佐久間信盛が高野山に追放された理由は?信長に突きつけられた折檻状

佐久間信盛は、織田信長の譜代家臣筆頭で、殿を得意としたことから「退き佐久間」との異名を持ちます。

ですが、後に19ヶ条から成る折檻状を突きつけられ、高野山に追放されます。

信長の重臣でありながら、高野山に追放された理由とその生涯について書いています。

目次

佐久間信盛の出自

佐久間信盛は、桓武平氏で三浦義明の孫・佐久間家村の流れを汲む出自だと云われています。

その後、佐久間氏は、承久の乱の功績により尾張に領土を得て定住し、その子孫の一人が佐久間信盛です。

佐久間信盛の肖像画
佐久間信盛 出典元:Wikipedia

遠いご先祖が天皇という家柄の佐久間信盛ですが、信盛が生まれた頃は尾張の土豪であったようです。

また、佐久間信盛の父の名前は伝わっているものの、どんな人物かは不明です。

佐久間信盛の生年も定かではありませんが、大永8年/享禄元年(1528年)頃に生まれたのではないかと云われています。

織田信長の家臣になった信盛

佐久間信盛は、信長の父・信秀に仕え、やがて織田信長が家督を継ぐと、信盛は信長に従ったようです。

弘治元年(1555年)、守山城主・織田信次(信長の叔父)の家臣が、信長の弟を弓で射貫く事件が起きます。

誤ってのことでしたが、織田信次は逃亡しています。

守山城主不在となり、信長の異母弟・織田信時が守山城主になりました。

織田信時を城主にする為に動いた人物は、佐久間信盛だと云われてます。

佐久間信盛は、守山城内にいた信次の家臣・角田新五と坂井喜左衛門を寝返らせ、織田信時を守山城主に据えることに成功しました。

この功績により、織田信時から、佐久間信盛に100石の知行を与えたようです。

稲生の戦いで信長の味方をする

信長の父・信秀が急死した為、織田家中で争いが起きていますが、信盛は終始信長の味方であり続けました。

弘治2年(1556年)、織田信長と弟・織田信勝(信行)との間で稲生の戦いが起きます。

信長700の手勢に対し、信勝は1700。

うつけ者の信長ではなく、信勝を織田家の後継者にしようと画策する家臣も多く、数の上で信長は劣勢でした。

しかし信長方は奮戦し、勝利しています。

この時、佐久間信盛は、織田信長に味方し、信盛の功績は認められ、織田家家臣団筆頭になっていきます。

佐久間信盛は、いち早く信長を支持し、信頼を勝ち得ていったようです。

桶狭間の戦いで善照寺砦を守備する

佐久間信盛は、織田家の主だった戦に従軍し、各地を転戦、桶狭間の戦いにも参戦しています。

桶狭間古戦場公園にある織田信長と今川義元の像
桶狭間古戦場公園にある織田信長と今川義元の像

今川義元方の鳴海城を囲む砦の一つ・善照寺砦の守備を佐久間信盛、弟・信辰が担い、勝利に貢献しました。

今川義元を打ち破ったことで織田信長の名前は天下に轟くわけですが、桶狭間の戦い後、鳴海城は佐久間信盛に与えられました。

箕作城攻めにて武功を挙げる信盛

永禄8年(1565年)、将軍・足利義輝が三好三人衆らに亡き者にされる事件が起きました(永禄の変)。

永禄の変によって将軍が不在になり、織田信長は、足利義昭を将軍に就けようと、上洛することを決めたのです。

足利義昭
足利義昭 出典元:Wikipedia

上洛は、京に行く途中で敵と戦う為、危険を伴う行為です。

織田信長は、居城のある美濃から上洛を開始しますが、京に上る途中に近江の観音寺城がある為、城主・六角義賢に協力を要請しています。

