滋賀県は明智光秀の居城である坂本城があった場所で、光秀が治めた地でもあります。
その経緯から滋賀県には、光秀のゆかりの地が沢山あります。
今回は滋賀県で明智光秀の観光地、関連のある地をまとめています。
滋賀県多賀町にある十兵衛屋敷跡
滋賀県多賀町佐目にある「十兵衛屋敷跡」は、明智光秀生まれた地として、突然名乗りをあげました。
ですが佐目の「十兵衛屋敷跡」は、以前から明智光秀が生まれ育った地として伝承があったそうです。
滋賀県の佐目に存在する見津(けんつ)さんという一族の祖先は、光秀の家臣だったそうで、光秀から「みつ」の字をもらったそうですが、「みつ」と名乗るのはおこがましいから、見津(けんつ)と名乗り現在まで続いているそうです。
その見津家の伝承によると「十兵衛屋敷跡」は、明智光秀が生まれ育った場所だといいます。
その伝承は、密かに佐目に約500年も口伝されたものだと云いますが、『淡海温故録』(おうみおんころく)という文献と一致をしたことで、光秀の出生地候補として注目されるようになりました。
『淡海温故録』とは、明智光秀の出自の書かれた一番古い文献です。
光秀の死後100年以上経った1684~1688年に書かれたものと云われています。
徳川幕府の大老職にも就いた彦根藩主の井伊家にも献上された信憑性の高い文献とのことです。
『淡海温故録』によると、光秀の祖父か曾祖父が、主君である土岐成頼(しげより)の元から離れて、滋賀県の守護・六角氏を頼り移り住み、やがて生まれた光秀は福井県の大名・朝倉義景に仕えた後に、織田信長に仕えたと書いてあるそうです。
また光秀の通称は「十兵衛」、諱(いみな)が「光秀」だと云われていますので、普段は通称である「十兵衛」と呼ばれていたことから「十兵衛屋敷跡」と伝わっているようです。
正直、本当かなぁと思いますが、『淡海温故録』に記載があるというのが気になりますね。
十兵衛屋敷跡の住所は「〒522-0322 滋賀県犬上郡多賀町大字佐目465」です。
滋賀県大津市坂本にある比叡山延暦寺
滋賀県の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)といえば、織田信長が行った比叡山の焼き討ちを思い出す方も多いのではないでしょうか。
その織田信長の比叡山の焼き討ちを実行した中心人物は明智光秀であると云われています。
まず比叡山延暦寺とはどんなお寺かというと、平安時代の僧・最澄(さいちょう)により開かれた日本天台宗の本山寺院で、世界遺産にも登録される歴史あるお寺です。
また延暦寺は、1435年に足利義教(あしかが よしのり)、1499年に細川政元(ほそかわ まさもと)、1571年に織田信長と三度も焼き討ちに遭っています。
その中でも、信長の延暦寺の焼き討ちは凄惨を極め、信長の非道さを後世に伝えています。
光秀は信長の延暦寺焼き討ちに反対したとする説が有力でしたので、この考えの相違も本能寺の変の一因になったのではないか、という推測もされてきました。
しかし近年、雄琴城(おごとじょう)主・和田秀純に宛てた光秀直筆の書状が発見され、その書状からは反対する様子は感じられず、むしろ周到に準備をして、積極的に参加をしていたとする意見も出ています。
光秀の意に反していたかは不明ですが、延暦寺の焼き討ちで光秀は実行の中心人物で大きな武功もあげており、功労として信長から近江国の滋賀郡(滋賀県の大津市の大半、高島市の一部)(約5万石)を与えられたと云います。
この与えられた地に光秀の居城として有名な坂本城を築くことになります。
既に宇佐山城(うさやまじょう)主であった光秀は、信長の家臣としては初めての「一国一城の主」という待遇を受けることになりました。
延暦寺周辺の領地を得た光秀は、戦後の復興に尽力し、比叡山延暦寺を手厚く保護したと云います。
戦後処理は光秀に一任され、経典や高僧を独断で助けたという話も伝わります。
延暦寺にとっては、光秀は焼き討ちを実行した人物であり、復興に力を注いだ人物でもあるという、複雑な心境になりそうな話だなと思います。
滋賀県の坂本にある比叡山延暦寺の所在地は「滋賀県大津市坂本1-17-1」です。
滋賀県大津市にある盛安寺
滋賀県にある盛安寺(せいあんじ)は、明智光秀の陣太鼓と供養塔があることで知られたお寺です。
そして、上の写真の本堂は滋賀県大津市の指定文化財になっています。
盛安寺の創建は定かではないそうですが、荒れていたお寺を朝倉氏の家臣・杉若盛安(すぎわかせいあん)が再興し、お寺の名に自身の名前を付けたと云われています。
その後、信長の比叡山焼き討ちの際に盛安寺も焼失してしまいまます。
比叡山焼き討ちの中心人物は光秀と伝わりますが、焼失した盛安寺を再興したのも光秀だと云います。
比叡山延暦寺の焼き討ちの恩賞として、光秀は近江国(滋賀県)の滋賀郡の領地を得ましたので、盛安寺も光秀の治める地となりました。
領主となった経緯で、明智光秀が盛安寺を再建したのではないでしょうか。
しかし、後に再度焼失し再建されたそうです。
盛安寺のある滋賀県大津市坂本は、光秀の居城であった坂本城に近い場所でもあります。
そのため光秀の祈願所となっていて、「明智寺」とも言われていて、盛安寺の太鼓楼の2階には、「明智公陣太鼓」が保管されているそうです。
