明智光秀の出生地|可児市明智荘、恵那市、山県市、多羅城、滋賀県多賀町

明智光秀の出生地は、岐阜県可児市広見瀬田が有力であると目されていますが、他に岐阜県恵那明智町、岐阜県山県市、岐阜県の多羅城、瑞浪市、滋賀県多賀町とする説もあります。

明智光秀は、謎の多い武将ですが、わっている範囲で出生地をまとめました。

目次

光秀の出生地候補の可児市にあった明智荘

明智光秀の出生地として、一番有力視されているのは、岐阜県可児市広見(かにしひろみ)瀬田(せた)です。

土岐源氏の庶流・明智氏の出自の地であると共に、光秀誕生の地との伝承が残ります。

《明智城址》

かつての可児市は、明智荘(あけちのしょう)(明智庄)という荘園があったと云われている場所で、1342年に土岐頼兼(とき よりかね)が明智城を築いたと伝わります。

この「明智荘」が明智性の由来ではないかとする説もあります。

画像明智城本丸跡の碑石
明智城址の碑石

美濃では、源氏の棟梁・土岐一族が200年守護を務めます。

武勇に優れた土岐氏は繁栄し、明智家という庶流が派生したと考えられます。

そして、光秀の叔父・明智光安が、明智城代を務めていた1556年に、齋藤義龍(高政)との戦により、明智城は落城。

現在は明智城址(明智城の跡)となっています。

光秀の生まれた年を一番有力な説である1528年だとすると、光秀が約30年間を過ごしたとされる明智城付近は、現代では明智城址散策道として整備され、春から秋にかけてハイキングコースになっています。

別名、長山城、明智長山城とも云われます。

(※明智光秀は土岐源氏の流れを汲む説が有力視されていますが、断定はされていません。

中には鍛冶屋の息子が光秀だとする説もある位です。

父も断定されておらず、明智光安が叔父であるとの説も有力視されている説です。)

《天龍寺》

可児市の明智城の近くに明智家の菩提寺である天龍(竜)寺 (てんりゅうじ)があり、明智一族の歴代のお墓光秀の位牌があります。

天龍寺の本堂
天龍寺の本堂

※光秀のお墓は複数あり、中でも滋賀県大津市にある西教寺が有名です。

毎年6月上旬には、明智光秀顕彰会が主催する「光秀供養祭」が行われています。

また、光秀の介錯を務めたと伝わる腹心の家臣・溝尾茂朝・を始め、可児左衛門(かに さえもん)、肥田玄蕃(ひだ げんば)らが、岐阜県可児市広見の出身との伝承があります。

そのことも、光秀の出生地は可児市であるという説を後押ししています。

そして、可児市の地元の方々も、光秀の出生地として自信があるそうです。

明智光秀の大河ドラマ「麒麟がくる」でも、ここ明智荘は光秀とゆかりのある土地として描かれています。

光秀の出生地候補の恵那市

他の光秀の出生地と伝わる場所は、岐阜県恵那(えな)市明智町です。

かつて、美濃国の明智荘(明智庄)があったのは、恵那市明智町ではないかとする説もあります。

岐阜県には二つの明智(知)城があり、恵那市には標高530mの山に築かれた明城がありました。

《明知城址》

城址は、岐阜県の指定史跡となっおり、別名を白鷹城、明智城ともいいます。

本曲輪・二の曲輪、石垣などの遺構や明知城の支城となる千畳敷砦(落合砦)があったところは、現在は千畳敷公園になっており、「光秀産湯の井戸」と称される井戸が残されています。

