来は定かではありませんが、一説によると松平家康の継父である久松長家(俊勝)から一字を貰ったとも言われています。
同年、松平家康の嫡男・竹千代(後の松平信康)と織田信長の長女・五徳(徳姫)の婚約が成立しています。
三河一向一揆
永禄6年(1563年)、本證寺第十代・空誓らが門徒武将や農民に檄を飛ばし、家康の領土である西三河で一揆蜂起を招きます。
松平家康の家臣にも一向宗の門徒がいて、家康に背いて一揆方についた家臣もいます。
戦いは翌年に持ち越されていますが、家康優位で推移し、やがて一揆と和睦して一揆の解体に成功しています。
三河一向一揆を鎮圧した松平家康は、東三河の攻略を目指して今川方の田原城や小原鎮実が守備する吉田城攻略に着手します。
小原鎮実は、今川氏から離反した仁連木城主・戸田重貞によって孤立させられ、また松平勢に吉田城を包囲されたため開城しています。
また、松平家康は東三河の多くの国衆を味方に引き込んでいますが、戸田重貞の働きかけがあったそうです。
この頃、田原城も開城し、三河での今川氏の拠点はなくなっています。
松平方となった田原城には本多広孝を置き、吉田城には城代として酒井忠次が入っています。
特に酒井忠次は、後に東三河の支配を任せられるくらい大きな力を持つようになります。
「徳川」へ改姓
永禄9年(1566年)までに三河を平定した家康は、松平から「徳川」に改姓し、関白の職にあった近衛前久の助けもあり、朝廷から従五位下三河守に叙任されます。
三河守任官を目指していた松平家康は、三河守に任官したことのある世良田(得川)頼氏の末裔と称しており、系図を結びつけるために「徳川」に改姓したと思われます(以下、徳川家康と表記)。
「三備」軍制改正
永禄8年(1565年)~永禄10年(1567年)年頃、家康は三備の制への軍制改正を行っています。
どの様なことかというと、有力家臣を東三河衆と西三河衆の二組に編成し、東三河の旗頭を酒井忠次、西三河の旗頭を石川家成(後に石川数正)にしています。
そして家康直轄の旗本には、旗本先手役を置いて、軍を三つに分けています。
また、永禄10年(1567年)、徳川家康の嫡男・竹千代(松平信康)と五徳(徳姫)が結婚し、岡崎城を竹千代(翌月、元服)に譲っています。
武田信玄と同盟締結と破綻
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始し、敵対勢力を退けて義昭を第15代将軍に擁立しています。
徳川家康は、織田信長に松平信一を援軍として派遣しており、信一は武功を挙げています。
武田信玄が今川領の駿河国へ侵攻し、徳川家康は酒井忠次を交渉役にして、遠江割譲を条件に信玄とも同盟を結んでいます。
徳川軍は今川方の曳馬城を攻略し、そのまま今川領の遠江国で新年を迎えます。
『三河物語』などによると、大井川を境として遠江が徳川家康、駿河が武田信玄が侵攻し今川領を分割するとの協定があったと伝わります。
しかし、永禄12年(1569年)、武田の別動隊で秋山虎繁(信友)率いる信濃衆が遠江国へ侵攻します。
武田方に協定違反があったことを受けて、徳川家康は信玄に抗議しており、やがて手切れとなります。
戦国大名としての今川氏滅亡
永禄12年(1569年)の正月頃から、駿府の今川館から逃れた今川氏真が籠城する掛川城攻めが本格化します。
徳川家康自身も出馬しますが、今川勢の抵抗にあって攻めあぐね、半年近く戦が続きます。
徳川家康は、今川方に和睦を申し入れて、今川氏とのかつての縁や、家康が遠江国を取らなければ、武田信玄が遠江国を取るであろうことを説いたと言われています。
同年5月、徳川家康は、掛川城を開城させて遠江国を支配下に置いています。
徳川家康は、北条氏康(氏真の義父)と共に武田信玄を追い払って、氏真を再び駿河の国主に戻すという盟約を結んだと言われています。
徳川家康は今川氏真の義父の協力を得て武田信玄を退けたわけですが、盟約が履行されることはなく、今川氏の統治権は喪失します。
織田・徳川連合軍VS浅井・朝倉連合軍
元亀元年(1570年)、徳川家康は織田信長に従い越前の朝倉義景攻めに参じます(金ヶ崎の戦い)。
織田・徳川連合軍は、優位に戦を進めていましたが、織田信長の妹・お市の方が嫁いで信長の同盟相手となっていた浅井長政が、突然信長を裏切り形成不利になります。
織田信長を撤退させた後、織田勢は退却戦をしています。
織田信長は朽木を越えて京都へ逃れ、徳川家康も京都へ戻った後、岡崎城に帰還しています。
同年、徳川家康は曳馬城に入城して浜松城と改称し、今川氏真を浜松城に迎え入れて庇護します。
この頃、家康嫡男・松平信康は、正式に岡崎城主になっています。
一方、浅井長政の裏切りに怒りの収まらない織田信長は、兵を立て直して浅井征伐に取り掛かります。
織田信長は浅井方の城である横山城を包囲して竜ヶ鼻に布陣し、そこへ徳川家康が援軍として着陣します。
横山城の救援に来た浅井軍と浅井の加勢にやってきた朝倉軍も着陣して姉川の戦いが起きます。
自らの存続がかかった浅井軍が果敢に戦い、姉川の戦いは激戦となります。
