明智光秀の城、坂本城、亀山城(亀岡城)、周山城、黒井城、福知山城について書いています。
築城の名手だったと云われる明智光秀。
光秀ゆかりの城を見ていくと、城造りから明智光秀の優秀さも伝わってくるように思います。
明智光秀の城・坂本城
光秀の坂本城は、イエズス会宣教師であるルイス・フロイスの言葉を借りるなら 「豪壮華麗」であり「信長の安土城に次ぐ城」であると云われています。
またルイス・フロイスは、光秀のことを「優れた建築手腕の持ち主」と記録しています。
その天下に有名な名城である坂本城はいかにして築城され、どのような城だったのでしょうか。
元亀2年9月12日(1571年9月30日)に、信長は宿敵であった比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。
比叡山延暦寺との戦で最前線で戦ったのは、明智光秀だと云われます。
信長は光秀の功績を高く評価し、焼き討ち当日に「近江国志賀郡」の領地を恩賞として、光秀に与えたといいます。
その恩賞について、信長の一次史料である『信長公記』には、「志賀郡明智十兵衛に下され、坂本に在地候なり」と記されています。
「志賀郡」とは現在の大津市域のことですが、光秀が一つの国を拝領したことが記されています。
当時の光秀は、近くの宇佐山城(うさやまじょう)主であったことから、信長の家臣としては初めての「一国一城の主」という破格の待遇を得たことになります。
外様であった光秀が、織田家譜代家臣よりも好待遇を得たのです。
それ程、難敵でもあった比叡山延暦寺ですが、その後の光秀の城造りには、比叡山延暦寺に倣ったフシがあります。
志賀郡を拝領した光秀は、信長の命令で、比叡山延暦寺の門前町であった志賀郡坂本に坂本城を築城しました。
敵が比叡山延暦寺を復興する動きもあったことから、比叡山の監視などが目的で築城されたのではないかと考えられています。
比叡山延暦寺には、石垣を作る穴太衆という技術集団が存在していたそうです。
穴太衆が造った石垣は、火縄銃の弾をはじく程の高い防御機能がありました。
史料に残っているわけではありませんが、光秀の築城した石垣を見れば、比叡山が抱えていた穴太衆の技術を活かしたことが分かるそうです。
穴太衆は石垣職人とも言われますが、その後、織田信長、豊臣秀吉らの城郭の石垣にも携わっていて、安土城の石垣も同じ技法だと言われています。
坂本城は時代の最先端だった
坂本城の詳細は信頼性のある史料には記載が少なく、現代でも良謎の多い城です。
光秀と親交のあった公家の吉田兼見(よしだ かねみ)は、建築途中の坂本城の天守を視察しています。
吉田兼見は、自身の日記『兼見卿記』に、坂本城のことを記しているのです。
『兼見卿記』よると坂本城の築城工事は約1年半以上あったことや、「天守」と「小天守」があり、「小天守」で茶会を催したことがあることなどが記されています。
「天守」と「小天守」がある城は、当時としては珍しく、安土城築城の7年も前に築城された坂本城は、時代の最先端をいく城でした。
坂本城は水城だった
また津田宗及(つだ そうぎゅう)の『茶会記』によると、坂本城は琵琶湖を利用した水城であり、城内にまで船が出入りしていたことがわかるそうです。
坂本城は舟の発着場を石垣で作っていて、舟入の痕跡は現在でも確認できます。
琵琶湖を利用した城郭は、織田信長の安土城でも知られています。
坂本城から舟に乗った津田宗及は、琵琶湖を利用し安土城へ向かったといいますし、光秀自身も信長の茶会に出席すす為舟に乗ったそうです。
他に、織田信長の甥である織田信澄(のぶずみ)の大溝城(おおみぞじょう)(滋賀県高島市)、羽柴秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)も琵琶湖に接していたとされており、琵琶湖に接するように四つの城が形成されていたことになります。
※大溝城について現代でも詳細が分かっていませんが、古い史料によると、琵琶湖を利用した水城であったと考えられているそうです。
織田信長が琵琶湖の水運支配の為、琵琶湖に四つの城を形成したものと思われます。
船で琵琶湖を渡ればお互いの城に楽に行き来ができますので、経済や軍事を円滑に進められます。
また、琵琶湖の水覇権を擁する水軍は、光秀の配下に付けられました。
因みに、かつての光秀の居城であった宇佐山城は、光秀が坂本城を築城し移ったため廃城となったのではないかと推察されています。
琵琶湖を利用し坂本を発展させた
坂本城のあった地である坂本は門前町、琵琶湖に面した港町、陸上交通の要という重要な場所でした。
物流の大動脈であった琵琶湖から日本海側の物資を舟で運び、坂本を経て京へ運ばれ、商業都市として発展していきました。
本能寺の変に焼失した坂本城
後に本能寺の変が起き、豊臣秀吉との対決である山崎の戦いで光秀が敗北して没します。
その後、坂本城は光秀の娘婿と伝わる明智左馬助(秀満)らと共に、炎に包まれることになります。
光秀の死を知った左馬助(秀満)は、安土城から坂本城へ移り、一族衆を刺し、坂本城に火を放って自害したのです。
