黒田長政は、関ヶ原の戦いにおいて、石田三成隊に正面から攻勢を仕掛けています。
また、黒田長政隊は、石田三成の重臣・島左近を負傷させたことでも知られています。
その後、敗北し捕らえられた石田三成に会い、いたわりの言葉と共に陣羽織を与えた逸話など二人の経歴と接点を書いています。
石田三成 豊臣政権の奉行として活躍
永禄3年(1560年)、石田三成は近江国坂田郡石田村で生まれています。
幼名は佐吉、父の石田正継は、戦国大名浅井氏、又は京極氏に出仕してたといわれ、土豪の出身であると考えれます。
石田三成が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に出会ったエピソードとして広く知られているのは、「三献茶」の逸話です。
石田三成が秀吉に仕えた時期は諸説ありますが、遅くても天正5年(1577年)には、父や兄・正澄と共に仕官していたようです。
天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家の間で賤ヶ岳の戦いが起きます。
石田三成は、称名寺に命じて柴田勝家の陣所に人を遣わし、情報収集を行っています。
賤ケ岳の戦い当日は、「先懸衆」として柴田軍に突撃し、一番槍の功名をあげたと伝わります。
秀吉軍勝利の一因に三成の兵站奉行としての活躍もあり、三成は行政面で豊臣政権を支えていくようになります。
文禄元年(1592年)、朝鮮出兵(文禄の役)では、船奉行に任じられますが、実質的には兵站奉行として活躍しています。
黒田長政 秀吉に仕え戦功を挙げる
一方、黒田長政は永禄11年(1568年)、黒田官兵衛(如水)の嫡男として姫路城で生を受けます。
石田三成が生まれてから約8年後のことで、幼名は松寿丸です。
因みに、父・黒田官兵衛(如水)は、石田三成より14歳年上です。
天正5年(1577年)、松寿丸(黒田長政)は、織田信長に人質として差し出されています。
松寿丸(黒田長政)は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の居城・長浜城で幼少期を過ごし、秀吉夫婦からとても可愛がられてそうです。
翌年、信長に反旗を翻した荒木村重を説得するため、父・官兵衛は、村重の城に乗り込みますが、幽閉されてしまいます。
いつまでも帰らない官兵衛に対し、信長は裏切ったと解釈し、見せしめのため松寿丸(黒田長政)を亡き者にするよう命じます。
ですが、官兵衛に限って裏切るはずがないと信じた竹中重治(半兵衛)により、松寿丸(黒田長政)は匿われています。
後に、官兵衛は信長への忠義を貫いていたことが分かり、松寿丸(黒田長政)は無事姫路に帰郷しています。
天正10年(1582年)、明智光秀の謀反により織田信長が斃れると、黒田長政は官兵衛と共に秀吉に仕えます。
黒田長政は、備中高松城攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどで活躍しています。
天正15年(1587年)、黒田長政は島津征伐に従軍し、財部城攻めの戦功により、官兵衛と共に豊前国中津に12万5,000石に移封されます。
天正17年(1589年)、官兵衛が隠居したため長政が家督を相続しています。
黒田長政が石田三成に憎悪を感じた!?