また、徳川軍は朝倉軍に押され気味だったそうですが、徳川家康の命令により朝倉軍の側面に迂回した榊原康政が朝倉軍を切り崩し、続いて浅井軍も敗走して、織田・徳川連合が勝利しています。
武田信玄との戦い
同年、徳川家康は、武田信玄の宿敵である上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結んでいます。
徳川家康は北条氏と協力して武田方に攻撃していましたが、元亀2年(1571年)に北条氏康が病没したことで徳川に影響を及ぼす変化が生じます。
跡を継いだ北条氏政の正室は武田信玄の娘であった為、北条氏は武田氏に対する強硬路線から一転し、謙信との同盟を破棄して北条氏と武田氏の同盟が回復しています。
また、織田信長と決裂した足利義昭は、徳川家康に副将軍就任を要請しましたが、家康は取り合わず信長との同盟を続けています。
元亀3年(1572年)、武田信玄は徳川領へ侵攻を開始し、今川領だった駿河国から徳川領の遠江国へ出馬します。
織田信長と武田信玄は同盟を結んでいましたが、信長の盟友である徳川家康を攻めたことで、手切れとなっています。
徳川家康は織田信長に援軍要請をしますが、信長自身も反信長勢力と敵対中であり、また、秋山虎繁率いる武田の別動隊に織田方の岩村城を攻撃されており、十分な援軍を貰えずほぼ徳川単独で戦になります。
武田軍は徳川の遠江支配の要である二俣城に向かって進軍し、徳川家康は本多忠勝・内藤信成を偵察として先行させて天竜川を渡河し、家康自身も出陣しています。
徳川軍は武田軍と遭遇したため退却しますが追撃され、徳川家康は本多忠勝と大久保忠佐に殿を任せて敗走し、忠勝らの活躍により無事に浜松城まで撤退しています(一言坂の戦い)。
武田軍は、そのまま二俣城を包囲して落城させ、やがて浜松城方面へ向かいます。
佐久間信盛・平手汎秀ら織田の援軍と合流した徳川家康は、武田軍を迎え撃つため浜松城で籠城戦に備えます。
しかし、武田軍は浜松城を素通りしたので、徳川家康は武田軍を背後から襲おうと出撃します。
ですが、武田軍は態勢を整えて三方ヶ原で待ち構えており、当時野戦では最強と思われる武田軍と激突しています(三方ヶ原の戦い)。
徳川・織田連合軍は、わずか2時間ほどで武田軍に惨敗し、本多忠真・鳥居忠広・夏目吉信など多くの有力家臣を失いながらも僅かな供回りと共に浜松城に逃げ帰っています。
三方ヶ原の戦いは、徳川家康の人生で二度とない位の大惨敗となりました。
越年した後、徳川方の野田城は武田軍に包囲され、攻勢に耐えた後に落城します。
しかし、武田信玄は野田城を落とした後、持病が悪くなったため撤退を決め、甲斐に引き返す途中で元亀4年(1573年)4月に病没しています。
徳川家康は、野田城を降しながら徳川領国の侵攻を中止し退却する武田軍を不審に思っていましたが、やがて隠されている信玄の死を確信することになります。
長篠の戦い
徳川家康は、武田氏に転属していた奥平貞能・貞昌親子を調略するため、貞昌と家康の長女・亀姫を婚約させる案などを提示し再属させています。
徳川家康は、武田氏から奪い返した長篠城に奥平氏を入れますが、奥平氏の寝返りに怒った武田勝頼が長篠城に攻めてきた為、奥平信昌が500人の兵と供に籠城して戦います。
武田軍の猛攻に耐えていた奥平軍ですが、兵糧蔵の焼失により窮地に陥ります。
そこで、奥平貞昌の家臣・鳥居強右衛門は、援軍の派遣を要請するため、家康のいる岡崎城へ向かいます。
鳥居強右衛門が岡崎城に辿り着いた頃、既に徳川家康が織田信長に要請した3万の援軍が岡崎城に到着しており、徳川軍とあわせて3万8,000人の連合軍が翌日にも長篠へ向けて進軍する準備をしていました。
その三日後、織田・徳川連合は、長篠城手前の設楽原に到着し、防御陣を構築します。
また、鳥居強右衛門は帰城途中で武田軍に捕まり味方に嘘をつくよう強要されますが、援軍到着が近いことを大声で叫んで知らせた為、磔になっています。
一方、織田信長自ら出陣したことを知った武田氏重臣らは、武田勝頼に撤退を進言しますが、勝頼は長篠城を牽制する兵を残して、残りの兵で決戦を行うことにします。
徳川家康の重臣・酒井忠次は、別働隊を率いて武田勝頼の背後にある砦を奇襲攻撃し、陥落させて長篠城を救援します。
酒井忠次は、籠城していた奥平軍と共に武田軍を追撃して有海村に駐留する武田支軍も討ち果たす大功を挙げ、武田勝頼率いる本隊の退路を脅かすことになります。
一方、織田・徳川連合軍は、設楽原において武田軍本隊と決戦を行い、武田氏の譜代家老や重臣を含む10,000名以上を討ち取り壊滅的な被害を与えています(長篠の戦い)。
長篠の戦いと同年の天正3年(1575年)、徳川軍は武田方の諏訪原城を包囲して約1ヶ月に開城させ、武田氏に奪取されていた高天神城の大井川沿いの補給路を封じることに成功します。
翌天正7年(1579年)、武田氏と北条氏の同盟(甲相同盟)が破綻し、徳川家康 は北条氏政と同盟を結んで、駿河の武田領国を挟撃できるようにします。
松平信康の自害
