浅井長政は、六角氏に従属する立場から北近江の大名に成長した人物です。
そして、織田信長の妹・お市の方を娶り同盟関係を築くものの、朝倉義景との同盟を重んじ信長から離反。
以降、織田信長と対立し、小谷城の戦いにて非業の最期を迎えます。
六角氏主従の証として賢政と名乗る
天文14年(1545年)、浅井長政(あざい ながまさ)は浅井久政の嫡男として、南近江の六角氏の居城・観音寺城下で生まれます。
母は近江国の豪族・井口経元の娘で小野殿、阿古御料とも称された方です。
浅井長政の幼名は猿夜叉丸、別名で新九郎です。
どうして六角氏の城下で浅井長政が生まれたかというと、長政の祖父の代まで時代は遡ります。
祖父・浅井亮政は、北近江の国人でしたが、北近江の守護・京極氏を破り、小谷城を居城として独立。
下剋上により支配権を握ったと云われています。
浅井氏は北近江に勢力を築きますが、京極氏の本家筋で南近江の守護・六角氏と対立します。
そして、京極氏が浅井亮政に反旗を翻し、決着がつかないまま亮政が没します。
浅井長政の父・浅井久政の代になると亮政が得た領土を失い、六角氏の配下になります。
浅井久政は武勇に冴えなかったと伝わる人物で、六角氏の配下になることで、他の勢力の侵攻を防いでいたようです。
その背景から、浅井長政、長政の母・小野殿は、六角氏の人質になっていたそうです。
浅井長政は15歳で元服しますが、六角氏当主・六角義賢(承禎)から「賢」の字をとって「賢政」と名乗ります。
浅井長政の烏帽子親は、六角氏の家臣の平井定武が務め、後に定武の娘を正室に向かえるよう強いられます。
浅井長政 北近江の戦国大名へ
弱腰な浅井久政に不満を持つ家臣達は、浅井長政(賢政)に期待を寄せ、家督を長政に譲るように迫ります。
浅井久政を一時的に竹生島に幽閉して隠居を強い、半ば強引に浅井長政(賢政)が家督を相続しました。
浅井長政(賢政)は、「賢政」の名前を「新九郎」に戻し、送り込まれた正室を六角氏に返し、六角氏に従わない意向を示します。
浅井長政(新九郎)は、浅井領に隣接する六角氏に調略を行い、肥田城主・高野瀬秀隆(たかのせ ひでたか)が六角氏から離反します。
離反に怒った六角義賢(承禎)は、肥田城に兵を差し向けますが、浅井長政(新九郎)の援軍が到着し、両軍が対峙します。
永禄3年(1560年)、六角義賢軍2万5000人に対し、浅井長政(新九郎)軍1万1000人という兵数差がありましたが、六角軍の油断もあり浅井軍が大勝しています(野良田の戦い)。
浅井長政(新九郎)は、弱冠15歳でしたが、六角義賢(承禎)を相手に戦の才能を発揮したのです。
勝利した浅井長政(新九郎)は、六角氏から独立し、北近江を支配する戦国大名としての立場を確立していきます。
六角氏の弱体化と浅井長政の勢力強化
先の野良田の戦いにて、まさかの敗北を喫した六角氏の動揺は、激しかったそうです。
六角義賢(承禎)は、野良田の戦いの前年に、嫡男・六角義治に家督を譲っていますが、敗北をきっかけに出家します。
また、敗北した頃から六角義賢(承禎)と六角義治は、対立するようになります。
その理由の一つは、六角義治の結婚問題にあったようで義治は、美濃・斎藤義龍(高政)の娘を娶ろうとしますが、六角義賢(承禎)は朝倉義景の娘を迎えようとしていたと云われています。
出家しても実権を握っていた六角義賢(承禎)は怒り、六角義治は一時飯高山で暮らしたり、重臣の後藤賢豊らは責められます。
六角氏が一枚岩でない中、六角氏の弱体化を決定づける出来事が起きます。
