徳川家康は若い頃から戦に次ぐ戦の日々を送り、生涯で51回の戦を経験したと言われています。
徳川家康は武田信玄・武田勝頼・豊臣秀吉など強敵と渡り合った経験を糧に戦国の覇者に上り詰めます。
ここでは、徳川家康の戦歴や戦績について、徳川家康の主な戦い一覧の表を掲載しています。
徳川家康の戦歴や戦績
徳川家康の生涯の戦いの数は51回で、戦績は「51戦31勝13敗7分」です。
参考までに、圧倒的な戦績から「軍神」と呼ばれる上杉謙信ですと「61勝2敗8分」か「43勝2敗25分」で、「甲斐の虎」こと武田信玄ですと「72戦49勝3敗20分」です。
三河の小領主の嫡男として生まれた徳川家康は、尾張の織田家や駿府の今川家の人質として幼少期を過ごしています。
弱小大名の出身である家康は、今川義元・織田信長・豊臣秀吉らの戦に従軍し、戦に次ぐ戦の日々を送っています。
51戦と戦の多い家康ですが、桶狭間の戦い・姉川の戦い・小田原征伐など従軍した戦も多く、家康自身が軍勢を采配し敗北したのは、三方ヶ原の戦いと犬居城攻めの2回だけだそうです。
特に家康の若い頃は、圧倒的な武田信玄の軍事力に苦しめられていた印象が強いですが、戦略家や戦上手といった評価があります。
軍事力で勝る武田家に対し、信長の援軍と共に長篠の戦いに勝利したり、関ヶ原の戦いにおいては事前に寝返り工作をするなど、長年強敵と戦い続け生き残った家康の強さを感じます。
また、徳川家康が大敗北した三方ヶ原の戦いを応用して、あの関ヶ原の戦いに勝利したとの説もあり、敗北から学べる凄さもあったかもしれません。
この記事では、徳川家康の主な戦歴一番下に家康の戦一覧表を載せています。
家康の戦1 寺部城の戦い
永禄元年(1558年)、徳川家康(当時は松平元康)は、17歳(数え年)で初陣を飾ります。
徳川家康(松平元康)は、今川義元に属し、今川氏の下で元服しています。
家康(元康)は、今川義元から今川氏を離反した鈴木重辰を攻めるよう命じられ、一度、岡崎城に戻り家臣を率いて、鈴木重辰の居城・加茂郡寺部城へ向かいます。
後詰めを警戒した家康(元康)は、先に周辺の城を攻略してから、寺部城を火攻めを用いて勝利に導きます。
徳川家康(元康)の姿に家臣達は涙を流して喜んだそうです。
家康の戦2 丸根砦攻め(桶狭間の戦い)
永禄3年(1560年)、家康(元康)19歳の時に桶狭間の戦いが起きます。
今川方として従軍した家康(元康)は、鵜殿長照が守る大高城に兵糧を届けます。
桶狭間の戦いの前哨戦と位置付けられている兵糧運び入れを成功させ、家康(元康)は賞賛されています。
一方、織田信長は大高城に圧力を加えるために、周辺に丸根砦と鷲津砦を築いています。
大高城に夜兵糧を届けた家康(元康)は、翌明け方に丸根砦を攻めて、全滅させたと言われています。
家康は大高城に入り人馬を休めていると、叔父・水野信元(織田方)が派遣した使者がやってきて、今川義元討死したことを知ります。
その後、家康(元康)は桶狭間の戦いを機に今川氏から独立していきます。
家康の戦3 上ノ郷城攻め
永禄5年(1562年)、松平家康(元康)は、自ら軍勢を率いて今川一門で重臣の鵜殿長照が城主を務める上ノ郷城を攻めます。
堅城である上ノ郷城を攻めあぐねた家康は、甲賀衆を用いて上ノ郷城内に火を放って、混乱に陥れます。
その隙に上ノ郷城に攻め入り落城させ、鵜殿長照を討ち取ります。
松平家康(元康)は、鵜殿長照の子である氏長と氏次を生け捕りにし、今川氏の人質となっていた瀬名姫(築山殿)・竹千代(松平信康)・亀姫ら妻子を返還するよう求め人質交換が成立しています。
家康の戦4 三河一向一揆
家康(元康)が今川氏から独立したことは三河の国人にも影響を与え、家康(元康)に同調して今川氏と対立する松平派と反松平派分かれ三河は混乱していきます。
そのような中、酒井忠尚や吉良義昭が家康(元康)から離反し、また、一向宗の門徒らが蜂起して、三河一向一揆が勃発します(永禄6年(1563年))。
家康(元康)の家臣には一向宗の門徒も多く夏目吉信(広次)・渡辺守綱・本多正信などは、一揆側に加担し、西三河の勢力を二分するる戦いとなります。
家康(元康)が一向一揆に苦戦している中、叔父・水野信元が援軍に駆け付け小豆坂の戦いで一揆方を退けています。