後に、坂本城は再建され丹羽長秀が置かれるものの、大津城が築かれると坂本城は廃城となります。
大津城に坂本城の石材、資材は運ばれ使用されたため、城の痕跡がなくなり江戸時代にはどこに坂本城があったのか分からなくなっていたそうです。
坂本城の発掘調査
時は経ち昭和54年(1979年)、発掘調査が行われ、坂本城の構造の一部が分かったそうです。
また現代でも、渇水によって琵琶湖の水が干上がると、いつもは水面下に残る石垣が姿を現すことがあります。
これは、わずかに残る坂本城の痕跡です。
平成6年(1994年)にも琵琶湖が渇水し、坂本城の石垣の調査が行われました。
全長34メートルの石垣が見つかり、石垣の下に胴木が敷かれているのが確認できました。
胴木とは、弱い地盤により石垣が傾くのを防ぐ役目があります。
また、坂本城の本丸跡からは、信長の安土城と同じ瓦が出土しています。
かなり大きい建物に使った瓦だということが推測できるそうです。
そして、現在は坂本城址公園として整備され、坂本城跡に光秀の石像が置かれています。
坂本城址のアクセス
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3-1
<電車>
京阪電鉄石山坂本線の松ノ馬場駅から徒歩約15分
JR湖西線の比叡山坂本駅から徒歩約20分
JR湖西線の唐崎駅から徒歩約20分
<車>
名神高速道路の大津ICから25分
西大津バイパスの滋賀里ランプから4分
駐車場:坂本城址公園駐車場(無料)
光秀の坂本城の跡地に行った記事はこちらです
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明智光秀の城・亀山城(亀岡城)
亀山城のあった丹波国とは、現在の京都府から兵庫県の内陸部にまたがる地域です。
1575年に光秀は信長から丹波国の攻略を任され、1579年頃に丹波国の平定を成し遂げます。
その際、亀山城は丹波平定の軍事拠点として、明智光秀によって築かれます。
平定後は光秀に丹波国が与えられ、亀山城を拠点に丹波経営を行ったと伝わります。
また、丹波国に存在した城「福知山城」には明智左馬助(秀満)、「黒井城」には斎藤 利三、「八上城」には明智光忠を置いて丹波国を統治します。
そして、後の本能寺の変の時も、光秀は亀山城から出陣したそうです。
光秀の死後も亀山城は、京都と山陰道を結ぶ要の場所であるため、秀吉や家康からも重要な城と見なされ、慶長15年1610年、徳川幕府によって近世(きんせい)の城郭に改修されます。
その為、現在見ることのできる石垣は光秀が築いたのものではありません。
また、亀山城という名のお城は伊勢(三重県)にもありました。
同じ名前では紛らわしいとのことで、明治時代に京都府亀岡市と土地の名を改めて、城の名前も「亀岡城」と変更になりました。
これは江戸の幕末に起きた戊辰戦争で伊勢の亀山藩は新政府側として戦い、丹波(京都)亀山藩は幕府側であったため、敗北した丹波のほうが改名させられることになったそうです。
その後、廃城処分となった亀山城(亀岡城)は転売され、大正時代に新宗教「大本」が購入しました。
その後、一時は亀岡町に所有権が渡ったものの、太平洋戦争後から現在まで所有権は再び大本に戻ったため、亀山城跡を見学したい方は受付(みろく会館)にて許可をもらう必要があるそうです。
※見学料は無料で写真撮影もできるそうです。
※また、千代川小学校に亀山城(亀岡城)の城門(新御殿門)が移築されています。
亀山城(亀岡城)跡のアクセス
京都府亀岡市荒塚町内丸1
電車:JR嵯峨野線・亀岡駅から徒歩約10分
車:京都縦貫自動車道・亀岡ICから10分
駐車場:駅周辺のコインパーキング
千代川小学校のアクセス
京都府亀岡市千代川町北ノ庄国主ケ森21
電車:JR山陰本線千代川駅から直線距離で438m
明智光秀の城・周山城
天正9年(1581年)、周山城(しゅうざんじょう)は、明智光秀によって築城されました。
山奥に造られた大規模な山城です。
丹波国を拝領した光秀が、東丹波統治の拠点としたもものと見なされています。
周山城の城主には、娘婿で重臣・明智光忠を入れたと伝わります。
丹波国という広い領土を得て、重臣らを城主にしたのは、本能寺の変の2年前のことです。
周山城は謎の城だと云われていましたが、京都市がレーザー調査を行い、どのような城だったのか見えてきました。
南北0.7km、東西1.3kmという山城としては、破格の大きさを持った城だったことが分かりました。
周山城本丸の回りの尾根に家臣を配置し、家臣達と連絡を取り合う為、複数の道があったようです。
本丸を中心にし、四方にのびる尾根上に曲輪があり、尾根の先端に城を造り家臣を置く。
光秀は家臣達を自分の支配下に置くというより、それぞれの独立を認めながら、強い明智軍をつくろうとしたのではないかと見られています。
石垣は光秀が築城した時のものと見なされていて、築城の名手であったことが分かるつくりだといいます。
また、茶人・津田宗及を周山城に招き、月見をした記録が残されています。
