明智光秀ゆかりの地をまとめました。
明智光秀は、謎が多い人物なので、伝承や逸話も含めたゆかりの地です。
ゆかりの地を岐阜県、滋賀県、京都府の場所別にまとめています。
岐阜県の明智光秀のゆかりの地
《桔梗塚と光秀の産湯の井戸》
明智光秀は山崎の合戦の後、落ち武者狩りに遭い亡くなったとする説が有名ですが、光秀は実は生き延びていて、亡くなったのは光秀の影武者であるという説が残る場所があります。
山県市中洞の伝承によると光秀は荒深小五郎と改名し、中洞に落ち延びて隠れ住んでいたそうです。
中洞には桔梗塚が残されており、「光秀の墓」と「五輪塔」があります。
※桔梗とは光秀の家紋です。
桔梗塚の直ぐ近くには光秀の「産湯の井戸跡」も残されていて、一説には光秀の出生地であるとも云われています。
住所: 〒501-2258 岐阜県山県市中洞1020番地 中洞白山神社
《明智城跡》
明智城のあった岐阜県可児(かに)市も光秀の出生地候補となっている場所です。
その中でも明智城は、光秀が約30年間も過ごしたとされる光秀のゆかりの城です。
明智一族の居城であった明智城ですが、齋藤義龍に攻められて落城します。
そして明智家再興を託され、光秀は落ち延びて、後に信長と出会います。
住所:〒509-0213 岐阜県可児市瀬田5丁目1238-3
《天龍寺》
天龍寺は明智城跡のある山の麓にあります。
明智氏歴代の墓所と本堂には日本一大きい184㎝の光秀の位牌が納められています。
住所:〒509-0213 岐阜県可児市瀬田1242
《一日市場八幡神社》
光秀の出自は諸説ありますが、名門・土岐(とき)氏の一族とする説が有名です。
その土岐氏発祥の地である一日市場八幡神社の境内には光秀の銅像が建立されています。
住所:〒509-6101 岐阜県瑞浪市土岐町402
《鶴ヶ城跡》
鶴ヶ城というと会津を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、今回は岐阜にあった鶴ヶ城です。
土岐氏の庶流が明智家だと云われていますが、その土岐氏の居城は鶴ヶ城であったそうです。
築城年代は定かではないものの、築城者は土岐光衡(みつひら)であるとの説もあります。
土岐光衡は源氏の一族ですが、源氏から土岐氏を名乗った土岐氏始まりの人物とも云われています。
本当に土岐氏を始めて名乗ったかは諸説ありますが、いずれにせよ、土岐光衡は土岐氏流明智家の祖先と見なされています。
名門の土岐家ですが、後に下剋上により没落し、慶長5年(1600年)には、鶴ヶ城は田丸氏の支城となっていました。
そして鶴ヶ城は、妻木頼忠(つまき よりただ)らに攻められ落城します。
この妻木氏とは光秀の妻・煕子(ひろこ)の縁者とされる家系です。
諸説あり定かでないものの、妻木頼忠は、光秀の義父・妻木広忠 (つまき ひろただ)の孫であるとも云われています。
鶴ヶ城は、直接的に光秀のゆかりの城ではないですが、光秀祖先のゆかりの城であり、光秀の縁者によって落城させられたとする説があります。
〒509-6101 岐阜県瑞浪市土岐町2659-3
《妻木城跡》
妻木広忠、妻木頼忠の居城は岐阜県にあった妻木城です。
元々妻木城の領地は、明智氏のものだったそうですが、明智氏の一族であった妻木氏の居城となりました。
本能寺の変頃の城主は妻木広忠で、一説には光秀の妻の父と云われています。
ですが、本能寺の変で光秀の見方をし、自害することになります。
妻木広忠の後は、妻木頼忠跡を継ぎますが、江戸時代に生活の不便さから妻木城は放棄され、現在では跡地として整備され曲輪、石垣、土塁などの遺構が残されています。
〒509-5301 岐阜県土岐市妻木町
《落合砦(千畳敷公園)》
岐阜県には、もう一つ明知城があります。
その明知城の出城として築かれたのが落合砦で、現在は千畳敷公園として整備されています。
明知城は明知遠山氏の居城であったと伝わっています。
明知遠山氏とは、光秀の明智氏とは別の氏族と見なされています。
しかし、親戚の可能性など完全に否定は出来ず、また光秀の叔父が養子になったという説もあり、光秀のゆかりの地なのか何なのかよく分からないという感じのところです。
ところが、現地に行くと「明智光秀生誕の地」という旗がたっています。
岐阜県恵那市という場所にあるのですが、恵那(えな)市も光秀の出生地候補の一つになっています。
どうやらこの砦で生まれたそうで、産湯の井戸が残されています。
住所:〒509-7700 岐阜県恵那市明智町947-10
光秀の出生地については、先ほど紹介した岐阜県可児市の方が有力視されているようですが…、恵那市にも光秀のゆかりの場所が残されていますので、紹介させていただきます。
《龍護寺》