優位に立った家康(元康)は、永禄7年(1564年)水野信元の仲介により、和睦を決意し一揆の解体に成功します。
平定時の徳川家康(当時は松平家康)は、数え年で23歳です。
西三河から一揆の勢力を排除した家康は、永禄9年(1566)年に三河を統一し「徳川」に改姓しています。
家康の戦5 掛川城攻め(遠江侵攻)
永禄11年(1568年)、徳川家康は武田信玄と今川領分割を約束して同盟を結びます。
徳川家康は三河から今川領である遠江に侵攻し、武田信玄は甲斐から駿河に侵攻します。
今川氏真は駿府の今川館を信玄に攻められて潰走し、重臣である朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃げ込んで再起を図ります。
徳川家康は掛川城を大軍で包囲しますが、要害である掛川城を攻め落とすのは難しく、半年近くの籠城戦となります。
長期化する中、武田信玄が遠江への圧力を強めたため、家康は氏真と和睦を決意します。
永禄12年(1569年)、今川氏真は掛川城を開城し、家臣の助命を約束させています。
また、武田勢力を駆逐した後に駿河一国を氏真に返す約束があったようですが、履行されることはなく、今川氏が大名に返り咲くことはありませんでした。
徳川家康28歳です。
家康の戦6 金ヶ崎の戦い
元亀元年(1570年)、織田信長は朝倉義景を討伐するため越前国へ進軍し、徳川家康は信長の援軍として従軍し、織田・徳川連合軍は、順調に朝倉方の城を攻略します。
織田信長は朝倉義景の同盟者である北近江の浅井長政に妹・お市の方を嫁がせ、同盟を確固たるものにしていました。
ですが、浅井長政が裏切ったとの一報が入り、浅井軍に退路を塞がれ挟み撃ちにあう危機に追い込まれたため、織田信長は明智光秀や羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らに殿を任せて退却します。
織田信長は僅かな供回りと共に朽木峠を通過して京都へ帰還し、徳川家康は京都を経て岡崎に帰還しています。
また、殿軍に徳川家康も加わったとの説もありますが、一次史料には家康の名はなく、詳しい動きは分かりません。
徳川家康29歳です。
家康の戦7 姉川の戦い
同年の元亀元年(1570年)、金ヶ崎の戦いから岐阜に戻って体制を整えた信長は、浅井征伐の為に家康と共に北近江に攻め込みます。
近江国姉川を隔てて織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が対峙します。
徳川軍が真向いに布陣している朝倉軍に攻撃し、その一方、浅井軍が織田軍に向かって突進します。
信長を裏切り存亡がかかった浅井軍の士気は高く、信長の本陣にまであと少しというところまで迫ります。
ですが、徳川四天王の一人である榊原康政が朝倉軍の側面を突いて、やがて朝倉軍、浅井軍と崩れ退却していきました。
織田・徳川連合軍の勝利で終えた姉川の戦いですが、朝倉氏・浅井氏に壊滅的なダメージを与えたわけではなく、この後も3年間、信長との戦を続けています。
家康の戦8 一言坂の戦い(西上作戦)
元亀元年(1570年)、徳川家康は武田信玄と断交し、信玄の宿敵・上杉謙信と盟約を結んでいます。
元亀3年(1572年)、武田信玄は「三ヶ年の鬱憤」を晴らすとの理由で、武田軍を三つに分けて、徳川領である遠江国・三河国へ侵攻します(家康31歳)。
山県昌景(武田四天王の一人)率いる武田軍は、信濃から東三河に侵攻し長篠城を攻略します。
一方、武田信玄率いる本隊は、遠江に入って小笠原氏が守備する高天神城を降伏させ、徳川氏の拠点である二俣城に迫ります。
徳川家康は武田軍を迎え撃つため出陣します。
しかし、本多忠勝・内藤信成ら徳川偵察隊が武田軍の先鋒と遭遇してしまい、徳川偵察隊は報告するために撤退しますが、一言坂で追いつかれます。
徳川軍の望まない形で開戦することになり、徳川家康を先に逃がし、殿を務めた本多忠勝・大久保忠佐らは武田軍と激戦になったと言われています。
武田軍の圧勝で終える一言坂の戦いですが、死兵と化した本多忠勝の奮戦もあり、徳川家康を無事逃がしています。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌は、一言坂の戦いの後に登場しています。