しかし、六角義賢は織田信長と敵対する姿勢をとり、永禄11年(1568年)に観音寺城の戦いが起きました。

織田家の家臣団は、観音寺城の支城・箕作城(みつくりじょう)に夜襲を仕掛け落城させます。

箕作城攻めには佐久間信盛も参戦していて、戦功をあげているそうです。

箕作城が落城したことで、観音寺城の支城・和田山城、更に観音寺城も、あっけなく信長の手に落ちました。

その後、織田軍は三好三人衆らを撃退し、無事上洛戦を終えています。

外交能力を発揮した信盛

佐久間信盛は武勇に秀でただけでなく、戦場以外での活躍も記録に残っています。

永禄10年(1567年)、織田信長の娘・徳姫が、徳川家康の長男・松平信康に輿入れする際は、岡崎城までお供しています。

また、交渉によって、大和国の戦国大名・松永久秀を味方につけるなど外交能力もあったようです。

永原城に配された信盛

1570年(元亀元年)、金ヶ崎の戦いにて、信長の妹婿で同盟相手の浅井長政が、信長から離反し敵対することになりました。

北近江の浅井長政が敵になり、南近江を治めていた六角義賢が琵琶湖南岸に再進出してきた為、美濃と京を結ぶ道が絶たれてしまいます。

そこで、佐久間信盛、柴田勝家、森可成、中川重政の4名を琵琶湖の南側に配置し、京までの道の確保と六角氏や一揆の備えとしました。

佐久間信盛は永原城に配属され、柴田勝家と共に、野洲河原の戦い(やすがわらのたたかい)に従軍し、六角方の兵780人を討ち取り南近江を平定したのです。

佐久間信盛は志賀の陣にも従軍

同年、織田・徳川連合軍 と浅井・朝倉連合軍 が激突した姉川の戦いにも佐久間信盛は従軍し、徳川方の奮戦もあり勝利しています。

その後も、信長と浅井・朝倉との戦は続き、姉川の戦いの後直ぐに起きた志賀の陣にも、信盛は出陣しました。

志賀の陣で比叡山延暦寺が、浅井と朝倉に味方したことで、戦は長引くとこになります。

佐久間信盛は、主将として明智光秀と共に比叡山を包囲しますが、浅井、朝倉は比叡山に籠り膠着状態が続きました。

志賀の陣により織田信長が動けなくなった隙をついて、各地で信長に対抗する勢力が挙兵していました。

信長はこの動きを問題視して、朝廷と足利義昭の仲介により和議が結ばれました。

後に、信長の命令で比叡山の焼き討ちが行われますが、佐久間信盛は恩賞として湖南地方の野洲郡、粟田郡を得ることになります。

武功を挙げ、和解交渉も成立させる

元亀2年(1571年)、荒木村重、中川清秀と 茨木重朝、和田惟政の間で白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)が起きました。

戦の絶えなかった摂津で、勢力拡大を目指した荒木村重が起こした戦いと云われています。

信長の上洛以降、少しずつ平定された摂津ですが、摂津にある和田惟政の居城・高槻城を荒木村重らが攻めたのです。

佐久間信盛は、織田信長の命令で高槻城から撤兵を警告したり、和田惟政が戦死したことで、城主不在になった高槻城を押収しようとした松永久秀に交渉し兵を引かせました。

その後も、比叡山の焼き討ちで武功を挙げ加増を受けたり、松永久秀と対立していた大和の筒井順慶を和解させました。

その後も転戦した信盛ですが、失態が目立つようになっていきます。

殆ど戦わなかった三方ヶ原の戦い

佐久間信盛は、元亀3年(1573年)に起きた、三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)に援軍として参戦しました。