その光秀と関係があるかもしれない明知遠山家の菩提寺である龍護寺(りゅうごじ)も恵那市にあります。
龍護寺には、明知遠山氏代々の墓地、明智光秀の御霊廟(供養塔)などがあります。
また寺宝として、光秀の直垂(ひたたれ)の布を縫い込んだ九条衣という袈裟(けさ)も伝来しています。
上の写真は、龍護寺にある明知遠山家と光秀の関係を記す系図です。
この系図では、「明智遠山」となっています。
元々「明智遠山」だったのを「明知遠山」と変えたそうです。
この系図によると、光秀の叔父・明智光安(あけち みつやす)と明知遠山家の遠山景行(とおやま かげゆき)は同一人物のようです。
明智光安の通説は、遠山景行になった説ではなく、幼い頃に父を亡くした光秀を支えた人物として知られています。
後に明智家の居城・明智城は落城しますが、その際に明智家再興を託した光秀を逃がし、自身は自害したことになっています。
この系図では、生まれは明智家の人間ですが、明知遠山家を継いだ!?…つまり養子になったということでしょうか。
ウィキペディアに異説として記載されていますね。
住所:〒509-7718 岐阜県恵那市明智町1389-1
龍護寺に行った記事に詳しく書いてあります。
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明智町にある龍護寺~明智光秀の御霊廟(供養塔)と遠山氏について~
明智光安については別で書いています。
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明智光安~明智光秀の後見となった叔父~遠山景行と同一人物!?
《光秀の母・於牧の方のお墓》
光秀の母・お牧の方のお墓が恵那市になります。
光秀の母の生涯は、謎だらけですが、非業の最期をとげたという逸話が残されています。
光秀が信長の命令で丹波を平定しようとしていた頃、敵対していた波多野氏に母を人質として送り開城させたそうです。
ですが、信長によって波多野氏が滅ぼされたため、報復措置として敵に光秀の母も滅ぼされてしまったと云います。
母のお墓にもその逸話の詳細が書かれた説明板があります。
この母を亡くした怨恨が本能寺の変の一因とも云われています。
ところでこの母のお墓は、江戸時代中期に建立されたそうで、お墓というより供養塔のようなものではないかと思います。
住所:〒509-7700 岐阜県恵那市明智町1175-1
お牧の方のお墓について、逸話についてなどは別で詳しく書いてあります。
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《明智光秀公学問所と天神神社》
明知遠山氏の居城・明知城のあった山の麓に、光秀の「学問所」と学問所がある「天神神社」があります。
光秀が若い頃、学僧を招いて精進した光秀ゆかりの場所だそうです。
〒509-7700 岐阜県恵那市明智町1318-2
(〒509-7731 岐阜県恵那市明智町万ヶ洞)
光秀ゆかりという「学問所」に行った時の記事です。
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《金幣社八王子神社》
天照大神の八人の王子を祀っていているという金幣社八王子神社には、光秀が建立したと伝わる柿本人麻呂社があります。
またその手前には、光秀のお手植えの楓もあります。
万葉の歌人、柿本人麻呂を祀り和歌の上達を願ったのかもしれません。
また社殿には明智氏の家紋・桔梗紋が彫られているそうです。
住所:〒509-7717 岐阜県恵那市明智町1400-1
滋賀県の明智光秀のゆかりの地
《十兵衛屋敷跡》
滋賀県にある「十兵衛屋敷跡」にも、明智光秀出生地との伝承があるそうです。
約500年もの間口伝されており、光秀から「みつ」の字を賜った見津(けんつ)一族も存在します。
これだけでは、信じがたい話かもしれませんが、『淡海温故録』という信憑性が高い文献にも光秀の出生地である旨の記載があるそうです。
もしそうであれば、光秀のゆかりの地になりますが真偽は不明です。
住所:〒522-0322 滋賀県犬上郡多賀町大字佐目465
光秀は謎の多い人物で出生地も定かではなく複数あります。
こちらは出生地についてまとめた記事です。
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《比叡山延暦寺》
織田信長が比叡山の焼き討ちを行ったことで有名な比叡山延暦寺ですが、実行の中心的な役割を果たしたのは光秀だと云われています。
この時の信長の残虐性が本能寺の変の一因とも云われていましたが、近年発見された書状により、光秀はむしろ積極的に参加していたのではないかとも云われるようになりました。
