明智光秀といえば、どのような性格の持ち主でしょうか。
謀反人という悪いイメージがある一方、「実直な人」、「教養人」、「心優しい人」という、いいイメージもある光秀。
今回の記事は、光秀はどのような性格だったのか、光秀はいい人なのか悪い人なのか、当時の記録や出来事から考えたいと思います。
史料からみる光秀の性格
明智光秀を知る当時の人、または江戸時代に書かれた史料から見える光秀の性格について見てみます。
◎『明智軍記』から見える光秀の性格
明智光秀の人物像が最も克明に記載されているいる史料は、『明智軍記』という江戸時代に成立した明智光秀が主人公の軍記物です。
『明智軍記』は史料価値は低く、信憑性に乏しいとされています。
歴史上の敗者は、まともな伝記が残らない場合が多いですが、光秀も同じで史料が少ない為、信憑性に疑問符が付く史料でも参考にされているのが現状です。
『明智軍記』によると、光秀は鉄砲の名人で、朝倉義景や織田信長の信頼を受けていた軍師として描かれているそうです。
また、本能寺の変については、「信長の非道を正す為に正義の行いをした」と光秀を肯定するとうな描かれ方になっています。
◎『武功夜話』から見える光秀の性格
『武功夜話』(前野家文書)とは、織田信長存命の時からの秀吉の家臣である前野家に伝来した記録です。
ただ、『武功夜話』は矛盾点等がある記録の為、信憑性に関しては専門家の間でも議論されています。
『武功夜話』には、光秀は「忠誠心があり、信長の信頼も厚い人なのに、謀反を起こすとは人の心は分からないものだ」と記してあるそうです。
『武功夜話』では、いい人が信じられないという感じでしょうか、当時の記録として貴重であると思います。
※『武功夜話』の史料価値は、否定的な意見も多いと思いますが、個人的には、人間が記したもので間違えがあっても不思議でないですし、訳あって真実が書けなかった可能性等も考えられると思っています。
◎『細川家記』から見える光秀の性格
『細川家記』とは、戦国時代に活躍した細川幽斎(藤孝)や細川忠興などで有名な家です。
細川忠興が肥後熊本藩の礎を築き、江戸時代も栄えて、現在も続く名家です。
細川忠興の正室は、明智玉子(珠子)。
明智光秀の娘で、細川ガラシャの名前で知られている人物です。
細川ガラシャの義父の細川幽斎は、明智光秀の盟友でもあります。
それ故、本能寺の変後、光秀が見方になってくれると期待したのに、なってもらえませんでした。
細川幽斎の光秀の評価が残っています。
信長の命令で京都の亀山城(亀岡城)を落城させた時に、光秀が無益な殺生を避けたとして「慈悲深い人格者」と光秀を評価しているそうです。
明智光秀がどんな性格なのか知りたくても、光秀の記録はあまり残っていませんが、細川家は勝者側ですので、細川家の記録は残っています。
ですが、世を憚ったのか光秀の記録は信憑性の低い史料から転記するなどしていて、真実の光秀像が見えにくいそうです。
なので『細川家記』も光秀に関しては、どこまで信頼できるのかわかりません。
ですが、光秀の性格が悪かったのに、性格がいい人のような「慈悲深い人格者」と持ち上げる理由もありませんので、この記録は本心ではないかと思っています。
◎『光秀の文書』から見える光秀の性格
明智光秀には180通程の文書が残されています。
その文書は、部下の怪我の具合を気に掛ける文書が多く、部下想いで優しい人物像が伝わってくるそうです。
◎『日本史』から見える光秀の性格
当時、日本にいたイエズス会の宣教師であるルイス・フロイスの書いた『日本史』には、どのように書いてあるか簡単に記します。
明智光秀は、狡猾で残忍な性格の持ち主であり、「人を欺く72の方法を知っている」などと吹聴して周囲から嫌われていたそうです。
ですが、特技の嘘泣きを駆使して信長だけには功名に取り入っていたなど、かなり性格が悪く書かれています。
この光秀像は国内史料にはなく『日本史』独特です。
また、『日本史』では光秀のイエズス会に対する対応として、「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」と記してあります。
ルイス・フロイスの個人的な悪い感情が、反映されている可能性を感じます。
(ルイス・フロイスは、キリスト教に理解ある人物は、良心的に書いています。)
明智光秀はキリシタンに危害を加えた記録はないものの、キリスト教に冷淡であり、宣教師にとっては邪魔な存在であったと推測できます。
なので、仮に光秀の性格が悪かったとしても、言い過ぎている部分があるように思います。
このように史料から見える光秀は、『明智軍記』、『武功夜話』、『細川家記』は光秀を性格のいい人として、『日本史』は性格の悪い人として描かれています。
光秀は悪い人を伝えるエピソード
信長の残虐さを表すエピソードとして語られるものの一つに「比叡山延暦寺焼き討ち」があります。
信長と対立したために、僧俗・児童・智者・上人などの多くの人が焼き殺された凄惨な出来事です。
従来、実行したのは光秀であるものの、比叡山延暦寺の焼き討ちに反対で、主君である信長を強く諫めたとされていました。
ですが1979年に、光秀が近江の雄琴(おごと)城主・和田秀純に宛てた書状が発見され、そこには比叡山延暦寺の焼き討ちに関して、「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と記されていました。