この頃、徳川家康の側室・西郷局(お愛の方)は、後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んでいます。
同年、徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)が家康の命令を受けた家臣に斬られて亡くなり、家康の嫡男・松平信康は家康の命令により自害しています。
信康の母・築山殿(瀬名姫)が武田勝頼と内通したため、織田信長に信康の切腹を要求されたとも、家康・信康父子の対立が原因とも言われています。
武田宗家の終焉
長篠の戦いの大敗北により大きく戦力を落とした武田氏に、徳川家康は反攻を強めています。
天正8年(1580年)8月迄には、徳川方が攻略しようと試みる武田方の要所・高天神城は、城兵交替や兵糧の補給が途絶えています。
追い詰められた高天神城の城兵は、徳川の包囲網をくぐり抜けて援軍要請をしに甲府まで行きますが、武田勝頼から救援の約束を得られません。
天正9年(1581年)、高天神城の城将であった岡部元信は、ついに徳川軍に矢文を送り降伏を申し出ます。
徳川家康は、織田信長の指示を仰ぎますが、信長から降伏の受理に反対との考えが示されたため、家康は降伏の申し出を黙殺します。
高天神城では餓死者が増え、絶望した城方の残存武田軍は、城から突出して徳川軍に一斉突撃をしますが、多勢に無勢で城は陥落しています。
武田勝頼は高天神城を救援せず無残な死に追いやったと認識され、勝頼の威信を致命的に失墜させる戦いになりました。
織田信長は、高天神城について指示をした際、徳川家康に来春に武田攻めをする旨宣言しており、その言葉の通り信長と家康は武田氏打倒に向けて侵攻を開始します。
徳川家康は遠江相良城や滝堺城を攻略しており、また信長の調略により、有力国衆・木曾義昌(信玄の娘が正室)、武田一門・穴山信君(梅雪)や有力国衆・岡部正綱、一説によると譜代重臣・曽根昌世までもが信長に内通します。
武田二十四将の一人・小山田信茂にまで離反され進退窮まった武田勝頼は、天正10年(1582年)3月、天目山にて自害し、武田宗家は終焉します。
武田方の駿河田中城の城将・依田信蕃は、最後まで抵抗しましたが、勝頼の自害や開城勧告を受けて、大久保忠世に城を引き渡しています。
徳川家康は、武田征伐の戦功により、駿河国を信長から与えられています。
又、かつて三河一向一揆において、一揆側について出奔した本多正信の正式な帰参時期は不明でありますが、遅くともこのころには、徳川家に帰参しています。
神君伊賀越え
同年6月、織田信長の招きを受けて、安土城にて饗応を受けた徳川家康は、帰国前に遊覧していたところ、河内国で京都から来た茶屋四郎次郎から本能寺の変が起きたことを知らされます。
狼狽えた徳川家康は、徳川氏(松平氏)ゆかりの知恩院に入って自害するとまで言い出したそうですが、本多忠勝などが説得し帰還を目指すことにします。
険しい山道であり、また、穴山信君が落ち武者狩りに襲われ、落命するなど危険を伴う帰還です。
徳川家康は、服部半蔵・ 酒井忠次・石川数正・本多忠勝・榊原康政・井伊直政・大久保忠佐・渡辺守綱など僅か34名の供廻と共に落ち武者狩りの一揆を脅したり、金品を与えたりしながら命辛々三河国へ舞い戻ります(神君伊賀越え)。
因みに、三河に帰還したルートや日数については諸説あります。
旧武田領を巡る争いと北条氏と同盟
三河に戻った家康は、即座に上洛を試みますが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が信長の仇である明智光秀を討ったとの情報を得て引き返しています(山崎の戦い)。
また、織田信長が落命したことで、信長が行った旧武田領の知行割は無意味なものとなります。
一方、旧武田領で武田家の旧臣による一揆が起き、甲斐国と信濃諏訪郡を信長から拝領した河尻秀隆は一揆勢に討たれます。
旧武田領を治めたばかりの織田家の滝川一益は、北条氏直を迎え撃ちますが、始め勝利した後に敗北して、かつての領国である伊勢へ逃げ帰っています。
北条氏直軍は上野から信濃へ進軍し、旧武田領である佐久郡・小県郡、中信地方も制圧しています。
信濃川中島四郡と海津城を領していた織田家の森長可は、敗走して旧領に戻っため、川中島四郡は上杉景勝が制しています。
一方、徳川家康は、領主不在となった甲斐国に武田氏の遺臣・岡部正綱らを先鋒として侵攻します。
甲斐の先の信濃を目指した家康は、北条氏と抗争になりますが、真田昌幸が徳川軍に再度寝返ったことなどで徳川が優位となり和議が結ばれます。
和睦により、徳川氏は甲斐国・信濃国を北条氏は上野国を領有し、徳川家康の次女・督姫が北条氏直に輿入れすることになります。
徳川家康は、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃(北信濃四郡以外)を治める大大名へとなり、北条氏と同盟を結びました。
徳川家康と羽柴秀吉
織田家臣団では羽柴秀吉が台頭しており、信長次男・織田信雄と結んで織田家の政治運営をするようになります。