住所:滋賀県大津市坂本1-17-1
《坂本城》
比叡山延暦寺の焼き討ちの恩賞として、光秀は滋賀県で領地を与えられました。
そして織田信長の命令により、琵琶湖のほとりに坂本城を築城し居城とした光秀ゆかりの城です。
安土城に次ぐ名城と云われ、琵琶湖に面していたので船も出入りする水城でもありました。
本能寺の変後に焼失し、後に再建されますが廃城となり、現在では敷地内だった場所に坂本城址公園などがつくられています。
住所:〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目1
その他、坂本城本丸跡、坂本城址、明智塚なども近くにあり、こちらの記事に書いています。
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《聖衆来迎寺》
聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)は、坂本城近くにあり光秀のゆかりのあるお寺です。
また聖衆来迎寺の表門は、坂本城の城門が移築されており、重要文化財に指定されています。
貴重な寺宝が伝来するお寺でもあります。
比叡山延暦寺を総本山とするお寺で、比叡山の近くにあるにもかかわらず、焼き討ちを逃れたため多くの寺宝、文化財が残りました。
聖衆来迎寺には、敵であった信長の家臣・森可成(もりよしなり)のお墓があります。
お寺の近くで戦があり、森可成が亡くなった為、手厚く葬ったと伝わっています。
なので、聖衆来迎寺には信長も手を出さなかったと云われています。
また聖衆来迎寺には、開山堂という重要文化財もあるのですが、祀られているのは聖衆来迎寺を再興した源信と天海(てんかい)だと伝わります。
天海とは南光坊天海として知られる人物です。
一説には光秀は本能寺の変の後亡くならず、天海として生き延びたとも云われている人物です。
何故、光秀ゆかりの寺に天海の名前があるのか興味深いですね。
住所:〒520-0104 大津市比叡辻2-4-17
聖衆来迎寺に訪れた記事や天海について書いた記事です。
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《盛安寺》
光秀の居城・坂本城に近い場所にある盛安寺(せいあんじ)も光秀ゆかりのお寺だとされています。
比叡山焼き討ちの際に盛安寺も焼失したそうですが、光秀が再興したそうです。
また盛安寺には「明智公陣太鼓」が保管されており、敵が迫ってくることを知らせた恩賞に賜ったそうです。
住所:〒520-0113 滋賀県大津市坂本1丁目17-1
《西教寺》
滋賀県大津市は、光秀のゆかりの地だけあり、光秀ゆかりのお寺がまだあります。
光秀の菩提寺・西教寺です。
比叡山の焼き討ちにより、西教寺も焼失しますが、光秀が復興に力を注いだとされています。
西教寺の総門は坂本城城門を移築し、西教寺の大本坊は坂本城の陣屋を寄進し再建されています。
明智一族のお墓、光秀の辞世の句の石碑などもあり、現在でも毎年光秀の追善供養が行われています。
住所:滋賀県大津市坂本5丁目13-1
西教寺に行った記事です。
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《安土城跡》
言わずと知れた織田信長の城・安土城です。
光秀の坂本城と同じく琵琶湖に面しており、安土城と坂本城間を船で行き来できたと伝わります。
光秀は安土城で徳川家康を接待したそうですが、信長を怒らせてしまったと云われています。
そして、接待役を解かれ豊臣秀吉の援軍を命じられたことが、本能寺の変の一因とも云われています。
また、安土城の本丸は本能寺の変後に焼失し、光秀の一族・明智左馬之助(別名で明智秀満)が放火したとも云われていますが定かではありません。
安土城に訪れた記事です。
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《明智左馬之助湖水渡り伝説》
「明智左馬之助の湖水渡り伝説」という逸話の元となったと云われる場所があります。
明智左馬之助(あけちさまのすけ)(左馬助)は、一説には光秀の娘婿とも、従兄弟であるとも云われており、別名で明智秀満とも呼ばれる人物です。
「明智左馬之助の湖水渡り伝説」とは、主君でもある光秀が戦に敗れ亡くなったことを知り、坂本城に向かう途中で敵に遭い、馬と共に琵琶湖を渡り坂本城に辿り着いたとする伝説です。
後の世に描かれた「明智左馬之助の湖水渡り伝説」の絵がありますが、馬が泳ぐように琵琶湖を渡っています。
坂本城に帰り着いたことを誇張して伝えた逸話でしょうか!?
