源応尼(華陽院)|徳川家康を養育した祖母

戦国時代に終止符を打った徳川家康。

徳川家康が幼い頃、両親と離れ不遇の日々を送っていました。

両親に代わり養育したのは、祖母・源応尼(華陽院)です。

この記事は、徳川家康が慕っていた源応尼(華陽院)の話です。

目次

源応尼(華陽院)の出自と名前

源応尼(又は華陽院)(けよういん)は、明応元年(1492年)に生まれました。

『寛政譜』によると三河寺津の城主・大河内元綱の養女だとされていますが、実の娘という説もあります。

その他、複数の説があり、尾張・宮の善七の娘や大河内但馬守満成の娘。

宇多源氏の流れを汲む佐々木氏を祖先にもつ青木加賀守弌宗の娘だという説もあります。

名前は、「於富の方」か「於満の方」だと云われています。

源応尼(華陽院)の夫

源応尼(華陽院)の幼少の頃のことは不明で、後に水野忠政の継室になりました。

水野忠政は、徳川家康の外祖父に当たる人物で、尾張国の緒川城、三河国の刈谷城主を務めた人物です。

徳川家康の肖像画

徳川家康

水野忠政との間に、徳川家康の母になる於大の方(おだいのかた)を含む三男一女に恵まれます。

この三男一女の子供達の生年が、後の話に関わってきます。

・水野忠守(ただもり)は、大永5年(1525年)生まれ

・於大の方は、享禄元年(1528年)生まれ

・水野忠分(ただわけ)は、天文6年(1537年)生まれ

・水野忠重(みずの ただしげ)は、天文10年(1541年)生まれ

下の二人の子供達の生年が、注目して欲しい箇所になります。

源応尼(華陽院)は、水野忠政の後に、松平清康に輿入れしたと云われていますが、清康が亡くなったのは、天文4年(1535年)ですので矛盾します。

なので、松平清康に嫁いだ事実はないだろうという考証があります。

ですが、水野忠分と水野忠重の生母は、源応尼(華陽院)ではないのではないかとする説もあり、真実は不明です。

真偽不明ながら、水野忠政から松平清康に輿入れした経緯として、知られていることを書きます。

源応尼(華陽院)はとても美人だったようで、隣国の岡崎城城主・松平清康の目に留まります。

松平氏が水野氏との戦で勝利した時に、和睦の条件として松平清康に嫁いだとされているそうです。

現代の感覚では有り得なく酷い話ですが、戦国時代は女性を戦利品のように扱う事もありました。

因みに、松平清康も徳川家康の祖父ですので、源応尼(華陽院)が両雄に嫁いだことが事実ならば、徳川家康の祖父二人に嫁いだという…、なかなかの経歴になります。

いずれにしても、源応尼(華陽院)は於大の方の生母ですので、徳川家康の祖母であることに変わりません。

 

その後、三河の豪族に嫁いだそうですが、皆亡くなっています。

嫁いだ相手は星野秋国、菅沼定望、川口盛祐の三名の名前が伝えられています。

夫に先立たれた源応尼(華陽院)は、駿河国の大大名・今川義元を頼ったと云われています。

駿河国にて落飾し、源応尼(げんおうに)になり、竹千代(徳川家康)を養育していくことになるのです。

 

※竹千代(徳川家康)が今川家の人質として送られた際、岡崎から招かれてきたとも云われています。

源応尼(華陽院)の愛情をうけた竹千代(徳川家康)

徳川家康は幼少の頃、苦労人だったと云われています。

徳川家康の幼名は竹千代といい、3歳の頃母と生き別れます。

数え年で6歳で織田家の人質になり、天文19年(1550年)、8歳で今川家の人質になります。

19歳まで人質生活を余儀なくされ、順風満帆な人生とは言い難いものでした。

源応尼(華陽院)は、寺の近くに庵室を設け今川家にいた竹千代を、親代わりとなり養育したと伝わります。

寂しい思いをした竹千代ですが、祖母の愛情を受け心を落ち着かせたそうです。

現在、華陽院というお寺に源応尼(華陽院)のお墓がありますが、その近くに祖母の住居があったそうです。

華陽院前身である智源院(知源院)というお寺で、竹千代が遊んだと伝わります。

住職は竹千代の文筆の師で、弟子・文慶師は竹千代と年が近く遊び相手であったそうです。

 

その後、竹千代は成長し松平元康と名乗っていましたが、桶狭間の戦いのあった1560年、浜松にて源応尼(華陽院)の訃報を聞いたと云われています。

桶狭間の戦い後、今川家から独立し、今川が敵になったため、祖母の葬儀に参列できなかったそうです。

文慶師の知らせで訃報を知った松平元康(徳川家康)ですが、智源院(知源院)(後の華陽院)をお墓に決め、三河松を植えてもらうよう頼んだと伝わります。

源応尼(華陽院)の冥福を祈り植えられた松は、昭和にあった静岡の大火で焼失してしまいました。

現在見れる松は、二代目だそうです。

「華陽院」と改め祖母を弔った家康

慶長14年(1609年)、徳川家康は源応尼(華陽院)の50回忌を営み、境内にお墓を再建しました。

その時に祖母の法名「華陽院殿玉桂慈仙大禅尼」をもとに、智源院(知源院)から「玉桂山華陽院」と寺の名前を改めています。

華陽院

華陽院

当時の徳川家康は、征夷大将軍に任命され江戸幕府を開いた後でした。

大きく成長した孫の姿を見せられたのではないでしょうか。

家康自身が書いたという寺の掲額には、もし祖母が生きていたらなら、大成したことを真っ先に伝えたかった旨が書かれているそうです。

参勤交代の折には、東海道を通る大名は華陽院を参詣したと伝わります。

 

源応尼(華陽院)のお墓の隣には、家康の五女・市姫のお墓があります。

慶長15年(1610年)、わずか3歳で夭折した市姫、嘆き悲しんだ家康は祖母の隣にお墓を建立したそうです。

華陽院は、静岡県静岡市葵区鷹匠にあります。

源応尼(華陽院)はささら者(賤民)⁉

異説として、源応尼(華陽院)は、ささら者(賤民)であるとする説があります。

ささら者(賤民)は、士農工商ではなく通常より身分の低い、社会の底辺にいる人という意味のようです。

ささら者(賤民)の源応尼(華陽院)と、ささら者(賤民)男性との間に出来た子が、於大の方であると云われています。

於大の方とその子徳川家康も、ささら者(賤民)だそうです。

ただ、ささら者(賤民)説は、異説、伝説の域を出ない話のように思います。

参考・引用・出典一覧

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