石田三成の嫡男として生を受けた石田重家の出自、関ケ原の戦い当時、その後の生涯について書いています。
岡部宣勝、祖心尼について、伝承ですが石田重家の子とされる直重についても書いています。
石田重家の出自
石田重家は、石田三成の長男で、通称は隼人正です。
また、石田三成の嫡男でもあるそうです(『真説 石田三成の生涯』)。
生母は正室の皎月院で、天正11年(1583年)から天正15年(1587年)頃、重家は誕生したと見られています。
『兼見卿記』によると、天正14年(1586年)、三成の女房が出産予定であるため、安産祈願の依頼を受けたそうで、天正14年(1586年)生まれの可能性が指摘されています。
関ヶ原の戦い当時、石田重家の年齢は15歳であったとの妙心寺寿聖院の伝承があるそうです(『石田三成とその子孫』。
天正14年(1586年)生まれだとしたら、数え年で15歳となり一致します。
石田重家と徳川家康
慶長4年(1599年)、加藤清正ら七将によって、石田三成を襲撃する事件が起き、三成は五奉行の座を追われて、佐和山城に蟄居します。
石田重家は、三成に代わって、豊臣秀頼の下に出仕し、徳川家康からも可愛がられたとも伝わります。
また、重家の「家」の字は徳川家康から拝領したともいわれるそうです(『三成伝説』)。
真偽は不明ですが、「家」はどこから来たのだろうかと、疑問ではあります。
関ヶ原の戦い当時の石田重家
慶長5年(1600年)、徳川家康は上杉征伐のため大軍を率いて出陣し、石田重家は名代として3千の兵を率いて出陣することになります。
石田重家の後見を務める大谷吉継は、美濃国垂井で待っていたところ、三成の使者により佐和山城に招かれて、打倒家康の計画を打ち明けられたそうです。
そして、関ヶ原の戦いに発展しますが、石田重家は豊臣家の人質として大坂城に居たと伝わります。
その後、関ヶ原の戦いで三成の敗北を知り、京都の妙心寺の塔頭寿聖院へ入ります。
石田重家は、三成が帰依した僧侶の一人である伯蒲慧稜(はくほえりょう)(伯蒲恵稜とも)を頼り、剃髪し出家しました。
関ヶ原の戦い当時の異説
関ヶ原の戦い当時、大坂城ではなく、三成の居城・佐和山城に居たとする異説もあります。
関ヶ原の戦い後、徳川方に攻められた佐和山城は落城しています。
佐和山城落城の際に、祖父(三成の父)である正継から一族の菩提を弔う為、生き延びることを命ぜられたそうです。
しかし、後に、石田重家自身が大坂城から寿聖院に逃れたことを記録している為でしょうか、通説では大坂城に居たことになっています。
石田重家は、『霊牌日鑑』という石田家過去帳、由緒に当たる石田家の記録をつけているのですが、重家自身が大坂城に居たと記録を残しています。
当時、大坂城には弟・石田重成がいて、三成に恩義を感じていた津軽家の助けを得て、津軽へ逃れていました。
その後、弟・石田重成は、杉山源吾と改名してひっそり生きたとも、津軽家の侍大将になったとも伝わります。
石田重成を庇うため、嘘を書いたという趣旨の石田重家の手紙があるそうです(『石田三成とその子孫』)。
また、石田重家は、大坂城を脱出して、高野山に奔ったという異説もあります。
『豊内記』によると、石田重家は高野山へ行った後、亡き者にされたそうです。
寿聖院の僧侶になった重家
先に述べたように、石田重家の足跡は定かではありませんが、出家して助命されたというのが通説です。
石田重家を保護してくれた伯蒲慧稜は、京都所司代である奥平信昌に届け出たといいます。
徳川家康は本多正信と協議して、助命を決めたそうです。
『常山紀談』によると、石田重家がまだ若かったため助命された旨の記載があります。
石田重家は「宗享」(そうきょう)という名で出家し、僧としての名は済院宗享となりました。
そして、元和9年(1623年)の時に「済院宗享大禅師」となり、寿聖院三世を継承したと云います。
もともと寿聖院は、石田三成が父・正継のために開基した寺とのことです。
通説では、三成が父・正継の菩提を弔うために建立したとされる妙心寺寿聖院ですが、実は三成の父・正継が建立したとも言われてます。
伯蒲慧稜が、重家に宛てた手紙に正継が建立した旨の記載があるそうですが、通説にはなっていません。
寿聖院を維持することは大変だったようで、寿聖院を維持する為に土地を切り売りした為、当初の4分の1の広さになってしまったと伝わります。
宗享(石田重家)が木材を集めて再建し、現在に至っています。
また、当時、三成が建てた書院が現存する本堂だそうです(『みーな これぞ石田三成』)。