家康の戦9 二俣城の戦い(西上作戦)
一言坂での敗走により、徳川家康は浜松城に退却し、二俣城は孤立無援となります。
二俣城は武田勝頼を主力とする武田軍に包囲され、二俣城を守る中根正照は、二か月間籠城し抵抗しています。
攻めあぐんだ武田軍は、二俣城の水の手を絶つ方法を考え成功させたため、二俣城は水の欠乏に苦しみ遂に開城しています。
徳川方の降伏により二俣城は武田方の城となります。
家康の戦10 三方原の戦い(西上作戦)
二俣城落城の少し前に織田の援軍が派遣され、佐久間信盛・水野信元・平手汎秀らが浜松に到着します(派遣武将は諸説有)。
織田信長自身も別の戦を抱えていた為十分な援軍は送れず、またハッキリした兵数は不明ですが、3千余人との説があります。
武田信玄率いる武田本隊は、徳川家康の居城・浜松城に向けて進軍し、浜松城に迫りますが、城下に進むことなく三方原台地へ転進します。
徳川家康は信長からの援軍を加えた連合軍を率いて出陣し、武田軍の後を追います。
武田軍を背後から襲おうと出撃しましたが、武田軍は三方原で徳川軍を待ち伏せしており、武田軍の猛攻により織田・徳川連合軍は壊走しています。
徳川軍は鳥居忠広・本多忠真・夏目吉信(広次)・鈴木久三郎・中根正照ら有力家臣を失い、織田軍は平手汎秀が戦死しています。
徳川家康は命からがら浜松城に逃げ帰りますが、人生最大の危機と言われる位の大敗北を喫しています。
元亀4年(1573年)、武田信玄は徳川領の侵攻を停止し、甲府へ帰還する途中で病没しています。
家康の戦11 第一次高天神城の戦い
天正2年(1574年)、信玄の後を継いだ武田勝頼は、徳川方の城となっていた高天神城を攻略すべく出陣します。
高天神城の城主・小笠原氏助(信興)は、徳川家康に援軍要請をしますが、兵力に劣る徳川氏は単独で援軍を出す力がなく、信長に援軍を要請します。
信長は急遽帰還して軍勢を整えますが、各地の一向一揆の対処等があり、援軍の対応までに時間がかかってしまいます。
高天神城救援のため、信長・信忠父子がようやく遠江今切で渡海しようとしていたところで、高天神城が開城したとの一報を受け、三河の吉田に引き揚げます。
高天神城の小笠原氏は、2か月ほど籠城し徐々に追い詰められ、全く援軍も来ないことに絶望して降伏したと言われています。
信長と合流するため吉田に出向いた徳川家康は、信長から兵糧代として二人でやっと持ち上がる量の黄金を贈られています。
第一次高天神城の戦いの敗北により、高天神城は武田方の城となり、また援軍を派遣できなかった織田・徳川氏は名声を失います(家康33歳)。
家康の戦12 犬居城攻め
同年の天正2年(1574年)に起きた遠江の第一次犬居城攻めは、三方ケ原の戦いに続く家康の負け戦です。
徳川家康は、武田方に寝返った犬居城主・天野氏を攻めますが、気田川の洪水により兵糧が無くなります。
徳川家康は退却を余儀なくされますが、追撃にあって敗走しています。
一度敗北しますが、翌年の長篠の戦いに勝利し、本格的な犬居城攻めをし、天正4年(1576年)に勝利、天野氏は甲斐の武田氏を頼って落ち延びます。
家康の戦13 長篠の戦い
元亀4年(1573年)、徳川家康は奥三河の有力国衆であった奥平氏を味方に引き入れる為に、家康の長女・亀姫と奥平貞昌(信昌)を婚約させます。
徳川家康は、奥三河の要である長篠城を包囲し降伏開城させ、奥平貞昌(信昌)に守らせています。
天正3年(1575年)、武田勝頼は15,000の大軍で、奥平貞昌ら約500の兵で守る長篠城を包囲しています。
長篠城の密使・鳥居強右衛門は、徳川家康のいる岡崎城に到着して援軍を要請し、織田・徳川連合軍の援軍が来るとの朗報を携えて長篠城へ戻ろうとします。
しかし、途中で武田軍に捕えられてしまい、援軍は来ないから降伏するよう味方の城兵に言うよう命令されます。
命令に応じるふりをした鳥居強右衛門は、味方に援軍が来る旨叫び伝えた為、怒った武田勝頼の命令により磔にされてしまいます。
鳥居強右衛門の決死の報告に、長篠城兵は士気を奮い立たせ、その後援軍が到着するまで城を守り抜きます。
一方、信長軍と家康軍は長篠城から約2.5㎞離れた設楽原に着陣し、馬防柵を築いて武田の騎馬隊を迎え撃つ準備をします。