戦国最強とも言われる武田信玄が、第二次信長包囲網に呼応し、信長の同盟相手である徳川家康の領土に侵攻した為です。

当時、織田信長と武田信玄は同盟関係にあったことから、最初、信長は援軍を送っていませんでした。

しかし、三方ヶ原の戦いを境に同盟は破綻したようです。

武田信玄は軍隊を3つに分け、信長方の拠点・美濃の岩村城を攻め、1573年(元亀4年)3月に落城させました。

一方、佐久間信盛ら織田家の援軍が派遣されたのは、徳川方の二俣城落城の少し前だと云われています。

織田家からの援軍武将は記録により違い諸説あるものの、佐久間信盛、平手汎秀(ひろひで)、水野信元がいたのは確かなようです。

また織田家からの援軍数も諸説あり、3,000から20,000とだいぶ開きがあります。

二俣城は、徳川の本拠・浜松を守る重要な拠点でしたが、援軍は間に合わず落城しました。

二俣城を落とした武田軍は、徳川の浜松城を目掛けてくると、徳川家康と佐久間信盛は予想していたと云われています。

その為、籠城戦の準備をしていましたが、意外にも武田軍は浜松城を素通りしたのです。

そして、織田家の援軍を加えた徳川軍は、武田軍におびき出されるように出撃し、三方ヶ原で大惨敗したのです。

この三方ヶ原の戦いで、織田家の援軍として出陣していた平手汎秀が亡くなってしまいました。

信長の傅役を務めていた平手政秀の三男(又は孫)で、信長が目をかけていたと云われる人物です。

平手汎秀が必死に槍働きをしている時に、佐久間信盛は殆ど戦わず退却しています。

後に、高野山に追放される際、三方ヶ原の戦いでの退却を咎められていますが、三方ヶ原の戦い直後、佐久間信盛に罰は無かったようです。

今まで功績の方が大きいと考慮されたのでしょうか。

その後も佐久間信盛は信長に重用され、信長の代理で足利義昭と和平交渉を行ったり、六角義治攻めを命じられたりしています。

信長から叱られ口答えをした

難敵だった武田信玄は病没し、足利義昭を京から追放した信長は、浅井長政の小谷城攻めを行います。

浅井長政の同盟相手である朝倉義景は、援軍に赴きますが、朝倉方が守る大嶽砦が落ち、撤退を決意しました。

織田信長は、朝倉義景が撤退することを見越していて、先回りして佐久間信盛、柴田勝家、木下秀吉(豊臣秀吉)、滝川一益、丹羽長秀など配置して、朝倉を逃がさないよう厳命していました。

朝倉義景を追撃し滅ぼしたものの、家臣らは信長本陣より後れをとり、後に信長から叱責を受けます。

朝倉義景の肖像画
朝倉義景 出典元:Wikipedia

佐久間信盛以外は、信長に陳謝したものの、信盛は涙を流し「そうはおっしゃいましても、私たちのような優秀な家臣たちをお持ちにはなれますまい」と弁明し信長を激怒させたと云われています。