明侵略を目指し天正20年(1592年)に始まった朝鮮出兵では、石田三成ら豊臣政権の官僚と黒田長政ら武断派武将との間で遺恨が生じることになります。
黒田長政は、三番隊主将として5,000~6,000人を率いて渡海し、釜山に上陸します。
一番隊・小西行長らや二番隊・加藤清正らとは別の進路をとった長政は、先鋒として侵攻しています。
日本軍は、開戦からわずか21日で首都の漢城府を落とし、黒田長政は開城の攻略にも貢献しています。
大同江の戦いでは、夜襲を受けた宗義智の救援に黒田長政らが駆け付けます。
黒田長政は、矢を受けて負傷しますが、朝鮮兵を数多討ち取り、勝利に貢献しています。
その後、黒田長政は、朝鮮軍が放棄した平壌城へ入っています。
石田三成は、日本国内で船奉行として後方支援をしていましたが、大谷吉継・増田長盛と共に渡海し、漢城に到着します。
豊臣秀吉は、首都・漢城府陥落の知らせを受けた際、自ら出陣するため渡海の準備を急がせています。
しかし、秀吉の渡海は取り止めとなり、石田三成ら三名が朝鮮在陣奉行として、朝鮮出兵の総奉行を務めることになります。
石田三成は、豊臣秀吉と在朝諸将の連絡役として、漢城に駐留しますが、やがて諸将との間に亀裂を生じることになります。
また、石田三成らが朝鮮に到着した頃には日本軍の兵糧や弾薬が少なくなっていて、その上、朝鮮に明国からの援軍が到着するなど苦しい状況になっていきます。
その後、碧蹄館の戦いが起きると、黒田長政は日本軍の本隊先陣となり、明・朝鮮軍を破ります。
敗戦したことで明軍の戦意はそがれ、日本軍は兵糧倉が焼かれるなど深刻な兵糧不足に陥り、石田三成と小西行長らは明と講和交渉を行っています。
石田三成や小西行長らは、朝鮮出兵は日本にとってマイナスであると考え、早期講和を目指していたようです。
一方、いわゆる武断派武将らは、秀吉の命令通り明・朝鮮軍と戦をし、占領を目指しています。
秀吉の体面が保たれる形で明と講和する道を探る三成らに、ここで講和しても何の恩賞も得られないと考える諸将もいたようです。
また、黒田長政の父・官兵衛が無断で朝鮮から帰国していますが、秀吉に報告したのは石田三成であるとの説があり、官兵衛は秀吉から咎められて遺書を残しています。
この出来事により、黒田長政が石田三成に感じていた不信感が憎悪に代わったともいわれています。
石田三成が参じた朝鮮での戦もありますが、基本は漢城にいて秀吉の命令を諸将に伝えて実行に移す役目です。
異国の地で寒さや飢えに耐えながら戦っている黒田長政らから見たら、石田三成は自ら戦もしないのに、秀吉の威光を背に偉そうに命令する憎い人物に思えたかもしれません。
その後、和平交渉が前進したことで、日本軍は漢城を放棄して、朝鮮半島南部へ移ります。
石田三成と武断派武将の対立
しかし、後に和平交渉は決裂し、秀吉は朝鮮再出兵を命じ、慶長2年(1597年)に慶長の役(朝鮮出兵)が始まります。
日本軍は、小西行長と加藤清正が交代で先手となり出陣しますが、三成が渡海することはありませんでした。
石田三成は、伏見にいて兵站を差配し、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直ら7名が軍目付として渡海しています。
黒田長政は、5,000人を率いて再度渡海し、黄石山城の戦い・稷山の戦いに参じています。
その後、加藤清正籠る蔚山城が明・朝鮮軍に襲撃されて窮地に陥りますが、毛利秀元・黒田長政らの援軍が到着して撃退しています。
蔚山城の戦いの際、黒田長政・蜂須賀家政が不活発であったとして、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直は秀吉に報告しています。
福原長堯らは、軍目付であるため、諸将の働きを秀吉に報告する義務があります。
福原長堯・熊谷直盛は、共に石田三成の親戚であり、三成の讒言によって軍功が不当に低く評価されたと思った諸将もいたようです。
また、蔚山城の戦いを経て、諸将は秀吉に戦線縮小案を進言しますが、秀吉の不興を蒙ることになります。
慶長3年(1598年)、秀吉が薨去したことで朝鮮派兵軍は帰国し、朝鮮出兵は終結します。
翌年、加藤清正・福島正則らと共に黒田長政は、石田三成を襲撃しています。
蔚山城の戦いなどの査定を巡り、三成のに恨みを持った諸将らが三成を討ち果たそうとしたのです。
石田三成襲撃事件により、徳川家康仲介の元、石田三成は隠居に追い込まれ失脚しています。
