細川忠興は本能寺の変で光秀を拒み関ヶ原合戦では勇猛に戦った

細川忠興は、幽斎(藤孝)の子でガラシャ(玉子)の夫です。

本能寺の変では、義父・明智光秀の協力を拒んだことでも知られています。

織田、豊臣、徳川の世を渡り歩いた忠興は、関ヶ原合戦では勇猛に戦いました。

この記事では、顔の傷は妹に付けられたという逸話や忠興がどんな人物だったのかを書いています。

目次

細川幽斎(藤孝)の子として生を受ける

永禄6年(1563年)、細川幽斎(藤孝)の長男として生まれます。

細川本家は、室町幕府の管領職に就く程の有力守護大名。

その分家に忠興は生まれました。

通称は与一郎です。

細川忠興の肖像画
細川忠興 出典元:Wikipedia

将軍・足利義輝に仕えた父・幽斎(藤孝)は、将軍から名前の一文字を与えられる位の側近で、歌道や諸芸に堪能な武将として知られています。

母は、熊川城主沼田光兼の娘・光寿院。

足利義輝の命令で、一族の細川輝経の養子になり、奥州細川家を継承します。

しかし、養子入りは形式的なもので、その後も幽斎(藤孝)と共に行動しています。

織田信忠に仕えていた頃の忠興

忠興の幼少期に、将軍・足利義輝が討たれる永禄の変という大事件が起きます。

次の将軍に足利義昭を据えるため、細川幽斎(藤孝)は明智光秀を仲介役にして、織田信長を頼ることになります。

細川幽斎(藤孝)の肖像画
細川幽斎 出典元:Wikipedia

その後、将軍・足利義昭と織田信長が対立すると、細川幽斎(藤孝)は織田信長に臣従します。

そのような中、細川忠興は織田信長の嫡男・信忠に仕えます。

元亀元年(1570年)、織田信長と本願寺勢力との戦が始まります(石山合戦)。

本願寺勢の主力は雑賀衆ですが、鉄砲傭兵、地侍集団のことで鉄砲で武装しており、手強い相手でした。

劣勢に立たされた織田信長は、難局を打開するする為、まずは雑賀衆の攻略に乗り出し、拠点である紀州攻めが行われました。

天正5年(1577年)3月、紀州攻めに細川忠興も従軍しています。

15歳での初陣でした。

同年10月には、父・幽斎(藤孝)や明智光秀らと共に、謀反を起こした松永久秀攻めに参陣します。

松永久秀方の・森秀光が籠る片岡城を落城させています。

弟・興元と共に一番槍の武功を挙げ、信長から直筆の感状を与えられています(信貴山城の戦い)。

天正6年(1578年)に元服すると、主君・織田信忠より偏諱を受け、忠興と名乗ります。

玉子と結婚し家紋を賜る

同年には信長の命令により、明智光秀の娘・玉子(珠子)(細川ガラシャ)を娶り、勝竜寺城で結婚式を挙げています。

勝竜(龍)寺城模擬櫓
勝竜(龍)寺城模擬櫓

明智光秀、細川幽斎(藤孝)、細川忠興を織田信長が評価し、政略結婚が決められたと云われています。

また、細川忠興は結婚した時、織田信長から「九曜紋」を下賜されています。

忠興が幼い頃、信長の小柄に九曜紋がついているのを見て、気に入っていたようです。

自身の衣服に使用したいと願いでて、結婚した機会に下賜されたといわれています。

九曜紋
九曜

丸は星を表していて、真ん中は太陽です。

太陽を囲んだ八個の星は、「月」「火星」「水星」「木星」「金星」「土星」「釈迦星」「不動明王星」。

「九曜紋」の曜は光り輝くという意味があり、九個の星が輝くという意味を持つ家紋です。