山崎の戦いで明智光秀が敗れ亡くなると、周山城には加藤光泰が入城しました。
天正12年(1584年)、豊臣秀吉が周山城を訪ねた記録があるものの、その後は不明です。
周山城址のアクセス
京都府京都市右京区京北周山町城山
電車:JR東海道本線の京都駅からJRバスに乗り約80分、「周山」バス停で下車
車:名神高速道路の京都南ICから約65分、京都縦貫自動車道の八木東ICから約35分
駐車場:ウッディ京北・市役所京北支所の駐車場を利用
明智光秀の城・黒井城
黒井城は、別名で保月城(ほげつじょう)、保築城(ほづきじょう)とも言います。
兵庫県丹波市にあった城で、標高356mの頂にそびえ立つ山城でした。
山城は、攻めるのは難しいですが、守るのは簡単だと言われています。
山頂の本丸跡からは、辺り一帯いを見渡せ、攻めてきた敵を確認することができます。
黒井城の高さは、丁度良い高さに位置していたようです。
築城者は、足利尊氏に丹波国を与えられた赤松貞範(あかまつ さだのり)です。
戦国時代になると赤井直正の居城となり、織田信長と対立しました。
黒井城攻めを任されたのは、織田軍のエース格・明智光秀。
しかし、丹波の大名・波多野秀治と連携した黒井城は手強く、光秀は黒井城攻略に4年の月日を費やしました。
その後、戦を制した光秀の拠点となった黒井城、城主は明智光秀の重臣・斎藤利三を置き、現在の規模に改修しています。
黒井城は元は土造りの城でしたが、明智光秀が石垣造りの城に変えています。
高い位置に石垣が造られていますが、山の麓から見ると、全部石垣で出来ている城に見える位置に石垣が配置されているそうです。
一方、城下町の反対側は、石垣ではなく土造りのままになっています。
このことから、光秀が石垣を置いた理由は、防御目的の他にもありそうです。
それは、土造りから石垣造りに変えることで、支配者が変わったことを印象付け、新しい黒井城のシンボルにしようとしたと見られています。
また当時、最新の防御設備だった、「外枡形」という虎口が四つも連続して造られています。
黒井城に侵入してきた敵に対し、全面から攻撃を浴びせられ、容易に進軍できなくしています。
明智光秀は、先進的な要素を黒井城に取り入れていたのです。
しかし、山崎の戦いで明智軍は敗北し、その後斎藤利三も没します。
山崎の戦いで武功を挙げた、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣・堀尾吉晴(ほりお よしはる)が、黒井城に入城しました。
関ヶ原の戦いを経て、徳川家康の命令で、川勝秀氏(かわかつ ひでうじ)が入城し、その後廃城になっています。
黒井城跡のアクセス
兵庫県丹波市春日町黒井
黒井駅から徒歩で15分(登山口まで)
春日ICより車で5分(駐車場まで)
明智光秀の城・福知山城
福知山城は、丹波国天田郡福知山(京都府福知山)にあった城です。
現在見れる天守閣は、1986年(昭和61年)に再建されたものです。
戦国時代に福知山の国衆・塩見頼勝が掻上城を築城し、後に横山城に改名されたことが始まりだと云われています。
その後、足利義昭を奉じて織田信長が上洛し、丹波国征討戦が開始されました。
総大将を任された明智光秀は、一度は敗北しながらも、細川藤孝(幽斎)・忠興父子、羽柴秀長らの援軍も得て丹波国平定を成し遂げました。
丹波国の福知山の統治を任された明智光秀は、横山城から福知山城に改名し、修築しています。
福知山城の城代には、明智左馬助(秀満)と藤木権兵衛を置きました。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起きます。
福知山城は、明智左馬助(秀満)の父が留守番をしていたそうですが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍に捕らえられ亡き者にされています。
山崎の戦いで明智軍が敗北すると、落ち延びる途中の明智光秀も没し、明智左馬助(秀満)も坂本城で自害して果てました。
その後、福知山城主は、織田信長の子で秀吉の養子・羽柴秀勝、秀吉の家臣・杉原家次、秀吉の家臣・小野木重勝が務めました。
関ヶ原の戦い後は、徳川家の家臣・有馬豊氏が福知山城主になり、城下町や城郭を現在に伝わる姿に完成させたようです。
その後も岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房が城主を務め、寛文9年(1669年)、朽木稙昌が入ると約200年朽木氏が統治し明治時代に至りました。
1871年(明治4年)に廃城になりましたが、昭和に大天守、小天守、続櫓が再建されています。
明智光秀の在城期間は、わずか3年間であったにもかかわらず、福知山では光秀が慕われ続けています。
明智光秀は、福知山で善政を敷いたと云われていて、謀反人・明智光秀のイメージとは、また違った光秀像が伝わっています。
福知山と明智光秀については、この記事に詳しく書いてあります。
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