明智光秀の肖像画には、興味深い話が伝わっています。
この記事は、光秀の肖像画についてと、所蔵する岸和田の本徳寺、肖像画に関係する明智光慶について記しています。
また、光秀は生きて玄琳、南国梵桂となったとする説も記しています。
本徳寺が所蔵する光秀の肖像画
下の肖像画を見て、多くの人は明智光秀の肖像画だと認識出来るのではないでしょうか。
明智光秀の肖像画は一つしか伝わっていなく、その唯一の肖像画は、大阪府岸和田市の本徳寺にあります。
この光秀の肖像画について調べたところ、この肖像画はおそらく光秀の肖像画であろうという、曖昧なものであることがわかりました。
何故、光秀の肖像画だとされているのでしょうか。
光秀のものとされる肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」、そして、光秀のものとされる位牌の戒名は、「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」と書かれています。
言われないと気が付かないかもしれません。
「輝」と「琇」という字の中に「光秀」という名前が隠れています。
このような理由で、光秀の肖像画だとされている!?そうです。
この曖昧な理由で光秀の肖像画であると伝わっているという…。
南国梵桂(玄琳)と光秀について
それと本徳寺のある岸和田市に伝わる伝承も、この肖像画が光秀のものであることを後押ししているようです。
本徳寺を創建したのは、南国梵桂(なんごく ぼんけい)であると云われています。
実は、南国梵桂は光秀の実の子供であり、落ち延びていたそうです。
出家して、京都の妙心寺の塔頭・瑞松院での修行を経て、海雲寺(現在の本徳寺)を開基し、光秀の肖像画と位牌を用意し供養したそうです。
南国梵桂になった光秀の実の子は、元は明智光慶(あけち みつよし)という人物だそうです。
明智光慶は、光秀の長男であると云われる人物です。
ただ、光秀の子供には諸説あり、正確なことはわかっていません。
記録を照らし合わせ考察すると、男子は3人はいると推察できます。
その中でも明智光慶の名前は史料で確認されており、実在した人物だと見なされています。
明智光慶は、生き延びたとする説と、本能寺の変の後に亡くなったとする説、二つあります。
有名武将の遺児が、実は生き延びていたとする説は有り勝ちな話ですが、嘘とも言い切れなそうです。
南国梵桂は光秀の肖像画だけでなく、明智家に縁がありそうな不思議なところがある為です。
明智光慶は落ち延びた後、出家して妙心寺の塔頭である瑞松院に住んで、玄琳(げんりん)と名乗ったとされています。
ややこしくなってきましたが(汗)、明智光慶=玄琳=南国梵桂は、光秀の子供で光秀の肖像画と位牌を用意した人物だと云われています。
玄琳が住んだ瑞松院は、江戸時代初期には妻木氏が檀家となり、経営を助けていたそうです。
妻木氏とは、光秀の正室で明智光慶の生母の実家です。
また玄琳の師匠は三英瑞省といい、妙心寺の塔頭・大心院の僧侶でした。
大心院の檀家は、光秀の娘・細川ガラシャの夫である細川忠興だそうです。
このように、玄琳は光秀に近しい人に寺院の経営を助けてもらっていることから、光秀の縁者である可能性があるのではないかと推測できるようです。
このことにプラスして、『明智系図』という明智家の家系図を、玄琳は作成しています。
『明智系図』には、信憑性の高い内容が書かれているため、このことからも縁者である可能性が指摘されています。
ですが不思議なことに『明智系図』には、明らかに嘘だと分かるようなことも記載されているそうです…、何故かは不明です。
その後、玄琳は、南国梵桂(なんごく ぼんけい)となり、父・光秀の肖像画と位牌を作ります。
南国梵桂は光秀によく似ていたので、梵珪をモデルに肖像画が描かれたと伝わります。
また本徳寺には、光秀の刀と茶壷も伝来し代々引き継いでいたそうですが、戦火でなくなってしまったそうです。
光秀の肖像画はいつもは非公開ですが、たまに一般公開されることがあるそうです。
実際にご覧になった人の話では、想像よりも小ぶりな肖像画であったと仰っていました。
本当に光秀の肖像画かどうか確認したくても、他に肖像画はありませんし確認のしようがありませんね。
もしも、光秀の肖像画でなかったとなれば、それこそ、その肖像画は一体何なのか気になってしまいますが。
妙心寺に残る「明智風呂」
また妙心寺には、「明智風呂」と呼ばれる光秀ゆかりのお風呂があり、国の重要文化財になっています。
明智光秀の叔父・密宗和尚が妙心寺塔頭の僧で、光秀の菩提を弔うために「明智風呂」を建立したそうです。
現在の建物は、明暦2年(1656年)に再建された物で、洗い場のあるサウナのようなお風呂です。
光秀の肖像画に記載された生存伝説
本徳寺には、光秀の生存説も残っています。
光秀は、息子・南国梵桂を頼って、僧になったという説があるそです。
光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」と書いてあるそうですが、「仏門に入り去っていった」という意味とのことです。
光秀は生き延びてこの寺で仏門に入った後に、寺を出ていったと読み取れるとされています。
また光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四己亥」と書いており、「慶長4年(1599年)に当寺を開基した」という意味になり、1599年に本徳寺を開基したのは光秀であるという意味だそうです。
その説によると、光秀は関ヶ原の戦いの前年までは生きていたことになりますね…。
また、江戸時代に成立した『和泉志』にも似たことが書かれているようです。