細川九曜
細川九曜

丹波、丹後攻めに参陣する忠興

天正5年(1577年)、忠興は明智光秀の丹波征討戦に、幽斎(藤孝)と共に援軍として参陣します。

丹波征討戦にて、忠興は明智光秀から、「降伏してくる者を無闇に殺してはならぬ」と注意されたと云われています。

天正7年(1579年)、織田信長の命令により、父・細川幽斎(藤孝)は、丹後攻めを行います。

細川忠興も幽斎や明智光秀らと共に従軍し、建部山城主・一色義道を自害に追い込みます。

この功績により、翌年、細川幽斎(藤孝)は丹後南半国を拝領することになります。

天正9年(1581年)、織田信長の力を天下に知らしめた京都御馬揃えが行われました。

京都御馬揃えは、天皇も招待した大規模な軍事パレードのことですが、細川忠興も参加しています。

『信長公記』によると、京都御馬揃えの際、織田信長が着用した「蜀紅の錦の小袖」は、忠興が信長に献上したものだと書かれています。

本能寺の変後、忠興の去就

天正10年(1582年)6月、細川忠興の義理の父・明智光秀が本能寺の変を起こしました。

明智光秀の娘を娶っていた細川忠興、幽斎(藤孝)父子には、運命を左右する出来事でした。

明智光秀から味方になるよう誘いがありましたが、細川忠興、幽斎(藤孝)父子は剃髪し、家督は忠興に譲り、光秀の誘いを拒否しています。

こうしていち早く信長の喪に服すことで、明智光秀の親族でありながら、本能寺の変に加担していないことを示しました。

そして、光秀の娘・玉子(ガラシャ)の処遇に困り、丹後の味土野に幽閉したと云われています。

玉子(ガラシャ)自身は、追い打ちをかける悲しい出来事に感じたのではないかという意見があります。

一方、忠興は玉子(ガラシャ)を離縁すれば済むことなのに、幽閉したのは玉子に愛情があったためではないかと見られています。

細川忠興は、教養人の清原いと(清原マリア)を玉子(ガラシャ)の侍女にしています。

清原いととの出会いが、ガラシャの生きる気力に繋がったと見られています。

幽閉について史実でないとの指摘もありますが、現在の味土野に碑石が建てられています。

味土野に建つ「細川忠興夫人隠棲地」の碑石
味土野に建つ「細川忠興夫人隠棲地」の碑石

明智光秀は娘・玉子の嫁ぎ先で、与力でもあった細川家に期待していたと云われており、拒否されたのに食い下がる光秀の書状が残されています。

明智光秀は、自身の嫡男・光慶と、細川忠興に全てを譲って隠居するとまで書いてあります。

ですが、後の山崎の戦いにて、明智光秀は敗北し滅亡します。

明智光秀の敗北を決定付けたのは、細川忠興、幽斎(藤孝)父子と筒井順慶の協力が得られなかったことだと云われています。

忠興の妻・玉子から見れば、父・光秀を見殺しにされたことになります。

ですが、明智光秀の娘婿という理由で津田信澄は、光秀との内通を疑われ、事実無根ながら攻め滅ぼされています。

細川忠興らが光秀に従わない意思を明確に示さなければ、攻められていたかもしれません。

細川家の去就は、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)から称賛され、その後秀吉からも重宝されることになります。

名門の細川家が秀吉側についた政治的な効果は、大きかったのではないでしょうか。

忠興の顔の傷は妹に付けられた!?