永禄6年(1563年)、六角義治の命令により、宿老の後藤賢豊と子が亡き者にされるお家騒動が起きたのです(観音寺騒動)。
後藤賢豊は、六角家中でも人望があり、六角義賢(承禎)からも信任の厚い人物です。
理由は不明ですが、功労者の後藤賢豊であっても、気に入らなければ始末されるとう暴挙に、六角氏の家臣らは六角義治に不信感を持ったと云われています。
一時的にですが六角義賢(承禎)と義治父子は、観音寺城から追われていて、浅井方に寝返る者も多くいました。
このように六角氏から浅井氏に人材が流出し、長政の勢力は強くなっています。
同年、浅井長政(新九郎)が美濃に進軍した隙に六角軍が進軍した為、反転し六角軍と交戦します。
浅井三将の一人・赤尾清綱(あかお きよつな)の働きなどもあり、六角軍を撃退しています。
浅井長政 お市の方を娶る
その頃、尾張の織田信長は、美濃の斎藤氏攻略に手を焼き、打開策として、不破光治(ふわ みつはる)を介して、浅井長政(新九郎)に同盟を申し込みます。
織田信長、浅井長政(新九郎)共に、隣接する六角氏、斎藤氏と敵対関係にありましたので、理にかなった同盟と言えそうです。
浅井氏有利な内容の条件で提案されたようですが、浅井家中は意見が分かれます。
浅井長政(新九郎)の信頼厚い遠藤直経も反対した一人です。
反対する要因は、浅井長政(新九郎)の祖父・亮政の代から同盟関係にあり、父・久政の盟友でもある朝倉氏と信長が不仲であることだと云われています。
当時、浅井家の家督は長政が正式に継いでいますが、浅井久政の影響力も残っていました。
しかし、浅井長政(新九郎)は、織田信長の妹(従妹とも)お市の方を正室に迎え同盟を結びます。
浅井長政(新九郎)がお市の方を娶った時期は定かではなく、永禄10年(1567年)説、永禄7年(1564年)説、永禄8年(1565年)説など諸説あります。
一説には、結婚を機に信長から「長」の字を拝領し、「長政」と名を変えたとも云われています。
花押も変更し、「長」の字を右に倒した形にしています。
織田信長は浅井長政との同盟をとても喜び、当時のしきたりを破り、結婚資金を信長が全て負担したと云われています。
同盟を結んだことで織田信長は、近江を美濃侵攻の足掛かりにし、やがて美濃を平定します。
信長と共に上洛する長政
美濃を平定した織田信長は、足利義昭を将軍に就けるべく、義昭を奉じで美濃から京へ上洛を決意します。
その際に通過するのが近江ですが、浅井長政の北近江を堂々通れることで、通路も確保したことになります。
浅井長政も3000兵を率いて信長の上洛軍に加わり、上洛の途中で南近江の六角義賢(承禎)、義治父子ら六角軍と戦になり打ち破っています(観音寺城の戦い)。
永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いにて大勝した織田軍は、三好勢も蹴散らし無事に入京し。
そして、足利義昭を征夷大将軍の座につけました。
一方、浅井長政と争っていた六角義賢(承禎)、義治父子らは、敗北により南部の甲賀郡に拠点を移しています。
上洛を果たした信長は、将軍・足利義昭というカードを手に入れ、義昭を口実に諸大名に上洛を促す書状を出します。
足利義昭と連名ではなく信長からの書状でした。
当時、織田信長は実力者というより将軍の付き人と思われていたようで、信長に従いたくないと思う大名もいたのではないでしょうか。
その上、織田信長は新興勢力…、越前の朝倉義景は信長を無視して上洛をしませんでした。
