石田三成の家臣について書いています。
御馴染みの島左近、舞兵庫などは勿論、文献等に名が残っている家臣などを書いています。
石田三成の家臣
石田三成の家臣と言えば、まず島左近を思い浮かべる人が多いと思います。
石田家中には舞兵庫、蒲生備中、大山伯耆、杉江勘兵衛など左近の他にも武勇に優れた人材が揃っていました。
有名な家臣からあまり知られていない家臣まで書き、石田三成の家臣の一覧を作りました。
結構、長くなりましたので…あいおうえ順に記載しています。
全部ご覧いただくと大変ですので、お好みのところをご覧くださいませ。
また、逸話や軍記類に記載されたことも含みますので、どこまで史実か不明であることであることもご了承ください。
青木市左衛門
青木市左衛門(いちざえもん)は、石田三成の家臣で預り地の代官を務めたとされます。
関ケ原の戦いでは、石田隊の鉄砲頭として出陣しています。
(『平野圧郷記』)
赤尾四郎兵衛
赤尾四郎兵衛(しろうびょうえ)は、関ヶ原役で河瀬左馬助隊について、岐阜城の救援に樫原彦右衛門、松田重太夫らと共に派遣されています。
奮戦後、亡くなったそうです。
(『関原軍記大成』)
浅香庄次郎(水野少次郎)
水野少次郎(浅香庄次郎)は、織田信雄の小姓として仕え、優れた武勇で名を馳せています。
織田信雄が流罪になると、木村吉清に仕え、吉清失脚後は蒲生氏郷の客将となっています。
九戸政実の乱で武功を挙げて、須賀川城1万石を拝領しています。
蒲生氏郷亡き後、蒲生家は宇都宮に減転封になり、石田三成の家臣となります。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで石田三成は敗北した頃、水野少次郎(浅香庄次郎)は三成の居城・佐和山城を守備していたようです。
佐和山城は徳川方に攻められ落城しますが、津田清幽らと共に佐和山城から脱出しています。
その後、加賀藩に2千石で仕え、浅香庄次郎と名乗りを変えています。
因みに、余りの美貌のために、戦国三大美少年とと称されています。
東 新太夫
東 新太夫(あずま しんだゆう)は、関ヶ原で石田軍の先手として、勇敢に戦いました。
しかし、加藤 嘉明の家臣・原甚兵衛に討たれたそうです。
(『関原軍記大成』)
安宅作右衛門
安宅作右衛門(あたかさくえもん)は、三成の家臣で、佐和山領の麦掟発布に携わっています。
関ヶ原では、物頭を務めましたが、黒田家家臣に討ち取られています。
(『黒田家譜』)
安宅秀安
安宅秀安は、三成の家臣として島津氏、相良氏との外交役を務めています。
渥美孫左衛門
渥美孫左衛門(あつみまござえもん)は、関ヶ原の戦いで使者として松尾山に赴き、動かない小早川秀秋に出陣を促しています。
(『関原軍記大成』)
阿閉孫九郎
阿閉孫九郎(あつじ/あべまごくろう)は、石田家家臣に多い近江湖北出身だと伝わります。
関ヶ原に着陣した宇喜多秀家の元に使いとして赴きます。
関ケ原の戦いでも奮戦して討死したそうです。
(『関原軍記大成』)
磯野平三郎
磯野平三郎は、別名で行信ともいい、近江の豪族の出身です。
父は、浅井長政の家臣で佐和山城主であった磯野員昌です。
磯野員昌は、姉川の戦いで「員昌の姉川十一段崩し」という逸話が残る人物です
磯野平三郎は、三成の家臣として関ヶ原の戦いに参戦します。
関ヶ原敗戦後に、塩野清助、渡辺甚平とともに、三成の敗走に最後まで付き従った忠臣として知られます。
しかし、三成に説得されて涙ながらに分かれたという話があります。
また関ケ原の戦いで石田方の不利を悟り、八十島助左衛門が逃亡したと云われていますが、それを見て詠(よ)んだ「関ヶ原 八十島とかけて逃げ出(い)でぬと 人には告げよ あまりの憎さに」という歌が残ります。
戦後は近江にて蟄居していたそうですが、藤堂高虎に招かれ、家臣になったそうです。
(『関原軍記大成』)
猪尾甚太夫
猪尾甚太夫は、杭瀬川の戦いで、敵将・成田平左衛門を討ち取り、首級をあげています。
(『石田軍記』)
乾次郎兵衛
乾次郎兵衛(いぬい じろべえ)は、石田三成の家臣です。
関ヶ原合戦前に沢田小三郎と共に斥候(せっこう)を務めたと云われています。
斥候とは、敵の状況や地形などを探ることだそうです。
途中で徳川家康方の斥候である森勘解由(もり かげゆ)、沢井左衛門と遭遇したそうですが、互いに名乗り、双方陣へ引き返したとされます。
入江権左衛門
入江権左衛門も三成の家臣で、関ケ原の戦いでは、三成の命で島津隊に参加したとされます。
島津隊とは、島津義弘を大将にした三成方の西軍ですが、関ケ原の戦いではあまり動かず、西軍の敗北が決まると敗走します。
