明智光秀の城として有名なのは「坂本城」や「亀山城(亀岡城)」ではないでしょうか。

どちらも光秀が築城し城主となった城です。

どのような過程で築城し、城主となり現代に至るのか、また「周山城」についても記載しています。

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明智光秀の城・坂本城

元亀2年9月12日(1571年9月30日)に、信長は宿敵であった比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き討ちにしました。

信長はこの宿敵を成敗できたことがとても嬉しかったようで、功労者である光秀に焼き討ち当日に「近江国滋賀郡」の領地を恩賞として与えたといいます。

その恩賞について、信長の一次史料である『信長公記<しんちょうこうき>』には「志賀郡明智十兵衛に下され、坂本に在地候なり」と記されています。

「志賀郡」とは「近江国滋賀郡」のことであり、光秀が一つの国を拝領したことが記されています。

また当時の光秀は、近くの宇佐山城(うさやまじょう)主であったことから、信長の家臣としては初めての「一国一城の主」という破格の待遇を得たことになります。

後に信長の命令で光秀が、近江国滋賀郡坂本に坂本城を築城したとされており、延暦寺を復興する動きもあったことから、比叡山の監視などが目的で築城されたのではないかと考えられています。

その後、光秀の居城であった宇佐山城は、光秀が坂本城を築城し移ったため廃城となったのではないかと推察されています。

後に本能寺の変が起き、秀吉との対決である山崎の戦いにて光秀が敗北して没します。

光秀の娘婿と伝わる明智秀満(ひでみつ)は、光秀の死を知ると安土城から坂本城へ移った後に、死を覚悟して一族衆を刺した後、坂本城に火を放って自害したため、坂本城は焼失してしまいます。

後に、坂本城は再建され丹羽長秀(にわ ながひで)が置かれるものの、大津(おおつ)城が築かれると坂本城は廃城となります。

大津城に坂本城の石材、資材は運ばれ使用されたため、城の痕跡がなくなり江戸時代にはどこに坂本城があったのか分からなくなっていたそうですが、1979年(昭和54年)に行われた発掘調査によって一部の構造が分かったとされています。

また現代でも、渇水によって琵琶湖の水が干上がると、いつもは水面下に残る石垣が姿を現すことがあるそうです。

そして、現在は坂本城址公園として整備され、坂本城跡に光秀の石像が置かれています。

坂本城址公園にある光秀の石像

坂本城址公園にある光秀の石像

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坂本城の詳細

坂本城の詳細は信頼性のある史料には記載が少なく、現代でも良く分からないそうですが、光秀と親交のあった公家の吉田兼見(よしだ かねみ)が記した『兼見卿記<かねみきょうき>』に坂本城のことが記されています。

『兼見卿記』よると坂本城の築城工事は約1年半以上あったことや、「天守」と「小天守」があり、「小天守」で茶会を催したことがあることなどが記されているそうです。

 

また津田宗及(つだ そうぎゅう)の茶会記によると、坂本城は琵琶湖を利用した水城であり、城内にまで船が出入りしていたことがわかる記載があるそうです。

琵琶湖を利用した城郭(じょうかく)(城のこと)は、織田信長の安土城でも知られていますが、織田信長の甥である織田信澄(のぶずみ)の大溝城(おおみぞじょう)(滋賀県高島市)、羽柴秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)も琵琶湖に接していたとされており、琵琶湖に接するように四つの城が形成されていたことになります。

船で琵琶湖を渡ればお互いの城に楽に行き来ができますので、経済や軍事を円滑に進める上で良かったのかもしれません。

※大溝城について現代でも詳細が分かっていませんが、古い史料によると、琵琶湖を利用した水城であったと考えられているそうです。

また、当時日本に滞在していたキリスト教の宣教師であるルイス・フロイスが記した『日本史』によると、坂本城は豪壮華麗な城であり、名城・安土城に次ぐ城と評されています。

フロイスの『日本史』は、主観の入った偏った見解もあるように思いますが、『日本史』に記載された通り坂本城は天下に有名であり、また壮大な城であったのではないかと思います。