寺伝によると、敵の急襲を知らせた恩賞に光秀より賜ったと言われています。
また盛安寺には「明智公陣太鼓」の他にも、重要文化財の十一面観音菩薩立像、「穴太衆<(あのうしゅう)>」と呼ばれる石工の技術者がつくった見事な石垣も残されており、滋賀県大津市指定文化財にもなっています。
滋賀県の盛安寺の住所は「〒520-0113 滋賀県大津市坂本1丁目17-1」です。
滋賀県大津市下阪本にあった坂本城
比叡山延暦寺の焼き討ちにより、滋賀県大津市の大半の領地を拝領した光秀は、織田信長の命令で大津市に坂本城を築きます。
坂本城は、宣教師ルイス・フロイスが「安土城に次ぎ、坂本城ほど有名なものは天下になかった」と記録に残すほど、天下に知られた名城であったとされています。
坂本城は、後に築かれる安土城と同じく琵琶湖に接していた水城でああり、豪華壮麗であったとも云われています。
その坂本城の城主を、光秀は10年以上にわたり務めますが、現在では坂本城は廃城となっており、遺構の殆どは残っていません。
坂本城のあった場所の一部には、上の写真のように光秀像や碑石が置かれた坂本城址公園ができ、現代に歴史を伝えています。
坂本城址公園からは琵琶湖を望むことができ、そこから見える琵琶湖の対岸や山並みなどは光秀の時代とさほど変わりはないのではないかと思います。
坂本城はありませんが、この光秀が眺めたであろう景色をご覧いただくのも良いかと思います。
また、坂本城址公園の近くに本丸だった場所がありますが、そこには「坂本城本丸跡」の碑石、二ノ丸だった場所に「坂本城址」の石碑が建っています。
そして、坂本城址公園の近くには「明智塚」という光秀の宝物を埋めたと伝わる場所があり、光秀の供養塔も建てられています。
坂本城址公園の住所は「〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目1」です。
坂本城址公園と明智塚に行った記事はこちらです。
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滋賀県大津市にある西教寺
滋賀県の西教寺(さいきょうじ)は、明智光秀の一族の菩提寺として知られるお寺ですが、現代では光秀ゆかりの寺として観光客で賑わっています。
西教寺とはどんなお寺なのか、光秀との関係は何かを記載します。
西教寺は、天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山であり、聖徳太子が創建したとの説もある歴史のあるお寺です。
比叡山延暦寺から近い西教寺は、比叡山延暦寺の焼き討ちの際に焼失してしまいますが、後に明智光秀の尽力もあり復興します。
西教寺の復興のために光秀は、自身の居城であった坂本城から城門を移築したと云います。
その城門が上の写真の西教寺の入り口にあたる総門です。
また大本坊という西教寺の庫裏(くり)も坂本城から移築されたものだと云います。
大本坊には光秀夫婦の木像が安置されていると伝わります。
西教寺の復興に心を砕いた光秀は、現在でも西教寺で大切にされ追善供養の日があります。
西教寺には明智光秀一族の墓の他、光秀の妻の墓は別で建てられており、妻の実家と伝わる妻木一族の供養塔、光秀の辞世の句の碑石などが建てられています。
西教寺の住所は、「〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目13-1」です。
西教寺に行った記事はこちらです。
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滋賀県大津市にある聖衆来迎寺
光秀の坂本城があった滋賀県大津市には、光秀と関係のある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)というお寺もあります。
聖衆来迎寺にも、坂本城の城門が移築されており、上の写真がその移築された門です。
聖衆来迎寺の表門となり、重要文化財に指定されています。
聖衆来迎寺は、信長と敵対する比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のお寺である上、周辺は焼き討ちに遭っているにもかかわらず、焼き討ちを逃れています。
焼き討ちに遭わなかった理由は、信長の家臣である森可成(もりよしなり)の墓所があるためと伝わります。
森可成は宇佐山城(うさやまじょう)の戦いにて亡くなりますが、そのことが信長に比叡山延暦寺の焼き討ちを実行させた一因とも云われている位の信長の重臣です。
聖衆来迎寺は延暦寺側でしたが、聖衆来迎寺近くにあった森可成の亡骸を丁重に供養したと云います。
その経緯から、聖衆来迎寺だけは災禍(さいか)を免れたそうです。
また、聖衆来迎寺には開山堂という建物があり、重要文化財に指定されています。
開山堂が祀っているのは、聖衆来迎寺を再興した源信と天海(てんかい)とのことです。
この天海とは、光秀の生存説として、度々語られる南光坊天海のことだと云います。
この天海の説とは、実は光秀は江戸時代まで生きていて、徳川家康の側近・天海となっていたとする説です。
天海は実在した人物でありますが、実は光秀と同一人物ではないかと推察する歴史ミステリーですね。
事実はどうであったか現在でも不明ですが…。