織田信長到着の一報を受けた武田方は軍議を開き、武田勝頼は重臣らの反対を押し切って決戦に挑むことにします。
また、決戦前の夜、酒井忠次(徳川四天王)が率いる別動隊がひそかに出陣し、武田方の砦を攻撃し攪乱しています。
長篠の戦い当日、忠次の別動隊は武田方の砦を落とし、長篠城の解放を成功させ、武田本隊の退路を断っています。
一方、設楽原決戦では、武田軍は馬防柵を突破できないまま甚大な被害を出し、譜代家老の内藤昌秀、山県昌景、馬場信春ら名だたる武将を失います。
壊滅的な大敗北を喫した武田勝頼は、僅かな手勢に守れて、甲斐へ退却しています。
長篠の戦いを大勝利で終えた徳川家康は、三河・遠江戦線を優位に進めて行くことになります(家康34歳)。
家康の戦14 第二次高天神城の戦い
長篠の戦いで武田勝頼に会心の大勝利をおさめた徳川家康は、遠江方面の反攻を開始し、光明城・二俣城・犬居城を攻略します。
更に、諏訪原城を奪ったことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じることに成功します。
その後も、高天神城への補給路を巡って、徳川方と武田方間で争いになっています。
徳川方は高天神城を包囲するため六つの砦を築き、高天神城への補給路は遮断した結果、高天神城の城兵は草木をかじる程飢えに苦しみます。
高天神城の城将・岡部元信は、武田勝頼に援軍を要請しますが、援軍は来ません。
天正9年(1581年)、岡部元信は生き残っていた城兵を率いて、決死の突撃を敢行しましたが、730余に及ぶ城兵と共に玉砕しています(家康40歳)。
徳川家康は、高天神城を攻略し遠江を平定、味方を助けようとしなかった武田氏の威信は致命的に失墜します。
家康の戦15 武田征伐「天目山の戦い」
天正10年(1582年)、信濃の国人で武田信玄の娘婿であった木曾義昌が、勝頼から信長に鞍替えします。
木曾義昌の離反を知った武田勝頼は、激怒して木曾征伐軍を派遣し、織田信長は木曾義昌を救援する為、武田征伐を開始します。
総大将・織田信忠率いる織田軍は信濃から、徳川軍は駿河から武田領に侵攻します。
徳川家康は、武田氏一族の穴山梅雪(信君)を、武田氏の名跡継承や甲斐一国を領することを条件に武田氏から離反させています。
徳川家康は、穴山梅雪(信君)に案内させて甲斐に侵攻します。
その後、武田勝頼は新府城に火をかけて、小山田信茂(武田二十四将の一人)の岩殿城へ移ろうとしますが、信茂が離反します。
この頃、甲府入りした織田信忠は、武田氏一門・親類や重臣を探して命を奪っています。
信茂離反により、岩殿城入りを諦めた武田勝頼一行は、武田氏ゆかりの地である天目山へ追い詰められていきます。
天目山にて織田軍の滝川一益隊に捕らえられた勝頼一行は、僅かな数十人の手勢で奮戦しますが多勢に無勢で敗北します。
武田勝頼は、正室の北条夫人、嫡男・信勝と共に自害して果て武田宗家は終焉しています(家康41歳)。
家康の戦16 若御子対陣(天正壬午の乱)
天正10年(1582年)、徳川家康は武田征伐の戦功により、旧武田領の内、駿河を信長から与えられ、安土城で信長の歓待を受けます。
その後、徳川家康は信長に勧められ京都や奈良を見物しています。
家康が僅かな供廻と共に堺に滞在中していた未明、本能寺の変が起きて織田信長が亡くなります。
信長の同盟者である家康の身にも危険が迫るかもしれない状況になりましたが、家康は僅か34名の家臣に守られて三河に帰還しています。
その後、織田氏の領土となっていた旧武田領を巡って、徳川氏・北条氏・上杉氏の間で争いが起きます(天正壬午の乱)。
特に、徳川氏と北条氏は激戦となり(若御子対陣)、家康は甲斐の新府城に本陣をおいて城砦に布陣します。
一方の北条氏直は、甲斐若神子城に本陣をおいて近くの城砦に布陣し、徳川軍と対峙しています。
徳川軍は黒駒合戦で勝利し、有力国人の真田昌幸が北条氏を離反して徳川家康につくなど、家康優位に戦が進みます。
同年10月、甲斐・信濃の殆どが家康に上野は北条領にし、家康の次女・督姫を北条氏直に嫁がせることで和睦しています(家康41歳)。
家康の戦17 小牧・長久手の戦い
本能寺の変後の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、信長の仇である明智光秀を破り、織田家筆頭家老であった柴田勝家を滅ぼし、信長の三男・信孝を自害に追い込んで天下人への階段を上っていました。