流石に真実ではなさそうな逸話ですが、「明智左馬之介湖水渡りの碑」がある場所は「〒520-0806 滋賀県大津市打出浜15-15」です。
「明智左馬之助の湖水渡り伝説」の詳細や明智左馬之助とはどんな人物か書いています。
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京都府の明智光秀のゆかりの地
《亀山城跡》
光秀が織田信長に丹波平定を命じられ、丹波平定の拠点として光秀が築城したと伝わるお城・亀山城(かめやまじょう)が京都にありました。
伊勢にも亀山城があり区別するため、京都の亀山城は別名で亀岡城とも呼ばれます。
現在では、内堀跡や石垣などわずかな痕跡が残っているだけです。
宗教法人大本の本部となっているため、許可を取れば見学できるそうです。
住所:京都府亀岡市荒塚町内丸1
詳細はこちらに書いています。
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《福知山城》
丹波平定を成し遂げた光秀により築城された城・福知山城です。
光秀のゆかりの城でもありますが、明智左馬之介(明智秀満)を城主としています。
光秀の丹波経営の拠点は亀山城でした。
現在の天守は1985年(昭和60年)に復元されたもので、福知山市郷土資料館になっています。
小高い丘の上に建っており、光秀が整備したとされる城下が一望できます。
住所:京都府福知山市字内記5
光秀は丹波で善政を敷いたと云われており、丹波で慕われています。
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《勝竜寺城跡》
光秀の娘・細川ガラシャゆかりの城です。
ガラシャの義父・細川藤孝が信長から与えられた城です。
ガラシャは、藤孝の嫡男・細川忠興と結婚し勝竜寺城で新婚時代を過ごしたそうです。
しかし、後に父・光秀が本能寺の変を起こしたことで、ガラシャは勝竜寺城から離れ幽閉生活を送ることになります。
その後、勝竜寺城は荒廃し、江戸時代に修築されますが廃城になります。
現在では勝竜寺城公園として整備され、「長岡京ガラシャ祭」が毎年開催されているそうです。
所在地:京都府長岡京市勝竜寺13-1
悲運の女性として知られるガラシャが、誇り高く生きた話です。
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明智光秀の娘・細川ガラシャ~キリスト教に改宗し誇り高く迎えた最期~
《明智越》
光秀が本能寺の変の前に戦勝祈願をする為、亀岡から愛宕山へ参った際に通った道を「明智越」と呼んでいるそうです。
現在ではハイキングコースになっています。
住所:京都府亀岡市保津町付近
《愛宕神社》
本能寺の変の直前に光秀が光秀が訪れ、武運を祈りおみくじを引いたと云われています。
愛宕百韻(あたごひゃくいん)という連歌会を催し、光秀は「ときは今あめが下知(したし)る五月哉(さつきかな)」という発句を詠んだと伝わります。
その句と土岐氏が天下を取るという意味をかけて、謀反を予告したとも云われていますが、真偽は定かではありません。
※光秀は土岐氏の庶流だとする説があります。
住所:京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
その句について書いています。
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明智光秀と土岐氏~「ときは今~」の連歌に込められた想いとは~
《谷性寺》
光秀は丹波を平定した頃から、谷性寺(こくしょうじ)のご本尊・不動明王を崇(あが)め敬っていたと云います。
谷性寺は別名で光秀寺と呼ばれる位、光秀にゆかりのあるお寺だそうです。
光秀が本能寺の変に出陣する際も谷性寺で「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と願掛けしたと云われています。
そして、信長を討ち果たしたものの、山崎の戦いに敗れ光秀は亡くなります。
その際、光秀を介錯した重臣・溝尾庄兵衛は、光秀の首を家臣に託し谷性寺へ葬らせたそうです。
その後の幕末に、光秀を弔うため建てられた光秀の首塚が、谷性寺の境内に現存しています。
住所:京都府亀岡市宮前町猪倉土山39
《明智の戻り岩》
ある日、光秀は信長の命令で徳川家康の接待をしていましたが、信長の怒りをかい接待役を解かれ、羽柴秀吉の援軍を命じられたと云います。
援軍として中国へと向かう際、「明智の戻り岩」で折り返し、本能寺へ向かったという説があります。
また、この岩にはもう一つ別の説もあります。
光秀が丹波平定の際、途中の「明智の戻り岩」まできましたが、この先にいる敵が降参したことを知り引き返したとも云われています。
住所:京都府亀岡市曽我部町法貴明智岩