敗走といっても敵に背を向けるのではなく、敵の大軍の中を堂々と突破する「島津の退き口」は、島津の勇猛さを伝える話として有名です。
その敵中突破に入江権左衛門は同行し、大津まで案内したそうです。
(『関原軍記大成』)
上野喜左衛門
上野喜左衛門(きざえもん)は、佐和山城落城の際、生け捕りになりました。
(『脇坂家伝記』)
宇田頼忠
宇多頼忠は、三成の妻の父です。
三成の義父にあたる人物ですが、始めは豊臣秀吉の家臣で尾藤姓を名乗っていたそうです。
年は違いますが当時は三成の同僚で、その縁で豊臣秀長の仲介で三成と娘が結婚したそうです。
宇多頼忠は秀吉に仕えた後、秀吉の弟・秀長のに仕え、藤堂高虎に次ぐ家老になっています。
その後、宇多頼忠の兄が秀吉の勘気に触れ滅ぼされてしまい、尾藤姓から妻の宇多姓にし宇多頼忠と改名したと伝わります。
その後、豊臣秀保、秀吉に仕え、秀吉没後は三成の下に身を寄せていました。
その為、三成の家臣としても名前があがります。
関ケ原の戦いでは、三成の一族衆と共に三成の居城・佐和山城を守ります。
しかし、多勢に無勢で佐和山城は落城し、宇多頼忠は嫡男の宇多頼重と共に自害し、親族の尾藤善四郎により介錯されたと云われています。
大島助兵衛
大島助兵衛(すけべえ)は、文禄3年10月から12月まで、佐竹領の太閤検地の担当だったそうです。
(『関原軍記大成』)
大音新介
大音新介(おおと しんすけ)は、島津領の太閤検地で、三成から総奉行を命じられています。
三成から大音新介に送られた文書が数多く残っています。
慶長3年(1598年)5月に三成から大音新介に送られた文書の現代語訳を紹介いたします。
申し入れます。
《三成から大音新介への文書》
「(秀吉様は)我らに筑後・筑前をくだされ、九州の物主にしてくださるとのご意向でした。
しかし私が九州へ行けば、佐和山に置くべき人材はありません。
また、このあたりには秀吉様の御用を申し付けるのにふさわしい人も少ないので、我らはこのまま(佐和山にとどまること)になります。
近江のその方の知行や蔵入などが増えないことになれば、後悔もありますが仕方ありません。
また、筑後・筑前が秀吉様の御蔵入地になったので、そのことを百姓によく申し伝えました。
また、金吾殿(小早川秀秋のこと)は、越前に移封ですので、我らにその御代官をするようにとのことです。
そこで、近々筑前へ行くことになりました。
その点、承知おきください。
また妻と石田正継殿(父)へもお伝え下さい。」
こういった趣旨の文章が残されています。
《文書から読み取れること》
この文章からは、当時、佐和山城19万4,000石の所領であった三成に、秀吉から筑前・筑後の大大名の打診があったようですが、それを断ったという内容です。
筑前・筑後とは現在の福岡県ですので、当時の都である京都から遠く離れてしまうと秀吉の用を果たしずらく、代わりに佐和山城を任せられる人もいないという理由のようです。
筑前・筑後の石高は、推定50~60万石かそれ以上といわれています。
石高が高い方が多くの家臣を召し抱えられます。
そのため、関ヶ原の戦いが起きた時に、筑前・筑後の石高があればと打診を断ったことを悔やんだとする逸話も残されています。
打診を断ったことで筑前・筑後は、秀吉の蔵入地になり、三成が代官を務めることになったようです。
このやり取りがあった1598年5月はどのような年かというと、朝鮮出兵の後半戦である慶長の役(けいちょうのえき)(1597年1月~1598年12月)の最中です。
途中休戦していますが、朝鮮出兵は、1597年1月から始まった長い戦です。
当然、恩賞として加増をして欲しい諸将が沢山います。
しかし、朝鮮から土地を得たわけではないので、配分する土地はなく、三成は恩賞捻出のため全国を奔走し検地をしていました。
1598年9月18日に秀吉が亡くなったことで、朝鮮出兵も終了しますが諸将に加増はできませんでした。
そのような背景がありましたので、個人的な所感ですが、大幅加増に戸惑いがあったのかもしれないとも思います。
またこの時代は普通のことなのか、わかりませんがこの件は、大音新介から三成の妻と父に伝えて欲しいと書いてあります。
三成は、佐和山城を留守にすることが多かったそうです。
家族に会う時間はあまりなかったと思いますが、家臣から家族に伝達という点が現代人の私には不思議な感じがしました。
(『大阪城天守閣所蔵文書』)
大橋掃部
大橋掃部(かもん)も三成の家臣です。
関ケ原の戦いで奮戦するものの、黒田隊の後藤又兵衛と槍を合わせ討死します。
(『関原軍記大成』)
大場土佐