宗享は寿聖院に三成の父・正継夫婦、三成夫婦、三成の兄・正澄夫婦、正澄の長男、次男の供養塔を建て現在も供養が続けられているそうです。
寛文5年(1665年)、宗享(石田重家)は弟子に譲って隠居し、岸和田で余生を過ごしたと伝わります。
貞享3年(1686年)、長い生涯を閉じ天寿を全うしました。
享年は100歳~104歳の間ではないかと推定できます。
岡部宣勝の保護を受ける
また、宗享(石田重家)の老後は、徳川家康の異父弟・松平康元の孫である岡部宣勝の保護を受けているそうです。
徳川家康の弟の孫にお世話になっていたのは意外ではないでしょうか。
岡部宣勝は、津軽信義(三成の孫で三代目の弘前藩主)の正室の従兄妹に当たりますので、その縁のようです(『奥羽・津軽一族p.162』)。
祖心尼が重家に帰依する
祖心尼(そしんに)という人物をご存知でしょうか。
春日局の義理の姪であり、後に大奥の実力者になる方ですが、宗享(石田重家)に帰依しているそうです。
祖心尼は三成の次女の家系と親戚になっていて、その縁で三成の曾孫(お振りの方)が春日局の養女となり家光の側室になります。
祖心尼は、石田家に近しい人物だと思いますが、そのような人が大奥にいたのかと奥深さを感じます。
重家の子・石田直重と重家の子孫
現代には、石田重家の子孫を称する方がいらっしゃいます。
先に述べたように重家は出家していますので、子孫はいないと見なされていました。
通説でも子孫がいたことにはなっておらず、伝承の域をでないようですが、関ケ原の戦い当時、妻が妊娠していて後に出産したとの説が残されています。
妻が誰かは不明ですが、関ケ原の戦い後に結城秀康が保護してくれたそうです。
事実だとしたら、重家夫婦は離れ離れになってしまったようですね。
結城秀康とは徳川家康の次男ですが、石田三成とも懇意にしていたと云い、三成から譲り受けた石田正宗(石田切込正宗)という刀を終生大切にしてくれたという話が残る人物です。
そして、生まれた子供は直重と名付けられ結城秀康の長男・松平忠直の保護を受け、その子孫は現代も続いているそうです。
石田直重の子・長成が住んだ場所は、新潟県妙高市だと伝わっており、新田開発をして妙高市に定住し、現代にまで系譜が続いているようです。
20013年にニュースになった「石田館 妙高ホテル」は、新潟県妙高市に定着した石田三成の子孫だといい、それが事実なら重家、直重の子孫となりそうです。
ただ史実なのか、分かりません。
また現在、福島県で営んでいる栄川酒造の社長も石田三成の子孫だと云います。
越後(新潟)に住んでいた祖先が、会津に移住したそうです。
重家、直重の子孫なのか、三成のどの子供の子孫なのか不明です。
もしかしたら、新潟にいた三成の子孫というと重家、直重の子孫の可能性があるのかもしれません。
重家が出家した妙心寺寿聖院
宗享(石田重家)が住職を務めた妙心寺寿聖院ですが、残念ながら一般拝観は行っていないようです。
ですが、電話予約すれば三成のお墓参りはできるそうです。
そのお墓は、宗享(石田重家)が寿聖院に三成の遺髪を収めお墓を建てたものだと云います。
三成の遺骨があるのは、京都の大徳寺三玄院ですが、妙心寺寿聖院にも三成のお墓があるということですね。
また石田正継肖像画、三成書状、三成が送った袈裟、狩野永徳屏風画などもあるそうです。
限定でも良いので公開して欲しいなと思いますが…。
場所:京都市右京区花園妙心寺44
TEL: 075-461-5226
※情報は変わっている可能性がありますので、気になる方はご自身で確認くださいませ。
筆者の感想
石田三成の嫡男でありながら、(おそらく)助命された石田重家の話はいかがでしょうか。
石田重家自身が、家康の弟の孫の保護を受けていたり、伝承ですが重家の妻と石田重家の長男が家康の次男の家系に保護されていたり意外な感じかもしれません。
ですが、石田三成の子孫を追うと徳川家に近しい人の保護を受けているケースがあります。
江戸時代中期くらいから、三成は創作話などで蔑まれることになりますが、江戸時代前期は違ったのではないかと感じます。
「敵」として認識はされていたようですが、石田三成を知る人が生きていた時代は、三成の心情を理解してくれていたかのような対応をしてくれています。
本当に石田三成の心情を理解していたかは分かりませんが、三成の子孫に意外と優しいなと思います。
また、晩年の宗享(石田重家)の肖像画は、白黒ですが『新説 石田三成 ―備中石田家との関係―』に掲載されています。
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