石田三成と正室との子供は、3男3女いると伝わっています。
石田三成と側室との間の子供は、全貌は明らかになっていませんが、複数人いるそうです。
この記事では、石田三成の子供達が関ヶ原の戦い後どうなったのか書いています。
石田三成の子供
敗軍の将である石田三成の子供については、多くの謎に包まれていましたが、近年では正室・皎月院との間の子供は、三男三女であると見られています。
また、石田三成の子供は、二男五女であるとも、皎月院は後妻であり二男一女の母であるとも云われます。
この記事では、現在の通説通り、正室・皎月院との間に生まれた三男三女の子供について書いています。
生れた順番は長女、次女、長男、次男、三女、三男であると伝わります。
また、石田三成には、複数人の側室がいたようですが、詳細は不明です。
物語などにでてくる「初音」という側室は、史実上の側室として確認されていません。
また、複数人の庶子がいたようですが、側室との間の子供は、史料での裏付けはなく、伝承の域を出ないものと思われます。
備中国に逃れた石田八郎、越後の高田へ落ち延びた三成の末娘、柳生家に保護されたという石田宗信、南部家に保護された石田政治など、側室の子供と伝わる庶子についても書いています。
正室の子供・三成の長女
三成と正室の初めての子供で、天正7年(1579年)頃の生まれと見られています。
石田三成の長女自身の詳細はわかっていませんが、山田勝重(山田隼人正)の正室であったと云います。
山田隼人正は、山田上野介(こうずけのすけ)の息子です。
山田上野介は、石田三成の家臣で、三成のからの書状に名前が残っています。
山田上野介の孫・喜庵は、佐和山落城前後のことや、山田家の記録が記された『佐和山落城記』を書いています。
山田上野介は佐和山城落城の際に、山田勝重(山田隼人正)に逃げ延びて菩提を弔うことを命じたと云われており、三成の長女と子供と共に逃げ延びます。
戦後は、山田上野介の妹である茶阿局の縁で、松平忠輝に仕えます。
松平忠輝は、茶阿局との間に恵まれた徳川家康の六男です。
しかし、後に大坂の陣を経て、松平忠輝は改易されてしまい、長女夫婦は隠居生活を送るようになります。
その後、長女の妹である辰姫の縁で津軽家から支援を受けて江戸で暮らしたそうです。
三成の長女は、関ヶ原の戦い後、徳川家康6男の家臣の妻として生き延びていました。
正室の子供・小石殿
三成の子供で二番目に生まれたのは、次女です。
次女は、「小石殿」と呼ばれていたそうですが、生誕、死没も不明です。
関ヶ原の戦い以前い、北政所に仕えていたようです。
小石殿の記録はあまりありませんが、小石殿の夫の記録が残っていますので、夫の足跡を辿りながら小石殿の生涯を見てみましょう。
三成の子供・小石殿の夫は、蒲生家の家臣・岡重政と伝わります。
夫婦となった時期は、定かではありませんが、慶長4(1599年)頃とする説があります。
岡重政は、三成の子供の夫という立場ですが、蒲生家の家老に取り立てられています。
しかし、主君・蒲生秀行が亡くなり、その嫡男・忠郷が後を継ぎます。
若干10歳の忠郷の後見についた徳川家康の三女と岡重政が対立することになり、岡重政は切腹処分になってしまいます。
その後、小石殿は、蒲生家を離れ福井県へ移り住み、そこで没したと伝わります。
石田三成の子供・小石殿は、関ヶ原の戦い後、蒲生家家老の妻になっていました。
因みに、小石殿の孫・お振りの方は、徳川家光の側室になっています。
正室の子供・石田重家
石田三成は三人目の子供で長男(嫡男説あり)に恵まれます。
名前は、石田重家といい、生年は天正11年(1583年)から天正15年(1587年)の間ではないかと云われています。
石田重家が関ヶ原の戦いの頃、何処にいたのかは諸説ありますが、大坂城か佐和山城に居たと伝わります。
三成の敗北を知り逃れた重家は、京都の妙心寺寿聖院へ入ります。