大場土佐は、大庭という姓でも知らている三成の家臣です。
元は豊臣秀次の家臣で、若江八人衆(わかえはちにんしゅう)の一人に数えられており、黄母衣十三人という精鋭にも選ばれています。
(※豊臣秀長(秀吉の弟)の家臣説もあります。)
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、翌年の小牧・長久手の戦いの頃は秀次に仕えており、戦いに参加した記録があるそうです。
当時、実子のいなかった秀吉の後継者候補でしたが、秀吉に秀頼という子供が生まれてことで、秀次の立場は微妙になったようです。
理由は諸説ありますが、秀次は自害に追い込まれ、主を失った大場土佐は、石田三成に招かれ家臣になったそうです。
関ヶ原の戦いでは、石田隊右翼を守り亡くなったとも、生き残って蜂須賀至鎮の家臣になったとも云われていますが、定かではありません。
(『関原軍記大成』)
大山伯耆
大山伯耆( ほうき)も同じく、石田三成の家臣になる前は豊臣秀次(秀長説も有)の家臣でした。
若江八人衆、黄母衣十三人の一人、豪傑として知られています。
その豪傑を伝える逸話が残されています。
秀吉が催した相撲大会で石田家代表として選出され、可児才蔵(かにさいぞう)などと競った話が伝わっています。
しかし、相撲大会があったとされる時期は、三成の家臣になる前の1586年~1587年頃と見なされており、真偽は不明です。
秀吉亡き後に起こる関ヶ原の戦いでは、石田三成の陣代理を務めたり、石田隊の先備えとして奮戦したと云われています。
関ヶ原の戦いで亡くなったとも、生存したとも云われており、真偽は不明です。
(『関原軍記大成』)、(『武家時記』)
荻野鹿之介
荻野鹿之介(おぎの しかのすけ)は、関ケ原の戦いで先鋒を務め、一番槍をつける活躍をみせ東軍を押し返したと伝わります。
(『石田軍記』)
小幡信世
小幡信世(おばた のぶよ)は、上野の小幡氏の出身で、天正6年(1578年)に生まれたとされます。
通称は助六、15歳で大坂に出て、石田三成に仕え、後に2千石を知行します。
『常山紀談』という逸話集に小幡信世の話が残されています。
小幡信世は関ヶ原の戦い後、近江石山寺付近に隠れていたそうです。
しかし、村人につかまり徳川家康が陣を置く大津へ送られます。
信世は、家康より三成の行方を尋問され答えます。
「主(三成)の行方は知っているが、長年(三成に)恩を受けた身、この難儀を逃れる為に、主の居場所を伝えることは忠義に反するため言えない。
例え、何があっても断じて言わない。
試しに拷問にかけてみてはいかがか。」
と主君をかばった忠義に家康は感心し
「この者(小幡信世)は忠義の武士である。
きっとこの者は、三成の行方を知らないだろう。
知らないから一人で落ち延びて、こうして捕縛された。
この忠義の武士を拷問してはならない。
大将たる者、義士、忠臣には情けの心を持つべきだ。
早く縄を解いてやれ。」
と罪を問わず釈放したそうです。
しかし、信世は敗戦した今、恥を重ねることはできないと、付近の寺で自害したそうです。
(『常山記談』)
海北市郎右衛門
海北市郎右衛門(かいほう いちろうえもん)は、近江湖北出身であったとされます。
関ケ原の戦いの少し前に起きた杭瀬川の戦いでは、三成の家老・島左近の元で、中村一栄(かずしげ)の侍大将である野一色頼母(のいっしき たのも) (野一色助義)を、鉄砲で討ち取るなど活躍したそうです。
※野一色頼母を討ち取ったのは、宇喜多秀家の家臣である浅賀三左衛門(浅香左馬助)との説もあります。
(『常山記談』)
樫原彦右衛門
樫原彦右衛門(かしはら ひこえもん)は、三成の命にて、会津遠征に向かう大谷吉継を佐和山城に迎える使者となったそうです。
関ヶ原役では、河瀬左馬助、樫原彦右衛門、松田重太夫らと共に、岐阜城の支援に赴きます。
瑞龍寺の砦にて、家康方の大軍を寡兵をもって撃退し、ついに力尽き自害して果てたそうです。
(『関原軍記大成』)(『石田軍記』)
上坂二郎右衛門
上坂二郎右衛門(じろうえもん)は、文禄5年(1596年)、青木市左衛門の後任になり、三成の領地の代官に任命されています。
(『平野圧郷記』)
蒲生郷舎
蒲生郷舎(さといえ)の始めの名前は、坂源兵衛といい坂氏の出身です。
石田三成の家臣になる前は、関成政、柴田勝家、蒲生氏郷、蒲生秀行の家臣でした。
蒲生氏郷の家臣であった頃、秀吉の九州征伐に参戦し、武功を挙げたことで「蒲生郷舎」の名前を授かったそうです。
会津92万石の大名であった蒲生家ですが、名将と誉れ高い蒲生氏郷が亡くなります。