山崎の戦いで敗北した光秀は、光慶を妙心寺の欄秀宗薫(らんしゅうそうくん)に託したそうです。
光慶は僧侶になり玄琳(南国梵桂)と名乗り、鳥羽村にあった海雲寺で光秀を匿ったと書かれています。
その後、戦火で焼けてしまい、岸和田に移住して本徳寺を創建したと記録しています。
一方、本徳寺にある光秀の13回忌を執り行った記録には、光秀は天正11年(1583年)に亡くなったと書かれているそうで…、どちらが正しいのでしょうか。
生きているとマズイので、亡くなったことにしたのでしょうか。
いずれにせよ、山崎の戦い後も生きていたことになります。
鳥羽に伝わる俗謡
有名武将の落人伝説的な話は、多くの武将にありますね。
真偽不明ですが、意味深な俗謡が伝わっていますので、書かせていただきます。
「鳥羽にやるまい女の命 妻の髪売る十兵衛が住みやる 三日天下の侘び住居」
「鳥羽」とは、「本徳寺」の前身寺「海雲寺」があった和泉国南郡鳥羽村(現・大阪府貝塚市鳥羽)、光秀を匿ったというを指しています。
「十兵衛」とは明智光秀の通称です。
「妻の髪売る」は、光秀が越前で牢人し、生活が苦しかった頃、妻・煕子が黒髪を売って連歌会の費用を捻出した有名な逸話を指しています。
「三日天下の侘び住居」は、三日天下で終わった光秀の住居があったといいう意味です。
「後ろの正面」は本徳寺(光秀)
光秀の生存説は他にもあります。
一番有名な説は、光秀は徳川家康の参謀の僧侶・天海になって生き延びたとする説ですね。
都市伝説やミステリアスな話が好きな方におススメな話です。
また、この明智光秀=天海で、本徳寺にもミステリアスな話が伝わります。
それは、光秀の生誕地説のある岐阜県可児市、日光東照宮、本徳寺の位置関係がポイントになっています。
日光東照宮は、徳川家康のお墓があることで知られていますが、光秀は天海として生き延びたのではないかとする説の根拠に使われる場所でもあります。
光秀が生まれた可児市から、日光東照宮の方向に向くと、「後ろの正面」は本徳寺(岸和田市)です。
なので、日光東照宮に関わりのある天海は、光秀なんだという暗示なんだとか。
これは動揺の「かごめかごめの唄」の「後ろの正面誰」に込められた暗号だという説があります。
話がややこしいので、まとめると、可児市(光秀)から、日光東照宮(天海)の方向に向いて「後ろの正面」に本徳寺(光秀)がいる。
天海の正体は、光秀だということを示した唄だという意味です。
この話は光秀の出自の土岐氏が出てきたり、長くなります。
詳しくは別で記事にしてありますので、気になる方はクリックしてご覧ください。
その他、荒深小五郎として生きた説、進士藤延として生きた説などもあります。
こちらもそれぞれ、別で記事にしています。
本徳寺へのアクセス
〒596-0055 大阪府岸和田市五軒屋町9-13
南海本線岸和田駅から徒歩8分
光秀の肖像画と関係のある⁉明智光慶とは
先に述べたように、明智光秀の肖像画を用意した南国梵桂(なんごく ぼんけい)は、明智光秀の長男である明智光慶(あけち みつよし)であるとする説があります。
明智光慶とはどのような人物か記載されていただきます。
光慶は光秀と妻・煕子の間に産まれたとされます。
通称は、十五郎、十兵衛とも云われていますが、光慶という諱すら合っているか定かではないという謎の人物です。
光秀が丹波国・亀山城を築城する頃に、歴史上に登場します。
ですが、目立った功績は不明とされています。
本能寺の変の直前の天正10年5月28日、愛宕百韻という連歌会にて、光慶が結句を詠んだとして名前が残っており、実在する人物ではあると見なされています。
本能寺の変の前後の光慶については、亀山城にて本能寺の変の一報を聞き、そのまま病没したとする説。
父・光秀が討たれた後、近江国・坂本城にて豊臣秀吉方の攻撃を受けて、落城し自害したとする説があります。
先に述べた生存説は、あり得ない話ではないと思います。
光秀のように亡骸が秀吉方の手に渡っているわけではなく、光秀の重臣・齋藤利三のように捕まった記録も有りません。
坂本城落城時、城を守っていたのは、光秀の娘婿とも従兄弟とも言われる明智秀満(明智左馬助)です。
明智秀満(明智左馬助)が、落城の際に光秀の子供を手にかけてから、自害したと伝わります。
ですが亡くなったことにして、家名が絶えないように子供を落ち延びさせることは珍しいことではないと思います。
戦国時代に日本にいた宣教師であるルイス・フロイスが記した『日本史』によると、明智光秀の二人の子は、同所(坂本城のこと)で亡くなったこと。
十三歳の長男は、ヨーロッパの王侯のように優雅な人物であったことなどが記されています。
そして、秀吉軍が到着する前に多数の者が城から逃げ出したことも記しているため、逃げるチャンスがあったことがうかがえます。
また、ルイス・フロイスは、本能寺の変の直後に書いた『一五八二年日本年報追加』のなかで、光秀の子供について逃げた者もいる旨記載しているそうです。
そして、亡くなったのは、光慶ではなく自然丸(じねんまる)という弟と、もう一人別の弟であるとする説もあり、光慶が生きていても不思議ではない話に思います。
事実が解明される日はくるのでしょうか。
光秀の不思議な肖像画の話でしたが、進展があれば追記します。
明智光秀の肖像画展示終了
明智光秀の肖像画が展示される時、こちらでもお知らせしています。
岸和田城にて、本徳寺に所蔵されている明智光秀の肖像画が展示されていました。
2020年2月16日(日)~3月8日(日)まででしたので、こちらは終了しています。
2020年7月21日(火)から7月27日(月)まで、明智光秀の肖像画が福知山光秀ミュージアムで公開されていました。
次回、肖像画公開の情報を待ちます。
コメント