明智城落城後、明智光秀は、越前に逃れ朝倉義景の家臣になったという説があります。
新史料の発見で、越前にいたことは認められつつありますが、本当に朝倉義景に仕えたのでしょうか。
称念寺の話など、明智光秀が朝倉義景の家臣だったとされる所以は何か、光秀が越前国に居た時のことなどを書いています。
光秀、朝倉義景の越前に行く
まず、明智光秀が越前に行くことになった理由を書きます。
歴史上の敗者は、まともな伝記は残らないと云われますが、明智光秀もその一人で、前半生の確かな記録は殆どありません。
信頼できる史料に裏付けされていませんが、明智光秀は美濃の出身の可能性が高く、美濃を支配していた斎藤道三に仕えていたと見なされています。
しかし斎藤道三は、斎藤義龍(高政)との戦・長良川の戦いにて敗死。
長良川の戦い後、明智家の居城・明智城は、義龍(高政)軍の攻撃により落城します。
義龍(高政)に敵と見なされ、美濃に居られなくなり、越前に逃れたものと見られています。
『明智軍記』によると、越前に辿り着く前に、武者修行の為に、奥州や中国を巡ったといいます。
しかし、現在では越前に直接行ったとの見方が、有力視されているようです。
美濃にある大桑城の城下町の堀は、越前の技術者によって造られたと見なされていて、美濃と越前の交流があったと見受けられます。
越前の朝倉氏と美濃の守護・土岐氏が親戚関係だったことからも、両国は敵対していなかったものと推測もできます。
そして、越前国に辿り着いた光秀ですが、朝倉義景の家臣になったかどうかは定かではありません。
越前に身を寄せただけで仕えていないという説もありますし、本当に越前にいたのだろうかとさえ言われていました。
しかし、最近新たな史料が見つかり、光秀が越前に居たことは、史実だろうと見なされるようになりました。
では次に、朝倉義景の家臣であったとする説、否定する説の両方を見てみます。
明智光秀が朝倉義景の家臣だった根拠
①《太閤記》
『太閤記』などが出典元の話で、伝承の域を出ないですが、明智光秀は美濃を追われた後、加賀で流浪の身であった時期があるそうです。
光秀が加賀で、朝倉家の家臣・朝倉景行と一向一揆の戦を見た時に、夜のやみに紛れて、奇襲をしかけてくると見抜いて景行に進言します。
鉄砲の名手だったという光秀の重臣の明智左馬(之)助と明智光忠を、一向一揆の奇襲の備えとして配置し、一斉射撃で敵を撃退したそうです。
この功績で、光秀は朝倉義景から感謝状をもらったと云われますが。
また、光秀の非凡さを見抜いた朝倉景行は、朝倉義景に仕えるよう勧めたそうです。
②《明智軍記》
明智光秀が朝倉義景の家臣であったことを肯定する根拠に『明智軍記』の存在があります。
『明智軍記』によると光秀は明智城落城後、諸国を巡り歩いた果てに、朝倉義景に仕え500貫の知行を与えられたと記されています。
また義景の所望で光秀は、鉄砲で的に100発100中当てるという見事な腕前を見せたと云います。
そして、その功績により鉄砲寄子(よりこ)100人を預けられたそうです。
ただ、「鉄砲寄子100人を預けられ」という話は、『明智軍記』にしか見られない話なので、信憑性に疑問府がついている状態です。
③《細川家記》
『細川家記』に明智城で光秀の父が亡くなり、光秀は逃れ朝倉義景に仕えて、500貫の地を与えられたと記されていることです。
『細川家記』とは、光秀の娘・ガラシャの嫁ぎ先である細川家の歴史書で、細川氏のことが多く記されていますが、光秀の情報も散見します。
ですが『明智軍記』は信憑性に乏しい史料ですし、『細川家記』も光秀の記述については信頼できないとされています。
なので、これだけでは史実とは言い難そうです。
それでも光秀が、朝倉義景の家臣だったと云われる所以は、光秀が越前国にいた痕跡がある為でもあります。
光秀が越前国にいた痕跡
明智光秀が越前国に居たとする痕跡を書きます。
①《名将言行録》
『名将言行録』(めいしょうげんこうろく)によると、光秀が越前国の川で大黒様の銅像を見つけ、持ち帰り拝んでいた逸話が残されています。
朝倉義景の家臣を立証するものではないですが、光秀が朝倉氏の領土である越前に居たエピソードと云われています。
大黒様のエピソードについての詳細は、こちらに書いています。
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明智光秀のエピソード~大黒様、鉄砲、暇乞い、連歌 愛宕百韻のエピソード~
②《光秀書状》