また、忠興は父が隠居したため、丹後南半国の領主、宮津城主になりました。

丹後の北半国は、一色義定(一色満信)が統治していました。

かつて、父・幽斎(藤孝)攻めたものの手こずり、忠興の妹・伊也が一色義定(一色満信)に嫁ぐことで和議を結んでいます。

一色義定(一色満信)は、山崎の戦いの折、光秀に味方したことから、秀吉に敵視されてた人物でもあります。

細川忠興は、居城・宮津城にて、一色義定(一色満信)を騙し討ちにし攻め滅ぼすと、秀吉から丹後一国の領有を認められています。

一色氏は細川氏と同じで、足利氏の流れを汲む一族です。

にもかかわらず、忠興は一色氏の家臣を含め滅ぼし、武勇伝として語っていたと云われています。

忠興の残忍な性格を説明する際に用いられることもある出来事ですが、父も出来なかった丹後国の平定を、忠興は成し遂げたのです。

ただ、忠興の妹で一色義定(一色満信)に嫁いでいた伊也に恨まれ、斬りかかられたという逸話が残ります。

ある日、忠興を呼び出した伊也は、忠興の首に刀を突きつけたそうです。

忠興は間一髪で刀をかわしますが、鼻を真一文字に切ってしまったと云われています。

この顔の傷について触れることは、タブーであったそうです。

この逸話の真偽は不明です。

豊臣秀吉の家臣として転戦する忠興

天下を手中に収めつつあった羽柴秀吉(豊臣秀吉)と織田信長の次男・信雄が対立します。

織田信雄は徳川家康と同盟を結び協力を得て、羽柴秀吉と戦になります(小牧・長久手の戦い)。

天正12年(1584年)に起きた小牧・長久手の戦いに細川忠興も秀吉方として参じています。

翌年、従四位下・侍従に叙任し、羽柴姓を与えられました。

また、加藤清正、福島正則などと並び、羽柴秀吉子飼いの七人の武将の一人に数えられるようになりました。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉と島津氏の戦である九州征伐が起き忠興も参じています。

当時の九州は、大名にまでキリスト教が広がっていました。

九州を平定した秀吉は、長崎の統治権がイエズス会になっていることを知り、驚いたと云われています。

キリシタンの蜂起を警戒し、キリスト教宣教の制限をするバテレン追放令の発布につながるのです。

一方、忠興の妻・玉子(ガラシャ)は、忠興が九州に行っている間に屋敷を抜け出し、教会に行っていました。

忠興が九州から屋敷に戻った時、妻・ガラシャ(玉子)は洗礼を受けた後でした。

ガラシャ(玉子)がキリシタンになったことを知った忠興は、棄教させようとしましたが、ガラシャの意思は固く黙認したと云われています。

天正16年(1588年)、忠興は、豊臣姓を下賜されています。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉と小田原の北条氏との戦が起きます(小田原征伐)。

細川忠興は、北条氏規が籠る伊豆の韮山城(にらやまじょう)攻めに従軍し、韮山城は約100日後に開城します。

忠興の朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)

文禄元年(1592年)、日本と朝鮮半島国家の間で戦が起き、細川忠興も朝鮮に上陸し従軍しています。

文禄2年(1593年)までを文禄の役と呼び、慶長2年(1597年)~慶長3年(1598年)までを慶長の役と呼びます(朝鮮出兵)。

細川忠興は、9番隊にに所属し、文禄の役で晋州城(しんしゅうじょう)を攻めています。

長谷川秀一、木村重茲らと共に、前哨戦になる昌原城を攻め落とし、指揮者であった柳崇仁を敗走させます。

柳崇仁は晋州城へ逃げ延びようとしますが、部下であった金時敏(きん・じびん、キム・シミン)に拒否され、仕方なく城外で忠興らに挑むものの敗北し滅びました。

次は、晋州城を攻め落とそうと、忠興が指揮の日本軍と金時敏が指揮の朝鮮軍が激突し攻防戦になります。

朝鮮軍7500に対し、細川忠興は2万の軍勢を率いて猛攻を仕掛けましたが、撃退されています。

金時敏は戦の傷がもとで亡くなり、翌年に宇喜多秀家、加藤清正らの活躍もあり、晋州城は落城しています。

また、忠興は朝鮮半島に出兵している中、妻のガラシャに「秀吉の誘惑に乗らないように」という手紙を何通も書いています。

忠興は嫉妬深いと云われていますが、ガラシャに対する忠興なりの愛情でしょうか。

細川忠興・ガラシャ夫妻の像
細川忠興・ガラシャ夫妻の像

豊臣秀次事件で窮地に陥る忠興

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の甥・秀次が秀吉に自害させられました(秀次の切腹事件)。