天正12年(1584年)、信長の次男・信雄と羽柴秀吉が手切れとなり、信雄が家康に助けを求めます(家康43歳)。
織田信雄は、徳川家康に相談した上で親秀吉派の三家老の命を奪います。
まずは羽柴方に寝返った池田恒興が犬山城を占拠し、続く羽黒の戦いでは徳川軍の松平家忠・酒井忠次らの攻撃により、羽柴方の森長可勢を破ります。
徳川家康は小牧山城を占拠し、周辺の砦の修築や土塁を築いて小牧山城を強化改修しています。
一方、羽柴秀吉は犬山に着陣した後、小牧山城北東の楽田に到着しています。
両軍が砦や土塁により防衛強化をしており、戦況は膠着状態に陥ります。
そこで羽柴秀吉は、徳川軍が小牧山城を守れなくなるよう、家康の拠点である三河を奇襲しようと羽柴秀次を主将とする別動隊を三河へ進軍させます。
羽柴秀次らの動きを察知した家康も別動隊を出発させています。
そして羽柴秀次勢が白山林で休んでいたところ、後方から徳川方の水野氏・丹羽氏、徳川軍の大須賀康高勢が急襲し、左翼から榊原康政勢が突撃すると秀次勢は壊滅状態になります。
羽柴秀次勢より先にいた堀秀政勢(秀吉方)の元に、秀次勢の敗北の一報が届いて引き返し、堀秀政は秀次勢の敗残兵と共に桧ヶ根で、徳川軍の榊原・大須賀・水野・丹羽勢を撃退します。
徳川・織田本隊も出発し、堀秀政勢と池田恒興・森長可勢との間を分断するように進軍します。
家康の馬印である金扇を見た堀秀政は、戦況が不利であると思って戦線を離脱してしまい、池田恒興・森長可勢は先行したまま取り残される結果となり、徳川・織田軍との決戦が避けられなくなります。
徳川家康・井伊直政勢・織田信雄勢は、羽柴方の池田恒興勢・森長可勢が激突して、一進一退の攻防が続きます。
森長可が眉間に銃弾を受けて亡くなり森勢が崩れ始め、池田恒興は体制を立て直そうとしますが足に銃弾を受け、永井直勝に討たれます。
池田・森勢は壊滅して徳川・織田軍が勝利し、江戸時代に「家康の天下は関ヶ原にあらず、小牧にあり」と褒め称えられています。
徳川家康は局地戦での勝利を収めましたが、秀吉から圧力を加えられ続けた織田信雄が家康に無断で単独講和を結んでしまいます。
織田信雄を助けるという大義名分を失った家康は、撤兵するしかなく戦略的な敗北をし、次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子(人質)としています。
家康の戦18 第一次上田合戦
徳川家康は、於義丸(後の結城秀康)を秀吉の元へ送りましたが、秀吉に臣従はしていません。
背後の安全を守る為にも、相模国の北条氏政との同盟関係が重要になります。
徳川氏と北条氏との同盟条件に上野国沼田の引き渡しがありますが、徳川家康に属していた真田昌幸が領有しています。
徳川家康は真田昌幸に沼田の譲渡を要求しますが、昌幸は「家康に貰った土地ではない」上に「相応の替地が宛がわれない」ことを理由に拒否し上杉景勝を頼ります。
天正13年(1585年)、徳川家康は「真田表裏」などと激怒し、鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら7,000人以上を真田昌幸の居城・上田城に派兵します(家康44歳)。
真田昌幸はわずか2,000の兵力で領民と共に総力戦で抵抗し、得意の計略で徳川軍を散々に翻弄して、徳川軍に1300人もの死傷者を出させており、一方の真田軍は40人ほどの犠牲であったと言われています。
それでも、徳川軍は上田城の攻略を諦めず、援軍も出しましたが、突然退却を始めます。
真田昌幸は困惑したようですが、徳川家康の懐刀・石川数正が秀吉に寝返るという緊急事態が発生していました。
こうして、第一次上田合戦は徳川軍の大敗となり、真田昌幸は独立大名としての道を歩みます。
家康の戦19 小田原征伐
天正14年(1586年)、徳川家康は秀吉への臣従を拒み続けましたが、秀吉の妹・朝日姫を正室として迎え入れることになり、秀吉の母・大政所(なか)まで送られてきたことで臣従を決意します。
豊臣大名となった徳川家康は、秀吉に恭順の意を示さない北条氏と秀吉との間を保とうとしますが、北条氏は秀吉に臣従することに応じません。