妙心寺寿聖院には、伯蒲慧稜(はくほえりょう)という三成が帰依した僧侶の一人がいましたので、伯蒲慧稜を頼ったそうです。
伯蒲慧稜が届け出し、出家を条件に許されたといいます。
出家後は宗享(そうきょう)と称し、石田三成一族の供養塔を建て菩提を弔います。
元和9年(1623年)、寿聖院三世を継承しています。
そして重家は、『霊牌日鑑』という石田家の記録を残しています。
重家は貞享3年(1686年)に没しますが、100歳~104?という長寿を全うしました。
三成の子供、しかも男子であるにもかかわらず、生き延びた重家ですが、徳川家ゆかりの人物に保護を受けていたとする説があります。
重家の晩年は、徳川家康の弟の孫・岡部宣勝の保護を受け暮らしたそうです。
岡部宣勝は富宇姫の従兄弟ですが、富宇姫の夫は三成の孫である津軽信義ですので、この縁によるものではないでしょうか。
また伝承になりますが、重家は関ヶ原戦い当時子供がいて、その子供も徳川家から保護を受けていたと云われています。
その子供の名前は、石田直重といい、徳川家康の次男・結城秀康の保護下にあったそうです。
石田三成の長男・石田重家は、関ヶ原の戦い後、出家して助命され長生きしていました。
正室の子供・石田重成
石田三成の四人目の子供は、次男の石田重成(杉山源吾)です。
重成は1588年頃に生まれ、関ヶ原の戦い当時は、豊臣秀頼の小姓をしていました。
大坂で父・三成の敗北を知り、三成に恩義のあった津軽家の長男・津軽信建の導きで、津軽へ落ち延びます。
この津軽家は三成と親しい仲で、弘前藩主を務める家柄でもあります。
重成はそのまま津軽家に保護され、杉山源吾と変名をして隠れるように暮らします。
杉山源吾(石田重成)は、朽木氏の娘との間に二人の男子を、継室である柘植平干左衛門の娘との間には一人の男子、合計三人の子供に恵まれます。
慶長15年(1610年)頃、源吾の妹・辰姫が弘前藩主・津軽信枚に輿入れします。
重成は、輿入れした辰姫の世話役として、傍で暮らしたとも云われています。
そして辰姫が亡くなった後、江戸に移り住み、寛永18年(1641年)1頃没したとされます。
また、辰姫の世話役はしておらず、辰姫が輿入れした頃に没したという説もあります。
三成子供・石田重成(杉山源吾)は、関ヶ原の戦い後、津軽で隠棲しました。
正室の子供・辰姫
石田三成の五人目の子供として生まれたのは、三女の辰子です。
天正20年(1592年)頃に誕生し、辰姫という称されています。
辰姫は関ヶ原の戦いより前に、豊臣秀吉の正室・北政所の養女になっています。
やがて、辰姫は、弘前藩2代藩主・津軽信枚に正室として嫁ぎます。
嫁いだ時期は、慶長15年(1610年)頃と思われますが、定かではありません。
しかし、辰姫輿入れを知った徳川家は、慶長18年(1613年)、家康の養女・満天姫を、津軽信枚に輿入れさせます。
これにより、満天姫が正室になり、辰姫は側室に降格になってしまいます。
また時期はわかりませんが、辰姫は弘前ではなく、上州大館の地で暮らすようになります。
上州大館は現在の群馬県ですが、津軽家の領地です。
辰姫は夫・信枚と離れ離れになってしまいますが、信枚が参勤交代の時に、大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、長男である平蔵(後の信義)が生まれました。
それを知った満天姫は、辰姫親子を幽閉状態にし、元和9年(1623年)に幽閉状態の中で、辰姫は病没しました。
津軽信枚の次男は、満天姫の子・信英であり、三成の子供が生んだ信義を藩主の跡継ぎにすることは苦労したようです。
しかし、信枚の強い熱意により、津軽信義が三代目藩主になりました。
三成子供・辰姫は、津軽信枚に嫁ぎ、3代目藩主の生母になりました。
正室の子供・佐吉
石田三成と正室の六人目の子供は佐吉です。