新しい当主・秀行の元お家騒動が起き、蒲生家は宇都宮18万石に減封左遷されてしまいます。
このお家騒動の際に蒲生郷舎は浪人し、後に石田三成の家臣になったと伝わります。
関ケ原の戦い後は蒲生家に帰参しますが、三成の次女婿である岡重政と対立したことがきっかけとなり、蒲生家を去り藤堂高虎の家臣になったそうです。
その後、岡重政が失脚したため蒲生家に再度復帰し、今度は三成の縁者である町野幸和と対立します。
そして蒲生家から追放されますが、その10年後に再び町野幸和と対立し今度は、町野幸和が失脚します。
蒲生郷舎は蒲生家に復帰しますが、後に主君・蒲生忠知によって追放されたそうです。
蒲生将鑑
蒲生将鑑(しょうげん)の元の名前は、安藤直重と言うそうです。
後に蒲生氏郷によって蒲生姓を賜り、蒲生将鑑となります。
蒲生家お家騒動後に三成に招かれて家臣になったと云います。
そして、関ケ原の戦いで討死したとされます。
(『関原軍記大成』)
蒲生頼郷(備中)
蒲生頼郷(よりさと)(備中)、関ヶ原の戦いで島左近と共に石田隊の先陣として、奮戦してことで知られています。
関ヶ原の戦いのインパクトから三成の家臣のイメージが強いかもしれませんが、元は六角氏の家臣、その次に蒲生家の家臣になった人物です。
蒲生頼郷の通称で旧姓は、横山喜内といい、後に名将・蒲生氏郷から働きを評価されて名を与えられ、蒲生頼郷と名乗るようになります。
また蒲生頼郷は、蒲生備中や蒲生真令(さねのり)という名前も伝わっています。
この時代の人は一人の人なのにいくつも名前がありますが、石田家には蒲生姓の家臣が多く混同したのでしょうか、蒲生郷舎も同一人物であると見なされていた時期があります。
蒲生頼郷は、会津の蒲生氏郷の家臣であった時期がありましたが、氏郷からの信頼の厚い人物であったようです。
豊臣秀吉が蒲生氏郷に期待したことは、蒲生家を会津に置き伊達政宗など東北大名の抑えとなることです。
蒲生頼郷は、その要となる場所を任せており、1万3千石ともいわれる高禄を得ていたようです。
しかし、蒲生氏郷が亡くなるとお家騒動が起き、秀吉の期待に蒲生家が応えるのは難しいと判断され、宇都宮に減封されます。
石高が減ったことで、蒲生家から多くの浪人がでたため、石田三成が蒲生家旧臣を多く召し抱えたといいます。
この時に、蒲生頼郷も三成の家臣になっています。
知行は1万石とも1万5千石とも云われており、これは島左近につぐ待遇です。
その三成の期待に応え、関ヶ原の戦いでは奮戦したといいます。
島左近と共に石田隊を指揮し、左近が銃弾で負傷した後も蒲生頼郷一人で前衛を支えたそうです。
そして、三成方の西軍が崩れる中、最後まで戦っていた石田三成も敗走します。
三成の退却を見届けた蒲生頼郷は、最後の突撃を始めます。
徳川方と激突する中、かつての同僚であった織田有楽に気が付きます。
蒲生頼郷は良い敵に会ったと思ったそうですが、織田有楽は降伏して命乞いをするように勧めたと云います。
頼郷はカラカラ笑い降伏勧告を退けると、織田有楽に斬りかかり負傷させたそうです。
しかし、織田有楽の家臣に攻撃され壮絶な最期を遂げたそうです。
またこの時、息子の蒲生大膳も討死しています。
河崎新六
河崎新六は、島津領の太閤検地に携わり、大隅国を担当しています。
(『島津家文書』)
河瀬織部
河瀬織部は、関ヶ原の戦い後、三成の居城・佐和山城の水の口で勇戦していましたが、敵が本丸に雪崩込み、命を落としました。
(『関原軍記大成』)
河瀬左馬助
河瀬左馬之は、関ヶ原の戦い前夜、使者を務め、織田秀信と丸毛兼利を味方にさせることに成功しています。
松田重太夫、樫原彦右衛門、赤尾四郎兵衛らと共に岐阜城支援に向かいます。
衆寡敵せず、西軍の多くが討ち死にする中、河瀬左馬之はは内城へ走ったそうです。
(『関原軍記大成』)
北川平左衛門
北川平左衛門(へいざえもん)も元は、蒲生家の家臣だったそうです。
時期は不明ですが、その後三成の家臣になり、関ヶ原の戦い後蒲生家に帰参し家老になります。
小川土佐と改名しています。
(『関原軍記大成』)
国友藤二郎
三成は関ヶ原の戦いで、近江国友(三成の領内にある)の鉄砲を使用したと伝わります。
国友藤二郎(くにとも とうじろう)は、近江にあった国友の鉄砲生産について指示を受けたとされます。
(『国友助太夫文書』)
雑賀内膳
雑賀内膳(さいが ないぜん)は、『石田軍記』、『惟新公開原御合戦記』に、島左近、舞兵庫と共に、一手の大将であったと記述されているそうです。
一説では、雑賀衆の鈴木重朝(しげとも)と言われているそうですが、真偽は不明です。