浅井長政 信長から離反し朝倉義景を選ぶ
元亀元年(1570年)4月、織田信長は、朝倉義景を征伐する軍勢を越前に進軍させます。
織田信長の朝倉攻めにより、窮地に立たされたのは、信長の妹婿の浅井長政です。
信長と蜜月関係であった長政ですが、長政の祖父・亮政の代から、浅井、朝倉は同盟関係にあります。
それ故、信長は長政に無断で朝倉を攻めないという約束をしていましたが、同盟相手の徳川家康の他、松永久秀や池田勝正などを従え、若狭攻めを口実にして、越前の朝倉義景領に侵攻したのです。
浅井家家臣の中には、元々、信長との同盟に反対していた家臣たちがいます。
その家臣らから見たら、快く思っていなかった信長が、約束を破り朝倉攻めをしたのです。
そこで、浅井長政の父・久政を担ぎ出します。
未だ発言力を持っていた久政は、頑なに朝倉に味方することを主張した為、長政は折れて信長を裏切ったとも云われています。
いずれにせよ、浅井長政は、盟友・朝倉義景を救援することを決めました。
浅井・朝倉軍で信長を追い詰める
朝倉方の天筒山城(てづつやまじょう)を陥落させた織田・徳川軍は、金ヶ崎城も攻略するなど、優位に戦を進めていました。
そのような中、同盟相手で盟友でもある浅井長政が、寝返ったと知らせが信長にもたらせます。
信長は始めは長政の裏切りを信じなかったと『信長公記』は伝えますが、舞い込む情報に認めざるをえなくなります。
この時、信長の妹・お市の方が、陣中見舞いとして「両端を紐で結んだ小豆袋」を信長に届けたという有名な逸話があります。
『朝倉家記』に書かれた逸話になりますが、両端を紐で結んだことで、「袋のネズミ」であると暗号化して伝えたようです。
ですが、史実ではないだろうと見られています。
戦国時代の政略結婚は、生家の外交官のような立場で嫁ぐのが常ですので、夫の謀反を兄に知らせなくてはならないという、お市の立ち位置がわかる話だと思います。
朝倉義景と浅井長政に挟撃にされる危機に陥った為、織田・徳川軍は撤退を決意します。
織田信長は攻め落とした金ヶ崎城に木下秀吉(豊臣秀吉)を入れ、明智光秀や摂津守護・池田勝正らに殿を任せます。
一方、信長はわずか10人ほどのお供を連れて、越前敦賀から近江の朽木を経由して、京へ撤退しました。
撤退の際、近江の豪族・朽木元綱の協力を得ています。
『朝倉記』によると、朽木元綱は信長を亡き者にしようと考えていたそうですが、松永久秀の説得により気が変わり、協力したそうです。
この戦は「金ヶ崎の戦い」、又は「金ヶ崎の退き口」とも呼ばれ、信長の撤退戦として知られています。
以降、浅井長政は、織田信長と対立関係になります。
浅井長政 姉川の戦いで敗北
織田軍は美濃へ帰還し兵を立て直すと、同年6月、浅井方の城・横山城を包囲します。
そこに、織田信長には徳川家康の援軍が、浅井長政には朝倉景健を総大将とする朝倉軍が到着しました。
軍勢は、浅井・朝倉軍 13,000~30,000に対し、織田・徳川軍13,000~40,000だと云われ、近江浅井郡姉川で戦になります(姉川の戦い)。
浅井軍の先鋒を任された磯野員昌は、織田信長の本陣に迫る猛攻を見せたと云われています。
織田軍の13段の構えの内、11段まで崩したことから「員昌の姉川十一段崩し」という逸話が『浅井三代記』にありますが、この逸話は創作の可能性が高そうです。
いずれにせよ、激戦の中、稲葉一鉄など後方にいた織田方の軍勢が駆け付け、徳川家康の命令で榊原康政が側面から攻めると、朝倉軍が敗走しました。
その後、浅井軍も敗走します。