佐吉は石田三成の幼名として知られていますが、同じ幼名を子供にも付けています。
関ヶ原の戦い当時、佐吉は六歳と推定でき、元服後の名前は伝わっていません。
佐吉は関ヶ原の戦いの頃、三成の居城である佐和山城にいましたが、徳川方に攻め込まれてしまいます。
石田方は奮戦しましたが、三成の敗北を知り徳川方と開城交渉を整えたそうです。
ですが、石田方に内通者がいたり、徳川方の不義によって、三成の父・正継など多くの一族が自害する悲劇が起きました。
その行為に怒ったのは、三成の兄・正澄の家臣・津田清幽(つだ きよふか/せいゆう)という人物です。
津田清幽は、もとは徳川家の家臣という立場の人物ですが、徳川家康に直談判をし、佐吉の助命を認めさたといいます。
その後、津田清幽と木食応其(もくじきおうご)という僧侶の手引きにより、佐吉は出家します。
そして木食応其は、佐吉に深長坊清幽という名を与えます。
津田清幽への恩を忘れないように、「清幽」の字をもらい名付けたそうです。
その後、佐吉は、甲斐の河浦山薬王寺16世の住職になり、延宝4年(1676年)に没したそうです。
石田三成の子供・佐吉は、出家して助命されていました。
ここまでが石田三成と正室との間の子供です。
側室の子供・八郎
先に述べたように、石田三成の側室の子供は、史上と認められていません。
側室の子供、全員、どこまで本当か不明であることをご了承ください。
『新説 石田三成ー備中石田家との関係ー』によると、関ケ原の戦い当時、推定7歳の「八郎」という子供がいたそうです。
Wikipediaによると石田三成の次男だそうですが、正室との間に石田重成という次男がいますので、おそらく側室との間の子供になりそうです。
ですが、『新説 石田三成ー備中石田家との関係ー』によると、次男ではなく治男という文字になっています。
書籍の中で、八郎の母は、備中国の石井氏かその一族の者ではないかと推理しています。
八郎は、父・三成の敗報に接し、佐和山城から備中国吉田村(笠岡市)に帰国したそうです。
本当に石田三成の子供かは不明ですが、石田八郎という人物は備中国吉田村に存在したそうです。
三成と側室子供・八郎は、関ヶ原の戦い後、備中国に逃れていた!?
側室の子供・石田宗信
石田三成と側室の子供に、石田宗信(むねのぶ)という方がいるそうです。
石田宗信は、石田将監宗信とも表記され、名前は不明ですが妹もいるそうです。
関ヶ原の戦い後、柳生家に1年間保護され、奥州相馬に移住したと伝わります。
後に相馬義胤に禄を与えられ、幕末には城下武士として優遇されたそうです。
その石田家には、「柳生一族に保護されたことと、決して徳川家を恨んではいけない」との伝承が末裔の方に伝わっているそうです。
三成の重臣である島左近は、剣豪・柳生宗厳と親しい間柄であるそうです。
島左近の娘は、剣術家・柳生利厳の継室となっていて親戚でもあります。
三成の子が柳生家に保護されたというのは十分あり得る話だと思いますが、真偽は不明です。
参考書籍『石田三成とその子孫』、『石田三成の生涯』、『悲劇の智将 石田三成』
三成の側室の子供・石田宗信は、関ヶ原の戦い後、柳生家に保護された!?
側室の子供・石田千代丸
三成と側室の子供の伝承が伝わるお寺があるそうです。
それは、大阪府池田市鉢塚2-7-26にある「一乗院」というお寺です。
三成遺児は、石田千代丸という名前で、乳母によって軍旗に包まれて、里である尊鉢村へ落ち延びたそうです。
その後、石田四郎右衛門と名乗り正保3年(1646年)亡くなったとされています。
寛政13年~享和元年(1801年)に子孫と仰る大和屋彦兵衛が、軍旗を菩提寺の一乗院に収めたと伝わるそうです。
一乗院の境内には、一枚岩で作られた「石田三成軍旗塚」という碑石があります。
この辺りは現在でも石田性が多いそうです。
石田千代丸は、関ヶ原の戦い後、軍旗に包まれて尊鉢村へ落ち延びた!?