これに不満を示す織田家筆頭家老・柴田勝家は、信長三男・織田信孝と結んで秀吉に対抗しますが、賤ヶ岳の戦いで敗れて、勝家は北ノ庄城においてお市とともに自害して果てており、信孝は織田信雄の命令により自害させられています。
徳川家康は、賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いとして徳川家臣の松平親宅から献上された初花という茶器を秀吉に贈っています。
また、公卿・近衞前久は、本能寺の変において、明智光秀に加担したのではないかとあらぬ疑いを秀吉から掛けられた為、徳川家康を頼り遠江国浜松に下向していました。
ですが、徳川家康が羽柴秀吉に働きかけたことで、近衞前久に対する誤解が解け、前久を帰洛させることに成功しています。
その後、徳川家康は羽柴秀吉と関係が険悪化した織田信雄と同盟を結びます。
小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)、織田信雄は、羽柴秀吉との戦いを諫めていた重臣らを、家康と相談の上で内通した疑いにより誘殺しており、これが秀吉に対する事実上の宣戦布告となり、小牧・長久手の戦いへ繋がります。
織田信雄は秀吉方の伊勢の亀山城攻めをしています。
翌日、美濃の有力武将・池田恒興が秀吉方についたため、信雄配下の犬山城が略奪されてしまいます。
一方の徳川家康は、直ぐに精鋭部隊を率いて出陣して清州城に到着し、駆け付けた織田信雄と会見しています。
その後、犬山城を占拠した池田恒興に対抗するため、精鋭部隊をひきいた徳川家康は小牧山城に駆けつけます。
池田恒興に協力しようとする恒興の娘婿・森長可は、恒興が占拠する犬山城を通過して着陣し、この報告を受けた徳川家康は酒井忠次・榊原康政・奥平信昌らを出撃させ森勢を敗走させます。
徳川軍は敗走する森勢を深追いすることはなく、徳川家康は小牧山城を城陣とし羽柴軍に備えます。
森長可の大敗を知った羽柴秀吉は、摂津国を出発して進軍し犬山城に着陣しますが、小牧山城に布陣したまま動かない織田・徳川連合軍と膠着状態に陥ります。
そこで池田恒興が羽柴秀吉に献策し、戦により守備が手薄になっている徳川家康の拠点・三河へ侵攻すれば、徳川は小牧を守れないだろうと読みます。
羽柴秀吉は、池田恒興・森長可・堀秀政・羽柴秀次の4隊からなる羽柴軍を三河に向けて出撃させています。
三河へ進軍する羽柴軍の動きを察知した徳川家康は、家康自身が率いる部隊と榊原康政勢とに兵力を二分して追撃します。
榊原康政勢は、羽柴秀次勢をとらえて側面から奇襲攻撃したため、秀次勢は総崩れとなり、秀次は命からがら退却しています。
羽柴秀次勢の壊滅を知った堀秀政勢は、檜ヶ根に陣を引いて待ち構え、一斉射撃を命じて襲い掛かり榊原康政勢を撃破します。
敗走した榊原康政勢を吸収した徳川家康本隊と織田軍は、堀秀政勢と池田恒興・森長可勢との間を分断するように布陣します。
その頃、堀秀政は撃破した榊原康政勢を追撃していましたが、徳川家康の本陣を表す金扇の馬印を発見し、戦況が有利ではないと悟り戦線離脱しています。
徳川家康・井伊直政・織田信雄隊は、羽柴方の池田恒興・森長可勢と長久手において激戦となりますが、森長可が討死し、池田恒興も槍に倒れたことで、相次ぐ指揮官の戦死により、織田・徳川連合軍が圧勝に終わります。
そして、徳川家康らが束の間の休息を取っていたところ、羽柴秀吉の援軍押し寄せていることを知り、小牧山城に居た本多忠勝が秀吉軍の妨害をして時間を稼ぎます。
徳川家康と織田信雄は小牧山城に帰還した為、羽柴秀吉は楽田砦に退き、両軍しばらく睨み合うことになります。
その後、羽柴軍は信雄配下の加賀野井城を攻略し、竹ヶ鼻城を包囲して水攻めを実行します。
徳川家康は小牧山城にて羽柴軍の別動隊と対峙していた為、援軍要請に応えられずを竹ヶ鼻城は攻略されてしまいます。
羽柴秀吉は滝川一益らに尾張の攻撃を継続させた上で大坂城に向かった為、徳川家康は小牧山城を酒井忠次に任せ、清州城に入ります。
その後、織田・徳川連合軍は、滝川一益らが籠城する蟹江城を奪還します。
羽柴秀吉が再び尾張の楽田砦に進軍し、家康と信雄は小牧山城の西にある岩倉城に入り対峙しますが小競り合いで終わります。
小牧・長久手の戦いが始まり半年以上経った頃、織田信雄は徳川家康に無断で羽柴秀吉と単独講和を結びます。
織田信雄が講和したことで、戦の大義名分を失った徳川家康は、次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子に出すという条件で和睦します。
第一次上田合戦
天正13年(1585年)、羽柴秀吉は関白宣下を受け豊臣政権を確立させ、翌年、正親町天皇から豊臣の姓を賜ります。
一方、徳川家康は旧武田領であった甲斐・信濃を入れて5か国を領有する大大名となっていますが、信濃国上田城主・真田昌幸と領土問題を抱えていました。
織田信長亡き後、徳川家康は旧武田領で織田氏の遺領を巡り北条氏と争っていましたが、講和条件の一つに上野国は北条氏の領土とするということがありました。