天正元年(1573年)8月22日の日付で、服部七衛尉(はっとりしちべえのじょう)に宛てた光秀書状残されています。
服部七衛尉とは、越前守護代の前波長俊の家臣で、光秀の縁者と考えられる「竹」という人物の面倒を見たそうで、お礼が書かれています。
「竹の身の上のことでよく働いてくれて有難い。そのお礼に100石の知行を与える。」
この書状は朝倉氏が滅亡した直後に書かれたもので、国主が滅亡し越前国が混乱する中、「竹」を助けてもらったようです。
この「竹」は、光秀が越前に残してきた縁者とみなされており、一時期、越前国で生活していたことが窺える書状とされています。
③《米田文書》
熊本藩次席家老・米田家の『米田文書』(こめだぶんしょ)によると、光秀が朝倉家の秘伝薬について知識があることがわかりました。
朝倉家では医学書の伝授が行われており、光秀と朝倉家のつながりを示すものとして注目されています。
もし、明智光秀が朝倉義景の家臣でなくても、秘伝薬を伝授されるほどの信頼はあったようです。
『米田文書』によると、光秀は医学の知識もあり、越前に居た頃に、医者のようなことをしいていたのではないかとも云われています。
④《東大味町》
『城跡考』によると、越前一乗谷から西の山(小さな峠)を越した東大味町に、明智光秀の屋敷跡と伝承される地があります。
明智光秀は、東大味町で妻子と共に6年住んだと伝わります。
『城跡考』とは、越前の地元誌のようですが、享保5年(1720年)に製作された物です。
東大味町は、牢人した光秀を快く迎えてくれたと伝わります。
天正3年(1575年)、加賀一向一揆の際に光秀は、お世話になった東大味町の住民を守る為、柴田勝家、柴田勝定に安堵状を出してもらい戦火から守ったと云われています。
安堵状は西連寺に残されています。
当時の光秀は信長の元で出世し、近江の宇佐山城主になっていましたが、かつての恩義を忘れず、報いたことになりそうです。
その後、本能寺の変を起こし、謀反人となった後も、東大味町では命の恩人として光秀を慕い続けたと伝わります。
光秀を公に祀れないため、小さな明智光秀の木坐像をつくったそうです。
時代は変わり、明治19年(1886年)、光秀の屋敷跡に明智神社が建立されました。
小さな祠ですが、地元では「あけっつぁま」と呼ばれ慕われ、光秀の木坐像を本尊として祀っています。
近くに光秀の娘・明智玉子(細川ガラシャ)誕生の地と伝承される場所があります。
明智光秀は称念寺にいた!?
越前国にある称念寺(しょうねんじ)に、光秀が寺子屋を開いたとする伝承があり、称念寺で美濃国を追われた不遇の時を過ごしたとされています。
明智光秀が称念寺に居たというのは、裏付けられる史料がある為、有力視されています。
それは、称念寺の関係者であった同念上人が記した『遊行三十一祖京畿御修行記』(ゆぎょうさんじゅういちそけいきごしゅうぎょうき)という史料です。
光秀と同時代に生きた人物が、書いた記録で信頼性がありそうです。
光秀について「称念寺の門前で10年暮らした」、「美濃の土岐一家の牢人で、越前国の朝倉義景を頼った」旨の記載があります。
「土岐」とは光秀の出自として有力視されている説ですが、やはり越前にも居たのではないかと云われる根拠になっています。
また『遊行三十一祖京畿御修行記』に、梵阿(ぼんあ)という僧侶が出てきますが、光秀が越前にいた頃の顔見知りだったそうです。
後に、出世し坂本城主となった光秀と再会し、懐かしんだ話が残されています。
称念寺は、朝倉義景の居城がある一乗谷には遠いため、義景に仕えたとしたら、称念寺を出た頃かもしれません。
光秀は朝倉家の家臣でなくても、朝倉家の援助を受けていた可能性もあるようです。
また、光秀の正室の煕子(ひろこ)は賢い人として知られています。
越前に居た頃の光秀は、金銭的に困っていたので、煕子は自慢の黒髪を売りお金を工面したエピソードが残されています。
光秀はそのお金で、朝倉家の家臣と連歌の宴会を開き、その縁で朝倉義景の家臣になれたと云われています。
正室・煕子が髪の毛を売ったエピソードについては、この記事です。
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光秀の医者説、『遊行三十一祖京畿御修行記』、『米田文書』については、こちらの記事をご覧ください。
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明智光秀は医師だった!?~米田文書『針薬方』にみる医者の根拠~