姉川の戦いでの浅井家の損失は多大であり、浅井長政の信任厚い遠藤直経、長政の弟・浅井政之、長政の宿老・浅井政澄、浅井政澄の弟・政成、政重、政連など、多くの一門衆、重臣を失っています。
姉川の戦い直後に、浅井方の拠点・小谷城から6~7kmの距離にある横山城が攻略され、木下秀吉が城番として入り、秀吉の浅井氏攻略の拠点、浅井氏の監視として使用されます。
ただ、浅井、朝倉共に戦う余力は残っており、石山本願寺、比叡山延暦寺と連携し、この先も信長に対抗していきます(信長包囲網)。
浅井長政と志賀の陣
同年9月、織田信長が三好三人衆や石山本願寺との戦(野田城・福島城の戦い)に釘付けになっている隙をついて、浅井長政、朝倉義景は信長の背後を突こうと京に向けて進軍しました(志賀の陣)。
途中、浅井・朝倉軍は、近江の宇佐山城主・森可成と小競り合いになり、織田方の可成が勝利しています。
その後、織田信治と青地茂綱の兵が森可成の援軍として馳せ参じ、比叡山延暦寺も加わり浅井・朝倉軍に対抗します。
一方、浅井・朝倉軍には、浅井長政本隊が加わり織田勢を挟み撃ちにした為、近江の坂本にて森可成(森乱丸の父)、織田信治(信長の弟)、青地茂綱らを討ち取り一矢報いてます。
近江の戦況を知った信長は、石山本願寺との戦に割いていた主力を含む全部隊を摂津から撤退させ帰京し、翌日近江へ向かいます。
浅井・朝倉軍は宇佐山城攻めを諦めています。
主を失った宇佐山城ですが、少数ながら士気が高く、徹底抗戦により、落城せず持ちこたえました。
織田軍に攻められた浅井・朝倉連合軍は、延暦寺の支援を得て比叡山に籠ります。
比叡山延暦寺が浅井・朝倉に味方したことで、後に比叡山延暦寺の焼き討ちの原因になります。
織田軍は二ヶ月に渡り比叡山を包囲しますが、各地にいる反信長勢力の動きを警戒し、比叡山で足止めするのは不利であると判断します。
朝倉義景も積雪により、越前へ戻る通路が絶たれる恐れがありました。
元亀元年(1570年)12月、両軍は、将軍・足利義昭、正親町天皇の調停を受け入れ和議を結んでいます。
その後、浅井・朝倉と織田信長の対立は続き、元亀2年(1571年)2月、浅井長政の家臣で、姉川の戦いで活躍した磯野員昌が信長に降伏しています。
同年9月、浅井長政らと協力してた比叡山は、信長の命令で焼き討ちにされ、攻め滅ぼされています。
小谷城攻略の要害完成
元亀3年(1572年)7月、信長は北近江に侵攻し、浅井長政の居城・小谷城間近にある虎御前山に砦を築いて、小谷城攻略の前線基地である横山城までつながる要害を築き始めます。
浅井長政は、朝倉義景に援軍を求め派兵されましたが、義景は殆ど動かず、要害は出来上がってしまい、信長は横山城に兵を引きます。
元亀3年(1572年)10月、横山城の城番を務めた木下秀吉と対峙していた宮部継潤(みやべ けいじゅん)が、浅井長政から離反します。
同年11月、浅井・朝倉勢は、要害を攻撃しますが、虎御前山砦に残っていた木下秀吉に撃退され、翌12月に朝倉勢は積雪と疲労を理由に、越前に戻ってしまいます。
武田信玄と連携する長政たち
こうして浅井・朝倉軍が織田軍と睨み合っている頃、信長の勢力拡大を念した武田信玄は、足利義昭の織田信長討伐令に応じ、信長を征伐する為、侵攻を始めます。
当時、武田信玄と織田信長は同盟関係でしたが、この戦いを機に対立します。
先に述べたように、浅井・朝倉軍は、北近江にて織田軍と対峙している最中ですが、武田信玄から浅井長政・久政父子宛に信長に対抗するよう要請した書状が届いています。