関ケ原の戦いの少し前に起きた伏見城攻めでは、城将・鳥居元忠を滅ぼすなど活躍しますが、関ケ原の戦い後は浪人になります。
後に徳川家康に仕え、水戸藩家老となったそうです。
(『石田軍記』)、(『惟新公開原御合戦記』)
塩野清助
塩野清助は、関ケ原の戦いで敗走する際、三成に最後まで付き従ったとされます。
三成の命令で、泣く泣く離散したそうです。
(『関原軍記大成』)
島左近
島左近という名前で知られていますが、本人は嶋清興という名前を使っていたと云われています。
島左近は、「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」と謳われる程、三成の家臣として有名です。
初めは畠山氏に仕え、畠山氏が没落し、筒井家、豊臣家と士官先を替え、石田三成の家臣になったと云われています。
三成の家臣になった時期は不明ですが、少なくても天正18年(1590年)の小田原征伐後には家臣であったと見られています。
三成の禄高が4万石の頃に、半分の2万石で左近を家臣にしたという逸話は有名です。
三成が佐和山城主になってから仕えたとする説もあり、真偽は不明ですが、石田三成に左近が使えたのは、当時の人を驚かせたようです。
関ヶ原の戦いの前哨戦といわれている杭瀬川の戦いでは、中村一栄(かずしげ)隊、有馬豊氏隊などを相手に勝利し西軍の士気を高めたと云います。
この時に、中村家の家老・野一色助義(のいっしき すけよし)(頼母)が戦死し、鎧塚が大垣市に残されています。
そして関ヶ原の戦いでは、陣頭に立ち石田隊を咤激励したと云います。
あまりの左近の恐ろしさに「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と『常山紀談』に書かれているそうです。
そして左近は被弾し亡くなったとする説がありますが、生存説も残っています。
また、嫡男の島信勝も討死したと伝わります。
(『常山記談』)、(『黒田家譜』)
島勘左衛門
島勘左衛門は、島左近の従弟で、石田三成の家臣です。
伏見城の戦いで戦死しています。
神保源右衛門
神保源右衛門(げんえもん)は、石田三成が豊臣秀吉から筑前、筑後の代官をの代官を命じられた時、代官を務めたと見られています。
(『朱雀文書』)
杉江勘兵衛
杉江勘兵衛(かんべえ)は、あまり知られていませんが石田三成の重臣の一人と伝わります。
始めは稲葉良通(稲葉 一鉄)に仕え、姉川の合戦などで戦功を上げたと云われています。
後に石田三成に仕え重臣になり、島左近や舞兵庫(前野忠康)と並ぶ勇猛さで称えられます。
田中吉政の家臣である辻重勝(勘兵衛)、藤堂高虎の家臣・渡辺了(勘兵衛)と並んで「三勘兵衛」と言われるそうです。
関ケ原の戦いの少し前に起きた合渡川の戦いでは、舞兵庫、森九兵衛(くへい)と共に、兵を率いて合渡川で家康方である黒田隊や田中隊と対峙します。
奮戦の後、多勢に無勢で苦戦し、杉江勘兵衛が殿になり退却を始めます。
そして杉江勘兵衛は、田中吉政の家臣と競り合い、ついに討ち死にしたと云われています。
田中吉政の家臣・辻重勝に討たれたとも、西村某に討たれたとも伝わります。
(『関原軍記大成』)
隅東権六
隅東権六は、徳川家康が上杉討伐に出陣する際の使者になりました。
三成の嫡男・重家が大谷吉継軍に属して参じることを言上したそうです。
(『慶長見聞録』)
千田采女
千田采女(うねめ)は、三成の信頼厚い近臣です。
関ヶ原で敗戦後、一時、千田采女のところに潜伏しようとしていました。
(『関原軍記大成』)
曾根高光
曾根高光は、元小早川秀秋の家臣です。
小早川秀秋が筑前、筑後を失い、大幅な減封になった際、石田三成に出仕しています。
(『曾根家譜』)
高橋権太夫
高橋権太夫は、関ヶ原に鉄炮頭として従軍し、田中吉政の甥・田中総兵衛にに討たれています。
(『関原軍記大成』)
高野越中
高野越中も元は豊臣秀次の家臣で若江八人衆の一人です。
別名で平岡刑部という名前も伝わっています。
最初は秀次の養父・三好康長の家臣でしたが、三好信吉(後の秀次)が養子になると仕えたと云います。
その後、豊臣秀吉が養父となり豊臣秀次として、秀吉の後継者としての地位を固めていきます。
関白の座も譲り受け順調に思えましたが、豊臣秀頼誕生により事態は変わります。
秀次が自害する秀次事件が起き、高野越中は三成の家臣になります。
関ヶ原の戦いでは、大山伯耆(ほうき)とともに、伏見城攻めを行ったり、関ヶ原の戦い本戦では石田隊本陣を守ったと伝わります。
生き残り、戦後は浅野幸長の家臣になったそうです。
(『武家時記』)、(『前田家所蔵文書』)
谷村政盛
