明智光秀の妻の名は、妻木煕子(つまき ひろこ)、又は明智煕子(あけち ひろこ)といいます。
煕子についての記録は殆どありませんが、煕子の生涯と疱瘡や称念寺にいた頃の黒髪の逸話など、光秀の愛妻家説について書いています。
明智光秀の妻・妻木 煕子(ひろこ)の生涯
妻木煕子の父は、美濃国土岐郡妻木郷の豪族・妻木氏とするのが通説です。
妻木煕子の生年は不明ながら、一説には享禄3年(1530年)頃に生まれたと云われています。
一方の明智光秀の生年も諸説ありますが、有力視されている享禄元年(1528年)説だとするならば、2歳差ということになります。
煕子(ひろこ)の父の名は、妻木勘解由左衛門範熙(つまきかげゆざえもんのりひろ)、または妻木広忠であるとも云われています。
また、二つの名前は、同一人物であるとする説もあります。
名前が妻木広忠という説の出典元は不明ですが、妻木勘解由左衛門範熙の名前は『細川家記』に書かれています。
『細川家記』とは、光秀の娘(細川ガラシャ)の嫁ぎ先である細川家の記録です。
細川家は現代も続く名家であり、細川家の歴史を記した『細川家記』は、貴重な史料とされる一級史料です。
ただし、光秀の記録につては、史料価値は低いとされる『明智軍記』からの転載と見なされる部分があり、光秀の記録については信憑性があるのか分からない状態です。
ですが、光秀の妻・煕子(ひろこ)は、肥後細川家当主・細川忠興の義母に当たるため、『細川家記』に記された妻木勘解由左衛門範熙説が有力視されています。
また『美濃国諸旧記』に妻木範熙という名前もあり、妻木勘解由左衛門範熙と同一であると考えられます。
また、妻木氏は明智氏の分家筋とみられ、光秀と煕子は同族であったようです。
一説には、明智光秀は土岐源氏の流れを汲むと云われていますが、本当ならば妻木氏も土岐源氏の流れを汲むことになります。
妻木氏は明智氏の与力となった後に、重臣になったと云われています。
実は、明智光秀の妻の名前が、本当に熙子(ひろこ)というのか分かっていません。
煕子の名は後世に知られるようになった俗称と見られており、正しい名前は定かではなく「お牧の方」または「伏屋姫」とも伝わります。
『細川家記』に記載されている煕子の父の名前に「煕」の字がある為、「煕子」は父の名から付けられた俗称であるとも言われているのです。
因みに、光秀の母もお牧の方です。
その為、お牧の方は、煕子の名前ではないのではないかという声もあります。
《光秀と妻・煕子の子供について》
妻木煕子の幼少期は不明ですが、光秀と婚約した時期は、一説には、天文14年(1545年)頃だと云われています。
明智光秀の子供についても諸説あり、生母は煕子かも定かではありません。
光秀は側室がいなかったとも云われていますが、確かなことは不明です。
・長女・倫子は荒木村次の正室、後に明智秀満(左馬助)の正室
・次女に明智光忠の正室
・三女・玉子(珠子)は、細川ガラシャとして知られており細川忠興の正室
・四女は津田信澄(信長の甥)の正室
・嫡男の明智光慶(あけち みつよし)
・次男の十次郎光泰
・三男に乙寿丸がいたと伝わります。
※明智光忠は、光秀のいとこで、細川ガラシャは次女との説もあります。
明智光秀の妻・煕子(ひろこ)と疱瘡の逸話
明智光秀の妻・煕子には、逸話が残されていますので、紹介させていただきます。
妻・煕子は婚約時代に疱瘡(ほうそう)にかかり、顔に痘痕(あばた)が残ってしまったといいます。
これを案じた父・妻木勘解由左衛門範熙は、煕子の妹を身代わりとして明智家に嫁がせることを考え、煕子も光秀様に恥をかかせては申し訳ないと同意したそうです。
しかし、こうした事情を知った光秀は、
「容貌は歳月で変わるものですが、変わらぬものは心の美しさです。
私は煕子殿と添い遂げたく思います。」
という手紙を妻木家に送り、最初の約束通り煕子と結婚したとされています。
煕子は感動し生涯添い遂げる思いを強くし、夫婦となった二人の仲は睦まじかったと伝わります。
愛妻家になりそうな、光秀の優しい面が伝わる逸話だと思います。
※この逸話は、立花宗茂(たちばな むねしげ)の母・宋雲院が高橋紹運(たかはし じょううん)に嫁ぐ時の話によく似ているそうで、後世の創作であるとする説が有力ですが、仲睦まじかったことは事実ではないかと云われています。
妻・煕子(ひろこ)は、越前の称念寺に住んでいた!?