ですが、西上野に属する沼田領は真田昌幸が領しており、当時、昌幸は徳川氏に属していた為、家康は昌幸に沼田領の明け渡しを命じます。
真田昌幸は沼田領は徳川氏から与えられた領土ではなく相応の替地も無い為に拒否し、徳川家康と敵対関係にあった上杉景勝を頼ろうとします。
その為、上杉氏に通じたとして、徳川家康は真田討伐を決めます。
真田氏の本拠・上田城に、鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら7,000以上の徳川軍を派遣しますが、2,000足らずの真田勢の巧みな戦術により徳川軍は敗北します。
石川数正の出奔
同年、徳川家康の懐刀の石川数正が秀吉の下へ出奔しました。
酒井忠次と並ぶ重臣だった石川数正の出奔は、徳川軍の機密が筒抜けになるなど大変な痛手であり、三河以来の軍法を改正する事態になります。
豊臣秀吉に主従する
多難な中で天正14年(1586年)を迎えた徳川家康は、岡崎城にて羽柴秀吉に主従した織田信雄と会い、秀吉は信雄を通じて家康の懐柔を試みています。
徳川家康は、羽柴秀吉に従属することを拒みますが、秀吉の懐柔は続き秀吉の実妹・朝日姫を差し出され、家康は正室として迎え入れます。
更に、豊臣秀吉の母・大政所(なか)まで岡崎に送られてきた為、徳川家康は、最早これまでと思い上洛を決めます。
大坂に着いた徳川家康は、豊臣秀長邸に宿泊し、翌日、大坂城で秀吉に謁見し臣従することになります。
徳川家康は、岡崎城に帰還して大政所を丁重に送り返し、居城を浜松城から駿府城へ移します。
天正16年(1588年)、豊臣政権に従属することを拒否する小田原の北条氏と豊臣秀吉が対立します。
北条氏の当主・北条氏直の正室が徳川家康の次女・督姫である関係から、家康は北条氏政・氏直父子に秀吉への恭順を促します。
徳川家康の仲介により、北条氏政の弟・氏規が名代として上洛しますが、秀吉に臣従することはありませんでした。
また、天正17年(1589年)から翌年にかけて、徳川家康は領国五ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・南信濃)において大規模な検地を施行し、領国の実情把握を目指しています。
天正18年(1590年)、徳川家康は三男の長丸(徳川秀忠)を質的な秀吉の人質として上洛させ、秀吉に臣従しない北条氏と事実上断交します。
小田原征伐
豊臣秀吉は北条討伐を決め、徳川家康は約3万の軍勢を率いて豊臣軍の先鋒を務めることになり、小田原城の東にある酒匂川方面に布陣しています(小田原征伐)。
北条軍は8万人以上とも言われていますが、諸大名が出陣した豊臣軍は20万人とも言われ、豊富な補給物資を持って攻め込みます。
豊臣軍は北条方の城を次々に攻略し、北条氏直らがいる小田原城も完全包囲され、やがて開城しています。
徳川家康の婿であった北条氏直は助命されますが、北条氏政・氏照は自害を命じられています。
後に、北条氏直は徳川家康の口利きにより秀吉から許され、1万石の大名に返り咲き、北条氏は幕末まで藩主として存続しています。
関八州に加増転封
徳川家康は、豊臣秀吉の命令に従い北条氏の旧領国の関八州に加増転封となり、江戸城を居城としています。
次男の結城秀康10万石を含めて250万石の大大名となった徳川家康は、豊臣政権で重きをなしていくようになります。
豊臣政権による大名の再配置は、奥羽で不満を生み奥羽地方の各地で一揆が起きています。
天正19年(1591年)、徳川家康は、豊臣秀次を総大将とする軍に加わり一揆を鎮圧しています。
朝鮮出兵
文禄元年(1592年)、日本統一をした豊臣秀吉は、明征服を目指します。
諸大名は渡海し朝鮮半島を戦場としながら進撃し、朝鮮出兵(文禄の役)が始まります。
徳川家康は渡海することなく朝鮮出兵の拠点であった肥前国の名護屋城に在陣しています。
また、文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次に謀反の疑いが持ち上がり、豊臣秀吉の命令により高野山に追放の上、自刃させられる「秀次事件」が起きます。
豊臣秀次の妻妾・子女らも斬首され、徳川家康と親交のある伊達政宗らも秀吉から謀反への関与を疑われるなど、豊臣政権を揺るがす事態となります。
豊臣秀吉の命令により急遽上洛した徳川家康は、伏見城に滞在する時間が長くなり、豊臣政権に内での家康の立場が高くなります。
慶長2年(1597年)、朝鮮との講和交渉をしていましたが、決裂した為再び朝鮮出兵(慶長の役)が始まります。
ここでも徳川家康は渡海していません。
豊臣秀頼の後見人になる
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死期が近づくと、秀吉は自身が没後に豊臣秀頼を補佐し豊臣政権を支える体制を整えます。