「何としても、比叡山延暦寺を皆殺しにしなくてはならない」という意味になり、今までのイメージとは全然違う光秀像が垣間見え、現在では焼き討ちの中心人物であったとされています。
この世のものとは思えない光景だったとされる出来事の中心的な実行者として、残忍な一面があるように感じます。
冷淡になれない戦国武将はあまりいないのでは…とも思います。
残酷な面があるという意味では、悪い人になりそうです。
光秀の領民想いな性格
『老人雑話』という随筆に、光秀がいい人ではないかと思わせる光秀の言葉が記されています。
「仏や武士の嘘は許されて、百姓だけ処罰を受けるのはおかしい、百姓の年貢をごまかした嘘など可愛いもの」と話したとする記載があるとされています。
『老人雑話』は全てが真実ではないとされていますので、領民想いな性格が垣間見える話ですが真偽は不明です。
ただ、光秀が領民想いだったことは、史実である可能性が高いように思います。
例えば、光秀が治めた丹波の福知山では、光秀は善政を敷いたと伝わります。
明智光秀は自身の家臣が住む「武家町」より、領民が住む「町人町」に良い場所を与えていました。
普通は、家臣の方が良い場所に住むようで、珍しいようです。
また、税を免除したり、本当に光秀の功績か不明ですが、領民を苦しめる川の氾濫を抑える工事をしたとも云われています。
明智光秀が丹波を治めたのは、本能寺の変を起こすまでの約二年半だけですが、今でも大変慕われているそうです。
謀反人とされた時代に光秀を祀る神社までできています。
光秀を祀る御霊神社ができる2年ほど前に、『明智軍記』という光秀が主役の軍記物出版されています。
『明智軍記』によって光秀の評価が良くなっていたり、藩主の朽木氏が光秀に恩のある人物であるという背景もあるようです。
また福知山だけでなく、光秀が治めた近江の坂本でも、善政を敷き慕われていたそうで、領民の立場で見れば光秀はいい人だったのかなと思います。
明智光秀の遺徳を今に伝えてる話がある丹波国と光秀については、こちらの記事に詳しく記載しています。
☟
また、越前にも光秀によって戦火から、町人が守られ、光秀坐像をつくり密かに感謝を捧げた話が残されています。
光秀が越前で浪人してた頃に、お世話になった町人の恩義に報いたようです。
光秀の家臣想いな性格
また光秀は、亡くなった光秀配下の兵士の供養をしたり、負傷した家臣を見舞ったりしています。
具体的には、18人の家臣が戦で亡くなり、供養する為に坂本の西教寺に、供養米を寄進しています。
身分の低い家臣も区別することなく、同じお米を供え冥福を祈りました。
また、光秀の家臣・河嶋刑部丞(かわしまぎょうぶのじょう)に送った書状に戦で負った傷を心配する言葉があります。
この時代、家臣にこのように心を配る主は、珍しかったといいます。
明智光秀は身内に優しいのでしょうか、根はいい人なのかもしれません。
妻を大事にする逸話
また、光秀の性格がいい人だとする話で、よく紹介されるのは、光秀の妻・煕子(ひろこ)とのエピソードではないでしょうか。
光秀と煕子が婚約時代に、煕子が疱瘡(ほうそう)にかかり、顔に痘痕(あばた)が残ってしまいます。
醜い顔になってしまったと煕子が思い、煕子の父の提案で光秀と結婚するのは、煕子の妹にすることを受け入れます。
ですが、光秀が見た目より心が大切だと言い、煕子を嫁に貰ったとする美談です。
そして後に、煕子も光秀の想いに応え、光秀が困窮していた頃に自身の自慢の髪の毛を売って、お金を工面したという内助の功も伝わっています。
しかし、この煕子との話は、創作である可能性が高いとされており、光秀がいい人である傍証にはならなそうですが、夫婦仲が良かったのは史実と見られています。
先ほど、西教寺に供養米を寄進した話を書きましたが、西教寺では光秀の妻の葬儀もおこなわれました。
当時の妻の葬儀に夫は参列しない習慣を破って、光秀は戦で忙しい最中に参列したと西教寺の住職は伝えています。
西教寺に行った記事です。
『供養米寄進状』についても書いています。
☟
筆者の所感
現代でも同じ人の評判を聞く相手が違えば、全然違う反応が返ってきたりします。
相手の立場によっても見え方が違うでしょうし、当時の人達の言葉を見ても光秀の性格の断定は難しいですね。
個人的には、光秀の性格は、いい人の面と残忍な面があったと感じています。
明智光秀は、外様でありながら、信長家臣団のエース格まで上り詰めた人物です。
「いい人」だけでは、そこまでの出世は難しかったと思います。
ただ、謀反人からイメージするような「悪い人」という感じはしませんね。
本能寺の変も余程の理由があったのだろうと思います。
いい人と思う理由は、先ほど述べましたが、光秀の治めていた土地で現在も光秀が慕われてることです。
当然長い歴史の中で、光秀以外にもその地を治めていた領主はいるのに、光秀を最も慕っているように感じます。
敗者側である光秀は、良い事実は消されて私たちは知らなかったり、事実でない悪い噂を流されたりしているのではないかと思います。
それでも、それだけ慕われているということは、それだけ善政を敷いていたということだと思います。
民主主義でない時代にあって、領民にそこまで慕われるのは、凄い事に感じます。
コメント