谷村政盛(九郎太夫)は、石田三成の家臣になり、600石を拝領しています。
関ヶ原の戦いで、美濃国岐阜で戦死しています。
佃 宗右衛門
佃 宗右衛門(つくだそうえもん)は、関ヶ原に弓頭として出陣しています。
田中吉政の家臣・中村采女に討たれました。
(『関原軍記大成』)
津田清幽
津田清幽(せいゆう)は、徳川家康に仕えた後に、三成の兄・石田正澄の家臣になります。
佐和山城籠城戦を子と共に戦い、三成の三男・佐吉を出家させ助命を認めさせています。
戦後は、徳川義直仕えています。
(『常山記談』)
土田桃雲
土田桃雲(土田東雲斎)は、佐和山城の籠城し、留守を守っていました。
佐和山城落城の際に、三成の妻・皎月院を刺し、自身も自刃したそうです。
(『佐和山落城記』)
津山甚内
津山甚内は、石田三成の家臣です。
また、津山甚内の娘は、三成の次男・石田重成(杉山源吾)の乳母です。
佐和山城落城を聞き、津軽信建の手助を得て、石田重成と共に津軽へ逃れています。
中島宗左衛門
中島宗左衛門(そうざえもん)は、関ヶ原の戦い当日、柵の前に軍勢を並べ、先手となって奮戦しています。
敵味方が入り乱れて乱戦になり、討ち死にしています。
(『関原軍記大成』)
服部新左衛門
服部新左衛門(しんざえもん)は、家康の旗本・服部仲の従弟とされる人物です。
石田三成の家臣として参戦した関ケ原の戦いで討たれ、1番首とされています。
(『関原軍記大成』)
林半介
林半介は、三成が農民から使番に抜擢し、7百石の侍にまで出世した家臣だそうです。
関ケ原の戦いでは、末席から功名を誓い、杭瀬川の戦いで勇戦したそうです。
「常山記談」に記載された逸話によりますと、林半介の堂々たる振る舞いを見た家康が
あの「白じなへの差物」を差した林半介とは、あっぱれな武者よ、武功を志すものは、林半介の草ずりでもいただくがよい
と褒めたたえたエピソードがあるそうです。
(『常山記談』)
平塚久賀
平塚久賀(ひさよし/きゅうが)は、猛将と名高い平塚為広の弟に当たります。
平塚為広とは、三成の盟友・大谷吉継と共に関ヶ原の戦いに参戦した人物です。
平塚為広は、小早川秀秋などの裏切りで壊滅状態の中、なおも孤軍奮闘した後に討たれます。
平塚為広が亡くなる直前に、大谷吉継に送ったと云われている辞世の句は、「名のために捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世と思へば」だといいます。
その平塚為広の弟が平塚久賀で、石田三成の家臣だと伝わります。
久賀は、大剛の者と名高く、徳川家康からの士官の誘いを受けますが、それを断り三成に仕えたといいます。
大剛の者とは非常に強い人という意味です。
関ケ原の戦いで石田隊が壊滅し、徳川家康に生け捕りになった際に 、惨めな姿を徳川方に嘲笑われますが、堂々と言い返したとう逸話が残ります。
平塚久賀は生き延びたようですが、詳細は不明です。
藤林三左衛門
藤林三左衛門(さんざえもん)は、1594年の太閤検地で、三成より佐竹領の常陸国と下野国の検地を任されたとされます。
側量の基準や耕作管理者を定めるなど、優れた手腕を発揮したそうです。
舞兵庫(前野忠康)
舞兵庫は石田三成の家臣として知られていますので、三成がお好きな方ならご存知の方も多いのではないでしょうか。
舞兵庫として知られていますが、本名は前野忠康といいます。
そして、義父は前野長康といい豊臣秀吉の最古参の家臣です。
舞兵庫は若江八人衆であり、黄母衣十三人の一人という豊臣秀次の重臣の一人になります。
(※豊臣秀長の家臣説も有ります。)
当時子供のいない秀吉の跡継ぎ候補として、甥の秀次が関白の座についていました。
しかし、秀吉の子供の秀頼が生まれると、次第に秀次は追い詰められ自害することになります。
この秀次の件に連座し、秀吉の命令で多くの秀次の妻や子供達が滅ぼされることになります。
舞兵庫にとっても大きな事件であり、主君の一族が滅んだだけでなく義父・前野長康も失うことになります。
前野長康は、秀次の家老を務めていたので連座し自害に追い込まれてしまいました。
舞兵庫にも害が及ぶことを危惧した三成は、舞兵庫を匿ったといいます。
そして、後に秀吉の許しを得て、石田三成の家臣になります。
石田三成の家臣の中でも破格の待遇であったようで、高禄で召し抱えてくれた三成に感謝したという舞兵庫の話が残っています。
その後は、あの関ヶ原の戦いが起きます。
関ヶ原の戦いの少し前に起きた美濃福束城の救援や、合渡川の戦いに参戦しています。
舞兵庫は、前哨戦から無事に帰還しますが、関ヶ原の戦いで奮戦し、戦死したとの説が有力です。