光秀は義景の家臣でないとする説
明智光秀が朝倉義景の家臣であるとする説を、以前は否定する伝記が多いように感じていました。
しかし、新史料が発見され、少なくても越前には居たようだと見なされて、変化したように思います。
ですが、ここでは朝倉義景の家臣説を否定する意見を見てみます。
朝倉義景の家臣説は、『明智軍記』や『細川家記』が根拠になっています。
『明智軍記』とは、光秀が亡くなって100年以上経った江戸時代にできたにもかかわらず、光秀の新しい情報が散見しており、信憑性の低い史料とされています。
また創作を含む軍記物で、光秀の生涯を知る上で『明智軍記』を参考にしても史実とは言い難いですが、光秀の史料が乏しい為に参考にされている状況です。
一方の『細川家記』は、江戸時代も肥後熊本藩主として存続した家の歴史書ですが、光秀に関しての記述は『明智軍記』を引用し手を加えたもののようで、光秀に関しては信憑性が乏しいです。
また、明らかに違うことも多々書かれているそうです。
つまり『明智軍記』に書かれた創作が『細川家記』の後押しもあり、史実かのように広まってしまったというものです。
軍記物に書かれた説は、認められないケースが多いと思っていたので、意外に思いました。
どうやら、昭和時代に歴史学会の権威ある方が認めてしまい、史実かのようになってしまったようです。
賢威ある方は、そうかもしれないといった歯切れの悪い、微妙な言い回しだったようですが…。
「史実かのように」と書いてしまいましたが、どちらかは断定できない状態であるようです。
明智光秀は越前に居た後、足利義昭、織田信長に仕えます。
朝倉義景の家臣説を否定する意見として、足利義昭に仕える前の光秀は、細川藤孝(幽斎)の中間(ちゅうげん)であったという意見もあります。
中間とは、足軽と小物の間に位置する家臣という意味で、明智光秀が細川藤孝(幽斎)の家臣だったということです。
明智光秀が細川藤孝(幽斎)の家臣だったことは、『多聞院日記』や『日本史』に記録されていますので、真実の可能性が高そうです。
細川藤孝(幽斎)は、当時は足利将軍家の幕臣でした。
将軍家の家臣の家臣だった光秀ですが、戦の混乱で足利義昭の家臣が不足し、光秀も義昭の家臣になれたのではないかとも云われます。
細川氏の中間から、将軍・足利義昭の足軽になれたので、光秀は出世したということになりますね。
しかし、足利家は落ちぶれていて、将軍不在の時期がありました。
将軍家再興を願った義昭は、朝倉義景を頼り身を寄せます。
ここで注目したいのは、足利義昭も越前に居た時期があるのです。
越前国に入った義昭に従い光秀も越前国入りしたと考えると、光秀が越前国にいた痕跡があるのは自然なことになります。
光秀が越前国にいた痕跡があるため、朝倉義景の家臣だったとする説が根強くありました。
しかし、光秀は足利義昭の家臣で、義昭に従い越前国入りしたとすると話が変わり、朝倉義景の家臣説は否定されます。
有名な戦国武将は逸話などで史実と違うことが伝わったりしますので、朝倉義景に鉄砲の腕前を披露したエピソードもどこまで信頼できるかわかりませんし、有り得る話かもしれません。
越前一乗谷に光秀の屋敷跡は無い
しかし、光秀が足利義昭の前に仕えた可能性がある細川藤孝(幽斎)と光秀の出会いが、越前であるとする説があります。
越前で藤孝(幽斎)に出会い家臣になり、後に足利義昭の家臣になったという説です。
この場合、足利義昭と出会ったのも越前ではないかと云われています。
そうすると、光秀が足利義昭と共に越前に入った説は否定されます。
やはり朝倉義景に仕えた時期があったか、もしくは、越前で匿ってもらっていただけということでしょうか。
また、一乗谷に光秀の屋敷跡は見つかっていません。
もし、一乗谷に光秀の屋敷が無かったということであれば、朝倉義景の家臣であったとしても、重要なポストではなさそうです。
結論ですが、明智城落城後、越前で牢人した後に朝倉義景に仕え、越前で細川藤孝(幽斎)に出会い家臣になり、足利義昭、織田信長に仕えたと見るのが自然な気がしますが、いかがでしょうか。
もともと私は、朝倉義景の家臣説には、否定的な意見を持っていました。
なので、朝倉義景家臣説を後押しする新史料発見は、嬉しくも驚きました。
まだ、どちらか定かではありませんが、今後の研究に期待したいですね。
朝倉義景の生涯については、こちらの記事に書きました。
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