※亀岡市観光協会のH.P.に、平成30年の豪雨災害の影響で「明智の戻り岩」まで行くことが困難な状況であると注意書きされています。(令和元年6月)
《本能寺跡》
本能寺の変の後、本能寺は燃えましたので、現在の本能寺跡には「此附近本能寺址」の石柱と「本能寺跡」の碑石しかありません。
本能寺跡の住所:京都府京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町
碑石に書いてある内容など詳細はこちらです。
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また本能寺跡の直ぐ近くに、再建された本能寺があります。
現在の本能寺には、貴重な文化財や本能寺の変で信長に異変を伝えたという「三足の蛙」など、主に信長ゆかりの宝物が伝来し展示されています。
本能寺の住所:〒604-8243 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
現在の本能寺に行ってきました。
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《小畠川》
京都市西京区にある小畠川(こばたけがわ)は、別名で明智川とも呼ばれるそうですが光秀の逸話が残されています。
本能寺の変後、ここで落馬した光秀に親切にしてくれた村人がいたそうです。
その村人に光秀が「東の方に見える火事はどこかわかるか?
当てられたら望の物を与えよう。」と言います。
すると村人は直ぐに「本能寺」であると言い当てた為、光秀は望を聞いたそうです。
村人の望みは、この辺りの水田に必要な水で、川を造って欲しいという望みだったそうで、光秀は直ぐ着工したと云います。
しかし、この逸話は真実とは見なされていないようで、光秀が丹波平定の際に整備されたのではないかとも云われていますが定かではありません。
住所:京都府京都市西京区樫原宇治井西町
《山崎合戦古戦場跡》
本能寺の変の知らせを受けて、すぐさま駆けつけた羽柴秀吉、あまりの速さに「中国大返し」として語り継がれています。
その秀吉を迎え撃つため光秀は、小泉川を挟んで対峙したと云います。
現在では「山崎合戦古戦場」という碑石が建つだけですが、碑石は名神高速「大山崎JCT」付近にあるそうです。
高速道路下の公園の横に石碑が建っているそうです。
またここから望める「天王山」は、この戦いが語源となり、勝負の分かれ目という意味で使われています。
敗北した光秀は、坂本城を目指し落ち延びることになります。
住所:京都府乙訓郡大山崎町円明寺松田
《明智本陣跡》
山崎の合戦で光秀が本陣を置いたのは、恵解山古墳(いげのやまこふん)ではないかとされています。
別の場所が本陣だと見なされていましたが、近年の研究で有力視されるようになりました。
住所:京都府長岡京市勝竜寺30
《明智藪》
「明智藪」(あけちやぶ)は、明智光秀が亡くなった地として語られています。
山崎の合戦で敗れ落ち延びていく途中で、農民の落ち武者狩りに遭ったというのが良く云われている説です。
上の写真は「明智藪」にある説明の書いた碑石です。
その石碑によると、光秀は「信長の家臣・飯田一党の襲撃によって亡くなった」旨の記載があります。
通説と少し違いますが、地元に伝わる伝承とのことです。
「明智藪」のある場所は、小栗栖という所ですが、飯田氏は小栗栖にいた土豪とのことで、近くに館跡も残されています。
飯田家の飯田左吉兵衛という人物は、本能寺の変で亡くなったそうで、その恨みが襲った理由のようです。
農民に襲われた説より真実味はありますが、真偽は不明です。
住所:京都府京都市伏見区小栗栖小阪町
「明智藪」にも行ってきました。
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《明智光秀胴塚》
明智藪から坂本城の方向へ進んだところに光秀の胴塚があります。
民家のようなところにあり、とても分かりにくいですね。
「明智光秀之塚」と彫られた碑石ですが、地元の住民によって昭和45(1970)年に建立されたそうです。
ここに光秀の体が埋葬されているかは不明です。
住所:〒607-8218 京都府京都市山科区勧修寺御所内町36
胴塚についてです。
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光秀生誕の地との説がある岐阜県の「桔梗塚」について書いた記事です。
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荒深小五郎として明智光秀は生きた!?山県市に残る【桔梗塚】
光秀のゆかりの城・明智城跡に行った話です。
日本一大きい光秀の位牌のあるお寺に行った話です。
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