舞兵庫の子供・左馬助は、丸亀藩の生駒家の家臣になり、後に家老になったと云います。
藤堂高虎の斡旋があったといいます。
(『関原軍記大成』)、(『常山記談』)
牧野成里
牧野成里も豊臣秀次の元家臣で、若江八人衆の一人になっていた人物です。
牧野成里は、主君が亡くなったり、没落したり苦労したようです。
始めは、滝川一益や織田信雄の家臣になりますが、没落した為、長谷川秀一に仕えますが、朝鮮出兵中に亡くなります。
亡くなった主君の代理を牧野成里が務め、それが認められて秀次の家臣に抜擢され、若江八人衆の一人になったそうです。
そして、秀次も亡くなり三成の家臣になります。
関ヶ原の戦いでは、石田本陣後方を守りますが、三成方は敗北したため池田輝政(いけだ てるまさ)に助けを求めたそうです。
そして助命され、後に徳川家3千石の旗本となったと云われています。
(『東照宮御実記』)
松田重太夫
松田重太夫(じゅうだゆう)は、関ヶ原の折、河瀬左馬之、樫原彦右衛門、赤尾四郎兵衛ら共に、岐阜城支援に派遣されています。
松田は稲葉山砦を守りましたが、大軍を前に討ち死にしています。
(『関原軍記大成』)
水野庄次郎
水野庄次郎は杭ノ瀬の戦いで、一隊を指揮して、見方を励まし奮い立たせます。
戦後、浅香左馬助と名乗っています。
(『常山記談』)
村山理介
村山理介は、島津氏の太閤検地で、薩摩国を担当しています。
関ヶ原の戦いでは、黒田軍に討たれています。
(『島津家文書』)、(『黒田家譜』)
森九兵衛
森九兵衛も豊臣秀次の元家臣で、若江八人衆の一人と称されています。
出自は、清和源氏の流れをくむ森氏と伝わります。
秀次亡き後、三成の家臣になります。
関ヶ原の戦いの少し前に起きた合渡川の戦いに参戦し、黒田長政らと対戦しています。
しかし敗れて、舞兵庫、杉江勘兵衛らと共に合渡川から離れ、大垣城に退却したといいます。
その後、関ヶ原の戦いにて奮戦の末に討死したと伝わる一方、生存説もあります。
(『関原軍記大成』)
八十島助左衛門
八十島助左衛門(やそじま すけざえもん)は、諸大名の外交を担当していました。
朝鮮出兵の際に、秀吉と島津家の取次もしていたようです。
関ヶ原の戦いの際、なかなか動かなかった島津軍の陣へ赴き、すぐに出撃して欲しい旨を伝える使者の役目を任されます。
しかし、島津隊に対し、馬上から出撃要請をしたため、島津豊久を怒らせてしまい無礼を罵(ののし)られます。
島津の怒りに恐れをなして、石田隊に逃げ帰ったとも、そのまま逃亡したとも伝わります。
先に紹介した磯野平三郎が憎さのあまりにと詠んだ歌は、この八十島助左衛門のことと伝わります。
関ヶ原の戦いの後は、藤堂高虎に仕えたそうです。
磯野平三郎も戦後、藤堂高虎に仕えたとされるので、また同僚になったということですが、上手くいったのでしょうか…。
(『関原軍記大成』)
山田去暦
山田 去暦は、徳川家康の手習いの師匠を務めた後に、石田三成の家臣になりました。
関ヶ原の戦い当時は、石田方として大垣城か佐和山城にいたと見られています。
いよいよ落城間近となった時、家康の師匠であった縁から、逃げるなら見逃すという趣旨の矢文が届きます。
その誘いに乗り、真夜中に脱出して土佐国へ逃れたそうです。
山田嘉十郎
山田嘉十郎(じゅうろう)は、石田家の国家老で、三成の領地を良く治め、行政に手腕を発揮します。
関ケ原の戦いでは、佐和山城の留守番を担当し、太鼓曲輪を守っていました。
しかし、関ヶ原の敗報を聞くと、家康方が佐和山城に到着する前に、船で逃亡し、その後については不明だそうです。
国家老なのに無名なのは逃げてしまったからでしょうか…。
戦国時代は武勇伝が多いですが、実際はこのようなケースもあったでしょうね。
(『関原軍記大成』)
山田上野介
山田上野介(こうずけのすけ)は、三成の家臣ですが、三成の長女の義父でもあります。
山田上野介の息子・山田勝重(山田隼人正)と三成の長女は、結婚しています。
関ヶ原の戦い後は、山田上野介の妹・茶阿局が徳川家康の側室で、徳川家康の六男である松平忠輝の生母でもあったため、山田勝重(山田隼人正)は松平忠輝の家臣として生き延びています。
肝心の山田上野介ですが、太鼓丸を守っていた、番頭(ばんがしら)という位にいた人物のようです。
年貢の取り立てを任された三成の書状も残されています。
関ケ原の戦いでは、三成の一族衆と共に佐和山城を守備します。
奮戦し佐和山城落城前に山田勝重(山田隼人正)に脱出させ、菩提を弔うように命令したと云います。
そして山田上野介は自害して果てます。
山田上野介の孫は『佐和山落城記』という記録を残しています。