光秀は、美濃で生まれ育ち、明智の居城は美濃にあった明智城だったと云われています。
しかし、1556年に齊藤義龍(よしたつ)(高政)の軍勢に攻め込まれ、明智城は落城します。
落城時、身重だった煕子を光秀が背負って、美濃から越前まで逃れてきたという逸話もあります。
家族と伴に越前に逃れた光秀は、貧しいながら、煕子と仲良く暮らしていたそうです。
越前の称念寺(しょうねんじ)に、光秀が寺子屋を開き、不遇時代を過ごしたとの伝承があります。
称念寺と光秀の関係を示す一級の史も残っていて、光秀が越前にいた傍証とされています。
光秀が越前にいた痕跡はあるものの、その頃の光秀と妻の詳細は定かではありません。
称念寺門前にて夫婦で寺子屋を開いたとも、旅に出たとも伝わります。
そもそも本当に越前に住んでいたのか疑問視する声もありましたが、近年新たな史料が見つかりました。
ニュースにもなっていましいたが、明智光秀が武士と兼業で、医者もしていたかもしれないと推測できる史料であるといいます。
光秀が越前の朝倉家の秘伝薬について知っていたことや、越前にいたことが記された記録も見つかり、本当に越前に住んでいたのではないかと見られています。
もし医者をしていたとしたら、その時期は、越前にいた貧しかった頃ではないかと推察できるようです。
詳しくは別の記事に書いています。
明智光秀は医師だった!?~米田文書『針薬方』にみる医者の根拠~
明智光秀の妻・煕子(ひろこ)黒髪を売る
越前の称念寺に居た頃の煕子(ひろこ)逸話があります。
光秀の仕官先が見つからず貧窮していた頃、越前の大名・朝倉家の家臣と連歌の会を催すチャンスが訪れます。
せっかくの仕官の機会ですが、武将を集めた連歌の宴会を開く資金がありませんでした。
ですが妻・煕子(ひろこ)が黙って資金を用意し、宴会は酒肴(酒と酒のさかな)で大成功したそうです。
資金は、妻・煕子(ひろこ)が、大切にしていた自慢の黒髪を売って手に入れたものでした。
やがて光秀は朝倉家の仕官が叶い、妻への報恩を心に決めたそうです。
このことで、光秀は妻に頭が上がらず、側室がいなかったとも伝わっています。
このように、妻は煕子だけという説も、光秀が愛妻家と云われる所以かもしれません。
一説には妻の気持ちに応えるため「たとえ天下をとったとしても、妾は持たぬ。」と語ったとも云われています。
※光秀に側室がいなかったかは定かではありませんし、煕子は後妻だとする説もあります。
光秀は朝倉義景に仕えたという説があり、煕子が縁をつくってくれた話が本当なら、恩人になりますね。
松尾芭蕉が詠んだ妻・煕子の句
あの有名な松尾芭蕉は、奥の細道の途中(又は終えてからとも)で越前に寄り、詠んだ句があります。
光秀の妻の黒髪の逸話を思って詠んだとされています。
「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」
「寂しい月明りのもとですが(今は出世の芽がでてないが)、明智光秀の妻の黒髪の話してあげましょう。(あなたのその心掛けは、必ず報いられる日が来ますよ)」
という意味になるそうです。
『兼見卿記』に見る妻・煕子の享年
公家の吉田兼見は、光秀と交流があり、光秀の娘(細川ガラシャ)の義父・細川幽斎(藤孝)の従兄弟でもある人物です。
吉田兼見は、『兼見卿記(かねみきょうき)』という日記を残しています。