またこの開山堂にはもう一人祀られている人物がいたそうですが、何故が伏せられており、その人物とは徳川家康のことです。
これもまた不思議な話ですね…。
聖衆来迎寺の住所は「〒520-0104 滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17」です。
光秀が天海となって生き延びたとする説は別でまとめています。
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聖衆来迎寺に行った時の記事です。
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滋賀県近江八幡市にある安土城跡
滋賀県にある安土城は織田信長の居城として知られていますが、絢爛豪華(けんらんごうか)な城であり、天下に有名な城であったと云われています。
また安土城は琵琶湖に面した城として知られていますが、信長の家臣も同様であったと伝わります。
光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城、織田信澄(のぶずみ)の大溝城(おおみぞじょう)も琵琶湖に面しており、四つの城を結ぶときれいな菱形になっていたそうです。
信長は琵琶湖を制することに心を砕いたとされ、琵琶湖にネットワークを形成し、船の往来が盛んであったと云われており、四つの城で行き来をしていたのではないかと推察されています。
なので、織田信長の居城とはいえ、光秀にも関わりがあったと推測できますが、安土城に居る時の光秀のエピソードが残されていますので、紹介させていただきます。
1582年(天正10年) に、安土城で光秀は徳川家康の饗応役(きょうおうやく)を務めたと云います。
信長の宿敵である武田家を滅ぼし、同盟関係にあった家康を労う接待役を光秀が命じられたそうです。
諸説ありますが、この接待で信長を怒らせてしまい、饗応役を解かれてしまい、その上秀吉の援軍を命じられたと云います。
これが本能寺の変の怨恨説の一因ともされていますが…、どこまで本当の話でしょうか…。
また、本能寺の変の後に安土城は本丸を中心に焼失してしまいます。
一説には、光秀の一族とされる明智秀満(あけち ひでみつ)(明智左馬之助のこと)が放火したとの説もあります。
本能寺の変の後、明智秀満は安土城にいて、その後坂本城へ移動しますが、その際に放火したのではないかとされています。
こちらの説は、『太閤記』という秀吉寄りの書物に書かれていることなので…、どうなんだろうと思いますが…。
そして安土城には、本能寺の変の後に秀吉によってつくられた信長の本廟があります。
秀吉が信長の遺品を埋葬し、盛大な法要を行い、信長のお墓をつくったそうです。
安土城の住所は「〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦」です。
本能寺の変の怨恨説についてまとめました。
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安土城跡に行って見どころをまとめました。
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滋賀県大津市にある明智左馬之助湖水渡り伝説
「明智左馬之助の湖水渡り伝説」という軍記物に記された有名な逸話があるのですが、その逸話の元となった場所が滋賀県にあります。
また明智左馬(之)助とは、明智秀満の名前で知られている光秀の一族とされる人物です。
光秀の娘婿とも、従兄弟とも云われていますが、「明智左馬之助湖水渡碑」の近くにある説明によると、光秀の弟であると記されています。
出自は不明ですが、光秀と親しい間柄であったことは事実であると見なされていて、本能寺の変を起こす際も事前に相談されていたと伝わります。
そして、本能寺の変が起きた後、光秀と行動を別にします。
光秀が山崎の戦いで秀吉と激突する中、明智左馬之助は安土城を守っていたと云います。
しかし、光秀敗死の知らせを受け坂本城へ向かう途中、秀吉軍と遭遇し左馬之助は馬と共に琵琶湖を渡ったという逸話が、「明智左馬之助の湖水渡り伝説」です。
左馬之助は坂本城に帰還しますが、秀吉軍に囲まれ左馬之助は城に火を放ち自害して果てます。
「明智左馬之助の湖水渡り伝説」とは窮地に立たされた中、坂本城へ辿り着いたことを大げさに伝えたのでしょうか…。
この逸話にちなんだ「明智左馬之助湖水渡碑」と「駒止めの松」が、琵琶湖畔に建てられています。
明智左馬之介湖水渡りの碑の所在地は、「〒520-0806 滋賀県大津市打出浜15-15」です。
駒止めの松の所在地は「〒520-0022 滋賀県大津市柳が崎」付近です。
大津市の大半は光秀の領地であったと云われるだけありますね。
明智左馬之介についてはこちらにまとめています。
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光秀の出生地は岐阜県が有力視されていました。
先ほど紹介した滋賀県多賀町佐目の「十兵衛屋敷跡」のほかの候補地についても記載しています。
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