自分の失敗を棚に上げて、怒らせるだろうなという発言ですね。

この時は、他の家臣の取り成しで罰は逃れられたものの、後に追放される時に渡される折檻状の19ヶ条にも書かれることになります。

長篠の戦いでは馬場信房(信春)と激闘した

天正元年(1573年)、足利義昭に同調し信長に抵抗する三好義継と織田軍の間で若江城の戦いが起きました。

若江城の戦いでの指揮官は、佐久間信盛です。

三好義継側の家臣の裏切りもあり、佐久間信盛は三好義継を自害させ勝利しています。

三好義継が治めていた河内国(大阪府東部)は、織田家の配下となり、石山本願寺攻めの拠点となりました。

佐久間信盛は、織田の宿敵・武田氏に対し司令官を務めた時期もあったようで、天正3年(1575年)長篠の戦いにも従軍しています。

長篠の戦いの再現馬坊柵
長篠の戦いの再現馬坊柵

佐久間信盛が対峙した相手は、武田四名臣の一人・馬場信房(信春)です。

佐久間信盛は、長篠の戦いで本陣を丸山にし、6000人を率いていました。

一方の馬場信房(信春)は、わずか700の兵。

佐久間信盛は数の上で有利だったにもかかわらず、一時は丸山を奪われました。

馬場信房(信春)は、「不死身の馬場美濃」と評価される程の人物ですが、この時、かすり傷を負わすことも出来なかったと伝わります。

しかし、武田軍は次第に崩れ、主君・武田勝頼の退却を見届けた後、織田、徳川の大軍によって馬場信房(信春)は亡くなったそうです。

水野信元に無罪の罪

また、武田勝頼には、秋山虎繁という家臣がいましたが、岩村城の戦いにて織田方に降伏したものの、磔にされてしまいました。

その秋山虎繁と通じ、岩村城に籠城する虎繁に兵糧を流したとして水野信元(徳川家康の叔父)は、疑いをかけられてしまいます。

水野信元は、佐久間信盛の与力で、信盛が信長に訴えたと云われています。

怒った信長は、信元の甥・徳川家康に亡き者にするよう命じ、家康の命令を受けた平岩親吉によって水野信元は滅ぼされました。

水野信元の居城・刈谷城と所領は、佐久間信盛の直轄領になりましたが、後々の火種になります。

また、後に信長は、冤罪だったとして、水野家を再興させています。

石山本願寺戦の指揮官になる

天正4年(1576年)、信長の家臣・塙直政が戦死し、石山本願寺戦の指揮官が不在となった為、佐久間信盛が就任しました。

当時の信盛は、三河、尾張、大和、近江、河内、紀伊、和泉、7ヶ国の与力があり、織田家最大規模の軍事力がありながら、積極的に動きませんでした。

攻略が難しい本願寺ですが、膠着して4年もの間、本願寺を包囲し続けることになります。

その間、裏切った松永久秀の討伐戦である信貴山城の戦いや、紀州攻めに従軍しています。

茶会で格別の扱いを受ける

天正6年(1578年)9月、織田信長は津田宗及の茶会に参加し、信長の相伴として佐久間信盛も同席しています。

御供衆として細川藤孝(幽斎)、津田信澄、筒井順慶などもお供の行に加わっていますが、佐久間信盛は近衛前久、松井友閑、滝川一益共に格別の扱いを受けたそうです。

佐久間信盛、信栄を高野山に追放

天正8年(1580年)3月1日、織田家と本願寺の10年に及ぶ戦は、終わりました。

織田信長が朝廷に働きかけ、朝廷が本願寺に講和の勅使を送り、その目付として佐久間信盛も同行しています。

長い戦を終わらせた信盛ですが、同月25日に信長から折檻状を突きつけられ、高野山へ追放されてしまったのです。

佐久間信盛は、嫡男の信栄と共に従者2、3名で高野山へ上りました。

一説には高野山にさえ居ることを許されず、熊野に移動したとも云われています。

この時、従者は1人という寂しい有り様で、天正10年(1582年)1月16日に佐久間信盛は没したそうです。

享年55歳。

追放されて間もなく信盛が没したことを哀れんだのか、直後に信栄は信長の嫡男・織田信忠の家臣として帰参できました。

佐久間信盛父子に最後まで付き従った従者は、忠義者と認められ、身分の低い小者から武士身分になったそううです。

織田信忠が本能寺の変で亡くなると、佐久間信栄は織田信雄に仕えました。

その後は豊臣秀吉の茶人として仕え、後に徳川秀忠にも仕えています。

そして実子に先立たれ、養子を迎え家を存続させました。

19ヶ条の折檻状

佐久間信盛父子が、高野山に追放されることになった19ヶ条の折檻状に何が書いてあったのか、概要を書きます。

1 一、佐久間信盛父子は、(石山本願寺攻めの際に原田直政築いた)天王寺城に5年も居ながら、何の功績もない。

世間は疑問に感じていて、信長も残念に思っている。

2 一、佐久間信盛らの考えを推測すると、石山本願寺を難敵と考え、戦も政治的工作せず、強固に城を守っていれば、いずれは信長の威光によって出ていくと思っていたのだろうか。

機会を見定めて一戦を交えれば、信長や佐久間信盛父子にとっても在陣の苦労が解かれ本望であったのに、持久戦にこだわったのは愚かなことであった。

3 一、明智光秀が丹波を平定した働きは、天下に面目をほどこした。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の働きも比類ない。