一方、徳川家康は、蔚山城の戦いにおいて、諸将に落ち度は無かったとして名誉を回復しています。
三成と長政の関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、徳川家康は黒田長政・福島正則・細川忠興ら豊臣大名を率いて、会津の上杉攻めに向かいます。
進軍中に石田三成ら挙兵の知らせを受けた徳川家康は、諸将を集めて意見を聞く小山評定を開いたといわれています。
小山評定は史実でないともいわれますが、秀吉の子飼い・福島正則は真っ先に家康支持を表明したそうです。
福島正則を家康方に引き入れたのは長政の調略であるといわれ、長政は正則に賛同し居合わせた諸将の殆どは、我も我もと家康方についたといわれています。
また、石田三成は諸大名の妻子を人質に取ろうとしますが、長政の継室・栄姫は脱出し国元へ逃れています。
栄姫は、秀吉が亡くなった年に長政が娶った家康の養女で姪に当たる女性です。
私婚を禁じた秀吉の遺命に反する行為で、徳川家康の元に問責使が派遣され、諸大名の対立要因になっています。
その後、黒田長政は、関ヶ原の戦い本戦で5,400の兵を率いて、石田三成の本陣・笹尾山の東にある丸山に陣を構えています。
開戦すると、黒田長政は丸山を下りて、石田三成隊の笹尾山を正面から攻撃しています。
島左近の負傷
また、兵の一部を密かに笹尾山の側面に回して攻撃させ、島左近を負傷させており、一説には討ち取ったといわれています。
島左近は、石田三成が三顧の礼をもって招いた重臣であり、三成の右腕ともいえる程の存在です。
島左近の被弾は、三成方西軍に動揺を与えたようです。
関ヶ原の戦いの詳細は定かではありませんが、石田三成は5,820の兵で、黒田長政隊の他、細川忠興隊5,100、加藤嘉明隊3,000などと戦っていたといわれています。
開戦当初は、西軍がやや優勢であったという説もありますが、小早川秀秋や脇坂安治などが家康方に寝返り大谷吉継隊が壊滅します。
西軍の小西行長隊も敗走し、善戦を続けていた宇喜多秀家隊も総崩れになります。
石田三成隊は、その後も東軍の猛攻に耐えたようですが、やがて再起を図るため退却を決意し、関ヶ原の戦いの勝敗は決しています。
石田三成は、敗走する味方に進路を塞がれ、伊吹山への逃亡を余儀なくされ春日村に逃れています。
その後、三成を慕う古橋で匿われていますが、後に田中吉政に捕縛されています。
陣羽織の逸話
同郷の田中吉政にもてなされたという三成は、家康が陣を敷いた大津に連行されています。
門前で待っていた三成と、福島正則・小早川秀秋・黒田長政・細川忠興・浅野幸長らが言葉を交わしたという逸話が残されています。
裏切り者の小早川秀秋に対して三成が罵ったり、今までの腹いせに諸将から三成がなじられたりする逸話で、敗軍の将のみじめさが伝わってくる話が多いです。
『武功雑談』には、黒田長政が石田三成に陣羽織を与えた逸話もあります。
本陣に連れて来られた石田三成は、薄汚れた姿であったようで、黒田長政は「このようなことは不本意であろう」と声を掛けたそうです。
黒田長政は、馬上から降りて陣羽織を脱いで三成にあげたようですが、史実かは分かりません。
史実である可能性は低いと思っていますが、『武功雑談』の信ぴょう性は、比較的高いそうです。
黒田長政は、石田三成が大嫌いだったといわれていますが、もし陣羽織の話が本当なら、二人は対立したままではなかった!?と言えるでしょうか。
石田三成は、思わず涙を流したそうです。
三成と長政の最期
慶長5年(1600年)10月1日、洛中を引き廻された石田三成は、六条河原にて41年の生涯を閉じています。
一方、黒田長政は、筑前国名島52万3,000余石の大大名に出世します。
黒田長政は、関ヶ原の戦いの勝敗を左右した小早川秀秋・吉川広家らの寝返り工作をしています。
吉川広家は、毛利輝元の家臣で一族でもあり、毛利勢の動きを拘束しています。
黒田長政は、東軍勝利の立役者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きまで貰っています。
その後、黒田長政は大坂の陣にも参じ、徳川家への恭順を貫き、外様大名でありながら徳川家の信頼を得ています。
元和9年(1623年)8月4日、病にかかった黒田長政は、56年の生涯を終えています。
石田三成が没してから、約23年後のことです。
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