元亀3年(1572年)10月、武田軍は、信長の同盟相手・徳川家康の遠江へ攻め入ります。
浅井・朝倉軍は織田軍と戦い、時を同じくして武田軍が徳川軍と戦っていたのです。
また、信長は、佐久間盛など3000の兵のみを家康の援軍に送っています。
徳川軍の出撃はことごとく失敗して劣勢に追い込まれ、元亀3年(1573年)12月、武田軍に誘い出されるように三方ヶ原に出撃したものの大惨敗します(三方ヶ原の戦い)。
徳川家康は完敗し、浅井長政らにとっては織田信長を打ち破るチャンスが訪れていました。
しかし、先に述べたように、12月に朝倉軍は戦線離脱し、その後、頼みの綱の武田信玄は病没してしまいます。
そして、再び挙兵した足利義昭は京を追放され、信長に対抗する勢力は勢いを失い浅井長政は窮地に立たされます。
小谷城で最期を迎える長政
天正元年(1573年)7月、織田信長は、北近江の浅井長政の小谷城を攻囲します。
浅井長政は小谷城に籠城しますが、阿閉貞征(あつじ さだゆき)など家臣の離反が続き窮地に追い込まれていました。
浅井長政の要請を受けた朝倉義景は、2万の軍勢を率いて救援に駆け付けます。
朝倉家の反対する声がある中、盟友・浅井長政の援軍として駆け付けた義景ですが、殆ど役に立たないまま、勝ち目がないと考えると撤退します。
朝倉軍の撤退は織田信長の予想通りであり、追撃を受けた朝倉軍は、多くの重臣や客将・斎藤龍興などを失い壊滅状態に追い込まれます(刀根坂の戦い)。
その後、朝倉義景は、一門筆頭・朝倉景鏡に裏切られ、自害して果てます(一乗谷城の戦い)。
織田信長は一部の手勢を朝倉との戦後処理に割き、残りの軍勢で小谷城を攻撃します。
浅井長政は、正室で信長の妹であるお市と三姉妹を信長の元へ引き渡します。
お市の方は、長政と運命を共にすることを望みましたが叶わず、信長に浅井長政の助命を嘆願しています。
信長は、情が残っていたのか、大和一国を与えると約束し、降伏勧告します。
同盟を結んだ時の使者である不破光治、木下秀吉を使者に降伏勧告をしていましたが、最後まで断り続けました。
信長の最終勧告も断った浅井長政は、二日間交戦した後、天正元年(1573年)9月、自害に追い込まれています。
享年29。
天正2年(1574年)の正月、浅井長政・久政父子、朝倉義景の頭蓋骨に漆を塗り金粉を施して、宴会の場で披露したと云われています。
織田信長を裏切り朝倉義景に味方したことで、戦国大名としての浅井氏は三代で滅んでしまいました。
浅井長政は領民想いの優しい領主だったと云われており、もし、織田信長についていたら…、と浅井家滅亡を残念に思わずにはいられません。
浅井長政 将軍の祖父になる
浅井長政にとってせめてもの救いは、お市の方との間にできた三姉妹は、それなりの地位を得たことでしょうか。
長女・茶々(淀殿)は、豊臣秀吉の側室になり、鶴松や秀頼を産みます。
茶々は浅井長政の院号から「養源院」という寺名をつけ、長政を供養するため寺院を創建しました。
次女の初は、後に小浜藩初代藩主になる、名門の京極高次に嫁いでいます。
三女の江(江与)は、三度目の結婚で徳川秀忠に嫁ぎ、将軍・徳川家光生母、明正天皇の祖母となり栄華を極めます。
今上天皇は、三女の江、つまり浅井長政の子孫です。
将軍の祖父になった浅井長政は、朝廷から「従二位中納言」という武士では異例の高い官位を与えられています。
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