また、「光秀の母・お牧の方のお墓」や、光秀が若かりし頃に学問に精進したとの伝承がある「光秀公学問所」に建てられたという「天神神社」などもあります。

明智光秀の出生地として、名将・光秀を偲び、毎年5月3日に「光秀まつり」を開催し武者行列も行われるそうです。

万ヶ洞天神神社
天神神社の学問所

光秀が若い頃に勉強したとされる学問所が残されていてる天神神社に行った記事です。

明智光秀の学問所と天神神社

恵那市は、光秀の出生地とも云われる場所ですが、恵那市にある明城は、明遠山氏が城主を務めたお城です。

明知遠山氏は明知の名がついていますが、土岐氏の庶流・明氏とは、別の氏族とされています。

その為、恵那市を光秀の出生地とするには、反論がある一方、明知遠山氏が光秀と親戚の可能性もあるとも云われています。

また、明智氏より譲り受けたという俗説もあるそうです。

明智光秀と土岐一族に関してはこちらの記事に記載しています。

明智光秀と土岐氏~「ときは今~」の連歌に込められた想いとは~

《龍護寺》
明知城の北西山麓に明知遠山家の菩提寺・龍護寺があり、光秀の供養塔とされる御霊廟もあります。

明智光秀公の御霊廟
明智光秀の御霊廟

龍護寺に伝わる光秀が所有していたとされる「光秀の直垂」は、光秀のお祭りの日に公開されています。

恵那市は光秀の伝承が一番多いところで、現地の方は出生地と信じている方もいらっしゃるとのことですし、恵那市では光秀の出生地の旗もたっていました。

光秀誕生地の旗
恵那市の明智駅にある光秀出生地の旗

ですが、先に述べたように遠山明知氏ゆかりの地であって、土岐氏の庶流・明智氏とは関係ないとする見方が優勢のようです。

詳しくは、こちらの記事に記載しています。

明智町にある龍護寺~明智光秀の御霊廟(供養塔)と遠山氏について~

光秀の出生地候補の山県市

岐阜県山県(やまがた)市にも光秀の出生地の伝承が残されています。

伝承によると、土岐元頼(とき もとより)と中洞源左衛門の娘との間に光秀が生まれ、そして明智家の養子になったそうです。

生まれは山県市中洞とされ、光秀の産湯の井戸まで残っています。

明智光秀のうぶ湯の井戸跡
明智光秀の産湯の井戸

ですが、根拠となるものは残されておらず、伝承のみ伝わっています。

ここが出生地である可能性は、現時点では可能性は低そうです。

この地は、出生地より興味深い説として光秀の生存説が残っていることです。

生存説については別の記事にしるしています。

荒深小五郎として明智光秀は生きた!?山県市に残る【桔梗塚】

光秀出生地候補の多羅城

多羅城とは、岐阜県大垣市上石津町多良地区に存在したであろうと云われています。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、光秀は「石津郡多羅」が出生地であると書かれています。

多羅城は進士家の居城であり、光秀は進士信周(山岸信周)と明智光綱の妹の子として生まれたことになっています。

そして、明智光綱に子供がいなかった為、養子に迎えられ明智城に入ったそうです。

これは真実かもしれませんが、現時点では異説です。

明智光綱は、諸説ある光秀の父親候補の中でも有力視されている人物です。

通説では実父と見なされている明智光綱が、『明智氏一族宮城家相伝系図書』では光綱は養父となっています。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』によると、数代前から明智家と進士家は親戚関係であるそうです。

確かに光秀と進士氏には、奇妙な説もあります。

その説を要約すると、進士晴舎の子である進士藤延は、永禄の変(足利義輝が討ち取られた出来事)にて幕府方として参戦し、生き延びて明智光秀となった!?

というものです。

永禄の変で幕府方は、全滅したと云われていますが、実は生き延びた人物がいて、その進士藤延は後に明智光秀と改名したそうです。

この話は、長くなるので、気になる方はこの記事をご覧ください。

進士藤延として明智光秀は生きた!?とする説

『明智系図』にも、光秀の出生地は多羅城であると記載されています。

因みに、父は明智光隆だそうで、明智光綱と同一人物とする史料があります。

また、光秀の娘・細川ガラシャ(明智玉子)と細川忠興の間に「多羅」という名前の娘がいます。

この名前の一致は偶然でしょうか、気になります。

光秀出生地候補の瑞浪市

岐阜県瑞浪市土岐町402にある「一日市場八幡神社」。

美濃源氏・土岐一族発祥の地と云われています。

光秀の出自として有力視されている土岐源氏の一族が、初めて館を構えた場所と伝わります。

八幡神社の創建は土岐氏と云われていますが、詳しいことは不明です。

また神社内に光秀の碑石があり、2歳で明智城代の光安に引き取られたという伝承を伝えています。

産湯の井戸もあったそうですが、こちらも詳細は分かりません。

一説には、光秀の出生地はここ土岐郡高野(瑞浪市土岐町)だと伝わり、光秀の生まれた年は、享禄元年(1528年)とのことです。

光秀の出生地について書籍で調べると、瑞浪市は候補にあがらない場合が多いと感じています。

土岐氏のルーツではありますが、光秀の出生地としては、伝承という感じなので根拠には乏しいですね。

光秀の出生地候補の滋賀県多賀町

滋賀県多賀町佐目にも光秀の出生地説があります。

明智光秀の出生地といえば、岐阜県だと思っていたので驚きました。

明智光秀の大河ドラマ「麒麟がくる」が決定して、突然浮上した出生地説のようですが、あり得ない話でもなさそうです。

十兵衛屋敷跡
十兵衛屋敷跡

滋賀県多賀町佐目にある十兵衛屋敷跡は、光秀が生まれ育った場所とする口伝があるそうです。

見津(けんつ)という一族に口伝で伝えてられていたそうですが、見津という字は光秀の「みつ」の字をもらったものだと云います。

これだけですと信憑性が低いですが、『淡海温故録<おうみおんころく>』という明智光秀の出生地のことが書かれた一番古い古文書にも、光秀が多賀町佐目で生まれたと記載してあるそうです。

『淡海温故録』とは、中世の土豪や武将などについて記載されているそうですが、彦根藩の藩主に献上された文献でもあり信頼性も高いとされています。

その信頼性の高い文献と地元の口伝が一致したため、光秀の出生地として名乗りをあげたそうです。

光秀が生まれ住んでいたとされる屋敷跡は、「十兵衛屋敷跡」と呼ばれています。

光秀は、明智十兵衛光秀という名であり、普段は「十兵衛」と呼ばれていたと云われています。

にわかには信じがたい話ですが、『淡海温故録』に書かれているというところが気になりますね。

明智光秀の子孫と細川ガラシャ(明智玉子)の子孫

参考・引用・出典一覧
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