いわゆる五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)・五奉行(浅野長政・前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家)制です。
同年8月、徳川家康に豊臣秀頼の後見を依頼した豊臣秀吉は、伏見城において63年の生涯を閉じています。
五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、秀吉の死を隠しながら朝鮮と講和を結び、年末までには諸軍を撤退させます。
朝鮮出兵に従軍しなかった徳川家康は、結果的に兵力・財力をすり減らさずに済みました。
豊臣秀吉亡き後、徳川家康の内大臣という官位が朝廷で最高位になり、また豊臣秀頼の後見人となっています。
徳川家康は、豊臣秀吉から秀頼が成人するまで政事を託されており、五大老筆頭として豊臣公儀を担う重要な立場になっています。
徳川家康の私婚問題
豊臣秀吉は生前、合議による合意を得ない大名家同士の結婚を禁じていますが、徳川家康は、秀吉没後に複数の大名家と婚姻政策を進めています。
徳川家康の六男・松平忠輝は伊達政宗の長女・五郎八姫と縁組を行います。
徳川家康の養女・満天姫(実父は松平康元)は、福島正之(福島正則の養子)と婚約します。
小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)・万姫は、蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)に嫁がせると約束します。
水野忠重(家康の叔父)の娘・かなを、加藤清正の継室とします。
黒田長政は、妻と離縁して保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)を正室としています。
徳川家康の私婚問題について、家康は家康以外の四大老・五奉行から抗議を受けます。
しかし、大名間の婚姻の際は、豊臣秀吉の「御意」を得る掟であったものの秀吉亡き後の「御意」の担い手が曖昧であったため、法度違反追及に限界があり起請文が取り交わされただけで決着しています。
前田利家の病没と石田三成の失脚
慶長4年(1599年)、いわゆる武断派と呼ばれる諸将からも慕われ、徳川家康に唯一対抗しうる立場であった前田利家が病没します。
武将らの対立の調停役であった前田利家が死去したことで、朝鮮出兵における確執などで石田三成に恨み持っていたという加藤清正・福島正則・細川忠興・浅野幸長・黒田長政など七人が石田三成を襲う事件が起きます。
徳川家康が事件の仲裁しており、石田三成は奉行職を解かれ佐和山城に蟄居することになります。
前田利家(五大老の一人)や石田三成(五奉行の一人)といった有力武将が抜けたことで、徳川家康の重みがより増していきます。
徳川家康に対する暗殺計画が発覚したようで、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久が家康を討とうとしていると密告があり、嫌疑をかけられた浅野長政(五奉行の一人)が失脚し、五奉行は実質的に三奉行になります。
また、大野治長は結城秀康のもとに、土方雄久は佐竹義宣のもとへ追放されています。
前田利長屈服
更に徳川家康は、前田利家の跡を継ぎ五大老の一人となった前田利長に対して、暗殺首謀者として嫌疑をかけて加賀征伐軍を組織します。
豊臣家から救援を断られた前田利長は、母の芳春院(まつ)を人質として差し出し、前田利常と徳川家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠の娘)を婚約させています。
こうして徳川家康は、前田利長を膝下に組み込み、事実上屈服させたことになります。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝に不穏な動きありとの風評が流れてくるようになり、徳川家康は景勝の軍備増強路線を謀反と糾弾して景勝の元へ問罪使を派遣しています。
上杉景勝への弾劾状を受け取った上杉家の直江兼続は、挑発的な文書『直江状』を返書として送り徳川家康を激怒させています。
前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行、掘尾吉晴・生駒親正・中村一氏の三中老が連署して徳川家康を諫めていますが、家康は会津の上杉征伐に踏み切ることになります。
徳川家康は、会津征伐の先鋒を福島正則・細川忠興・加藤嘉明に命じています。
徳川家康は豊臣秀頼から黄金2万両・兵糧米2万石を下賜され、豊臣公儀の戦として「謀反人の上杉景勝を討つ」という大義名分を獲得して大坂城を発しています。
徳川家康が会津に向けて進軍中に、石田三成は大谷吉継と共に挙兵し、奉行衆を説得して毛利輝元(五大老の一人)を総大将として擁立し、反家康の立場を明らかにしいます。
毛利輝元は大坂城に入城して、反家康である西軍の盟主となります。
そして、大谷吉継や宇喜多秀家らは徳川家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めて元忠を討ち取りますが、元忠の発した使者の情報により、三成らの挙兵を徳川家康が知ることになります。