 

坂本城跡のアクセス

〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3-1

<電車>

京阪電鉄石山坂本線の松ノ馬場駅から徒歩約15分

JR湖西線の比叡山坂本駅から徒歩約20分

JR湖西線の唐崎駅から徒歩約20分

<車>

名神高速道路の大津ICから25分

西大津バイパスの滋賀里ランプから4分

駐車場:坂本城址公園駐車場(無料)

 

 

 

明智光秀の城・亀山城(亀岡城)

亀山城のあった丹波国とは、現在の京都府から兵庫県の内陸部にまたがる地域です。

1575年に光秀は信長から丹波国の攻略を任され、1579年頃に丹波国の平定を成し遂げたといいます。

その際、亀山城は丹波平定の軍事拠点として築かれ、平定後は光秀に丹波国が与えられ、亀山城を拠点に丹波経営を行ったと伝わります。

また、丹波国に存在した城である「福知山城」には明智秀満(ひでみつ)、「黒井城<くろいじょう>」には斎藤 利三(さいとう としみつ)、「八上城<やかみじょう>」には明智光忠(みつただ)を置いて丹波国を統治します。

福知山城

福知山城
黒井城跡
黒井城跡

そして、後の本能寺の変の時も、光秀は亀山城から出陣したそうです。

光秀の死後も亀山城は、京都と山陰道を結ぶ要の場所であるため、秀吉や家康からも重要な城と見なされ、慶長15年1610年、徳川幕府によって近世(きんせい)の城郭(じょうかく)(城のこと)に改修されます。

その為、現在見ることのできる石垣は光秀が築いたのものではありません。

また、亀山城という名のお城は伊勢(三重県)にもありました。

同じ名前ですと紛らわしいとのことで、明治時代に京都府亀岡市と土地の名を改めて、城の名前も「亀岡城」と変更になりました。

これは江戸の幕末に起きた戊辰戦争で伊勢の亀山藩は新政府側として戦い、丹波(京都)亀山藩は幕府側であったため、敗北した丹波のほうが改名させられることになったそうです。

 

その後、廃城処分となった亀山城(亀岡城)は転売され、大正時代に新宗教「大本」が購入した後、一時は亀岡町に所有権が渡ったものの、太平洋戦争後から現在まで所有権は再び大本に戻ったため、亀山城跡を見学したい方は受付(みろく会館)にて許可をもらう必要があるそうです。

※見学料は無料で写真撮影もできるそうです。

※また、千代川小学校に亀山城(亀岡城)の城門(新御殿門)が移築されています。

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亀山城(亀岡城)跡のアクセス

京都府亀岡市荒塚町内丸1

電車:JR嵯峨野線・亀岡駅から徒歩約10分

車:京都縦貫自動車道・亀岡ICから10分

駐車場:駅周辺のコインパーキング

 

千代川小学校のアクセス

京都府亀岡市千代川町北ノ庄国主ケ森21

電車:JR山陰本線千代川駅から直線距離で438m

 

 

明智光秀の城・周山城(しゅうざんじょう)

周山城は、1579年頃に丹波平定の拠点として光秀により築城されました。

光秀の従父弟で娘婿であり重臣の明智 光忠(あけち みつただ)が城主を務めたとする説もありますが、定かではありません。

山崎の戦いで光秀が敗れると周山城は破壊され廃城となりますので、城が存在したのは約3年間であるとされています。

 

周山城跡のアクセス

京都府京都市右京区京北周山町城山

電車:JR東海道本線の京都駅からJRバスに乗り約80分、「周山」バス停で下車

車:名神高速道路の京都南ICから約65分、京都縦貫自動車道の八木東ICから約35分

駐車場:ウッディ京北・市役所京北支所の駐車場を利用

 

 

明智秀満を置いたとする福知山城についてはこの記事に詳しく記載しています。

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明智光秀が丹波の地で慕われる理由

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参考・引用・出典一覧

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