秀次の継室、側室、子供、重臣の一部など多くの人が秀次に連座し、秀吉に滅ぼされてしまいます。

この時、危機に陥った一人が細川忠興です。

秀次に借金があった忠興は、秀吉から謀反連座の疑いをかけられてしまいます。

黄金100枚という大金を借りていた為、秀次と結んでいたのではないかと疑われた為でした。

また、忠興とガラシャの間に長(ちょう)という長女がいて、前野景定の正室になっていました。

前野景定は、父・前野長康と共に、豊臣秀次の家老職に就いており、秀次を弁護したとの理由で自害させられています。

忠興の娘・長にも、捕縛命令が出され、細川家は焦っていました。

この時奔走したのは、忠興の重臣である松井康之。

徳川家康から金子を借りて秀吉に返納し、忠興の娘・長を前野景定から離縁出家させて難を逃れました。

忠興は松井康之に感謝して、康之の次男・新太郎(興長)に娘のこほを嫁がせています。

徳川家康に接近する忠興

豊臣秀吉が病没すると、徳川家康と誼を通じました。

慶長4年(1599年)、加藤清正、福島正則ら、いわゆる豊臣政権内の武断派と呼ばれる武将らと共に、細川忠興も石田三成襲撃に加わりました。

石田三成を快く思っていなかった武将らは、秀吉の病没をもって終焉になった朝鮮出兵の処遇に不満を持ち、恨んでいたと云われています。

同年、豊臣政権の五大老筆頭であった徳川家康のすすめにより、忠興に豊後国杵築6万石が加増され、所領の丹後宮津12万石と合わせ18万石の大名に躍進しました。

この頃、徳川家康は、豊臣家の蔵入地を諸大名に分け与えていました。

また忠興は、秀次事件の時に細川家の危機を救った松井康之を有吉立行と共に城代にしています。

細川忠興の関ヶ原合戦

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では、忠興は徳川家康に味方します。

「味方につけば但馬一国(10万石)を進ぜよう」という言葉を受けてのことだと云われています。

豊臣恩顧の大名である細川忠興の決断は、その他の豊臣恩顧の大名にも影響があったと見られています。

ただ、先に述べたように忠興と長女は、秀次事件に連座し、命が危機だったかもしれません。

そのような中、忠興の危機は、徳川家康から借りた金子で救われています。

忠興が豊臣秀吉に取り立てられたのは史実ですが、元は織田信長の嫡男・信忠の家臣です。

忠興は秀吉が織田家から天下を奪った様を見ているわけで、秀吉亡き後、実力者で恩人の徳川家康を敵に回すのは難しいような気がします。

この少し前に、忠興は家康から謀反の疑いをかけられてようですが、またもや松井康之の働きで事なきを得たようです。

この話から、徳川家康から圧力のようなものがあったのかもしれないとも思いました。

慶長5年(1600年)7月(8月)、関ヶ原合戦の幕が開けます。

徳川家康は上杉景勝が軍事力を増強していると嫌疑をかけ、上杉征伐に出陣したことが関ヶ原合戦の始まりです。

細川忠興は、福島正則、加藤嘉明と共に先鋒を任じられています。

忠興は出陣する際、もし妻(ガラシャ)が辱しめを受けるようなことがあれば、妻と共に自害するよう家臣に命じて屋敷を留守にしました。

これは戦国時代のならわしで、いつも命じていたようです。

忠興の留守を狙った石田三成らは、ガラシャを人質に取ろうと屋敷を包囲します。

ガラシャは人質を拒み、キリシタンは自害を禁じられている為、家老に自身を突かせ果ててしまいます。

そして、家老や家臣もガラシャの後を追っています。

その後、忠興はガラシャに殉じた家老らに、ガラシャを逃がさなかったと怒りを露にしたと云われています。

有事の際は自害するように言い渡したのは、本心ではなかったと思われます。

ガラシャが没した一方、忠興の長男・細川忠隆の妻(千世)は、宇喜多屋敷に逃れた後に前田邸に移っていました。