豊臣秀吉は上野国沼田領の領土問題を解決し、北条氏の上洛・出仕を待ちますが、北条氏の家臣が真田氏の名胡桃城を奪取する事件を起こし、秀吉は小田原征伐の意向を示します。
徳川家康は、北条氏が秀吉に臣従しないなら、北条氏直に嫁がせた督姫を離縁させると伝えて、北条氏と事実上断交します。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原征伐に際して、諸大名に軍勢を出すよう命じており、水陸で19万人以上に及ぶ軍勢であったとも言われています。(家康49歳)。
≪山中城攻め≫
徳川家康は、30,000という大軍を率いて、小田原城の支城である伊豆の山中城攻めに参じています。
山中城攻めは合計で67800人の軍勢であったと言われており、徳川家康が一番の大軍でしたが、兵数や官位のより高い家康ではなく、豊臣秀次(秀吉の甥)が大将であったとも言われています。
いずれにせよ、徳川家康は西の丸を攻めており、北条氏が重要視する山中城でしたが、僅か数時間の戦闘で陥落しています。
また、山中城陥落と同じ日に、徳川別働隊が鷹ノ巣城を攻め落とし、足柄城は別動隊の井伊直政隊がアッサリと落として小田原城以西は豊臣方の勢力圏となっています。
≪玉縄城攻め≫
山中城を脱出した北条氏勝は、相模玉縄城へ戻り籠城しますが、本多忠勝ら徳川軍が包囲します。
北条氏勝らは抵抗らしい抵抗はせず、龍寶寺住職からの説得に応じて降伏開城しています。
≪韮山城攻め≫
伊豆の韮山城攻めには、織田信雄勢17,000人を中心に徳川軍に加わった江川英長らも参じます。
豊臣方50,000に対し北条方は3,600と兵力差がありましたが、4ヶ月以上の持久戦となり、徳川家康と黒田孝高(官兵衛)が韮山城の開城交渉をして降伏開城させています。
≪小田原城包囲戦≫
その他、徳川軍は下田城・松井田城の攻略にも参じ、最終的に徳川家康は北条氏の本拠地小田原城包囲にも加わっています。
徳川家康含む豊臣軍は、小田原城を完全に包囲し、多くの支城を既に落としています。
講和を結ぶ決意をした北条氏直は、自身の命と引き換えに将兵の命乞いをして秀吉に降伏します。
北条氏直は、徳川家康の婿であったこともあり、助命されて高野山で謹慎生活を送ります。
一方、北条氏直の父・氏政は、家康の助命嘆願がありましたが、切腹となり弟・氏照や宿老と共に自害して果てます。
こうして、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げにあたる小田原征伐は終了し、徳川家康は秀吉の重臣筆頭として秀吉の豊臣政権を支えていきます。
家康の戦20 関ヶ原の戦い
文禄元年(1592年)から文禄・慶長の役、慶長2年(1597年)から慶長の役という二度にわたる朝鮮出兵がありましたが、徳川家康は肥前名護屋に在陣し海渡していません。
多くの大名は朝鮮出兵に従軍しましたが、海渡しなかった家康は、結果的に財力や兵力を温存できました。
慶長3年(1598年)、諸大名に豊臣秀頼に忠節を誓う起請文を提出させた豊臣秀吉は、「豊臣秀吉遺言覚書」を残し、伏見城において死去しました。
その後、豊臣政権内部での対立が表面化し、長4年(1599年)初頭、徳川家康が秀吉の遺命に背いて、大名間の婚姻を進めていたことが発覚します。
豊臣政権の中枢を担う四大老(家康以外)や五奉行は、家康の私婚を問題視し、家康は戦いも辞さない態度を見せますが、前田利家の仲裁により鎮静化します。
しかし、調整役であった前田利家が病没すると情勢は緊迫し、朝鮮出兵時の石田三成らの対応に不満を持った七将に三成が襲撃される事件が起きます。
徳川家康は襲撃事件の事態収拾に動き、石田三成は五奉行の座を退いて佐和山城に蟄居します。
その後、前田利家の後を継いだ前田利長(五大老の一人)は、家康暗殺計画の嫌疑をかけられ、連座した浅野長政は五奉行を解任されます。
強権を発動した家康により、前田利長征伐が計画されますが、利長は母・芳春院(まつ)を人質として家康に差し出し屈服、大老の地位を事実上失っています。
慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝(五大老の一人)に不穏な動きありとの情報があり、家康は問罪使を派遣します。
