明智光秀のエピソードを書いています。
明智光秀が本能寺の変の直前に開催した愛宕百韻の連歌会、おみくじのエピソード。
その他、逸話や伝承も含みますが、大黒天、鉄砲、足利義昭に暇乞い、明智川についてのエピソードを書いています。
光秀のピソード①大黒天
明智光秀の前半生は謎が多く定かではありませんが、美濃の斎藤義龍(高政)と対立した光秀は、美濃を追われ越前国に身を寄せていたと云われています。
ある日明智光秀は、越前国の河原で、七福神の一つである大黒天の像を見つけました。
「縁起が良い。良いことがあるに違いない」ということで、光秀は大黒天の像を拾い、喜んで持ち帰りました。
大黒天を神棚に祀った光秀は、毎日拝んだそうです。
そのことを聞いたある人が、「大黒天は1000人を養うと言われている福の神です。よく信仰されると良いでしょう。」と述べて喜びました。
光秀はそのことを聞いて驚き、「ならばこれは必要ない。」と処分してしまいました。
ある人は驚き尋ねると、「わしは1000人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる。」と言い、志が高いことを示したというエピソードです。
このエピソードの出典元『名将言行録』は、江戸時代から書かれ、完成したのは明治時代初期とされています。
参考文献があったのかもしれませんが、信憑性に疑問のある『俗書』としての扱いであります。
この大黒様のエピソードは史実ではない可能性が高いように思います。
光秀のエピソード②鉄砲
越前国に居た頃の光秀は、一説には朝倉義景に仕えたとされています。
朝倉義景は、鉄砲の射撃が抜群にうまかった光秀の腕前を確かめようと、光秀に射撃を披露させることにします。
光秀は25間(約45メートル)離れた場所から、的が描かれた1尺(約30センチ)四方の板を狙い、100発撃ち込んで黒星に68発を的中させ、残り32発も的に当たり、百発百中の成果になったと云われています。
これに関心した義景は、鉄砲の指南役に抜擢し、鉄炮寄子100人を預けたとするエピソードが残されています。
しかし、このエピソードの出典元である『明智軍記』は信頼性に乏しい史料です。
明智光秀が越前国にいた史料が見つかったものの、朝倉義景に仕えていたかどうかも不明で、このエピソードも史実か分かりません。
ただ真偽不明ながらも、光秀と鉄砲のエピソードは他にもありますので、鉄砲の名手だったのは史実かもしれません。
浪人時代の光秀が、朝倉景行と加賀の一向一揆との戦を見て、一揆側が奇襲を仕掛けてくるのを見抜いたそうです。
光秀は朝倉景行に忠告し、鉄砲の名手である明智左馬助(秀満)、明智光忠らを配して一揆に備えました。
奇襲を仕掛けた一揆勢を、一斉射撃にて撃退し、朝倉義景から感謝されたそうです。
また、織田信長に仕えていた頃、明智鉄砲隊という部隊があり、信長が鉄砲を使い武田家を衰退させた戦である長篠の戦いでも活躍したとも云われています。
光秀のエピソード③足利義昭に暇乞い
光秀が室町幕府第15代・足利義昭に仕えていた頃、義昭に暇乞いを願いでた時のエピソードです。
明智光秀は、越前に居た頃、将軍になる前の足利義昭と面識があったと見なされています。
上洛して将軍に就任したい義昭は、越前の大名・朝倉義景を頼っていました。
しかし、上洛する気配のない義景を見限り、光秀の橋渡しにより、織田信長を頼って上洛することになりました。
上洛に同行した光秀は、将軍になった足利義昭と朝廷や公家のパイプ役として活躍したと云われています。
足利義昭の近臣になった光秀ですが、織田信長にも仕えます。
明智光秀は、両属という主君が二人いる状態でした。
やがて光秀は、織田信長に取り立てられ、宇佐山城主になり、比叡山延暦寺を焼き討ち後には、近江国志賀郡を与えられ出世していきます。
光秀が義昭に暇乞いを願い出たのは、光秀が信長に抜擢され出世している最中の元亀2年(1571年)12月20日。
幕臣で義昭の側近・曾我助乗(そが すけのり)に宛てた光秀書状があったと、『古簡雑纂』という文献に記載されているそうです。
「下京の底壺の地子銭を二回にわたり二十一貫二百文ずつ進呈しますので、公儀(義昭)へのお取り成しをよろしくお願いいたします。」
金銭を払い辞職の取り成しをお願いしているエピソードです。
また、『神田孝平氏文書』、『大日本史料』によると、年も月日の記載もない曾我助乗宛て光秀書状もあり、「将来的に見込みがないので暇をもらいたい。暇をもらったなら頭を丸める(出家する)なりするつもりなので、義昭様へのとりなしとりなしをたのみいる」とあるそうです。
この返事がどうであったのかは不明ですが、この後も光秀は両属的な立場であるため、辞職の申し出は認められなかったと見られています。
当時、義昭と信長の関係は亀裂が入っていて、光秀が挟まれ苦悩するという状態だったと云われています。
光秀が義昭と決別するのは元亀4年(1573年)、義昭が信長に対して挙兵をした時に、光秀は信長の直臣として従軍しています。
エピソード④愛宕百韻
「ときは今 あめが下しる 五月かな」
この句をご存知でしょうか?