下野国小山において、徳川家康ら諸将は協議し、豊臣系大名ら多くの諸将は、石田三成ら西軍勢力討伐の為に西上していきます。
こうして徳川家康を総大将とする東軍が形成されており、また、上杉方の備えとして結城秀康を残し、秀康は宇都宮城に入っています。
徳川家康は、徳川秀忠に榊原康政・大久保忠隣・本多正信らをつけて中山道を進軍させて、信州上田城の真田昌幸など西軍勢力を駆逐させようとします。
ですが、この徳川秀忠率いる徳川氏の主力部隊が上田城攻めに手こずり、後に起きる関ヶ原の戦いに間に合わなかったことは家康の誤算であると思われます。
徳川家康に味方する豊臣系大名は、次々に福島正則の居城・清州城に集結し、美濃国に侵攻して織田秀信が守る岐阜城を攻略しています。
岐阜城陥落の知らせを受けた家康は、諸大名の戦功を賞すると共に、福島正則に家康と秀忠勢が到着するまで軍事行動をとどめさせます。
一方、東軍についた細川幽斎(藤孝)が籠城する丹後田辺城は、西軍に包囲され落城寸前に陥っており、天皇が講和を命じるという勅命により講和しています。
徳川家康は江戸城から出陣し清洲を経て美濃赤坂に着陣しており、家康の出現に西軍諸将は動揺します。
徳川家康の到着に動揺する味方に憂慮した石田三成の家老・島左近は、兵たちを鼓舞するために宇喜多秀家の家臣・明石全登と共に、東軍に奇襲攻撃をかけており、この関ヶ原の戦いの前哨戦では東軍が敗れています。
大垣城に入っていた西軍諸将は、関ヶ原で迎え撃つ為、大垣城を出て関ヶ原へ進み、小早川秀秋は関ヶ原の南西にある松尾山城に布陣します。
西軍の動きを知った東軍も関ヶ原へ軍を進め、徳川家康の旗本部隊は桃配山に最初の陣を置いています。
午前8時頃に始まった東西両軍による決戦は昼頃までは一進一退の攻防戦となっていましたが、徳川に内通していた小早川秀秋の軍勢が、西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのをきっかけにして西軍は総崩れになり、東軍の圧勝で終えています。
その後、徳川家康は石田三成の居城・佐和山城を攻略し、西軍の盟主となっていた毛利輝元が入る大坂城へ向かいます。
毛利家の重臣・吉川広家が家康に内通していたこともあり、大幅な減封であるものの毛利家の存続は許されています。
徳川家康は戦後処理として、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊を捕縛し、各所を引き回し六条河原で命を奪います。
長束正家は自害に追い込み、増田長盛は高野山に追放し、後に配流としています。
西軍に属した諸大名は、処刑・改易・減封にし、東軍諸将には加増・転封を行っており、徳川氏の領地も250万石から400万石になっています。
太閤蔵入地は諸将に恩賞として与えられ、結果、豊臣氏の領土は僅か65万石となっています。
豊臣公儀のもとで関ヶ原の戦いが行われましたが、勝利した徳川家康は天下人としての立場を確立しています。
その後、空席となっていた関白に九条兼孝が任じられ、豊臣氏による関白職世襲が終焉しています。
江戸に幕府を開く
慶長8年(1603年)、徳川家康は伏見城において、後陽成天皇の勅使を迎えて征夷大将軍に任ぜられます。
徳川家康は征夷大将に任命され江戸に幕府を開くことで、豊臣公儀に替わる新たな権威を手に入れたことになり、年賀の為に豊臣秀頼がいる大坂城へ出向くことはなくなりました。
同年、豊臣秀吉との生前の約束を守り、徳川家康は孫娘・千姫(徳川秀忠の娘)を豊臣秀頼に嫁がせます。
慶長10年(1605年)、徳川家康は将軍職を辞して徳川秀忠に譲り、秀忠は伏見城において勅使から征夷大将軍に任ぜられています。
将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に知らしめたもので、また、豊臣秀頼がいずれ関白に就任し政権を担うという豊臣方の期待を打ち砕きました。
また、徳川家康は、秀忠の将軍襲職を祝うため豊臣秀頼に上洛と会見を希望しますが、秀頼の母・淀殿(茶々)の強い拒否にあい、将軍の名代として松平忠輝を大坂城に派遣して秀頼に挨拶させて事を収めています。
徳川家康は、慶長12年(1607年)には駿府城に移って「駿府の大御所」として実権を握ります。
慶長16年(1611年)、徳川家康は織田有楽や高台院などを仲介として秀頼に上洛を要請し、「千姫の祖父に挨拶する」という名目で上洛して京都二条城で家康と会見します。
二条城会見により、豊臣秀頼の徳川家康への臣従を意味するとも、対等性を維持しているという意見もあります。
慶長12年(1607年)に結城秀康、慶長16年(1611年)に加藤清正・堀尾吉晴・浅野長政、慶長18年(1613年)に浅野幸長・池田輝政など、豊臣氏と縁の深い大名がこの世を去ります。
方広寺鐘銘事件
豊臣秀頼は、かねてより秀吉の追善供養のため、豊臣家ゆかりの寺院・方広寺の大仏殿再建に取り組んでおり、慶長19年(1614年)には再建し終えます。