佐和山城落城の時のことや山田家について記されているそうです。
(『関原軍記大成』)
山田勝重(山田隼人正)
山田勝重(山田隼人正)は、山田上野介の子で、三成の長女の夫です。
佐和山城落城の際、妻や息子と共に脱出しています。
戦後、松平忠輝に仕えています。
一方、大坂の陣で木村重成に属して討ち死にしたとの記録もありますが、史実ではなく、松平忠輝に従い大坂夏の陣に従軍しています。
松平忠輝改易後は、三成三女の縁で、津軽家の支援を受けながら隠棲しています。
(『佐和山落城記』)
横山監物
横山監物(けんもつ)は、杭瀬川の戦いで、有馬豊氏の郎党を組み伏せましたが、別の敵に討たれています。
(『石田軍記』)
四岡帯刀
四岡帯刀(よつおか たてわき)は、1597年に三成が伊香郡落河村の百姓に出した田麦徴収の法令に名前が見えます。
関ケ原の戦いでは、佐和山城の留守番衆をしていました。
(『長浜城歴史博物館所蔵文書』)、(『滝川文書』)
渡辺勘兵衛
渡辺勘兵衛は、別名で新之丞(しんのじょう)とも表記されます。
『佐和山落城記』によると、敗戦後に三成に従った家臣の一人として名前があり、途中まで三成と落ち延びたそうです。
佐和山落城記とは、山田上野介(嫡男が三成長女の婿)の孫が書いた記録です。
渡辺勘兵衛について有名な逸話がありますので、紹介させていただきます。
渡辺勘兵衛は、評判の高い武将であり、柴田勝家や秀吉などから士官の誘いを受ける豪傑です。
しかし、名だたる大名からの誘いを全て断っていたそうです。
当時、秀吉の近習で僅か500石であった三成に、渡辺勘兵衛が仕え周囲を驚かせます。
疑問に思った秀吉が三成に理由を聞いたところ
「自分の500石の知行全てを与えました。
勘兵衛に自分が100万石取りになった際に、10万石を与える約束をしました」
と三成が話したといい、秀吉が三成自身はどうするのかと聞くと、
「勘兵衛の家に居候になります」
と話したそうです。
その後、三成が佐和山城主になると、勘兵衛の禄も増やそうとしたそうですが勘兵衛は
「殿が100万石の大名になるまで、知行は500石のままでいます」
と固辞し500石のままで居続けたという逸話です。
どこかで聞いたような話だなと思いましたが…、島左近が三成に仕える時の逸話に似た話ですね。
この逸話は、昭和十三年発行の書物である『国史美談 教訓画蒐』に記載があるそうです。
また、関ヶ原の戦いでは、三成に従って従軍し、黒田家の猛将・後藤基次と一騎討ちをしたともいわれます。
しかし、三成方の西軍が崩れて敗走すると、渡辺勘兵衛は重傷を負ってしまいます。
自害を決意した渡辺勘兵衛は、三成に会いに行き、今までの感謝を告げたそうです。
石田三成は、渡辺勘兵衛の手を取り「そなたの10万石も、夢となってしまった」と嘆いたと伝わります。
(『佐和山落城記』)、(『国史美談 教訓画蒐』)
渡辺新之助
渡辺新之助は、合渡川の戦いに従軍し、黒田長政に槍をつけたそうですが、討たれました。
(『石田軍記』)
渡辺甚平
渡辺甚平(じんべい)は、関ヶ原の戦いで敗戦後、敗走した石田三成に付き従います。
伊吹山中から柱法師まで従いましたが、三成の命令により涙ながらに分かれています。
(『平野圧郷記』)
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石田三成の家来の子孫です。
今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で石田三成も登場するのですが、そこで、ふと、気が付いたのですが、高知県須崎市多ノ郷堂ヶ奈路に15軒ほどの集落がありますが、ここに住んでいる人は石田三成の家来が祖先になります。
今でも名字が石田があります。高橋もいますが、昔、赤痢(病気)が流行し、石田2軒を残し、石田から高橋になっています。(昔は病気が流行すると名字を変える風習があったみたいです。)
家来の名前は石田ジエモン(漢字不明)になります。堂ヶ奈路から1km位の場所に隠れ屋敷(多分、こんな漢字)と言う場所があり、ここに住んだのが始まりです。石田ジエモンには3人の息子がいて、堂ヶ奈路の上、中、下段の土地にそれぞれの3人の息子が住んだのが、堂ヶ奈路の集落の始まりになっています。碑もあるそうです。
★参考までに
去年の4月に堂ヶ奈路に行った時に親戚(子孫)の人に上記のようなことを聞きました。母親(子孫)にも聞きました。
須崎市吾桑に歴史に詳しい人がいるみたいです。
堂ヶ奈路は標高150m位の場所です。
高知市の称名寺と九反田地蔵尊は石田三成の幼い娘と関係しています。
以上です。