詠んだのは光秀ですが、この句に込められた意味は本能寺の変の決意表明ではないかとするエピソードがあります。
天正10年(1582年)5月24日(または28日)に光秀は、京都の愛宕山(あたごやま)に登り、愛宕百韻(あたごひゃくいん)という連歌会を興行したとされています。
参加者は光秀の家臣、連歌師や僧侶です。
その会で最初の一句を任された光秀は、「ときは今 あめが下しる 五月かな」と発句します。
その時は何事もなく続けられますが、数日後の6月2日に本能寺の変が起きたため、この句に深い意味が込められているのではないかと言われるようになります。
明智光秀の出生は謎があり、祖先も断定できません。
ですが、土岐源氏の出自説ではないかとする説が有力です。
なので、句にある「とき」とは「土岐(とき)氏=光秀の祖先とされる土岐家」のことだろうという意見があります。
そして、「あめが下知る」とは「天下に命令すること」いうことであり、「土岐氏が天下を支配する五月となった」という意味になるというものです。
歴史ミステリーなどに出てきそうな話ですが、この説は光秀の伝記などで否定的な意見の方が多いと感じます。
ここまで読んでいただきお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、本能寺の変は6月に起きているのに、「土岐氏が天下を支配する五月」というのは、おかしいのではないかとする意見があります。
また、この句が謀反の決意として有名になったのは、『惟任退治記』という史料で、光秀の謀反の野望として記された為だと云います。
『惟任退治記』の「惟任」とは明智光秀のことですので、「光秀を退治した記録」という意味の史料になります。
『惟任退治記』は秀吉が家臣に書かせたもので、史実を伝えるものというより、秀吉の喧伝(言いはやして世間に広く知らせる)の意味合いが強いものです。
光秀の連歌は書き直されていた
また句の表現が意図的に書き換えられたのではないかという意見もあります。
本当は光秀が詠んだ句は、「ときは今 あめが下なる五月かな」であり、意味は「今は雨が降りしきる五月である」となるそうです。
愛宕百韻に参加した里村紹巴(じょうは)も、光秀が詠んだ句は「ときは今 あめが下なる五月かな」であると答えているそうです。
また、愛宕百韻が興行された本当の日付は5月24日なのに、「本能寺の変が起きた6月2日」に近づけるため、より近い日付である28日に改ざんしたとも云われています。
※この年の5月は29日までだったそうです。
筆者もこの説は、決意表明ではないと思っていますし、表明をしたことろで光秀にリスクが高まるのではないかと思います。
愛宕百韻には、光秀の家臣でない人も沢山参加していましたので、謀反の意図に気が付かれて信長に密告でもされたら計画も頓挫しますし…。
そもそも、この時点で謀反を決めていたかわかりませんが…。
おみくじを三度引く光秀
まるで、光秀の決意表明であると後押しするかのようなエピソードも残されています。
先に述べた愛宕百韻の連歌会の前日、明智光秀は愛宕山の愛宕神社に参拝しました。
愛宕神社は、軍神として武家の信仰の厚い神社です。
おみくじを三度引き直したと伝わり、一説には三度とも「凶」だったそうです。
そして、「本能寺の堀の深さはどのくらいになるのだろう」とつぶやいたとするエピソードです。
おみくじの話は、真偽のほどは不明です。
光秀のエピソード⑤明智川
本能寺の変にて、織田信長、信忠を討った明智光秀。
気分を高揚させながら、京の周辺を凱旋していたところ、落馬し、年老いた村人に親切にされました。
光秀は「東に見える火事がどこか当てられたら、望みを叶えよう。」と問います。
村人は「本能寺です」と見事に当て、「田を潤す水が欲しい」と願います。
こうして光秀が着工したのが、現在、西京区樫原地区にある小畠川だと云われています。
小畠川は別名で「明智川」と呼ばれています。
コメント
コメント一覧 (2件)
[…] 鉄砲を探す旅とのことですが、史実上で光秀と鉄砲の話は、光秀の鉄砲の腕が凄く良かったという逸話が残っています。 […]
[…] 明智光秀が鉄砲の名人だったという逸話に重ねているのかもしれません。 […]