重要な史料とされている『兼見卿記』の中に、光秀の妻・煕子(ひろこ)に関する光秀とのやり取りを残しています。
1576年当時、光秀は織田信長の重臣になっていて、比叡山焼き討ち、長篠の戦いを経て、丹波攻略に取り掛かっていました。
『兼見卿記』によると、光秀は1576年5月23日頃に、石山本願寺攻めの大坂包囲の陣中で発病したそうです。
そして、5月26日の夜に光秀の妻が、大中寺(だいちゅうじ)某を使者として、吉田兼見に病気快気の祈念を依頼したそうです。
光秀の病はかなり重かったようで、信長も使者を派遣して光秀を見舞ったようです。
その後、6月12日には光秀が病没したとの噂が山科言継(やましな ときつぐ)の耳に入ったそうですが、7月には回復し7月14日には見舞いにきた吉田兼見と面会しています。
しかし、10月に今度は光秀の妻が病に倒れ、10月10日に光秀は妻の快気の祈念を吉田兼見に依頼し、吉田兼見はお祓いやお守りを持って見舞います。
24日に光秀の妻の病は快気し、光秀は非在軒という者に折紙と銀子(ぎんす)一枚を吉田兼見に届けさせ、11月2日には妻の見舞いにきた吉田兼見と光秀の京都の宿所にて面会したそうです。
ですが、光秀と妻のお墓がある近江の西教寺(滋賀県大津市)の過去帳によれば、この後直ぐの11月7日に光秀の妻が坂本城で死去したと記されています。
法名は福月真祐大姉、享年は、46歳または36歳、42歳とも云われています。
光秀の妻は一度は快気したものの、また直ぐ発病してしまったということでしょうか。
『兼見卿記』には、光秀の妻が亡くなったことについて、記載がないようです。
『明智軍記』などに光秀の妻は、本能寺の変の直後の坂本城落城の際に48歳で亡くなったとしていますが、この説は信憑性がないとされています。
このように、光秀の妻・煕子(ひろこ)については、名前も、親も、生没年もハッキリとは分かっていません。
逸話から読み取れるように賢い人であったと伝わっており、現在は光秀と共に西教寺にて眠っています。
2020年8月7日のニュースになっていましたが、聖衆来迎寺が所蔵する『仏涅槃図』(ふつねはんず)(涅槃図)の裏に、寄進者2名と関係のある人と見られる4名の戒名が書かれていているのが見つかりました。
その戒名の中で、2番目に煕子の戒名「福月真祐大姉」があるのが発見されました。
煕子は成仏を願われていて、聖衆来迎寺の供養対象者だったことが分かります。
聖衆来迎寺は光秀の居城・坂本城の近くにあるお寺で、1581年に寄進された『仏涅槃図』の裏に書かれていたことから、1582年の坂本城落時に亡くなったとする説はやはり真実ではなさそうです。
聖衆来迎寺については別で詳しく書いています☟。
また、明智家の菩提寺・西教寺の住職により語り継がれた話によると、光秀は煕子の葬儀に参列したそうです。
当時、夫は妻の葬儀に参列しないという習慣がありましたが、習慣を破っての参列でした。
その上、光秀は丹波攻めの最中にも関わらず、葬儀に参列したのです。
妻木煕子に関することは逸話が多く、どこまで真実かは不明です。
ただ、お互いを思いやる逸話が多いことから、相思相愛であり、愛妻家であろう光秀と添い遂げ、煕子(ひろこ)は幸せだったのではないかと思います。
煕子や明智一族、妻木一族のお墓がある西教寺についてです。
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