激怒した忠興は千世を生家に送り返そうとしますが、忠隆が庇ったため、忠興は激怒し廃嫡しています。

忠隆は世子であったようですが、後に三男・忠利が細川家の家督を継ぐことに繋がる出来事です。

忠興の家臣が記したと思われる書物に「忠興は天下一気が短い人」とあり、怒りっぽい人だったようです。

ガラシャが没して直ぐに、忠興の父・幽斎にも危機がせまりますが、勅命により関ヶ原本戦の前に開城しました(田辺城の戦い)。

幽斎の命を惜しんだ天皇の命令があるまで、幽斎は頑なに城を守りました。

ですが忠興は、城を敵に明け渡したことが気にいらなかったようで、幽斎と不仲な時期があったと云われています。

関ヶ原本戦では、忠興は黒田長政らと共に石田三成隊と激闘になったと伝わります。

細川忠興陣跡
細川忠興陣跡

ガラシャの仇討ちとばかりに戦い、136もの首級をあげています。

明智光秀の子孫と細川ガラシャ(明智玉子)の子孫

小倉藩を立藩する忠興

関ヶ原合戦の恩賞として忠興は、丹後12万石から豊前国中津に国替えのうえ33万9000石に加増されました。

但馬一国の加増は、家康の重臣の進言によりなくなったようです。

豊臣家の蔵入地だった豊後杵築6万石も細川領とされた為、忠興は合計で39万9000石の大名になり小倉藩を立藩しました。

細川忠興は、毛利氏によって築かれた小倉城(こくらじょう)に天守閣を築城し居城とています。

小倉城復興天守
小倉城復興天守

慶長16年(1611年)、細川忠興は、徳川家康の元に参上する為上洛し、病に倒れています。

徳川家康は、忠興に癪(しゃく)の持病があることを知っていた為、漢方薬の万病円を忠興に遣わし、回復したそうです。

その日の内に家康の元へ参上し、お礼を述べたと伝わります。

大坂の陣と忠興の次男

慶長20年(1615年)、徳川家と豊臣家の戦に忠興も参じ、豊臣家は滅亡(大坂夏の陣)。

忠興の次男・興秋は、大坂の陣で豊臣方に味方しています。

徳川家康は許そうとしたそうですが、忠興が自害させたそうです。

大坂夏の陣後に忠興は、松平姓の下賜を辞退しています。

前田氏、伊達氏、島津氏、毛利氏、浅野氏、黒田氏など多くの外様大名が松平姓を賜っています。

元和6年(1620年)、家督を三男・忠利に譲って隠居し、三斎宗立と号しました。

忠興は隠居後も、忠利と交代に国許と江戸を行き来するなどして、情報を得ています。

寛永9年(1632年)、加藤忠広の改易に伴い、細川忠利は豊前小倉39万9000石から肥後国熊本に移封の上、54万石に加増されました。

細川忠興(三斎宗立)は、9万5000石を隠居領とし、幕府の命令により八代城に入ります。

正保2年(1645年)、臨終の折に「戦場が恋しきぞ」と述べて没しました。

享年83歳。

文化人としての忠興(三斎)

忠興(三斎)は文武両道の武将でした。

父の細川幽斎は、『勅撰和歌集』の秘伝を受け継ぎ、天皇にすら命を惜しまれる文化人でもあります。

幽斎の子・忠興(三斎)も文化人としても大成し、和歌、絵画、能楽に通じた教養人として知られます。

細川忠興(三斎)は、茶の湯にも通じ、茶道の流派・三斎流の開祖になるほどの達人です。

茶人としての名前は、細川三斎(さんさい)として知られています。

優れた茶人達と交流を持ち、千利休にも気に入られていていたそうです。

後に千利休と豊臣秀吉の仲は険悪になりますが、忠興(三斎)は仲を取り持つため奔走したと云われています。

にもかかわらず、千利休は自害を命じられますが、利休は忠興(三斎)に茶器を与えており、忠興の働きに感謝していたようです。

明智光秀の子孫と細川ガラシャ(明智玉子)の子孫

参考・引用・出典一覧
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