徳川家康は、上杉景勝に上洛を促しますが、拒否されて会津征伐を決意し、豊臣大名の福島正則・細川忠興・加藤嘉明に先鋒を命じます。
上杉家の家老・直江兼続から上洛を拒絶する手紙「直江状」が送られてきて、挑発的であった為会津征を決意したとの説があります。
徳川家康が会津征伐に向かい、畿内を留守にした隙に、宇喜多秀家(五大老の一人)が出陣式を行い、石田三成・大谷吉継・三奉行・毛利輝元(五大老の一人)ら反家康勢力が決起します。
徳川家康は宇都宮にいた徳川秀忠を呼び出して、翌日、小山で評定を行っています。
小山評定について何処までが真実か疑問視されていますが、家康が小山に諸将を集めて判断を問うたところ、多くの豊臣恩顧の武将を味方につけることに成功しています(東軍)。
家康についた豊臣恩顧の大名の戦意は高く岐阜城を陥落させ、一方、石田三成ら西軍は大垣城を発して関ヶ原へ出陣します。
徳川軍の主力を率いる徳川秀忠は、真田昌幸らが守る上田城攻めに手こずり、関ヶ原の戦い本戦に間に合わず、家康は徳川軍の主力のいない状態で決戦を決意し、決戦の火ぶたが切られます。
徳川家康は西軍諸将への寝返り工作もしており、毛利輝元(家老の吉川広家が内通)・小早川秀秋は調略済みで、脇坂安治も東軍に誼を通じています。
西軍の主力・宇喜多秀家はお家騒動により弱体化しており、石田三成の部隊は大砲などで応戦しましたが、重臣・島左近が負傷するなど厳しい状況に追い込んでいます。
やがて、小早川秀秋隊や脇坂安治隊らに突撃された大谷吉継が自害に追い込まれ、宇喜多秀家や小西行長の部隊も敗北、ついに石田三成隊も敗走します。
約6時間の戦闘で勝敗が決し、徳川家康は天下人の道を歩むことになります(家康59歳)。
家康の戦21 大坂の陣
慶長8年(1603年)、徳川家康は後陽成天皇の勅使を伏見城に迎え、征夷大将軍に任官し江戸幕府を開きます。
慶長10年(1605年)、徳川家康は将軍職を辞して、その職を徳川秀忠に譲ります。
今後も徳川氏が将軍職を世襲していくことを天下に示し、徐々に豊臣秀頼を追い詰めていきます。
慶長16年(1611年)、徳川家康は二条城にて秀頼と会見します。
徳川家康が豊臣秀頼の上に立ったことを天下に示したとの見解がある出来事です。
その後、加藤清正・浅野幸長ら豊臣恩顧の大名が、相次いでこの世を去ります。
≪方広寺鐘銘事件≫
慶長19年(1614年)、豊臣秀頼は方広寺大仏殿の再建に着手しますが、開眼供養前に家康から延期が命じられます。
「国家安康」、「君臣豊楽」という梵鐘の銘文に家康呪詛の意図があると幕府側が抗議します(方広寺鐘銘事件)。
豊臣方は片桐且元を弁明のため駿府へ派遣しますが、家康に面会もできず突き放されます。
大坂に帰った片桐且元は、幕府に二心ないことを示すため、「秀頼の江戸参勤」、「淀殿を人質として江戸に送る」、「秀頼の大坂城退去と国替え」を提案しますが、豊臣家から猛反発を受けます。
徳川氏とのパイプ役を担っていた片桐且元ですが、裏切り者扱いされ命まで狙われた為、大阪城を退去します。
豊臣氏による且元殺害の企ての一報を受けた家康は、徳川氏に対する敵対行為とみなし、幕府は豊臣氏追討命令を出します。
徳川家康は、開戦の口実ができ豊臣家を武力で屈服させる絶好の機会を得たことになります。
豊臣氏は諸大名や浪人に檄を飛ばし合戦の準備をしますが、大坂城に馳せ参じる大名は一人もなく、浪人衆を集めて軍備を整えます。
≪大坂冬の陣≫
同年11月、大坂冬の陣が始まります(家康73歳)。
大坂方は豊臣家宿老らが主張する通り籠城戦で挑むことになり、真田信繁(幸村)が真田丸と呼ばれる出城を築き、父譲りの巧みな戦術で前田利常隊など徳川方に損害を与えて局地戦で勝利しています。
徳川軍は守りの堅い大坂城の攻城戦に苦戦を強いられ、双方の食糧や弾薬が尽き始め、大坂城の淀殿の居所に砲弾が落ちたことで和睦が成立します。
講和条件に従い、徳川方によって大坂城の堀の埋め立てが行われますが、大坂城に籠った浪人衆は和睦を不満に思う者もいて、堀を掘り返して戦の準備をします。
≪大坂夏の陣≫
慶長20年(1615年)、徳川家康は豊臣秀頼に大坂城を退去し国替えに応じるか、浪人衆を召し放つか選択するよう要求しますが拒否され、大坂夏の陣が勃発します(家康74歳)。