池田恒興は禄が少ないのに、花隈城(はなくまじょう)を攻め落とし名誉なことである。

佐久間信盛も心を奮い立ち努力するべきであろう。

4 一、柴田勝家は越前一国を有し手柄が無かった為、気を遣い加賀を平定した。

5 一、期待通りの武功が挙げられないのなら、策略をこらしたり、信長に意見を聞きに来るべきだ。

5年間、それすら無いのは手抜きで言語道断である。

6 一、保田知宗の報告書によると、本願寺に籠る一揆を攻略すれば、周辺の一揆も殆ど退散するだろうと書いてあり、佐久間信盛父子は連判した。

しかし、今まで一度もそうした連絡は無かった。

自分の手間を省くつもりで、保田知宗の報告書に意見を述べたのか。

7 一、織田家の中でも、佐久間信盛には特別な待遇を与えていた。

根来衆を加えて七ヶ国も与力があり、信盛の配下を加えれば、そうそう負け戦にはならない。

8 一、刈谷城・水野信元亡き後、その領土を与えたので、家臣が増えたと思ったが違った。

水野信元の旧臣を追放したなら、後任者を補充すれば良かったものの、そうしなかった。

追放した家臣の知行を、信盛の収入にして酷いことである。

9 一、山崎の領土を与えた時、信長が目をかけた者を追放したことは、水野信元の旧領・刈谷の件と同じ言語道断である。

10 一、前から召し抱えていた家臣に知行を増やしたり、与力を付けたり、新しく家臣を見つけていれば、ここまでの失敗は無かったであろう。

ケチな蓄財を考えるからこうなるのだ。

佐久間信盛のケチくささは、高麗、唐、南蛮の国にも知れている。

11 一、朝倉義景を滅ぼした戦いの際、戦うべき機会に遅れたのに恐縮しなかった。

それどころか自身を正当化し、信長は立場が無かった。

(優秀だと言った)口程もなく、(その後、石山本願寺攻めの拠点)天王寺に在陣し、前代未聞の卑劣さである。

12 一、佐久間信盛の嫡男・信栄の罪状は書き尽くせない。

13 一、ざっくり言えば、信栄は欲が深く、気難しく、良い家臣を召し抱えようとしない。

そして、職務をいい加減にし、父子共に心構えがなっていないから、こうなったのである。

14 一、自分の家臣でなく与力ばかり使う。

与力に従軍させ、知行人の無い土地から、収入を得る卑劣な行為をしている。

15 一、信盛の家臣、与力まで信栄を敬遠している。

自身の自慢をし、温厚なふりして冷たい扱いするから、この有り様である。

16 一、信長が主となって30年仕えているのに、「信盛の活躍は比類なし」と評価できる働きはない。

17 一、三方ヶ原の戦いで、徳川家康の援軍に行った際、戦わなかった。

不手際があっても、身内や譜代家臣が討たれる位に戦ったのなら、信盛は運よく帰還できたと思われるだろうに。

なのに一人も戦死者を出さず、平手汎秀を見殺しにし、平気な顔をしている。

18 一、かくなる上は、敵を討ち果たし、恥をそそぎ帰参するか、戦で亡くなるかである。

19 一、佐久間信盛父子ともども、剃髪し高野山に隠居すれば、いつか許されるかもしれない。

最後の二か条を実行するように。

さもなければ、赦免されることはない。

高野山追放について思うこと

譜代家臣筆頭であった佐久間信盛に対し、厳しい仕打ちにも思えますが、石山本願寺攻めの指揮官らしいことをしなかったことが、一番まずかったようです。

また、嫡男・信栄に対しても散々な評価ですが、茶の湯に熱心すぎたことは、真実だと云われています。

佐久間信盛父子も、命を賭して戦う選択肢もありながら、高野山追放を選んだわけです。

「退き佐久間」と呼ばれたからには、戦上手で勇猛な武将だと思うのですが、晩年は違ったのかもしれません。

参考・引用・出典一覧
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