そして、後水尾天皇の勅定を得て大仏の開眼供養を行うことになります。
ところが、徳川幕府より方広寺の梵鐘の銘文中にある「国家安康」、「君臣豊楽」という二つの言葉が不適切であるとして、供養を差し止められてしまいます。
「国家安康」は家康の諱を分断して不吉であり、「君臣豊楽」は豊臣を主君として楽しむという意味ではないかと考えたようです。
豊臣氏は徳川家康に弁明するため片桐且元を派遣しますが、家康は且元と会おうとしません。
交渉の機会を得ようと約一カ月滞在した片桐且元は、解決できないまま駿府をあとにします。
解決を目指した片桐且元は、考えぬいて大坂城で「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の三つの提案をします。
一方、同じく豊臣方の使者として駿府に派遣された大蔵卿局は、家康にすんなりと面会でき丁寧に扱われています。
大蔵卿局から報告をうけていて安心していた淀殿らは、片桐且元が徳川家康に内通しているのではないかと疑うようになり、且元は追放されています。
そして、徳川家康は、豊臣氏が軍備を強化していることを理由に宣戦布告するに至ります。
大坂の陣
徳川家康は、既に西国大名らに徳川氏に忠誠を誓わす起請文を提出させており、豊臣方に馳せ参じる大名は皆無であり、豊臣氏は全国の浪人衆を集めています。
また、豊臣恩顧の古参大名である福島正則は、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石を秀頼の御意に任せると返答するに留まっています。
豊臣方は、真田信繁(幸村)・後藤基次(又兵衛)・長宗我部盛親などの武将を含め、約10万人もの軍勢を集めています。
豊臣方の真田信繁(幸村)ら浪人衆は、出撃して徳川軍を迎え撃ち諸大名を味方につけるという積極的な作戦を提案しましたが、大野治長を中心とする籠城派に却下され、大坂城周辺に砦を築き難攻不落の大坂城に籠城することになります。
徳川家康ら江戸幕府軍は、豊臣方の砦数ヶ所を陥落させ、豊臣軍が籠る大坂城を20万人の大軍で包囲します。
戦いを有利に進めていた江戸幕府軍ですが、真田丸の戦いで大敗を喫し甚大な被害を出します。
徳川家康は和睦を検討するようになり、その後、降伏を促す矢文が豊臣方に送られます。
水面下で和睦交渉が進められていたものの、交渉が暗礁に乗り上げたため、江戸幕府軍が大坂城に砲撃をすると淀殿の居間がある櫓が崩れて淀殿の侍女8人が亡くなります。
凄惨な光景を目の当たりにした淀殿は、和睦に応じることを決め、徳川家康側近の本多正純・家康の側室の阿茶局、豊臣方からは淀殿の妹である初(常高院)の間で交渉が行われます。
和睦の条件を整え和平が成立し、大坂城の堀の埋め立てなどを秀忠に任せた徳川家康は、駿府へ帰っています。
その後、徳川方によって大坂城の内堀までも埋め立てられ、強固な防御力を誇っていた大坂城は、その機能のない裸城となります。
堀の埋め立てに不満を感じた豊臣方の主戦派によって大坂城の内堀は掘り返されており、また、豊臣方が軍備の強化を行っていることを家康が問題視し、家康は九男・徳川義直の婚儀のためとして上洛し大軍を送り込んでいます。
徳川家康は、豊臣方の浪人の召し放ちや豊臣家の移封を要求しますが、断られ交渉が決裂したため、再度戦になり大坂夏の陣が開戦します。
防御力のない大坂城に籠城しても勝ち目がないと判断した豊臣方は、総大将を討てる可能性のある出撃策を取ります。
数で勝る江戸幕府軍は、各戦闘で勝利を収めて豊臣方を大坂城近郊に追い詰めます。
しかし、天王寺口に本陣を敷いた徳川家康は、真田信繁(幸村)から3回にわたって決死の突撃を敢行され、家康の馬印が倒されるなど混乱状態に陥ります。
追い詰められた徳川家康は、切腹すると口にしたそうですが、数に勝る江戸幕府軍が優勢となり、真田信繫など有力武将を失った豊臣方は壊滅して大坂城に退却します。
大坂城では裏切り者が現れて大坂城に火が放たれ、天守閣が炎上したため、豊臣秀頼らは逃げることが出来ません。
秀頼の妻で家康の孫でもある千姫の助命嘆願も叶わず、家康から判断を任された徳川秀忠から命じられ、豊臣秀頼・淀殿・大野治長らは自害して果てます。
その後、豊臣秀頼の遺児・国松は、捕らえられて命を奪われ豊臣宗家は滅亡します。
徳川氏の天下の礎を築く
大坂の陣の戦後処理をほぼ終えた徳川家康は、武家諸法度などを制定し徳川氏の天下の礎を築きます。
元和2年(1616年)1月21日、徳川家康は徳川頼宣・徳川頼房を引き連れて鷹狩を楽しみますが、発病して倒れたそうです。
一時は徳川秀忠に安心するよう伝えるなど回復しますが、その後、食が進まなくなります。
死期を悟った徳川家康は、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝に家康亡き後についての対応を伝えています。
同年、4月17日、徳川家康は、駿府城において75歳(満73歳)の生涯を閉じています。
コメント