徳川方は後藤基次(又兵衛)・木村重成・長宗我部盛親らの奮戦により苦戦しますが、その後、重成や基次(又兵衛)を討ち取っています。
天王寺・岡山の戦いでは、毛利勝永ら豊臣方が決死の突撃をし、真田信繁(幸村)が徳川家康本陣を目掛けて二度にわたり突入します。
家康の本陣では、三方原の戦い以降二度目となる馬印が倒され、家康は自害も覚悟したと言われていいます。
しかし、真田信繁(幸村)隊は次第に討ち取られ、数に勝る徳川方が押し返し、信繁(幸村)は退却した後討死しています。
総崩れとなった豊臣軍は、大坂城本丸に退却しますが、堀を埋められて裸城となった大坂城に徳川軍を防ぐ術はありません。
大野治長は、脱出させた千姫(秀頼の正室で家康の孫)を使者として、自身の切腹の替わりに秀頼・淀殿の助命嘆願をさせています。
徳川家康は徳川秀忠に判断させますが、秀忠は秀頼らに切腹を命じています。
豊臣秀頼・淀殿・大野治長らは自害して果て、秀頼の息子・国松は処刑され、娘は尼となり豊臣家は滅亡します。
徳川家康の戦い一覧表
戦の年 | 合戦名 | 敵 | 勝敗 | 年齢(数え年) |
永禄元年(1558年) | 寺部城の戦い | 鈴木重辰 | 勝利 | 17歳 |
永禄3年(1560年) | 丸根砦攻め(桶狭間の戦い) | (織田信長) 佐久間盛重 | 勝利 | 19歳 |
永禄5年(1562年) | 上ノ郷城攻め | 鵜殿長照 | 勝利 | 21歳 |
永禄7年(1564年) | 三河一向一揆 | 三河一向一揆 | 勝利 | 23歳 |
永禄12年(1569年) | 掛川城攻め(遠江侵攻) | 今川氏直 | 勝利 | 28歳 |
元亀元年(1570年) | 金ヶ崎の戦い | 朝倉義景 浅井長政 | 敗北 | 29歳 |
元亀元年(1570年) | 姉川の戦い | 朝倉義景 浅井長政 | 勝利 | 29歳 |
元亀3年(1572年) | 一言坂の戦い(西上作戦) | 武田信玄 | 敗北 | 31歳 |
元亀3年(1572年) | 二俣城の戦い(西上作戦) | 武田勝頼 武田信玄 | 敗北 | 31歳 |
元亀3年(1572年) | 三方原の戦い(西上作戦) | 武田信玄 | 敗北 | 31歳 |
天正2年(1574年) | 第一次高天神城の戦い | 武田勝頼 | 敗北 | 33歳 |
天正2年(1574年) | 犬居城攻め | 天野氏 | 敗北 | 33歳 |
天正3年(1575年) | 長篠の戦い | 武田勝頼 | 勝利 | 34歳 |
天正3年(1575年) | 諏訪原城の戦い | 武田勝頼 | 勝利 | 34歳 |
天正4年(1576年) | 犬居城攻め | 天野氏 | 勝利 | 35歳 |
天正9年(1581年) | 第二次高天神城の戦い | 武田勝頼 | 勝利 | 40歳 |
天正10年(1582年) | 武田征伐「天目山の戦い」 | 武田勝頼 | 勝利 | 41歳 |
天正10年(1582年) | 若御子対陣(天正壬午の乱) | 北条氏政 北条氏直 | 引分 | 41歳 |
天正12年(1584年) | 小牧・長久手の戦い | 羽柴秀吉 池田恒興 森長可など | 引分 (長久手の戦いなど 部分的には勝利) | 43歳 |
天正13年(1585年) | 第一次上田合戦 | 真田昌幸 | 敗北 | 44歳 |
天正18年(1590年) | 山中城攻め(小田原征伐) | 松田康長 北条氏勝 | 勝利 | 49歳 |
天正18年(1590年) | 玉縄城攻め(小田原征伐) | 北条氏勝 | 勝利 | 49歳 |
天正18年(1590年) | 韮山城攻め(小田原征伐) | 北条氏規 | 勝利 | 49歳 |
天正18年(1590年) | 小田原城包囲戦(小田原征伐) | 北条氏政 北条氏直 | 勝利 | 49歳 |
慶長5年(1600年) | 関ヶ原の戦い | 石田三成 宇喜多秀家など | 勝利 | 59歳 |
慶長19年(1614年) | 大坂冬の陣 | 豊臣秀頼 真田信繫など | 引分 | 73歳 |
慶長20年(1615年) | 大坂夏の陣 | 豊臣秀頼 真田信繫など | 勝利 | 74歳 |
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