三成と側室の子供・三成の末娘
『石田三成の末裔として育った』を書いた澁谷理恵子氏の家には、三成の末娘が落ち延びた伝承があるそうです。
大坂落城の際、乳母に抱かれて、その里である越後の高田へ落ち延び、後に三条の地(新潟県の三条市)に定着したそうです。
三成の末娘は、越後高田へ落ち延びた!?
三成と側室の子供・佐藤三益の妻
佐藤三益に嫁いだ三成の子供がいるそうです。
正室の子供ではないので側室の子供だと思います。
後に、紀州徳川当主・徳川頼宜から、扶持米を送られた旨の記載があります。
※参考にした書籍が見つかりましたら書きます。
石田三成の書籍が多く、どの本だったか発掘できません。
側室の子供・石田政治
関ヶ原の戦いの後、三成の子供・石田政治(まさはる)が盛岡藩・七戸に逃れてきて、南部家に保護されたそうです。
近江にあった大塚屋・村井氏も保護してくださったようです。
三成の遺児・石田政治は、南部家に保護された!?
三成と側室の子供・名前不明
若江八人衆の一人・高野越中(三成の旧臣)の息子が、三成の庶子を連れて武蔵指扇に逃れたようです。
その後、指扇領の旗本になった山内一唯(山内一豊の甥)は、石田三成の庶子を家臣にしたそうです。
参考書籍『石田三成とその子孫』
三成と側室の子供・名前不明
側室の子供が、淡路国洲本市の納地区に逃れたとの伝承があるそうです。
現在の兵庫県になりますが、三成の供養塔も現存しているそうです。
三成と側室の孫が川口市に
子供でなく孫ですが、一緒に紹介させていただきます。
関ヶ原の合戦で敗れた石田三成の側室の孫が、姥に守られて埼玉県川口市(旧鳩ケ谷)落ち延びたそうです。
三成の孫は無事に成長し、子孫はこの地に住み続けたそうです。
この話は伝説のようで、どこまで本当か不明です。
私の持っている石田三成の書籍には、この話は掲載されていません。
石田三成の孫の伝説がある、埼玉県 川口市辻1112の石田神社に行ってきました。
子孫と思しき方がお参りにいらっしゃるそうですが、一般人は入れないようになっています。
神社はブロック塀で囲まれ、さらに鉄の棒?で入れないように柵が作られています。
なので、外から写真を撮りました。
鳥居の上には、石田神社と書かれた札が掲げられています。
写真で分かるように撮影したかったのですが、どうしても影になってしまいました。
小さくて古びた神社で、言われなかったら石田三成の孫が関係のある神社とは思わないと思います。
私は、この辺りを何度も車で通ったことがありますが、石田性が多くて民家、お店、歯医者など「石田」さんが沢山いらっしゃるようです。
筆者の所感
今でこそ、石田三成の子孫と聞くと羨ましい?かもしれませんが、江戸時代に十字架を背負ったように生きていくのは、想像以上に大変だったのではないでしょうか。
神君・家康に逆らった逆賊として、石田三成の実像は歪められて伝わっていました。
昭和に入っても、三成の子孫達は、三成の子孫と知られないように、当主など一部の人に口伝し、ひっそりと生きた家もあるそうです。
なので、本当の縁者でなければ、そのような伝承は残らない、わざわざ肩身の狭い思いはしないと個人的には思います。
ただ、三成の子供でなく、三成の孫や兄弟の子供なども混ざっている可能性は否定できないように思います。
参考・引用・出典一覧 戦国時代ランキング
コメント
コメント一覧 (2件)
石田光成「三成」を叔父とする明石則実の子供「五右衛門」との関係について知りたい❗
こんばんは。
明石則実の子供「五右衛門」と石田三成の関係を示す文献は所持していません。
新たに情報を得た際は、サイトに記載いたします。
よろしくお願いいたします。